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『神は数学者か』はスゴ本

 九九の9の段を眺めていて、ささやかな「発見」をしたことがある。一の位と十の位の数を足すと9になる。九九に限らず、9の倍数の各桁の数の合計は、必ず9になるのだ。

 9,18,27,36,45,54,63,72,81,90,99,108,……

 気づいたときには驚いたが、何のことはない。

 「9の倍数」とは、「9を加えた数」のこと。そして「9を加える」ことは、「10を加えて1を引く」、つまり「上の桁の数に1を加え、元の桁の数から1を引く」操作にほかならない。元の数が9から始まるから、「上の桁の数に1を加え、元の桁の数から1を引く」操作を繰り返しても各桁の合計は「9+1-1」になる。これは、9という数が、桁上がりする一つ手前の数という性質を持つから。2進数なら1、16進数ならF、n進数ならn-1に割り当てられた数が相当する。

 一方、たまたま数え方が10進数だから、9の性質がそうなっているとも言える。なぜ10進数なのか? それは、数を数える必要に迫られたとき、ヒトは指を折って数えたからではないか。一つの指に、一つの対象を対応づける。ヒトは、10進数を「発明」したといえる。

 同様に、一周の角度が360度であることも「発明」されたのではないかと考えたことがある。暦日なんてなかった時代から、季節が一巡する期間が何日かかるか数えられ、それに対し、最も約数が多い360という値が約束として決められたのではないか。従って1年が686日である火星で発達した知性の場合、一周の角度は680度になるのだろうか。

 ここで、数学の根源的な疑問が出てくる。すなわち、数学とは「発見」されたものか、それとも「発明」されたものかという疑問だ。『神は数学者か』という刺激的なタイトルの本書は、この疑問に対し、数学と科学の歴史を振り返りながら、慎重に答えようとする。

 まず、数学は「発見」されるものという立場から。人は世界を観察し、そこから一定の規則を見いだしてきた。抽象化された規則を記述するための言語が、「数学」である。惑星の運動に関するケプラーの法則や、ニュートンの力学方程式は、物体の運動を正確に示すことができる。人類の身長と体重、株式指数の年間利益率も正規分布に従う。世界の諸現象に対し、不条理なほど超越的にあてはまるのが、数学なのである。

 さらに、数学に対しプラトンのイデア論を挙げたり、「神は数学する」「宇宙とは数学そのものだ」と結論づける論者も登場する。こうした人々にとって、数学とはミケランジェロの「大理石の中のヴィーナス」や漱石の「仁王像を彫る運慶」のようなものかもしれない。数学は不変かつ究極的な存在であり、それは大理石という世界の中に埋まっている「美」ともいえるだろう。

 次に、数学は「発明」されたものとする考え方。非ユークリッド幾何学が誕生する経緯が象徴的だ。きっかけは、ユークリッドの第5公理を他の公理に置き換えるための試みだったという。第5公理とは、「一本の直線とその直線上以外の一点が与えられたとき、その直線と並行でその点を通る直線が一点だけ引ける」というもので、直観的で自明に見える。

 しかし、その試みがことごとく失敗したため、幾何学者は面白い発想の転換を行う。「もし、第5公理が成り立たないとしたら?」そして、公理の「正しさ」を疑い始め、別の公理体系を考え始める。空間を記述する数学として、ユークリッド幾何学が唯一でないことに気づき、「非ユークリッド幾何学」を構築してしまう。

 そこでは、自明と考えられていた三角形の内角の和が180度にならない世界が広がっている。たとえば、ボールの表面では三角形の内角の和は180度を越え、鞍状の面の上では180度以下になる。しかし、こうした別の公理体系を用いても、ユークリッド幾何学と同じくらい正確に物理的空間を記述することができるのだ。

 世界を記述する唯一で必然の体系が、「ルールの一つ」だと認識されると、数学は、様々なルールを「選ぶ」ことで演繹体系を作り上げるというゲームのようなものになる。かつて、ユークリッド幾何学は自然界そのものだった。しかし、別のルール(公理)を選ぶことで別の幾何学を構築できるというのであれば、数学は世界から見つけ出すものではなく、人が決めた約束事にすぎなくなる。

