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この本がスゴい!2017

 人生は短いのに、読みたい本は多すぎる。

 生きてる時間ぜんぶを費やしても読みきれない本を抱え、それでも新しい本に手を伸ばそうとする愚者とはわたしだ。ただ「新しい本」というだけで、何がしかの価値があると思い込み、財布をはたく。エラい人が誉めてたという理由だけで、読むべき本だと思い込み、脊髄反射する。そして読まない。「あとで読む」とレッテルを貼って、あとで読まない。

 かくして積読山は高くなる。

 かつては本に囲まれた生活を何やら高尚なものだと考えて、「本に埋もれて死にたい」などとつぶやいたことがあるが、恥ずかしい。救いようのない馬鹿とはわたしだ。読書は趣味であり代謝であり経験だ。その候補だけを増やしても、何も、なにも変わっていない(ボクは沢山の本を持っているという自意識を除いて)。

 そんな山から発掘し、紹介してきたスゴ本(凄い本)のなかから選りすぐりをご紹介しよう。わたしの趣味と代謝と経験に照らした上で、「これはスゴい」と断言できるものばかり。

 ただし、あなたの趣味にあうかどうかは、分からない。だが、そんなあなたが「それがスゴいなら、これは?」と推してくる本は面白い本である可能性が非常に高い。なぜなら、わたしが薦める本を知った上で(必ずしも読んでなくてもOK)、それでもお薦めするのだから。

 実は、このリストの半分は、誰かにお薦めされて手にしたものなのだ。「自分のアンテナ+観測範囲」だと、どうしても偏読になる。偏読上等なんだけど、世界も狭くなる。これはもったいない。

 だから、このリストを見て、あなたの記憶を発火させる作品があったなら、それを教えて欲しい。なぜなら、わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいるのだから。


フィクション


『冴えない彼女の育てかた』

丸戸史明
富士見ファンタジア文庫

冴えない彼女の育てかた 今年一番ときめいた&キュンキュンした&創作意欲を刺激された。

 ラブコメ好きなんよ。アニメでもゲームでも、出会って恋をして、成就に至るまでの七転八倒が楽しいんよ。不毛だった青春の記憶を、幸せな物語で上書きするために必須なんよ。なかでもこれは傑作なり。なぜならこれ、上書き保存する勢いで、読み手の創作欲をダイレクトに刺激してくるから。「この火照ったココロを形にしたい」という欲望が、わたしの中に確かにあることを、指し示してくれるから。

 二次元萌えオタクが三次元の少女に出会って一目ぼれする(お約束)。しかし、告白するでもなく、美少女との出会いをギャルゲにしようと決意する(反則)。そして、天才絵師(幼なじみ)と、天才ラノベ作家(先輩)を巻き込んで、同人ゲームのサークルを立ち上げる(お約束)。そしてゲームのヒロインとして、あの日に出会った子を誘うのだが、全くといっていいほどキャラが立ってないごく普通の女の子だった(反則)……という入口。

 キャラが立ちまくりの、ツンデレツインテールや毒舌才媛キャラなど、いわゆるアニメやラノベの約束ごとを並べ立て、そこへ「ごく普通の(押しに弱い)反応の薄い少女」を混ぜ込んでくる。ありがちな設定に混ざる、反則の展開が面白い。序盤、中盤それぞれで、物語のフォーマットを壊しては作り、壊しては作るのが面白い。ラノベ的な展開を先読みしていると、足元をすくわれる。

 そして、反応のうっすーい、押しの弱い、表情がフラットなヒロイン、加藤恵が大化けする展開が素敵だ。最初は、土下座して頼み込んだら「しょうがないなぁー」と言いながらぱんつ見せくれるんじゃね? と思えるくらい押しの弱い彼女が、だんだんと同人ゲームサークルの中に染まっていくのが嬉しい、微妙だったキャラが、徐々に見えてくるチラリズムが楽しい。

 そして、二人の関係が、スルリとうまくいってしまう(でも気づかない)のが志村後ろ的展開がよい、非常によい。知らないあいだに手をつないでしまっていたことに気づいて、そのときは何でもないのに、後になって一人で思い出して赤面するカップルは、未来永劫幸せになれ!というやつ。Skype越しに、自分の思いに気づいたことがバレてしまって、それまでフラットだった表情がフラットでなくなる瞬間なんて最高なり。恋に堕ちる瞬間の、胸の鼓動を感じとる。これは、一生の思い出になる感情なり。本を胸に抱いて部屋中をゴロンゴロンしまくった(今でも思い出すだけでニヨる)。

 さらに、小気味良い会話の掛け合いの端々に見える、業界あるある・創作あるある話がまたいい。「とにかく何も考えずに、まずは書け、とにかく量を書け、立ち止まるな」「推敲は全部書いてから、途中で戻ったりすると、いつまで経っても完成しないわよ?」(5巻、詩羽先輩)なんて何度も頷かされる。次の件なんて、大書きして額に入れるべきやね。

「一週間、なにも書けていないのと、一週間分のテキストを全部捨てるのって、一週間後から見てみれば、結果的には同じだろ? それどころか、書いたことで自分のスキルが上がってる。アドバンテージさえある。(11巻、紅坂朱音)
最後に一つだけ……オナニーしろ、少年。自分が思いっきり気持ちのいいオナニーを、皆が思わず見たいと思うようなオナニーを、そんなものすごく恥ずかしいオナニーを、思いっきり見せつけてやれ!作家なんて皆、変態だ、露出狂だ。自分の狂った頭の中を全世界の人間にさらけ出そうとする、とんでもないキ●ガイばっかりだ。あははははははははは(11巻、紅坂朱音)

 紅坂朱音という、クリエイターの化物みたいなキャラが出てくる。エキセントリックな言動とは裏腹に、言ってることは全クリエイター必聴。書く人であれ描く人であれ、おもわず背中を叩かれた気分になるに違いない。他にも、アーティストとクリエイターの確執(英梨々と朱音、詩羽と倫理君)、ミメーシスとディエゲーシスの黄金比(恵への定期報告メール)など、創作のヒントが随所に埋まっており、宝探し気分でも読める。

 アニメも素晴らしい。作者がアニメの脚本も手がけており、互いの違いに隠された「意図」を解きながら観るのも楽しい。なによりも英梨々かわいい。英梨々かわいい。英梨々かわいい。アニメだけの人へ。なにこれしゅごいことになっているので、ぜひラノベに手を伸ばして欲しい。そして、読む人、観る人、みんな幸せになってしまえ。

 お薦めしてくれたのは、[まなめ王子]のおかげ。ありがとう! わたしも最高に最高で絶叫しました。




『ゲームの王国』

小川哲
早川書房
レビュー : [これ面白い!『ゲームの王国』]

ゲームの王国上ゲームの王国下

  寝食わすれて読み耽った。ページが止まらないくせに、終わるのが惜しいとこれほど思った小説は久しぶり。「最近面白い小説ない?」という人に、自信をもってオススメ。というのも、次から次へと面白いネタをどんどんぶっ込んでくるから。

 建前(?)はSFだが、中身は盛りだくさん。ポル・ポトの恐怖政治と大量虐殺の歴史を生き抜く少年と少女の出会いと別れを横糸に、ガルシア・マルケス『百年の孤独』を彷彿とさせるマジックリアリズムあり、ウィトゲンシュタインの言語ゲームやカイヨワの「遊び」の本質を具現化したコンピュータゲームあり、貧困の経済学ありデスゲームあり、ともすると発散しがちなネタを、見事にひとつの物語にまとめあげている。

