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『石蹴り遊び』読書会が面白かった

 コルタサルの奇妙な小説『石蹴り遊び』の読書会に行ったら、目からウロコが飛び跳ねていった。主催のuporekeさん、ありがとうございました。

Isikeri02

 何が面白いかというと、様々な「読み」に会えること。一冊の小説から受け取ったものをお互いに見せ合って伝え合うのが良い。「そう感じたのはなぜ?」とか「ここからあれにつなげたのか!」などとおしゃべりすることが、なんと楽しいことか。たしかに読書は孤独な営みだが、小説というひとつの幻想を共有することで、慰められる思いがする。まるで、極寒の深夜に、焚き火を囲んでいるかのような高揚感と一体感を分かち合える。

 そして『石蹴り遊び』。作者はフリオ・コルタサル。わたしの場合、『南部高速道路』から入ったので、コルタサルは短篇の名手という第一印象だった(ちなみに『南部高速道路』は傑作なので読むべし)。600頁近い、ちょっとした鈍器並みの『石蹴り遊び』は、なかなか骨の折れる読書だった(感想は曼荼羅・パンドラ・反文学『石蹴り遊び』に書いた)。

 『石蹴り遊び』は物理的には1冊の本だが、実は2冊の本として読める。というか、作者そう読むことを推奨している。最初は1章から56章を順に読む。次は、第73章から始まり、作者が提示する「指定表」に従って読み進める(各章にはナンバリングがしてある)。こんな感じだ。

  73-1-2-116-3-84-4-71-5-81-74-6-7-8-93-68-.....

 よく見ると、...-1-2...-3...-4...-5... とあり、最初の1冊の間に他の章が挟み込まれる構成となっている。他の章は、著作ノートの断片や新聞のスクラップ、広告や引用など雑多な寄せ集めで、唐突だったり冗長な印象を受ける。

 ところが、2冊目を進めてゆくと仰天する。同じ『石蹴り遊び』という本に、違う書物が姿を現してくる。そこでは、1冊目で語られなかった理由が説明されていたり、脇役が実は極めて重要な人物だったり、宙ぶらりんの行動の「続き」が入れ子的に補てんされていたり、1冊目にはない可能世界を生きていたりする。

 そもそもこの『石蹴り遊び』は何なのか? わたしは、1冊目では脇役だった、ある人物が書いた小説なのではと考えた。そう仮定すると、その人物が書いた覚書、原稿、引用メモは、2冊目のあちこちに出現し、それをつないで読んでいくと、1冊目と2冊目が、ちょうど図と地をひっくり返すように入れ替わる。1冊目の中に、その人物が書いたノートを皆で読むというシーンがあるが、それこそが「読者を共犯者に仕立てる」この小説の臍ではないか―――と考えた。

 もちろん、読書会ではわたしの「読み」と同意見の人がいた(水声社版の解説がまさにそれだ)。だが、だからといって「正しい」とは限らないのが面白いところ。むしろ、わたしと違う「読み」の方が楽しい。『石蹴り遊び』が何と結び付けられているかに着目して、そのつながりから炙り出すような見方だ。構造的に似たものとしてパヴィチ『ハザール事典』が挙げられたが、ヘラー『キャッチ=22』もそうかも。「指定した番号の章を読む」手法は、いわゆるアドベンチャーブックから美少女ゲームへの系譜につながる。この辺は、keyの傑作『CLANNAD』を元に、わたしが熱苦しく語ってきた。

 そうしたつながり読みの中で、一番面白かったのは、「読者をコルタサルに仕立てる」というもの。これは三柴ゆよしさんから教えていただいた「読み」だ(ありがとうございます!)。1冊目では脇役、2冊目ではこの小説自身の「作者」としても読める、「ある人物」のことだ。実はこの人物は、コルタサルなのではないか、という仮説だ。

 え? 『石蹴り遊び』を書いたのはコルタサルだから、この小説の「作者」としてみなせる「ある人物」はコルタサルでいいんじゃないの? というツッコミは正しい。だがちょっと待ってくれ、事態は少し複雑だ。

