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東大・京大で『勉強の哲学』が一番売れている理由「勉強するとキモくなる」

 「勉強とは何か?」を根源的に考えた一冊。一言なら「勉強とは変身である」になる。

 巷に数多のノウハウ本ではない。意識高い系の自尊心をくすぐる本ではない。勉強するとはどういうことか、勉強することで何が起きるのかを、言語と欲望の問題にまで踏み込み、掘り下げる。

 議論のバックグラウンドに、フーコーの権力システム、ドゥルーズ&ガタリの脱コード化、さらにウィトゲンシュタインの言語観をも引き込んでいるが、咀嚼しきった上で原理的に考え抜く、その知的格闘が面白い。

 勉強すると何が起きるのかを考える際、勉強する「前」はどうなっているかに着目する。自分が話す(=考える)言葉やコードは、そのときに自分がいる環境に依存しているという。半径5mの仲間や学校、家族、手元の端末のSNS、マスコミ、社会などから、「こうするもんだ」というコードにノッて話し、考え、行動する保守的な状態だという。

 それが、勉強することにより、慣れ親しんだ「こうするもんだ」から、別の「こうするもんだ」に移行する。集団的なノリに共感できなくなったり、あるいはそうであった自分を客観視するようになる。この「場」から浮いた感覚や言葉が自分をキモくさせるというのだ。

 勉強により、言葉が拡張する。今まで使っていた同じ言葉とは別の意味を持つことに気づく。この「違和感」が重要だと説く。言葉の手触りというか、透明度の違いのようなもの。わたしの例だと、「無限」だな。数学をやりなおして無限は計算できることを教わった(数学と数学論のあいだ『数学ガール/ゲーデルの不完全性定理』)。さらに、無限に大小があることを知った(大人のための数学『無限への飛翔』)。最初は、会話で使う形容的な「ムゲン」と数学的に定義された複数の「無限」の収まりの悪さを感じ、次に、そのズレを意図的に使い分けるようになった。勉強により、自分「が」キモく感じると同時に、自分「を」キモくさせていることに自覚的になる。

 勉強により、自己を言語的にバラす。これまで囚われていた環境のコードを疑って批判する(アイロニー)手法と、コードに対して意図的にズレようとする(ユーモア)手法により、自己破壊と拡張・メタ化を行うというのだ。その結果、発想の可能性を狭めていた環境のノリから離れ、別の環境、他の次元の発想が考えられるようになる。著者曰くこれが「賢く」なるということだ。

 この取組みは、『アイデア大全』でしつこく追求されている「問題の再定義」やね。「問題を様々な角度から検討する」だけでなく、問題の前提を疑ったり、問題を「問題」として成り立たせている構造を組みなおす。『勉強の哲学』で抽象度の高い議論に揉まれたら、『アイデア大全』の具体的すぎる手法を試したくなる。「シソーラス・パラフレーズ」「対立解消図」「フォーカシング」「P.K. ディックの質問」は、そのものズバリだろう。併せて読むことをお薦めする。

 『勉強の哲学』は、東大・京大の生協書籍部の売上No.1とのこと。勉強するとはどういうことか、勉強することで何が起きるのかを深く知れば、「なぜ勉強するのか」の答えは自ずと見つかる。

 勉強とは、変身である。勉強しよう。

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数学と数学論のあいだ『数学ガール/ゲーデルの不完全性定理』

 数学の良いところは、待っていてくれること。

 もう授業も受験もないので、時間制限は残りのライフのみ。時代の風に翻弄される政治経済歴史と違い、「新しい=良い」教に染まった物理化学生物と異なり、好きなときにやり直せるのが嬉しい。前回のセーブポイントから始められ、学んだだけ進められるのも数学の良いところ。

 そして、前回攻略できなかった、ゲーデルの不完全性定理に再挑戦する。8年ぶりの再再読だが、「数式と少女のときめき」は健在で、読み物としても入門書としても抜群に面白い。さらに「数学に苦労していたわたしの高校時代」と「『数学ガール』に没頭していた8年前」を重ね、二重の意味で懐かしい。

 全10章に分かれ、最終章(ゲーデルの不完全性定理)に取り組むための伏線が張り巡らされている。嘘つき者のクイズに始まり、ペアノの公理やラッセルのパラドクス、そしてイプシロン・デルタと対角線論法で「数学を数学する」準備をする。

 「高校生がゲーデルの不完全性定理を理解するために何が必要か?」をとことん考え、足りない概念や道筋を洗い出している。最初に読んだときには気付かなかったが、9章までに解説された概念・数式・体系というピースが、最終章でビシッとハマってゆくところは、上質のミステリのように面白い。

 その一方で、数学を学ぶにつれて浮かんできた"わだかまり"のようなものが可視化されている。≪意味≫を≪形式≫として捉えるために、≪意味の世界≫と≪形式の世界≫という考え方が紹介される。問題(意味)に対し、数式(形式)を立てたなら、後は機械的に解くことで、答えを得ることができる。そして、数式の答えは、問題の答えになる。

 この考えは本書を貫いている。いったん形式体系で表せるならば、所定の公理・規則に従って展開させることができる。必ずしも数学的である必要性はなく、むしろ今までの数学的な意味や慣用に引きずられないよう、「知らないふり」「忘れたふり」をしてシステマティックに振舞えと命ぜられる。