 優れた小説を読むときによくある、記憶の再刺激が愉しい。すなわち、どこかで見たことのある既視感と、よく知ってるはずなのに目新しく思える未視感が、むかし読んだ/これから読む作品を、芋づるのように引き出してくれるのだ。

 たとえば、4年間で300万人以上虐殺されたという現実は、映画『キリング・フィールド』の地獄絵図。自由意志は存在せず、人の行動の理由は後付けて作られる(受動意識仮説)の件は、ホラーで人間を理解させる『恐怖の哲学』の分析を再読するようだ。不条理すぎる現実に「こころ」を壊さないためのセーフティ・ネットとしての物語は、『人はなぜ物語を求めるのか』のナラトロジーが浮かんでくる。貧乏人は費用対便益の判断ができないのではなく、生活に追われるあまり、判断を留保(先送り)せざるを得ないという貧困の本質は、『貧乏人の経済学』を思い出す。

 これ、読み手によってはもっと沢山の別のノンフィクションが出てくるに違いない。本作は、「すこし過去」と「すこし未来」だけを描き、「現在」だけが存在しないSFだ。にもかかわらず、これほど生々しく感じられるのは、SFというより、サイエンス・ノンフィクションというべきなのかもしれない。

 これを教えてくれたのは、タカユキさんと[基本読書]の冬木さん。これほど夢中になれる作品を教えていただき、ありがとうございます。


『ウインドアイ』

ブライアン・エヴンソン
新潮クレスト・ブックス
レビュー : [死ぬことよりも怖いこと『ウインドアイ』]

ウインドアイ 現実が狂うのではなく、わたしが狂うのでもなく、現実とわたしがどんどんズレてゆく。

 私という「容れ物」から「私」という存在が、にじみ出る。私が私を保ったまま遠ざかり、時間からこぼれ落ちてしまう。この離人症的な怖さ、自己同一性の喪失の恐怖が、読者にだけ分かる短編集。

 読み始めてすぐ違和感を感じ、読み進むにしたがって「ざわざわ」が増してゆき、物語の決定的なところで胸騒ぎが本物だったことを思い知る。しかも、予想の斜め上の、もっと嫌な予想外の場所に置き去りにされていることを知る。

 不条理な寓話はとてもカフカ的だが、そこで浮彫りにされるのは物語世界の不条理さではなく、世界の認識の仕方の不条理さである。世界は狂っていないと確信できていたのは、世界と同じくらい自分が狂っていたからであって、現実と乖離しはじめた今、おかしいのは自分か世界か両方なのかと幾度も自問させられるハメになる。結果、読書はすなわち毒書となり、世界が歪んでいくような感覚に抗いながら読まねばならぬ。たびたび「私の気は確かだろうか?」と振り返ることを余儀なくされる。

 現実とのチューニングが合わなくなるにつれ、あるはずの感覚質から「私」が零れ落ちてしまうのだ。これは、死ぬことよりも怖い。これは毎晩、寝る前に、一編一編読みたいもの。現実が悪夢だったことに、うっかり気付かないためにも。


『雨月物語(日本文学全集11)』

上田秋成著/円城塔訳
河出書房新社
レビュー : [円城塔訳『雨月物語』が完全にジャパニーズ・ホラー]

雨月物語 『雨月物語』といえば、石川淳の名訳が有名だが、円城塔が上書きした! 硬い語りを残しつつ、きっちり小説に仕立ててある。こいつは怖いぞ嬉しいぞ。ジャパニーズ・ホラーの金字塔『吉備津の窯』を、もし読んでない幸福者がいたならば、この訳で読むと吉なり。

 ジャパニーズ・ホラーの最大の特徴は、「わけが分からない恐怖」だろう。殺人鬼とかウイルス感染といった物理的に対応できる原因が引き起こす欧米ホラーと違い、真相が分からない。わけが分からないまま恐ろしい思いをし、原因を探してみても、「呪怨」や「穢れ」といった言葉で示すしかない「なにか」で終わる。文字通り、この世のものではないのだから、物理的な対処は効かない。「なにか」が過ぎ去るまで震えているしかないのだ(あるいは、取り憑き殺されるまで)。

 物理的なウイルスや殺人鬼でない怨念だからこそ、時と場所を超えて聞き手に迫ってくる。『雨月物語』は、そういう怖さを孕んでいる。同時に、怨念に至る愛憎も詳らかにされる。

 その「なにか」が抱いている妄執や執着している人が分かるにつれ、さもありなんと思う。それだけ非道な目にあえば、その恨み晴らさずには成仏しきれなかろう。あるいは、それだけ執着しているものが失われれば、さぞかし心も乱れることだろう―――と同情する。愛欲に心乱し生きたまま鬼と化した「青頭巾」なんてまさにそれ。

泣くにも涙は枯れ果てて、叫ぼうにも声がつまって、とり乱して嘆かれ続け、火葬にも土葬にもしようとしない。そのあとは、子供の死顔に頬ずりしたり、手を握り締めてすごしていたようなのですが、とうとう気がおかしくなられ、まるで子供が生きているように振る舞うようになり、肉が爛れていくのを惜しんでは吸い、骨を舐めてと、とうとう食べ尽くしてしまったのです。

 本書には、さまざまな「鬼」が出てくる。もとは人だったのに、悲憎はげしくなるあまり、心を失った存在である。怖さの向こう側に、同情してはいけない哀しさがある。そこで人外となったものたちの中にある「鬼」は、まさにわたしの中にもあることに気付いてしまうから。


『あまりにも騒がしい孤独』

ボフミル・フラバル
河出書房新社
レビュー : [ブラック人生における光『あまりにも騒がしい孤独』]

あまりにも騒がしい孤独 シュールで、グロテスクで、滑稽で、美しい傑作。

 過酷であるほど、彼が大切に抱える光の愛おしさが伝わってくる。その輝きが、知的で美しい存在が、めちゃめちゃに潰されてゆくのを全身で感じる。本を読むのが好きな人ほど、苦痛と息苦しさを感じるだろう。なぜなら、彼の仕事は、運び込まれてくる本を圧縮機で潰し、紙の塊を作ることだから。

 本ばかりでない。食肉解体業者が運び込んでくる、蝿がたかった血まみれの紙も一緒に圧縮する。ゲーテと蝿、ニーチェと鼠が一体化された紙塊を、祭壇のように恭しく並べる。知的で美しいものと、醜怪でグロテスクなものが渾然一体となって、読み手の前に並べられる(ここで悲鳴をあげたくなる)。

 背景にはプラハの春がある。1968年にチェコスロバキアで起きた民主化運動で、ソ連の軍事介入により、文字通り「圧殺」された。大学教授をはじめとする知識人は職を終われ、言論の自由は奪われ、厳しい検閲と徹底的な統制を受けたという(この言論弾圧を「正常化」と呼んでいるのが最高の皮肉なり)。

 ブラック企業、ブラックバイトが現代なら、ブラック人生はこれだろう。価値あるものを(価値あるものだと分かっている人の手で)容赦なく潰す。そして、ブラック人生の中で光る、ささやかな抵抗や、大切な思い出が愛おしい。その描き方が、奇妙で興味深い。可愛い少女と人糞、肉蝿の黒雲とジプシー女のきれいな陰毛、憧れの人の生き方とその人の肉塊など、対照的な要素を並べることで、ビジュアル的に互いに引き立たせるように描いている。「絵にもかけない面白さ」とはこういうもの。この痛みと美しさは、小説でこそ堪能すべし。

