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「健康の不在」から健康を考える3冊

 失って初めて分かるもの、それは健康。

 風邪で苦しんでるとき、ひどい二日酔いのとき、健康のありがたみが身に沁る。そして、「もっと自分の身体を大事にしよう」と決意するのだが、喉もと過ぎればなんとやら、決意が続いた例なし。普段はあたりまえのように享受しているが、いずれ「あたりまえ」ではなくなるのに。

 また、「健康」は最重要なものであり、これに反したり外れたりするものはノーマルではない、という考えがある。確かに健康であることは大切だが、それを強要するのは違う気がする。「健康のためなら死んでもいい」というスローガンや、「健常者」という言葉に違和感を覚える。

 今回は、この手垢にまみれた「健康」に、疑いの目を向けてみよう。ずばり健康をテーマにした本は沢山あるが、ここでは、「健康の不在」をテーマに健康をあぶりだしてみよう。

 まず直球から。トルストイ『イワン・イリイチの死』を読めば、思わずわが身を抱きしめたくなる。はっきりした頭で考えることができ、自由にできる身体があるというだけで、どれだけありがたいことか、「生きていること」を愛おしく感じるに違いない。なぜならこれは、「健康が失われてゆくこと」のシミュレーターだから。

 成功人生を送ってきた男が病を得、どんどん悪化してゆく。家族の冷淡な様子や、ひとりぼっちで惨めな思い、そして、自分の人生がまったくの無駄であったことを徹底的に思い知らされるところは、あまりにも残酷だ。

 恐れ、拒絶、戦い、怒り、取引、抑うつ、そして受容といった典型的な(?)段階を経ながら、死と向かい合う心理的葛藤を容赦なく暴きたてる。死とは他人にだけ起きる事件だとタカくくっていた順番がまわってきたとき、どういう態度をとるのか。否が応でも「自分の番」を考えさせられる。ここなんて怖いぞ。

なぜ、何のためにこんな恐ろしい目にあうのか。だが、いくら考えても答えは見出せなかった。そしてよくあるように、なにもかも自分が間違った生き方をしてきたせいで生じたことなんだという考えが頭をよぎると、彼は即座に自分の人生の正しさをくまなく思い出して、その奇妙な考えを追い払うのだった。

 気楽・快適・上品といった、健康だった頃の価値尺度は、そのまま彼の人生の虚構を示している。他者との精神的なかかわりを避け、自分の人生を生きてこなかった彼が、死を自覚することで、ムリヤリ向き合わされる。そして、もう、とりかえしはつかない。

 ラストがどうなるかはタイトルで分かる。しかし、「健康が失われてゆく」過程をシミュレートした結果どうなるかは、読み手に委ねられている。ある意味、猛毒となる一冊。

 次は健康の戯画化。筒井康隆『最後の喫煙者』を読むと、健康ファシズムという言葉が浮かんでくる。健康な社会を求めて始まった反タバコ運動が、喫煙者への差別や排斥運動となってヒステリックに過激化していく。タバコと社会という断面で斬っており、(わざと?)コミカルに描いているから風刺的に読めるが、これ、かなり怖い話だね。

 「健康」は、一見、誰も反発したり疑義を唱えられない中立的な善のように見える。誰だって病や苦痛を避けたいもの。健康であるに越したことはない。どれだけお金を積んだって、健康はお金では買えない。もちろんその通りだ。

 しかし、誰も反対しないからこそ、この言葉を使えば、先入観を押し付けることができる。無条件に美徳だと認められるからこそ、そのレトリックに気づきにくい。『最後の喫煙者』は、タバコという分かりやすいレトリックだからこそ風刺になる。だが、現在進行中の健康にまつわる様々な政策やマーケティングに潜むレトリックは、「健康管理国家」というレッテルを貼られるまで、気づかれないままだろう。

 そして、「健康」のパラドクス。シッダールタ・ムカジー『病の皇帝「がん」に挑む』を読むと、「がん」をテーマにしたドキュメンタリーなのに、「健康とは何か」を再考させられることになる。

 本書は、人類とがんとの戦いの歴史なだけでなく、現場の医者たちの手記であり、沢山の患者の闘病記になっている。ウィルスや遺伝学からのアプローチ、古代から現代に至る医療技術の変遷を追う一方で、環境汚染の疫学論争を扱い、たばこ撲滅キャンペーンによる第三世界への「がんの輸出」といった今日的なテーマまで手広い。

