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ブラック人生における光『あまりにも騒がしい孤独』

 過酷であるほど、彼が大切に抱える光の愛おしさが伝わってくる。その輝きが、知的で美しい存在が、めちゃめちゃに潰されてゆくのを全身で感じる。

 「なんでもあり」が小説だが、この苦痛は耐えがたい。本を読むのが好きな人ほど、息苦しさを感じるだろう。なぜなら、彼の仕事は、運び込まれてくる本を圧縮機で潰し、紙塊を作ることだから。

 本ばかりでない。食肉解体業者が運び込んでくる、蝿がたかった血まみれの紙も一緒に圧縮する。ゲーテと蝿、ニーチェと鼠が一体化された紙塊を、祭壇のように恭しく並べる。知的で美しいものと、醜怪でグロテスクなものが渾然一体となって、読み手の前に並べられる(ここで悲鳴をあげたくなる)。

 背景にはプラハの春がある。1968年にチェコスロバキアで起きた民主化運動で、ソ連の軍事介入により、文字通り「圧殺」された。大学教授をはじめとする知識人は職を終われ、言論の自由は奪われ、厳しい検閲と徹底的な統制を受けたという(この言論弾圧を「正常化」と呼んでいるのが最高の皮肉なり)。

 ブラック企業、ブラックバイトが現代なら、ブラック人生はこれだろう。価値あるものを(価値あるものだと分かっている人の手で)容赦なく潰す。

 もちろん、そうした経緯をそのまま書くわけにはいかぬ。だからフラバルは、下水道の鼠の争いや蝿、潰されてゆく膨大な量の本に仮託する。ナチズムとスターリニズムが重なりあう過酷な生き様を、ときに滑稽に、ときにメランコリックに描く。

 ブラック人生の中で光る、ささやかな抵抗や、大切な思い出が愛おしい。その描き方が、奇妙で興味深い。可愛い少女と人糞、肉蝿の黒雲とジプシー女のきれいな陰毛、憧れの人の生き方とその人の肉塊など、対照的な要素を並べることで、ビジュアル的に互いに引き立たせるように描いている。

 たとえば、少女と人糞。主人公が、初恋の娘と踊る場面だ。彼女の髪を飾る長いリボンに付いた人糞が飛び散るシーンは、夢に出るほど強烈だった。そして、そのシーンが美しく切ないほど、くるくると回転する彼女がまき散らす人糞の生々しさが、しかめっ面で見守る若者たちの目線が、彼の思い出の中で一層の輝きを増す。真っ黒な人生のうち、目を背けようもないほどの存在感を放っている。

 絵にも描けないおもしろさ。シュールで、グロテスクで、滑稽で、美しい傑作。ご堪能あれ。

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