 本書は、[キリキリソテーにうってつけの日]のowl_manさん、uporeke さんにお薦めされた一冊。素晴らしい本を教えていただき、ありがとうございました。また教えてくださいね。


『ウォッチメイカー』

ジェフリー・ディーヴァー
文春文庫
レビュー : [徹夜小説『ウォッチメイカー』]

ウォッチメイカー上ウォッチメイカー下

 未読の人は幸せ者の、徹夜小説。

 ミステリ好きの読書会で、「ジェフリー・ディーヴァー読んだことないです」と告白したら、憐れむような、羨ましいような目で見られつつ、これが最高傑作だとお薦めされた作品。ちなみに、最初に読むべき傑作は、『ボーン・コレクター』とのこと(レビュー : [『ボーン・コレクター』から始めなさい])。

 「ページを繰る手が止まらない」という評判は裏切らないジェットコースター・ミステリ。どんどん夢中に読み進めるうち、ガツン! とアタマを殴られる。

 え…? 今まで読んできたのは何だったの!? 先に進みたい欲望を抑え込み、いったん戻る。自分が追ってきたストーリーが、自分の目で見たまんまではなかったことに気付かされて叫びたくなる。鮮やかに、軽やかに、何度も何度も主人公を、読者を、そして犯人をも騙す。世界が塗り替わるような驚きと興奮にゾクゾクする、これは凄い!

 ストーリーに触れずに面白さを伝えるのはかなり難しいが、やってみよう。「ウォッチメイカー」と名乗る者が、残忍かつ精密な手口で犯行を重ねてゆく……対するは科学捜査の専門家リンカーン・ライム、四肢麻痺でベッドから動けない身体だが、現場検証のプロフェッショナルや、尋問のエキスパートとともにチームを組んで、微細証拠物件から犯人像を組み立て、仮説検証を繰り返し、徐々に追い詰めていく。

 その見えない駆け引きの「見える化」がとてもスリリングだ。一見バラバラに見える、複数の点と線がつながるとき、一種のカタルシスを感じるに違いない。

 だが、これだけでは半分も伝えていない。追うもの・追われるものの丁々発止だけでも徹夜を覚悟すべきだが、ガツン! と殴られるお楽しみはこれからだ。この、作者以外全員を騙す構造は、将棋の藤井四段に対する評が最も適している。これだ。

「性能の良いマシンが来ると聞きフェラーリが来ると思ってみてみたらジェット機が来たレベル」

 もうね、これ作者、全力で殴りに掛かっている。ボコボコにされ、物語にノックアウトされるべし。本書は[翻訳ミステリー大賞シンジケート]の読書会で強力にお薦めされた作品。ありがとうございます、『ボーン・コレクター』『ウォッチメイカー』どちらも徹夜小説でした!


『初情事まであと1時間』

ノッツ
KADOKAWA
レビュー : [エッチする直前こそが人生だ『初情事まであと1時間』]

初情事まであと1時間1初情事まであと1時間2

 pixivの[そんな夏休みを過ごしたいだけの人生だった]シリーズが、胸を抉る。大事なものが失われているのに、何もできずに見ているだけで、このままでいいのかというあせりと、このままでいいのだというあきらめと、本当に失われているのか、反対に手に入れているのではないかと思えてくる。

そんな夏休みを過ごしたいだけの人生だった by ノッツ on pixiv

 思い出とせつなさの琴線に触れまくる作者さんだなーと思っていたら、めちゃくちゃニッチなラブコメを出してくる。タイトルまんま「初エッチするまであと1時間」のカップルを描いた、シチュエーション恋愛オムニバス。ニヤニヤが止まらないまま進んでいくと、初々しさにほっこりしたり、健気さにほろりときたり、せつなさに撃ち抜かれる。

 これはいわゆる、倒叙型の亜種だね。ほら、『刑事コロンボ』のような、最初から犯人が分かっていて、探偵がアリバイやトリックを崩すやつ。こじらせ処女、腐らせ童貞、生命の危機など、エッチからほど遠い状況で、「あと45分」「あと9分」刻々と進むカウントダウン。2人が結ばれること、しかも「あと1時間」で初の一線を越えることが分かっている。

 そんな状況下で、どう着地させるか? どんなドラマがあるのか? 「あと1時間」という短い間に、2人の距離が揺れたり離れたり、意外な事実が明るみに出て、あれよあれよとくっついたり。手を変え品を変え、毎回楽しい。

 ぎこちなくて、かっこ悪くて、ちゃんとできないかもしれないエッチだけど、それでも真剣に向き合おうとする二人が良い。エッチはふたりでするものだし、お互いが協力しないとうまくいかないものだから。

 あるある・ないない・ドラマティックな「あと1時間」を堪能あれ。


『異形の愛』

キャサリン・ダン
河出書房新社
レビュー : [劇薬小説『異形の愛』]

異形の愛 これが一体、何の小説であるかに気づいたとき、二度と触れられなくなった。最初に本書を手にしたとき、まだ幼いわが子と重なってしまい、先に進められなくなってしまった。

 それから何年も経ち、ようやく読めるようになった。あのとき続きを読んでたら、致死性の毒にやられていただろう。

 これは、巡業サーカスの家族の物語。団長であるパパは、薔薇の品種改良に想を得て、わが子の品種改良を試みる。すなわち、子どもが「そのままの姿」で一生食べていけるよう、意図的に畸形を目指すのである。ママの排卵と妊娠期間中、コカイン、アンフェタミン、それに砒素をたっぷり摂り、殺虫剤のブレンドから放射線まで試す。

 そうして生まれてきたのは、腕も脚もないアザラシ少年(サリドマイド児)の兄、完璧なシャム双生児の姉、一見フツウだが特別な力を持つ弟、そして、アルビノの小人の「わたし」である。物語は「わたし」によって導かれ、過去と現在を行き来しながら、家族への愛が語られる。

 見世物のキャラバンでは、フリークスこそが望まれ、フツウは入れない世界なのだ。他にも、家族の外から入り込んでくる変人が現れるが、五体不満足を目指す動機が無残としかいいようがない(袋男のエピソードは強烈である。注意して読まれたし)。

 価値観は転倒しているにも関わらず、その愛は正当なものだ。歪んでいるのは、そう見ている読み手であるわたしであることに気づく。その身の捧げ方がいかに特別なものであっても、やっていることは狂気としかいいようのない行為であっても、名付けるとするならば、愛としかいいようがない。

 異形たちの愛にフツウの愛を感じるのはなぜか。自分は「大丈夫」だと信じたいのか? 読めば分かる。試すつもりで読むといい。

 きれいはきたない、きたないはきれい。闇と穢れの中を読み進め。


ノンフィクション


『土木と文明』

合田良実
鹿島出版会
レビュー : [『土木と文明』はスゴ本]

土木と文明 土木から見た人類史。めちゃくちゃ面白い。

 土木工学とその影響という切り口で世界史を概観する。テーマは、都市、道路、橋、堤防、上下水道、港湾、鉄道などに渡り、テーマごとに豊富な事例で紹介する。土木技術の発展なしには文明も発達せず、また文明の発展につれて土木技術も発達してきた。そうした土木工学と文明の関わりを歴史的に串刺しで見ることができる。

 大きなものから小さなものまで、人が手がけてきた土木事業は、それこそ星の数ほどある。それをどうやって整理するか。本書は、そのとき直面した問題(治水、防衛、流通、疫病対策等)と、利用できるリソース(人・技術・時間)、そして成し遂げられた結果(土木事業)という観点で整理しているのが素晴らしい。