 この「知らないふり」ゲームは、ものすごく面白い。自分がいかに意味に引きずられて考えているかが、よく分かる。ウィトゲンシュタインやクリプキのこだわりを実践的になぞっているようで、ワクワクさせられる(ただし、意味の正当化と規則の正当化は異なるやり方で果たさなければならない『意味と規則のパラドックス』は、いったん脇においておく)

 そして、形式体系に落とした46の定義と数学ガール(ズ)の対話によって、不完全性定理が証明されている。残念ながら今回も力尽き、p.358の全体像を見ながら追いかけることになったが、それでも脳汁あふれる旅路だった。わたしの"わだかまり"は、この旅路の最後、「不完全性定理が≪数学≫の限界を証明してしまったのではないか?」というテトラさんの質問に対するミルカさんの返答に現れる。

「議論に混乱がある。テトラは、≪数学というもの≫という言葉をどういう意味で使っているのだろう。それは、(1)きちんと定義を書き下して、なんらかの形で形式的に表現できる何かだろうか。それとも、(2)定義を書き下すことはできず、私たちの心に浮かんでいる、数学という名を付与するにふさわしい何かだろうか。どちらのつもりで言っているのかな?

もしも(1)のつもりならば、≪数学というもの≫は条件を確かめた後に不完全性定理の対象となりうる。そして≪数学というもの≫は不完全性定理の結果に支配されるだろう。

しかし、もしも(2)のつもりならば、≪数学というもの≫は不完全性定理の対象ではない。それは数学「論」の対象か、哲学の対象か……ともかく、数学の対象ではない。ということは、不完全性定理の対象でもない。だから、≪数学というもの≫は不完全性定理の結果に支配されない。

さらに≪数学というもの≫が(1)なのか(2)なのかを識別することは、これまた数学が扱うことではない。

だから私の考えはこうだ。不完全性定理の結果を使って数学的な話をしたいなら、対象を数学にしぼって話そう。そうではなく、不完全性定理の結果からインスピレーションをもらって数学論的な話をしたいなら、そのつもりで話そう。忘れてはならないのは、数学論的な話は、「数学的に証明された」わけではないということ」

僕は、ミルカさんに問いかける。

「≪数学を形式的体系として表現する≫のは不可能だということ?」

彼女は目を閉じ、首を横に振る。

「というよりも、≪数学とは何か≫を定めるのは≪数学≫ではないということ。それは≪数学観≫だ。だから≪数学とは〇〇である≫という主張は───数学的に証明できない」

「要するに≪数学的な議論と、数学論的な議論は分けるべき≫なんだ」

 ミルカさんの言う(1)「きちんと定義を書き下して、なんらかの形で形式的に表現できる何か」とは、形式体系だと理解した。そして、≪意味の世界≫から≪形式の世界≫に移ることで、所定の公理・規則に従って展開し、他の数学的な意味や慣習は「知らないふり」ゲームをし続けることができる。

 問題はここにある。ミルカさんは、不完全性定理を議論するにあたり、≪数学というもの≫を、いったんは(1)としている。しかし、わたしはこの前提である「不完全性定理を議論するにあたり」を省略し、≪数学というもの≫は(1)であると考えてしまっていた。

 すなわち、数学とは公理と規則とそれらを示す記号の組み合わせの総体だとみなしていたのだ。だから、人が知っている数学的知識のすべてをAIに学ばせることで、「人が知らない」数学的証明について自動的に検証できるに違いないと考えていた。「数学は、計算できる」。もちろん、これはヒルベルトが立てた目標であり、ゲーデルが打ち砕いたものだ。だから、わたしは≪数学というもの≫の限界が証明されてしまったように感じたのだ。

 ここまで理解した上で、まだ分からないことがある。ミルカさんは、(1)数学的な議論と(2)数学論的な議論は分けろという。その通りだ。だが、≪数学≫がなんであるかについては言明を巧妙に避ける。≪数学というもの≫と(カッコ抜きの)数学を使い分け、ミルカさんにとって数学が何であるかは、ついに分からない。

 最初は、ミルカさんにとっての数学とは(1)であると考えていた。すなわち、「きちんと定義を書き下して、なんらかの形で形式的に表現できる何か」である。だが、(1)とするなら、先にわたしが陥った形式主義の罠にはまることになる。だから、不完全性定理の議論をする上での前提を置いたのだろう。

 しかし、ミルカさんの言う、≪数学というもの≫を決めるのは≪数学観≫だというのは本当だろうか? 数学「観」というのであれば、人により時代により変わってゆく。数学とはそんなものなのだろうか? 素朴なプラトニストだったわたしからすると、疑わしい。それこそ≪数学というもの≫は、(2)「私たちの心に浮かんでいる、数学という名を付与するにふさわしい何か」になってしまう───とグルグルする。

 わたし自身、数学の教科書に載っている事柄だけでなく、「人はどのように数学を理解しているか」に興味がある。人の想像力の限界があるとするならば、それは数学で表せる限界を調べることで明らかになる、と信じる。だから、ミルカさんにとって≪数学というもの≫が何であるかが知りたい。「それは数学≪論≫の話だろう」とはぐらかされるだろが、そこは壁ドンして、「ではミルカさんにとっての数学は?」と問うてみたい。

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