« デジタル・ヒューマニティーズの講演が面白かったのでまとめる(追記あり) | トップページ | 『愛とか正義とか』はスゴ本 »

生きのびるための狂気に自覚的であること『杳子』

 電車の窓から眺めていると、自分が動いているのか、世界が流れているのか、分からなくなるときがある。特に駅に停まっているとき、向かい側の電車が動き出すとき、まるで自分の車両が発車したかのような錯覚に陥る。いまいる場所をむりやり認識しようと、軽い吐き気とともに自分を再起動する。

 古井由吉の短編『杳子』の導入部が、まさにそうだった。「杳子は深い谷底に一人で坐っていた」から始まる、精神を病む女子大生と青年との異様な出会いの場面である。深い山中から、ふいに開けた谷に出るとき、眼前の岩という岩が(静止しているにもかかわらず)流れ落ちるように見えるときがある。

 視界を覆い尽くす山の圧力を直接受け取るいっぽう、自身の卑小な重さと相対化し、身体が浮き上がような、さもなくば岩がのしかかってくる感覚だ。もちろんこれは錯覚なのだが、平衡感覚を取り戻そうと、軽いめまいとともに自分を再起動する必要がある。これ、山に入ったときにしかありえない経験だと思っていたが、文章で追体験させる技量がすごい。

 杳子は立てなくなり、たった独りで谷底に坐り込むことになる。そこへ、やはり一人で登山をしている青年が現れるのだが...... これラブストーリーなのかね。杳子も青年も大学生で、性も愛もあるのだが、生々しくも薄暗く描かれている。「杳として行方知れない」のヨウで、杳い(暗い)子という意味でもあるのだが、外見は明るく奇矯に振舞うときすらある。杳子は「病気」であると診断されるのだが、躁うつ病、今なら双極性障害になるのか。

 たとえば、「食べる」という何でもない行為を極端に恥じたり、立ったり歩いたりといった日常的な動作を徹底して意識的に行う。自分の躰(からだ)のありかが、分からなくなってしまう。これは、自らをとりもどそうとあがきながら、後に明かされる血の運命によって、世界に対して立ちすくむ少女から女への物語としても読める。

 対する青年の呑み込まれ方が面白い。肉体的な深まりにとともに、自分の存在が彼女の病気を後押ししているのかと悩み、ときに引っ張りだそうとしたり、あるいは共振したりする。杳子からすると、精神的ひきこもり状態だったのが、男性経験をトリガーとして、病として追認されたのではないかと。

 この杳子のふらつきは、精神的な病すなわち狂気として扱われているが、その事実そのものが面白い。杳子の発言やふるまいは、「病気」には見えぬ。エキセントリックな言動は、世界が流れているのか、自分が動いているのか分からなくなり、自分を無理やり再起動させているようにも見える。そして、自分の記憶や身体の不確かさを受け入れ、自律的に動いていることを再確認しながら「自分の外側を保つ」ことは、現代では至極あたりまえのことだから。

 古井由吉が著した『杳子』が世に出たのが1970年、およそ半世紀前になる。この作品に貼られた「内向の世代」というレッテルには、社会の葛藤から目を背けて私生活ばかりを追求する批判を込められていた。だが、今読むと、ものすごく「今のいま」を示しているように見える。杳子が訴える、「自分」というものが、身体の内側から滑り落ちるような感覚、これは、今のいまこそ、切実に求められている。内在する「狂気」に自覚的でいる杳子のほうが、「今のいま」から見ると、よっぽど「健全」である。

 古いのに新しい、生きのびるための狂気を見つけよう。

|

« デジタル・ヒューマニティーズの講演が面白かったのでまとめる(追記あり) | トップページ | 『愛とか正義とか』はスゴ本 »

コメント

ブログ読ませていただいてます。非常に参考にしています。

実はツイッターのほうでフォロー返しをしていただいたのですが、いつかリプライでもできるかなと考えているうちに諸事情によりアカウントが潰れてしまいました。せっかくでしたのにたいへん申し訳ありません。

碩学読書猿さんと名前が被ってしまっており、ますます恐縮ですが、初めて書き込みさせていただきます。読書猫と申します。

すでに読まれているものがあるかもしれないですし、子供っぽい選定かもしれませんが、もしもどれか宜しかったら読んでブログで記事にしていただけたらと思って誠に僭越ながら小生の思うスゴ本を紹介させていただきたいです(むしろ貴殿の記事が読みたいです)。

論理が伝わる 世界標準の「書く技術」 (ブルーバックス)
生物から見た世界 (岩波文庫)
イメージを読む (ちくま学芸文庫)
はじめての部落問題 (文春新書)
問題解決の心理学―人間の時代への発想 (中公新書 (757))
うそつきのパラドックス―論理的に考えることへの挑戦
暗算の達人 驚異の高速暗算テクニック
現実をみつめる道徳哲学―安楽死からフェミニズムまで
エッセンシャル思考 最少の時間で成果を最大にする
人の心は読めるか?
世界はシステムで動く ―― いま起きていることの本質をつかむ考え方
「社会調査」のウソ―リサーチ・リテラシーのすすめ (文春新書)
哲学思考トレーニング (ちくま新書 (545))

それでは、失礼しました。

投稿: 読書猫 | 2018.01.18 03:36

>>読書猫さん

ありがとうございます!
さっそく道徳哲学と哲学思考の本を注文しました。
既読や積読もありますが、お薦めいただいたリストには、まだまだ知らないスゴ本がありそうです。

投稿: Dain | 2018.01.18 07:34

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/18285/66289505

この記事へのトラックバック一覧です: 生きのびるための狂気に自覚的であること『杳子』:

« デジタル・ヒューマニティーズの講演が面白かったのでまとめる(追記あり) | トップページ | 『愛とか正義とか』はスゴ本 »