 面白いことに、問題と対策という視点で眺めると、時代や地域を超えた普遍性が現れてくる。異なる時代・地域の人々が、それぞれに知恵を絞り、そのときに手に入るリソースを駆使した結果、きわめて似通った構造物ができあがる。

 人の営みの不変性が、土木事業の普遍性につながる。どの時代であれ、人は水や食べ物を確保し、便利で安全な生活を求め、より良いものを作ろうとする。当たり前のことなのかもしれないが、土木という共通面で見せられると、一種の感動すら覚える。

 たとえば、水道。紀元前の中国の王朝、秦国で建設された灌漑水路と、人類最古の水道として残されているカナートが、原理的に同じ工法である。すなわち、丘の上から何本もの竪穴を掘り下げ、指定した深さに達したところで左右に横穴を掘り進めて水路として連結させるのだ。こうすることで、複数のチームで同時にトンネルを掘ることができる。さらに、地下水路に崩れ落ちる土砂を浚うメンテナンスの通路にもなるメリットがある。この工法は、重力に対して水平になろうとする水の性質を上手に利用しているといえる。

 あるいは、都市の形。人類史のある時期まで、要塞都市は、半島の内陸部に巨大な城壁を建造し、海側を天然の守りとした「自然+人工」の構成となっていた。しかし、大砲を用いた遠距離砲撃技術の発達により一変する。15世紀、メフメト二世は、コンスタンチノープルの攻略戦に際し、前線に巨大な大砲を据え付け、砲弾の威力でもって大城壁を破壊してしまう。これは、城塞守備の常識を打ち砕く大事件であり、以降の都市設計が一変する。すなわち、要塞の平面形状を変えて要所要所に角部(稜角)を突出させ、そこに大砲を備え付け、攻撃側の大砲を撃破する構造になる。それまでの「自然+人工」ではなく、八角ないし円状に近い要塞都市を目指すようになったというのだ。

 文明は自然に抗いつつ従う。そのブレイクスルーが技術であることが分かる。土木から歴史を眺めると、人類レベルでの普遍性に気付くことができる。本書は、mitimasuさんのつぶやきのおかげ。素晴らしい本を教えていただき、ありがとうございます。


『旅をする木』

星野道夫
文春文庫

旅をする木 星野道夫のエッセイ。さらりとした筆致なのに、いつまでも心に残りつづける。

 いい本を教えあうサイト[シミルボン]で、「これ読んでいないなんて、人生損している」「この本を読まずに死んだらもったいない」という本を募集したところ、これが一番だった。

 なぜなら、幸せとは何か、知らずに死んだらもったいないことが、よく分かるから。このエッセイに触れているあいだの濃密なひとときは、得難い経験だから。アラスカの自然を、そこで暮らす人たち込みで淡々とつづった、遠い友人からの手紙のように読めるから。

 星野が語る場所と、わたしが生活するあくせくとした日常は、別の時間感覚が流れていることは分かる。だけど、面白いのは、そことわたしの居場所が、空間続きなところ。いわゆる「地続き」の延長だと思ってもらえばいい。大陸が離れていても、時間も違っていても、空間的につながっているのだ。

 ただそれに気付きさえすれば、「あくせくした日常」からふっと目を離し、心をそちらに放すことができる。沈む夕陽を見たり、山嶺を眺めたりしなくても、いつでも心は自由になれるという、あたりまえのことが分かるのだ。そして、これが触ることのできる幸福だと言っていい。

 幸福とは、いま生きていることをありありと実感することであり、それを、読み手の世界の延長上にある、異なる世界での生き様を見せることで伝えてくれるから。世界と「わたし」がつながっていることを、これほど端的に伝えてくれる一冊は珍しい。

 「読まずに死んだらもったいない」一番はこれだけど、ベスト5はこちらをどうぞ[読まずに死んだらもったいない]。これは、プロデュースしてくれたカトケンさんのおかげ。良い出会いをありがとうございます。

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『性食考』

赤坂憲雄
岩波書店
レビュー : [食う寝る殺す『性食考』]


性食考 食べること、セックスすること、殺すこと。これらは独立しているのではなく、互いに交わり重なり合っている。「食べちゃいたいほど、愛してる」という台詞を起点に、古事記と神話、祭りと儀礼、人類学と民俗学と文学を横断しながら、人の欲の深淵を覗き見る。ぞくぞくするほど面白い。

 著者は民俗学者。引き出しを沢山もっており、バタイユやレヴィ=ストロース、デズモンド・モリスや柳田國男などを次々と引きながら、性と食にまつわるさまざまな観点を示してくれる。おかげで、わたしの引き出しも次々と開かれることとなり、読めば読むほど思い出す読書と相成った。

 たとえば、入口の「食べちゃいたいほど、愛してる」は、センダック『かいじゅうたちのいるところ』から引いてくる。いたずら小僧のマックスが、罰として寝室へ追いやられるところから始まる夢と空想と「かいじゅうたち」の物語。その愛のメッセージを引いてくる。

 そして、食と愛が、実に近しいところにあることを示す。たとえば、人間行動学の『マンウォッチング』にある、食べるための唇とシンボルとしての唇の話である。つまりこうだ。直立歩行するヒトにとって、雌が成熟し発情しているかどうかを示すディスプレイ部位が、お尻や陰唇から、おっぱいや唇に成り代わったという話だ。甘噛みにも示されるように、愛情表現のキスとは、摂食行為の代替なのだ。

 さらに、古代中国の伝説を集めた『捜神記』から、ペニスをむさぼり喰らう、もう一つの秘められた口の話から、有歯女陰(ヴァギナ・デンタタ)の事例を世界中に探す。「女に飢える」や「性欲の渇き」という言葉や、愛の行為としての「甘噛み」、そしてキスなど、食べることと愛することは、重なり合っている。レヴィ=ストロースは「狂牛病の教訓」のなかで、世界のすべての言語がセックスを摂食行為になぞらえている、と書いていたという。やっていることは即ち、肉を喰らう肉であるため、文化を問わずそういう隠喩をまとうのだろう。

 種の保存行為としての食と性は、わたしたちの視床下部に隣り合っているだけでなく、文化の中にも、驚くほど交わりあっている。あたりまえのように感じていた行為や文化も、実はもっとプリミティブな動機があったことに気付かされる一冊。


『虚数の情緒』

吉田武
東海大学出版会
レビュー : [『虚数の情緒』はスゴ本]

 一言なら鈍器。二言なら前代未聞の独学書。中学の数学レベルから、電卓を片手に、虚数を軸として世界をどこまで知ることができるかを追求した一冊。

Kyosuu

虚数の情緒 「スゴ本」とは凄い本のこと。知識や見解のみならず、思考や人生をアップデートするような凄い本を指す。ページは1000を超え、重さは1kgを超え、中味は数学物理学文学哲学野球と多岐に渡る。中高生のとき出合っていたら、間違いなく人生を変えるスゴ本になっていただろう。

 ざっと見渡しても、自然数、整数、小数、有理数と無理数、無理数、素数、虚数、複素数、三角関数、指数、関数と方程式、確率、微分と積分、オイラーの公式、力学、振動、電磁気学、サイクロイド、フーリエ級数、フーコーの振り子、波動方程式、マックスウェルの方程式、シュレーディンガー方程式、相対性理論、量子力学、場の量子論を展開し、文学、音楽、天文学、哲学、野球に応用する、膨大な知識と情熱が、みっちり詰め込まれている。