 いったん『石蹴り遊び』から離れ、コルタサルの代表作を振り返ると、面白い共通点がある。それは、「他の存在に変身する」だ。たとえば、異なる二つの世界が同時進行する『すべての火は火』。最初は段落レベルで交代していたのが、緊迫度を増すにつれ、フレーズや言葉を契機として異世界に変わり、物語は驚くべき結末に向かって邁進する(これも傑作だから読むべし)。あるいは、意識が山椒魚に乗り移る男の話『山椒魚』に代表される変身譚でもいい。現実が重ね書きされるような非現実感が、コルタサルの魅力だといっていい。

 その上で『石蹴り遊び』を眺めると、2冊目に挟み込まれている雑多な文の断片は、「ある人物」が小説を書くために準備した、様々な素材に見えてくる。ちょうど撮影済だが未編集の映画のテープ群のように、作品のどこに差し込むかまだ決めかねている素材なのだ。1冊目で起きる運命により小説は未完となるが、登場人物たちがこれらの素材を発見し、吟味する場面が出てくる。2冊目に差し込まれる断片は、登場人物たちと共に、読み手(=わたし自身)が「ある人物」になり代わり編集することを誘っている。

 その一方で読み手は、コルタサルが示す「指定表」を元に、あっちの素材、こっちの素材に付き合うことになる。これは、『石蹴り遊び』のコルタサル版であり、ディレクターズ・カットなのだ。

 読み手は、行きつ戻りつしていくうちに、コルタサルの目で『石蹴り遊び』の素材を見るようになり、コルタサルの頭で『石蹴り遊び』を考えるようになる。そのうち、読者の目は炯々と輝き、眉間に縦皺が生じ、もじゃもじゃ髭が生えてきて、ついにはコルタサル自身に変身してしまう―――のかどうかは分からないが、「ある人物」≒コルタサルのつもりで『石蹴り遊び』を再編するなら、わたしの版だとこうなる。

 60-61-62-66-71-74-79-82-86-94-95-96-97-
 98-99-102-105-107-109-112-115-116-121-
 124-136-137-141-145-151-152-154-155

 「読者をコルタサルに仕立てる」という「読み」は妄想が捗る捗る。他にもユニークな読みが提示され、その度に目からウロコが飛び跳ねていった。小説に「正解」なんてないんだね。

 小説に「解答」があって、そこからの距離によって正しさが伸び縮みするのなら、それは小説である必要がなかろう。辞書でも読んでりゃいい。そうではなく、同じ一冊から、様々な「読み」が発生し、それに共鳴したり反発したりを繰り返すことで、その読み手が見えてくる。それが面白いんだ。そこに置かれた物としての一冊が面白いのではなく、そいつを生身の人間が「どう読んだか」が肝なのだ。

 いま、「読み手」と言ったが、別に第三者である必然性はない。過去にそれを読んだ自分自身と比較することもできるし、世界で最初の「読み手」である作者がどう読んでいたかを想像するのもあり。『石蹴り遊び』の風呂敷は、そこまで広げて遊べるくらい自由に読むことができる。

 小説は、読み手と同じ数だけ「正しさ」があってもいい。uporekeさんの読書会は、そういう懐の深さがある。世に、「大書評家」なる人が参加者の「読み」を採点するような読書会があるらしいが、not for me だね。あるいは、怖いもの見たさで覗いてみようか……

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死ぬことよりも怖いこと『ウインドアイ』

 死ぬのはそんなに怖くない。必然だから。せいぜい苦痛は避けたいとか、お別れや身辺整理の時間があればと願うのみ。

 しかし、私が私でなくなるのは怖い。肉体や精神の欠損だけでなく、肉体であれ精神であれ、私の容れ物から「私」が滲み出たりブレだすのは嫌だ。私が私を保ったまま遠ざかり、時間からこぼれ落ちてしまうのが恐ろしい。この離人症的な怖さ、うまく伝えるのは難しい。

 だが、ブライアン・エヴンソンの短編を読むと、嫌というほどよく分かる。そして、分からない方が幸せだったかも……と後悔することになる。前作『遁走状態』[レビュー]は怖かったが、今回も輪をかけて恐ろしい。どちらも甲乙つけがたいが、『遁走状態』→『ウインドアイ』の順に読むが吉かと。

 読み始めてすぐ違和感を感じ、読み進むにしたがって「ざわざわ」が増してゆき、物語の決定的なところで胸騒ぎが本物だったことを思い知る。しかも、予想の斜め上の、もっと嫌な予想外の場所に置き去りにされていることを知る。