 すなわち、数学は、ア・プリオリな直観でも実験的な事実でもなく、人の想像力が作り出した巧妙な発明なのだ。もし「神は数学する」とすれば、神はどの数学を選んだのか? と反問できる。

 さらに、マイケル・アティヤやジョージ・レイコフを引きながら、人が物質世界の要素を理想化・抽象化することで、数学を構築したという主張を紹介する。

 たとえば、「2」という数の抽象的な概念は、人が、2つの手、2つの目、2つの乳房を見続けるうちに生み出されたというのだ。「数を数える」という行為は自然なものに見える。「自然」数("natural" number)なんて、原始的な概念に思える。

 だが、知能を持つのが手、目、乳房を持つヒトでなく、深海に棲む孤独なクラゲだとしたら? 周囲にあるのは水で、個々の物体を相手にする機会はない。クラゲにとって、基本的な知覚データは運動、温度、圧力だけになる。このような純粋な連続体のなかでは、不連続な量は発生しないので、数えるものは何もない。

 つまり、「数を数える」という行為は、不連続な量が発生する世界に身体を持つ存在にとって「自然」な行為なのである。「人は数学をどのように理解しているのか」に着眼すると、ヒトが世界をどのように理解しているかが見えてくる。これを認知科学のアプローチから追求したレイコフ&ヌーニェス『数学の認知科学』[レビュー]である。

 数学そのものは抽象的で厳密だが、これを理解する人は具体的で経験的な存在だ。その間にあるのがメタファーであり、それは感覚-運動経験から推論様式を用いて取り込まれるという。そして、数学の厳密さの領域の外にある「人の抱く数学的概念」は、このメタファーを調べることで明らかになると仮説づける。

 では、結局のところ、数学とはヒトが「発明」した精巧なゲームなのか? 火星の知性では一周が680度になり、深海の知性では「自然数」という概念が発達しないのだろうか?

 著者は結論づける。数学は発見か、発明かという疑問は愚問だという。すなわち、わたしたちの数学は発明と発見の組み合わせだというのだ。

 ユークリッド幾何学の公理は、チェスのルールと同じように、概念としてみれば発明である。そして、三角形や円、黄金比など、発明された数々の概念が公理を補っている。一方、ユークリッド幾何学の定理は発見であり、発見はさまざまな概念を結び付ける道筋になる。つまり、概念は発明であり、概念から導かれ・概念どう結びつける定理は発見だというのだ。素数いう概念は発明だが、素数にまつわるあらゆる定理は発見であるという主張である。

 そう考えると、数学と実存を結ぶ新たな視点が得られる。ニュートンは微積分を発明したし、現代の数学者はひも理論の研究過程でトポロジーや幾何学のさまざまなアイデアを生み出しているといえる。あるいは、現在の研究を進めるにあたり都合の良い数学的形式を気づく(発見する)ケースもある。アインシュタインはリーマン幾何学を利用することに気付いたし、素粒子物理学は群論を応用することに気付いた。数学を、実存の究極の記述体系として崇めるのも誤りだし、数学を体系的なゲームとして扱うのも不毛である。

 「発見」か「発明」か? という問いかけは、自然科学(特に物理学)に向けられるべきかもしれぬ。科学の研究において、世界をモデル化する際に便利な言語として数学を選択的に用いていることに、もっと自覚的になるべきだろう。微積分や確率・統計、幾何学といった数学的ツールは、適当に選ばれたのではなく、実験や観測の結果をモデリングできるよう、試行錯誤を重ね、意図的に選ばれている(数を数える際には「自然数」を使い、水滴を用いないだろう、クラゲでもない限り)。その「発見」と「発明」の取捨選択の歴史こそが、科学の歴史なのだ。

 だから、自然科学(特に物理学)が数学的に「正しい」(その時代・その世界のヒトにとって正しい)のは、あたりまえのことかもしれぬ。ある意味、科学者たちは数学で解決できそう問題を選び出し、研究してきたのだから。そして、知りえない世界を発見するために、新たな数学を発明していくのだから。

 数学とは何か? という問いについて、一冊で知りたいのであれば、本書を推す。数学と科学の本質を考える一冊。

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