 それも、教科書的な解説とは180度ちがう。日本の知力と品性を憂い、勉学の喜びを熱く語り、あらゆることに疑問を持ち、学び考えよと説く。「本書を疑い、自分自身を疑え」とまで言い切る。大上段な振りかぶりと、時折はさむオヤジギャグが鼻につくが、これほどエネルギッシュな独学書は初めてだ。

 電卓を叩いて表を作り、手計算で項をまとめ式変形をする。そんな実際的な計算を続けていくうち、虚数という存在や輪郭が、次第次第に明瞭なものとなり、手で触れるぐらいの近しいものとなってくるという仕掛け。数学と天文学と物理学の歴史を振り返りながら、人類が世界をどのように抽象化していったかを、きわめて具体的な計算によって炙り出す。それが、本書の狙いなのだ。

 ど真ん中が圧巻だ。全数学の合流点として、自然対数eの虚数乗を求め、虚数単位を指数で表す。虚数の虚数乗を求め、幾何学との関係を探り、三角関数を経てオイラーの公式につなげる。人類の至宝とも呼ばれるオイラーの公式eiπ=-1を、電卓で捻じ伏せるところなんて凄まじい。

 本書は、404 Blog Not Found の小飼弾さんの[伝われ、i - 書評 - 虚数の情緒]で俄然読む気になり、挑戦と挫折を繰り返し、よしおかさんの[虚数の情緒読了:バーチャル読書会やりたい]でブーストして、ようやく最後まで行けた。小飼さん、よしおかさん、ありがとうございます。こんなすごい本にめぐりあい、知る喜び(と苦しみ?)を味わうことができ、本当に感謝しています!


『神は数学者か』

マリオ・リヴィオ
ハヤカワ・ノンフィクション文庫
レビュー : [『神は数学者か』はスゴ本]

神は数学者か 科学の本質を、数学という断面で斬った一冊。

 刺激的なタイトルとは裏腹に、数学の本質について慎重に答えようとする。すなわち、数学とは「発見」されたものか、それとも「発明」されたものかという疑問に対し、数学と科学の歴史を振り返りながら接近する。

 まず、数学は「発見」されるものという立場から。人は世界を観察し、そこから一定の規則を見いだしてきた。抽象化された規則を記述するための言語が、「数学」である。惑星の運動に関するケプラーの法則や、ニュートンの力学方程式は、物体の運動を正確に示すことができる。人類の身長と体重、株式指数の年間利益率も正規分布に従う。世界の諸現象に対し、不条理なほど超越的にあてはまるのが、数学なのである。

 さらに、数学に対しプラトンのイデア論を挙げたり、「神は数学する」「宇宙とは数学そのものだ」と結論づける論者も登場する。こうした人々にとって、数学とはミケランジェロの「大理石の中のヴィーナス」や漱石の「仁王像を彫る運慶」のようなものかもしれない。数学は不変かつ究極的な存在であり、それは大理石という世界の中に埋まっている「美」ともいえるだろう。

 次に、数学は「発明」されたものとする考え方。非ユークリッド幾何学が誕生する経緯が象徴的だ。きっかけは、ユークリッドの第5公理を他の公理に置き換えるための試みだったという。しかし、その試みがことごとく失敗したため、幾何学者は公理の「正しさ」を疑い始め、別の公理体系を考え始める。そして、空間を記述する数学として、ユークリッド幾何学が唯一でないことに気づき、「非ユークリッド幾何学」を構築してしまう。

 世界を記述する唯一で必然の体系が、「ルールの一つ」だと認識されると、数学は、様々なルールを「選ぶ」ことで演繹体系を作り上げるというゲームのようなものになる。かつて、ユークリッド幾何学は自然界そのものだった。しかし、別のルール(公理)を選ぶことで別の幾何学を構築できるというのであれば、数学は世界から見つけ出すものではなく、人が決めた約束事にすぎなくなる。

 すなわち、数学は、ア・プリオリな直観でも実験的な事実でもなく、人の想像力が作り出した巧妙な発明なのだ。もし「神は数学する」とすれば、神はどの数学を選んだのか? と反問できる。

 さらに、マイケル・アティヤやジョージ・レイコフを引きながら、人が物質世界の要素を理想化・抽象化することで、数学を構築したという主張を紹介する。

 たとえば、「数を数える」という行為は自然なものに見えるし、「自然」数("natural" number)なんて、原始的な概念に思えるが、それはあくまで人にとっての話。不連続な量が発生する世界に身体を持つ存在にとって「自然」な行為なのである。「人は数学をどのように理解しているのか」に着眼すると、人が世界をどのように理解しているかが見えてくる。

 人は世界を理解する際に、モデル化・数式化するのに便利な言語として、数学というツールを選択的に用いている。微積分や確率・統計、幾何学といった数学的ツールは、適当に選ばれたのではなく、実験や観測の結果をモデリングできるよう、試行錯誤を重ね、意図的に選ばれている。その時代のパラダイムに適う数学が、「発見」されたり「発明」されてきたのが、科学の歴史だとも言える。

 だから、自然科学(特に物理学)が数学的に「正しい」のは、あたりまえのことかもしれぬ。ある意味、科学者たちは数学で解決できそう問題を選び出し、研究してきたのだから。そして、知りえない世界を発見するために、新たな数学を発明していくのだから。


『大人のための国語ゼミ』

野矢茂樹
山川出版社
レビュー : [事実のフリした意見を見抜く、隠れた前提を暴く、核心を衝く質問をするトレーニング『国語ゼミ』]

国語ゼミ きわめて実践的な論理トレーニング。

 「この仕様変更を2週間で吸収するけど、残業増か休出か、今日中に回答できる?」なんて質問がよくある。ありすぎるほどある。そして、仕事でワリ食ってる人は、これに「はい」か「いいえ」で答えている人である。

 なぜなら、この類の質問に潜む、「隠れた前提」に気付かないから。この質問に答える前に確認しておくべきことがある。それが隠れた前提だ。「変更を吸収する」「2週間で」「残業増か休出の2択」がそれにあたる。そもそもその変更に対応することが決定されたのか? なぜ2週間なのか? 人員増なり変更を分散する選択肢はないのか? 等など。

 これらの疑問がクリアになったうえで、ようやく「今日中に回答できるか?」について議論するべきなのに、そこをすっ飛ばして「はい」「いいえ」で答えようとしてはいけない。にもかかわらず、答えようとしているということは、これらの「隠れた前提」を受け入れたことにされてしまうのだ(自覚のあるなしにかかわらず)。

 議論を始めるにあたり共有すべき事実・考え方(前提)と、そこで論じるべきことがら(主題)があり、往々にして「主題」ばかりに目が行きがちである。狡猾な人は主題となるべき事柄を、さも前提のように語り、その土俵に乗ったという事実でもって、前提が受け入れられたとする。このやり方が、p.59にさらりと書いてある。

 本来は、単なる意見にすぎないことを前提に「まぶす」ことによって見えなくさせ、隠れた前提でもって土俵を作り上げる。乗ったら負け、という土俵なり。狡猾な人は、断定的に、自信満々に言い切る。そして、土俵に乗らない人を無知呼ばわりする。思い当たる人、ありまくり。