 不条理な寓話はとてもカフカ的だが、そこで浮彫りにされるのは物語世界の不条理さではなく、世界の認識の仕方の不条理さである。世界は狂っていないと確信できていたのは、世界と同じくらい自分が狂っていたからであって、現実と乖離しはじめた今、おかしいのは自分か世界か両方なのかと幾度も自問させられるハメになる。結果、読書はすなわち毒書となり、世界が歪んでいくような感覚に抗いながら読まねばならぬ。たびたび「私の気は確かだろうか?」と振り返ることを余儀なくされる。

 哲学畑にお馴染みの「クオリア」ってあるじゃない? 「トマトの赤い感じ」「頭がズキズキ痛む感じ」といった主観的に体験される感覚質のことだ。そして、反応は普通の人と全く同じだけれど、このクオリアを持たない存在を哲学的ゾンビとする話がある。エヴンソンのどの短編にも、このテーマが潜んでいるように見えてならない。

 クオリアそのものの話ではないんだ。そして、恐ろしいのはここからなんだ。哲学的ゾンビの思考実験をする存在は「私」のはずだ。だって主観的とはいえ、「赤の感じ」「痛む感じ」を持っているから。だが、エヴンソンを読んでしまうと、思考実験の主体から客体へ、「私」が滑り落ちてゆくことが分かる。すなわち、私が私の「赤の感じ」「痛む感じ」に確信が持てなくなってしまう。現実とのチューニングが合わなくなるにつれ、あるはずの感覚質から「私」が零れ落ちてしまうのだ(死ぬことよりも、怖いでしょ?)。

 試しに読むなら、「ウインドアイ」「二番目の少年」「食い違い」あたりはいかが。25編もあるので、枕頭において毎晩お布団で一編ずつ読むのが効果的。きっと何らかの喪失感を抱き情緒不安定になりながら眠りにつくだろう。毎晩の悪夢を請け合う。

 わざわざ悪夢をみたいかって? そりゃ違うよ。覚めているときにこれを読むということは、そのまま「私」の現実からの遁走状態になることになるのだから。

 嫌でしょ? 現実が悪夢だったことに気づいてしまうなんて。

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『土と内臓』はスゴ本

 人体をトポロジー的に見ると、消化器官を中心とした「管」となる。もちろん胃や腸には逆流防止のための弁が備えられているが、位相幾何学的には「外」の環境だ。

 この見方を推し進め、内臓をぐるりと裏返しにしてみる。くつ下を裏返すように、内側を外側にするのだ(このグロい思考実験は、クライヴ・バーカーのホラー小説でやったことがある)。裏返しにされた小腸や大腸を見ると、そこに植物の根と極めてよく似た構造と営みを見出すことができる。「水分や栄養素を吸収する」相似だけでなく、そこに棲む微生物との共生関係により、健康や成長面で重要な物質がやり取りされている。根と腸は、微生物とのコミュニケーションや分子取引をする市場なのだ。

 本書の結論は、微生物を中心とした人体の腸と植物の根の相似型であり、これに頭をガツンとやられた。ばらばらに得てきた知識が本書で一つにまとまるとともに、わたし自身が囚われていた先入観がぐるりと―――そう、くつ下を裏返すようにぐるりと逆転されたから。

 マクニール『疫病と世界史』が人類と微生物の負の歴史なら、本書は正の歴史として双璧を成す。しかも、歴史だけでなく、進化生物学、医化学、分子生物学、植物生態学、土壌生物学の知見を取り込んだエビデンスベースドなものになっている。

 原題は "The Hidden Half of Nature" 「隠された自然の半分」になる。目に見えるものが自然(nature)の全てではない。小さすぎて肉眼では見えない微生物や、地面や体内に隠れている根や内臓に光を当てることで明らかになる本質(nature)こそが重要なのだ―――そんなメッセージが込められている。

 土に隠された半分として、「根圏」が紹介される。植物の根の分泌物と土壌微生物とによって影響されている土壌空間のことだ。そこでは、根細胞から糖質が豊富な化合物が分泌され、微生物の餌となる一方で、植物にとって有益なミネラルが微生物によってもたらされる。クローバーや枝豆の根にある根粒菌が微生物と共生し、窒素化合物を生産することは知っていた。これは『植物は「知性」をもっている』で知ったが、常識が書き換えられることを請合う。

