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胃がん100万、乳がん200万、肺がんだったら300万『がんとお金の本』

 がんになったときの、「お金」関連がまとめられている。検査や治療の明細、公的医療費助成制度の活用法、収入や生活の不安を支える公的制度など、「生きる」費用対効果を考える上で、有用な一冊。国立がん研究センター監修。

 タイトルはもちろん乱暴だ。がんの発生場所、病期(ステージ)、治療方法、入院期間などによって、まるで違う。「がん」という名前だけで、全然別の病気に見える。例えば、胃がん100万の事例は、「ステージI期、腹腔鏡下幽門側胃切除術のみ、11日間入院」の場合。大動脈リンパ節転移で切除不能だと化学療法のみとなり、46万と半額になる。ステージが進むほどやれることが限られてくる傾向がある。

 問題は、がんになるか、ならないかではない。問題は、「いつ」がんになるかということと、「どの」がんになるかである。

 日本人の2人に1人はがんになるのなら、がんに罹ることを前提としたほうがいい。問題は、それがいつ発見できるのか、そして、どの部位で見つかるのかを想定して、準備をしておいたほうがいい。

 そして、罹患部位ごとの5年生存率を見ながら、どこまでの治療を選ぶかを考えておく。そのために、どの段階でどのような治療が標準的なのか(そしてそれはいくら位なのか)、押さえておく必要がある。「できるだけの治療」を目指すなら、いくらでもお金を注ぎ込むことができる。標準治療からかけ離れた、「ニセ医療」に全財産を取られることだってある。

 たとえ予後が良くても破産したら意味がない。お父さんが助かっても、家族が地獄を見るならば、何のための「お父さんの命」か。生きているだけで幸せと言えるのは、そう言ってもらうために、先立つものがあってこそ。

 わたしが5年生き延びるためにかかる費用が、ある一線を越えそうなら、治療の方向を変えよう。わたしの残機を念頭に、残りの人生の品質を最大化するためのケアに切り替えるつもりだ。これは、わたしの決定であり、他人は知らぬ。「金かかるから諦めろ」とは、自分には言い聞かせられても、他人には言えぬ。

 そのために、どの部位のがんに罹り、どの時点で発見されると、いくら掛かるのか、予め知っておきたい。これ、いざ宣告されたなら、ショックのあまり検索してしまうから。そして、「自分で治す」「切らずに治す」「医者に頼らない」といった宣伝に、うっかり引っかかること必至だから(「お金があまりかからない」の暗喩にすぎぬ)。

 がんになる人がそれだけいるということは、そうした人々を支える助成制度が準備されている(この点、日本はすごいと思う。金の切れ目が、命の切れ目である国と比べて)。高額療養費制度は知ってはいたが、高額介護療養費と合体した制度があることは知らなかった。

 他にも、高額医療費の貸付制度や、収入に不安がある場合に頼れる制度が紹介されている。上手く活用することで、命の切れ目の上限額ラインを引き上げることは可能だ。緩和ケアに保険が利いたり、ロボット手術支援システム「ダビンチ」の手術に保険が使えることを知ったのは、新たな発見なり(ただし、手術部位による)。

 金の切れ目が、命の切れ目にならぬように。

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劇薬小説『異形の愛』

 「劇薬小説」というジャンルがある。心をざわめかせ、脳天を直撃し、己を打ちのめすような小説だ。憎悪、歓喜、憤怒、悲嘆、さまざまな感情を爆発させる猛毒だ。

 怖いもの知らずで聞いて回り([人力検索はてな:最悪の読後感を味わいたい])、エロもグロもゴアも手当たり次第に読んできた。10年かけて渉猟してきたベスト(ワースト?)5はこれ→([劇薬小説ベスト])。

 しかし、『異形の愛』は読めなかった。

 正確には、序盤までだった。予備知識ゼロで手にとって、これが一体、何の小説であるかに気づいたとき、二度と触れられなくなった。最初に本書を手にしたとき、まだ幼いわが子と重なってしまい、先に進められなくなってしまったのだ。

 これは、巡業サーカスの家族の物語である。団長であるパパは、薔薇の品種改良に想を得て、わが子の品種改良を試みる。すなわち、子どもが「そのままの姿」で一生食べていけるよう、意図的に畸形を目指すのである。ママの排卵と妊娠期間中、コカイン、アンフェタミン、それに砒素をたっぷり摂り、殺虫剤のブレンドから放射線まで試す。

 そうして生まれてきたのは、腕も脚もないアザラシ少年(サリドマイド児)の兄、完璧なシャム双生児の姉、一見フツウだが特別な力を持つ弟、そして、アルビノの小人の「わたし」である。物語は「わたし」によって導かれ、過去と現在を行き来しながら、家族への愛が語られる。

 見世物のキャラバンでは、フリークスこそが望まれ、フツウは入れない世界なのだ。他にも、家族の外から入り込んでくる変人が現れるが、五体不満足を目指す動機が無残としかいいようがない(袋男のエピソードは強烈である。注意して読まれたし)。

 価値観は転倒しているにも関わらず、その愛は正当なものだ。歪んでいるのは、そう見ている読み手であるわたしであることに気づく。その身の捧げ方がいかに特別なものであっても、やっていることは狂気としかいいようのない行為であっても、名付けるとするならば、愛としかいいようがない。この小説に「結論」というものがあるのなら、それはここになる。

強いのは愛する側なんだという思いを引きだした。愛されるなんてはかないもの。お返しに愛されたからって、それがなんになる? そうわたしは自問した。暗闇で背骨を暖めるため? わたしの愛など、アーティには関係のないことだ。それは秘密の切り札、恥毛の下に彫った青い鳥の入れ墨か、ケツの穴に隠したルビーのようなものだ。

 言葉にできないものを言葉を通じて知ることがフツウの文学ならば、言葉にしてはいけないものを言葉を通じて知るのが本書である。笑える&泣ける家族のエピソードを散りばめつつ、残酷な運命に向かって平凡な日常を続ける現代のおとぎ話は、ジョン・アーヴィングの傑作『ホテル・ニューハンプシャー』を思い出す。アーヴィングを読んだ人に対しては、『異形の愛』とは、フリークス版の『ホテル・ニューハンプシャー』だと言えば上手く伝わるかもしれぬ。

ホテル・ニューハンプシャー上巻ホテル・ニューハンプシャー下巻

 やっていることは、商品としての赤ちゃん「デザイナーベビー」に連なる。遺伝的に劣位な胚を除外する生殖補助、肌・目・髪の色や遺伝特質を予めセットアップするサービス、亡くした子どもの代わりにつくられる生物学的に同一のレプリカントなど、ベビービジネスは巨大な市場になっている。にも関わらず、そこに異質を感じるのはぜか。さらに、異形たちの愛にフツウの愛を感じるのはなぜか。自分は「大丈夫」だと信じたいのか? 読めば分かる。試すつもりで読むといい。

 きれいはきたない、きたないはきれい。闇と穢れの中を読み進め。

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