 では、どうすればよいか? p.62 「決めつけをはずす」に丸々一節を費やして、練習問題つきで書いてある。そう、本書は、問題集なのである。

 著者は野矢茂樹氏。スゴ本『論理トレーニング101題』を書いた人だが、より噛み砕き・丁寧にしたのが、『国語ゼミ』になる。論理力は感性ではなく訓練で身につく。「解説書なんかいくら読んだって論理の力は鍛えられない。ただ、実技あるのみ」のとおり、やればやった分だけ向上する。相手の立論を正しく読み取り、その論証を批判的に捉えるための、地道なトレーニングを具体化したのが、これである。

 本書の構造をまとめると、以下になる。

  1. 事実と意見を見分け、隠れた前提を見つける訓練(1-2章)
  2. 言いたいことを整理して、効果的に伝える訓練(3-5章)
  3. 「理由」「原因」「根拠」を分けながら、的確な質問をする訓練(6-7章)
  4. 論証の構造を明確化し、メリ/デリを示し、適切に反論する訓練(8章)

 ひたすら、楽しく、トレーニングしよう。100冊の解説書を読むよりも、1冊の本書を自分の手で解こう。今回はノート不要、直接書き込めばよろしい。エンピツだけを準備して、ひたすら解こう。なぜなら、論理力は感性ではなく訓練で身に付くのだから。


『勉強の哲学』

千葉雅也
文藝春秋
レビュー : [東大・京大で『勉強の哲学』が一番売れている理由「勉強するとキモくなる」]

勉強の哲学 「勉強とは何か?」を根源的に考えた一冊。一言なら「勉強とは変身だ」である。

 巷に数多のノウハウ本ではない。意識高い系の自尊心をくすぐる本ではない。勉強するとはどういうことか、勉強することで何が起きるのかを、言語と欲望の問題にまで踏み込み、掘り下げる。

 議論のバックグラウンドに、フーコーの権力システム、ドゥルーズ&ガタリの脱コード化、さらにウィトゲンシュタインの言語観をも引き込んでいるが、咀嚼しきった上で原理的に考え抜く、その知的格闘が面白い。

 勉強すると何が起きるのかを考える際、勉強する「前」はどうなっているかに着目する。自分が話す(=考える)言葉やコードは、そのときに自分がいる環境に依存しているという。半径5mの仲間や学校、家族、手元の端末のSNS、マスコミ、社会などから、「こうするもんだ」というコードにノッて話し、考え、行動する保守的な状態だという。

 それが、勉強することにより、慣れ親しんだ「こうするもんだ」から、別の「こうするもんだ」に移行する。集団的なノリに共感できなくなったり、あるいはそうであった自分を客観視するようになる。この「場」から浮いた感覚や言葉が自分をキモくさせるというのだ。

 勉強により、言葉が拡張する。今まで使っていた同じ言葉とは別の意味を持つことに気づく。この「違和感」が重要だと説く。言葉の手触りというか、透明度の違いのようなもの。わたしの例だと、「無限」だな。数学をやりなおして無限は計算できることを教わった(数学と数学論のあいだ『数学ガール/ゲーデルの不完全性定理』)。さらに、無限に大小があることを知った(大人のための数学『無限への飛翔』)。最初は、会話で使う形容的な「ムゲン」と数学的に定義された複数の「無限」の収まりの悪さを感じ、次に、そのズレを意図的に使い分けるようになった。勉強により、自分「が」キモく感じると同時に、自分「を」キモくさせていることに自覚的になる。

 勉強により、自己を言語的にバラす。これまで囚われていた環境のコードを疑って批判する(アイロニー)手法と、コードに対して意図的にズレようとする(ユーモア)手法により、自己破壊と拡張・メタ化を行うというのだ。その結果、発想の可能性を狭めていた環境のノリから離れ、別の環境、他の次元の発想が考えられるようになる。著者曰くこれが「賢く」なるということだ。

 勉強するとはどういうことか、勉強することで何が起きるのかを深く知れば、「なぜ勉強するのか」の答えは自ずと見つかる。勉強とは、変身だ。勉強しよう。


『土と内臓』

デイビッド・モントゴメリー
築地書館
レビュー : [『土と内臓』はスゴ本]

土と内臓 人体をトポロジー的に見ると、消化器官を中心とした「管」となる。もちろん胃や腸には逆流防止のための弁が備えられているが、位相幾何学的には「外」の環境だ。

 この見方を推し進め、内臓をぐるりと裏返しにしてみる。くつ下を裏返すように、内側を外側にするのだ(このグロい思考実験は、クライヴ・バーカーのホラー小説でやったことがある)。裏返しにされた小腸や大腸を見ると、そこに植物の根と極めてよく似た構造と営みを見出すことができる。「水分や栄養素を吸収する」相似だけでなく、そこに棲む微生物との共生関係により、健康や成長面で重要な物質がやり取りされている。根と腸は、微生物とのコミュニケーションや分子取引をする市場なのだ。

 本書の結論は、微生物を中心とした人体の腸と植物の根の相似型であり、これに頭をガツンとやられた。ばらばらに得てきた知識が本書で一つにまとまるとともに、わたし自身が囚われていた先入観がぐるりと―――そう、くつ下を裏返すようにぐるりと逆転されたから。

 原題は "The Hidden Half of Nature" 「隠された自然の半分」になる。目に見えるものが自然(nature)の全てではない。小さすぎて肉眼では見えない微生物や、地面や体内に隠れている根や内臓に光を当てることで明らかになる本質(nature)こそが重要なのだ―――そんなメッセージが込められている。

 土に隠された半分として、「根圏」が紹介される。植物の根の分泌物と土壌微生物とによって影響されている土壌空間のことだ。そこでは、根細胞から糖質が豊富な化合物が分泌され、微生物の餌となる一方で、植物にとって有益なミネラルが微生物によってもたらされる。

 たとえば、クローバーや枝豆の根にある根粒菌が微生物と共生し、窒素化合物を生産することは知っていたが、常識が書き換えられてゆく。というのも、最近の研究によると、窒素化合物だけでなく、リンの80%、亜鉛の25%、銅の60%は菌根菌が運んでいる報告がされている。根は、単純に養分や水分を吸収するだけでなく、植物にとって不可欠なフィトケミカル(植物栄養素)を生産する場所でもあるのだ。

 体内に隠された半分として、「内臓」それも腸に焦点をあてると、驚くほどよく似た世界が現れる。そこでは、栄養分や水分を吸収するだけでなく、そこで一種の生態系を成している腸内細菌とのやりとりを通じて、生きていくために必要な栄養素を生成していることが見えてくる。小腸の内側は絨毛と呼ばれる繊維状の小さな突起で覆われており、植物の根毛のように表面積を何倍にも増やし、栄養吸収を大幅に向上させている。

 そして、同時にそこは微生物たちの餌場でありお花畑(腸内フローラ)なのだ。ヒトは食べたものを吸収しているだけでなく、「ヒトが食べたもの」を食べる微生物の代謝物をも吸収している。生体リズムや睡眠に重要な働きをするセロトニンは、脳よりも腸の微生物群で生成されるほうが多いと聞いたことがある。それだけでなく、腸内細菌は、ドーパミンや短鎖脂肪酸、各種のビタミンを合成している。これらは、健康にとって不可欠でありながら、ヒト単体では生成することができない。

 つまり、「わたし」とは、こうした微生物群をもひっくるめて、「わたし」なのである。根と腸、科学と歴史、医療と病気、見えている半分と隠された半分が、「微生物」というキーで一気通貫する。世界の見え方をも変えるスゴ本。


2017ベスト


『アイデア大全』『問題解決大全』

読書猿
フォレスト出版
レビュー :
[読書猿『アイデア大全』はスゴ本]
[読書猿『問題解決大全』はスゴ本]