植物は「知性」をもっている だが、最近の研究ではもっと多様な栄養素が供給されているという。例えば、植物にたどりついた微量栄養素のうち、リンの80%、亜鉛の25%、銅の60%は菌根菌が運んでいる研究が紹介されている。根は、単純に養分や水分を吸収するだけでなく、植物にとって不可欠なフィトケミカル(植物栄養素)を生産する場所でもあるのだ。

 体内に隠された半分として、「内臓」それも腸に焦点をあてると、驚くほどよく似た世界が現れる。そこでは、栄養分や水分を吸収するだけでなく、そこで一種の生態系を成している腸内細菌とのやりとりを通じて、生きていくために必要な栄養素を生成していることが見えてくる。小腸の内側は絨毛と呼ばれる繊維状の小さな突起で覆われており、植物の根毛のように表面積を何倍にも増やし、栄養吸収を大幅に向上させている。

 そして、同時にそこは微生物たちの餌場でありお花畑(腸内フローラ)なのだ。ヒトは食べたものを吸収しているだけでなく、「ヒトが食べたもの」を食べる微生物の代謝物をも吸収している。生体リズムや睡眠に重要な働きをするセロトニンは、脳よりも腸の微生物群で生成されるほうが多いと聞いたことがある。それだけでなく、腸内細菌は、ドーパミンや短鎖脂肪酸、各種のビタミンを合成している。これらは、健康にとって不可欠でありながら、ヒト単体では生成することができない。言い換えるなら、こうした微生物群をもひっくるめて、「わたし」なのである。

 では、どうしてそうした本質(nature)が半ば隠されてきたのか? もちろん、小さすぎたり覆われていたりして物理的に困難だったというのもある。だが、本書に描かれている人類と微生物の歴史を追いかけていくうち、「人は見たいものしか見ない」カエサルの箴言が浮かび上がってくる。

 たとえばコッホ。結核菌やコレラ菌を発見した近代細菌学の開祖であり、その功績は人類史に残る大きなものだ。病原体の特定の指針「コッホの原則」は教科書にも載っているし、細菌を培養する寒天培地やペトリ皿は、今日でも使われている。その一方、「微生物研究=培養できる微生物の研究」に限られてしまったという見方ができる。

 つまり、培地で殖やせない微生物は分類できず、したがってコッホの原則を用いて研究できない。コッホの細菌論が広く受け入れられたことにより、自然(nature)から切り取られた微生物が研究の中心となり、土や内臓に宿る生態学的な研究は後手に回ったといえる。

 あるいはスティーヴン・ジェイ・グールド。動植物の化石に着目したグールドは、微生物の融合に着目し、細胞内共生説を主張するマーギュリスの考えを一顧だにしなかったという。

マーギュリスは、遺伝子の水平伝播やゲノム総体の獲得(単一の遺伝子内で起きる小さな変異ではなく)が、生命進化の初期には決定的に重要だったと考えた。細菌のような単細胞生物が別の細胞と合体すると、ゲノムは2倍になる。一方、多細胞生物は、新しく細菌を獲得しても、全体として数多くの細胞に新しい細胞が1つ加わるだけだ。
(「第4章 協力しあう微生物───なぜ「種」という概念が疑わしくなるのか」より引用)

 今日では細胞内共生説はほぼ定説化しているといえる[Wikipedia:細胞内共生説]が、これも隠された本質(nature)の一部なのかもしれぬ。

 隠された自然の半分が明らかになるにつれて、その本質にどのような攻撃を加えてきたか見えてくる。人体への抗生物質の過剰投与により微生物の生態系が乱れ、免疫性疾患や代謝異常が起きている事象は、そのまま化学肥料の過剰投与により土壌微生物の生態系が乱れ、作物の生育に悪影響を及ぼしている事象とつながる。人体に焦点を当てたのが、ブレイザー『失われてゆく、我々の内なる細菌』なら、土壌に焦点を当てたのがモンゴメリー『土の文明史』になる。どちらもスゴ本なり。

 『土と内臓』は、このモンゴメリーが妻と共に著したもの。根と腸、科学と歴史、医療と病気、見えている半分と隠された半分が、「微生物」というキーで一気通貫する。世界の見え方をも変えるスゴ本。

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