アイデア大全問題解決大全

 これ、「2017年ベスト」としたけれど、今年に限らず一生モノ。そして、読んだら終わりではなく始まり。じゃんじゃん利用して、ボロボロになるまで使い倒すツールだと考えたほうがいい。

 それも、過去の人類の知恵を結集した虎の巻になる。哲学、歴史、経済学、人類学、数学、物理学、心理学、生物学、文学、宗教、神話、そして学際研究の分野で培われ、「これなら使える!」レベルにまで噛み砕かれ、適用例と注意点つきで紹介されている。仕事や学業の現場から家庭や個人の範囲まで当てはめることができる。

 『アイデア大全』には、創造力とブレイクスルーを生み出す42のツールが紹介されている。本書を読むことで、いわば42の新しい目を手に入れることになる。本書が類書と違うのは、「アイデアの求められ方」によってツールを使い分けている点にある。

 すなわち、「0を1にする」プロセスと、「1をnにする」プロセスを分けている。更地の、何もないところから生み出す方法と、所与のコアから展開していくやり方と、明確に分けて構成されている。おかげで、抱えている問題について、どれくらい把握しているかによって、アプローチを切り替えることができる。アイデアツールは沢山あるが、闇雲に試行錯誤するより、ずっといい。

 さらに面白いのは、アイデアを生むノウハウだけでなく、その基底にある心理プロセスや思想的な背景にまで踏み込んでいるところ。認知科学からの裏づけや歴史的経緯を説明することで、「新しい目」の(科学的・歴史的)位置づけと方向性が見えてくる。

 つまり、いま抱えている問題について、「どうすべきか」という答えだけでなく、答えを導くアプローチを通じて、どう位置づけられ、「どうあるべきか」までを省みさせる目論見を垣間見ることができる。役立つだけでなく、ものすごく志の高いガイドブックなのだ。

 『問題解決大全』は、人が抱くあらゆる問題―――煎じ詰めれば「~したい」と思うこと―――を実現するための37の解決技法が紹介されている。著者は、問題に気づき、その解決のために自分の行動を計画し、実行することは、人の能力であり、同時に人が人たる条件なのだと言い切る。ここ痺れるところなり。

 よく生きようと努力することが、人の本質なのだと改めて思い知らされる(この、"よく"は、「善く」「良く」「好く」そして「欲」と、人によりけりだが)。どう生きるかは人それぞれだが、「よく生きる」ことは、あらゆる人の、どんな状況にも当てはめることができる「問題」なのだ

 さらに、本書が凄いと感じるのは、技法を大きく二つに分け、「リニアな問題解決」と、「サーキュラーな問題解決」にしているところだ。

 リニアな問題解決とは、直線的な因果性を基礎に置く問題解決であり、理想と現状のギャップを何らかの形で埋めたり、より「上流」の悪原因を取り除くことを目的とする。解決者は、問題の外側から分析し、必要なリソースも問題の外から供給される。

 いっぽう、サーキュラーな方はより複雑だ。解決する人もまた、問題を構成する因果のループの中に組み込まれている。問題を問題たらしめている要素もまた、因果ループの中で再生産しており、必要なリソースも解決すべき問題として考慮しなければならない。技法としては、因果ループにゆさぶりをかけるため、例外や逸脱を強めたり、逆説的に介入する手段が紹介されている。ここまで丁寧&簡潔にまとめているのは、本書が初だろう。

 『アイデア大全』と『問題解決大全』、どちらも強力にお薦めする。ただし、読んだら終わりではなく、始まりにすぎないことをお忘れなく。ここは、まなめ王子の金言を引く。本書は、誰にでもお薦めできる、数少ない「よい本」なのだから。

 よい本で、よい人生を


スゴ本2018

 来年は何を読む?

 「あとで読む」は、後で読まない。読みたい本、再読したい本、読まねばならぬ(と言い聞かせている)本がある。古井由吉をもっと読みたい。リチャード・パワーズ読書会の準備をせねば。ハッキング『数学はなぜ哲学の問題になるのか』、ノース&ウォリス&ワインガスト『暴力と社会秩序』を読みたい。宇宙に生命がいる前提で、『宇宙生命論』を読みたい。スプラトゥーン2オフしたい。オイラーの美しい式を理解したい。ナボコフ『アーダ』は読めるのか!? 人生は有限だから、いま読むべきものを読もう。

 そして、新しい本を、新しいからという理由だけで追いかけないように。時に淘汰されていない新刊本ばかりありがたがるのはやめよう。「新刊本しか読みません」ということは、「私は時間を信用していません」と一緒だ(でも思わず手にとってしまう性が憎い……)。

 他にも、[スゴ本オフ]もやりたいし、他の読書会にもっと参加したい。本が好きな仲間をもっと増やしたい。これを読んでいるあなたがそうだ。そして、あなたのお薦めを教えてほしい。ブログのコメントでも、twitter[@Dain_sugohon]からでも、歓迎します、ぜひ。

 なぜなら、わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいるのだから。

この本がスゴい!2016
この本がスゴい!2015
この本がスゴい!2014
この本がスゴい!2013
この本がスゴい!2012
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読書猿『問題解決大全』はスゴ本

 一生役立つ一冊。

 これ、言い切っていいと思うが、わたしが直面するあらゆる問題は、検討済みである。

 新しい問題なんてものはない。「問題」をどの抽象度で定義するかにもよるが、新しく「見える」だけで、分析してみれば、分解してみれば、裏返してみれば、再定義すれば、古今東西の人たちがすでに悩み、検討し、着手し、対処してきた問題であるにすぎぬ。

 ただし、対応する人にとってみれば、それは新しい問題である。または、初見の状況に直面することもある。だが、人や状況が違えども、問題そのものは、ほどいてみれば、既出なのだ。新しい状況下で、新しい人が、既出の問題を解き直しているといえる。

 そして、問題を解決するための方法もまた既出である。わたしが知らないだけで、古今東西の人たちがすでに考え抜いている。ある手法は学問分野になっていたり、またある方法はライフハックやビジネスメソッドになっていたりする。規制や法制度化され、社会常識やルールのように見えていても、それは昔の人が編み出した解決法が化けている場合もある。

 そんな先人の知恵を借りないわけがない。「自分のアタマで考えろ」と言う人がいるが、その方法は先人に学ぼう。車輪をもう一度発明する必要はない。ハードルを乗り越える/潜り抜ける/別のものに変えるツールは、既にある。

 そして、世にある有用なツールを集大成したものが本書である。

 哲学、歴史、経済学、人類学、数学、物理学、心理学、生物学、文学、宗教、神話、そして学際研究の分野で培われた問題解決技法が、37のツールに結集している。アイザック・ニュートンは、先人の研究に基づいて新たに発見することを「巨人の肩の上に立つ」と言ったが、本書を用いることで、「巨人たちの肩の上に立つ」ことができる。既に考え抜かれてきた技法を利用することで、新しい問題を、既出のものと扱うことができるのだ。

 本書が一生役立つ理由として、「問題解決」を分かりやすく定義していること。学問やビジネスの問題から生殺与奪の問題、夫婦喧嘩や心身の悩みなど、問題には、大掛かりなものから個人的なものまで沢山ある。だが本書ではシンプルに、「問題解決とは、"~したい"と思うことを実現すること」だという。

 問題に気づき、その解決のために自分の行動を計画し、実行することは、人の能力であり、同時に人が人たる条件なのだと言い切る。ここは痺れた。よく生きようと努力することが、人の本質なのだと改めて思い知らされる(この、"よく"は、「善く」「良く」「好く」そして「欲」と、人によりけりだが)。これは、一生のどのような状況でも当てはめることができる「問題」だ。

 また、本書が類書と大きく異なるのは、そうした技法を漫然と並べるのではなく、技法の各々が相互に参照・影響しあい、人文知を作り上げていることが立体的に分かるように書いてあるところ。歴史上のそれぞれの現場で問題に取り組んだ軌跡が、脚注の人物、書籍、キーワードのノードでつながり、さらに巻末の年表で時系列に通貫していることが、読めば分かるように構成されている。これは、著者である読書猿さんが、人文書を目指して書いている志の高さの現れだろう。

 さらに、本書が凄いと感じるのは、技法を大きく二つに分け、「リニアな問題解決」と、「サーキュラーな問題解決」にしているところだ。

 リニアな問題解決とは、直線的な因果性を基礎に置く問題解決であり、理想と現状のギャップを何らかの形で埋めたり、より「上流」の悪原因を取り除くことを目的とする。解決者は、問題の外側から分析し、必要なリソースも問題の外から供給される。

 いっぽう、サーキュラーな方はより複雑だ。解決する人もまた、問題を構成する因果のループの中に組み込まれている。問題を問題たらしめている要素もまた、因果ループの中で再生産しており、必要なリソースも解決すべき問題として考慮しなければならない。技法としては、因果ループにゆさぶりをかけるため、例外や逸脱を強めたり、逆説的に介入する手段が紹介されている。ここまで丁寧&簡潔にまとめているのは、本書が初だろう。

 37の技法は読んでくれとしかいいようがないが、きっと役に立つ技法が必ずある。

 なぜそう言えるか?

 なぜなら、わたしが、何年もかけて効果を出しているやり方が紹介されているから。わたしは、様々な本を読み、自分の痛い経験を通じて身につけてきたが、その技法に名前があることを、本書で初めて知ったから。

 その中から、ふたつ紹介しよう。

 ひとつめは、リニアな問題解決にある、「100年ルール」という技法。問題を前にしたとき、不安で仕方がないときに、「これは100年後も重要なことか?」と自問する方法だ。100年が極端なら30年や5年にしてもいい。本書では、「問題との距離をとる」ことが重要だと説く。

 わたしはこれを、リチャード・カールソン『小さいことに、くよくよするな』と、ランディ・パウシュ『最後の授業 ぼくの命があるうちに』で学んだ。イライラしたときのライフハックとして、あるいは、(主に仕事上の)悩み事から距離を置くために編み出した。ほぼ日手帳(文庫サイズ)を使う。

 まず、ほぼ日手帳を携帯する。嫌な事や悩み事が思考にまとわりつき、ずっとそのことばかり考え始めると、いったん手帳に書き出すのだ。不安の原因→結果の心配→さらなる不安のネガティブループを、そのまま吐き出す。そして、来年までこれで悩んでいるだろうかと自問する。一年経つと、一冊溜まることになる。

 そして、ほぼ日手帳を2冊携帯するのだ。「今年の手帳」と「昨年の手帳」を一緒に持ち歩く( 文庫本サイズである必要性はここにある)。そして毎日一度、昨年の手帳の「今日」を開いて、その時のお悩みを読み返してみる。「あんな時代もあったねと、いつか笑って話せる」には少し早いが、1年置くと、たいていの問題は無害化している。ほとんどが解決済み、もしくは取るに足らない問題でしかなく、極端なやつになると、何だったのか思い出せないものさえある。

 それでも、残り続けるものがある。形を変えて何年も何度も登場する。「残る」問題は課題化し手帳の見開きに転記している。ここ10年続けて、わたしのほぼ日手帳の第一ページに記された課題はこれだ→「まず体調。栄養と睡眠をとり、意識して体調を良くせよ」。毎日わたしが「問題」と感じるものの大半は、栄養と睡眠を意識的に取ったあとに相対すると、より問題化が和らいでいる。

 ふたつめは、サーキュラーな問題解決である「リフレーミング」。事実を変えるのではなく、そこから得られる意味を変えるという試みである。たとえば、ものは言いようというやつで、他者の評価を(自分の中で)変える言葉がある。あるいは、「よかった探し」や「ネガティブをポジティブに言い換える」というやり方だ。自分が、どのような認知に則っているかに、自覚的になる訓練だ。

  落ち着きがない→活動的
  デブ→(男)貫禄がある・(女)ぽっちゃり
  怒りっぽい→ 感受性が豊かな
  わがまま→妥協しない
  優柔不断→慎重
  しつこい→粘り強い
  協調性が無い→独立心が強い

 わたしは、このリフレーミングという手法を「妻の怒り」について適用していた。

 つまりこうだ。妻が怒り狂うとき、わたしは会話によってその原因を追求し、解消しようと努めていた。怒りの原因となるものがあり、それが怒りという結果を引き起こしているのだと信じていた。

 だが、それは間違っていた。いやむしろ、「怒りの原因を分析する」ことは、妻の怒りを劇化する一因となっていることに気付いた。「なぜ怒っているのか」「どうしたらその怒りの原因は解決するのか」について、ノートに詳細に洗い出し、分析し、論理的な対応付けしようとする行為そのものが、妻の怒りを増幅させる原因となっていることが、長期間のサンドバック状態を経て、ようやく分かった。

 そして、妻の「怒り」を再定義できないかと考えた。つまり、妻が怒っているとき、その怒りの原因の「何か」ではなく、別の感情が元にあり、その二次的な表出として「怒り」があるのではないかと仮定したのだ。たとえば、心配、苦痛、寂しさ、不安、残念、苛立ち、空腹といった感情や欲求不満的な状況が元にあり、それが「怒り」という形になっているに過ぎないと考えたのである。

 妻の「怒り」の意味づけを変えれば、対応が見えるようになった。怒りの予備動作の前に、妻がどのような状況なのかを判断し、その感情を増幅させるように相づちを打つのだ。すなわち、その怒り(の裏側にある感情)はもっともであり、もっと大げさに訴えてもいいものであり、そうなるのも当然だと同意するのである(たとえその矛先がわたし自身でも!)。妻は、怒りの因果ループにゆさぶりをかけられ、拍子抜けし、本当は何に対して怒っていたかに気付くようになる。

 つまり、怒りとは二次的な感情なのだ。そして、怒りをリフレーミングすることで、怒り→弁明を求める→弁明に対して激昂するという悪循環のループから逃れることができる。怒りに対処するのではなく、怒りの因果ループのエンジンとなっている一次感情を、怒りを再定義することで見つけ出すのだ。わたしは、スマナサーラ『怒らないこと』でこの技法を学んだが、『問題解決大全』ではわずか7ページでまとめている。

 もちろん、ここでわたしが紹介した本は、『問題解決大全』には出てこない。だが、本書を読むと、あなたの中でそれまで蓄えていた様々な知識とつながってくるに違いない。いっぽう、通読する脚注や巻末やエピソード紹介などから、「知りたい」がどんどん芋づる式に増えていく。これは、そんな知恵と知的好奇心のハブとなるような一冊なのだ。

 目の前の「問題」は違えども、わたしと同じ悩みに悩み、苦しみに苦しんだ証拠だといえる。歴史上の知の巨人たちの試行錯誤を見ていくうち、「わたしは一人ぼっちじゃないんだ」という気持ちになってくる。本書があれば、いつでも巨人たちを召喚できるのだ。

 巨人たちの数は135人。召喚せよ。そして好く生きよ。

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