 読み進めるにつれ増す違和感は、がんに対する姿勢だ。著者および本書に登場する医師たちは、がんとは闘う相手であり、殲滅すべき「敵」として扱っている。しかし、がん特定の探索過程を通して詳らかにされるその正体は、“わたしたち自身”なのだ。マイケル・ビショップの言葉を借りるならば、「われわれ自身のゆがんだバージョン」である。著者自身は、「生存能力を付与され、活動の亢進した、多産で創意に富む、われわれ自身の寄せ集めのコピー」だという。

 この姿勢は、救うべき患者自身を攻撃することにはならないだろうか。メス、薬、放射線による攻撃で、がんを取り除くためなら、患者を殺してしまってもかまわない。無慈悲で冷酷なまでの執拗さで、患者が副作用に耐えうる限界を押し広げていかなければならないという姿勢は、医学の未来を明るくとらえた無邪気の裏返しだ。そうした先人の積み重ねの跡に、いまが成り立っていることを思い知らされる。

 もちろんこれは過去の話で、今は改善の見込みと患者のQOL(生活の質)との兼ね合いの上で、治療方針が決められる。「健康でないもの」を排除することが医学の目的であるとすれば、その極端な姿はナチスのブーヘンヴァルト収容所の所長の言葉に端的に表れる。「うちの収容所に病人は一人もいない。健康な人と死人だけだ」。

 確かに健康は重要だ。だが、なんのために重要なのか、「健康の不在」から考え直すと、いろいろ炙り出されてくる。健康であることが「あたりまえ」なのか、健康が重要であることを「あたりまえ」だと考えるのかで、さらに炙り出されて面白い。

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生命の本質は「膜」である『生命の内と外』

 これは面白かった。生命の本質として「膜」に着目し、最新の細胞生物学の知見からその仕組みを解き明かす。

 「膜」の内側で自律性を保ちつつ、かつ、「膜」の外側と情報や分子を交換するメカニズムは、そのまま「生命とは何か」に対する一貫的した説明になる。その見事さに驚くと同時に、「私とは何か」をも考えさせる名著なり。

 まず、「生きている」最低条件として、外界から「閉じて」いることを挙げる。自己を囲む膜が、外部と内部を区別していなければ、生命としての安定性や自律性は保てないという。そして、「閉じて」いるからこそ、生命維持に関わる種々の化学反応(=代謝)を効率的に、合目的的に行うことができるというのだ。

 その一方で、「生きていく」ためには、外界から「開いて」いなければならない。代謝に必要な栄養物や酸素などの物質を取り込むため、さらには、不要となった廃棄物を排出するためには、外の環境に対して開いている必要がある。つまり、「生きている」とは、外部から「閉じつつ開く」という存在になる。そして、一見この相反する状態を実現しているのが「膜」だというのだ。

 たとえば、栄養素の摂取における膜の役割について。ヒトをトポロジー的に見るとドーナツ状になる。ドーナツの穴に相当するのが消化器官だ。要所に弁が存在するものの、胃や腸は「外部」になり、共生微生物のコロニーとなっている。そうした外部に対して「閉じ」つつ、グルコースなどの糖を通すため、グルコース・トランスポーターという膜透過のメカニズムがある。この機能は、膜の内外のナトリウムイオンの濃度の差を利用し、その流入エネルギーを拝借することで、グルコースだけを運び込む。

 あるいは、生成したタンパク質の取り込みについて。この凄さを伝えるためは、タンパク質の生成について触れねばならぬ。

 タンパク質は、階層構造をとる。ヒモ状の一次構造(ポリペプチド)から、それを折り曲げた構造をとり、さらにシート状ユニット構造をとることでそれぞれの役割を果たす。タンパク質は、DNAの遺伝コードの文字列に対応するアミノ酸をつなげていくことで生成されることは知っていた。しかし、これはあくまで一次構造にすぎず、これを折り曲げたり編み上げることで、「酸素と結びつきやすい」とか「水に馴染む部分と反発する部分をもつ」といった特性をもつことになる。

 しかし、折り曲げたり編み上げることで一定の大きさをもってしまうと、膜を通過することはできない。そのため、ヒモの状態で膜を通し、通った内側で構造化することで、「開く」範囲を最小限にする。しかも、ヒモを通す穴を開ける際、細胞膜は、一種のエアロックのようなメカニズムを持つ。分子内シャペロンという折り曲げ・編み上げを助けるタンパク質が、このエアロックの役割を果たすのだが、微小空間における「閉じつつ、開く」解説であるにもかかわらず、スペースシャトルのドッキングのようで楽しい。

 2016年のノーベル生理学・医学賞で話題になったオートファジーの理論も、「閉じつつ、開く」視点から説明されている。ヒトの一日の体内アミノ酸の出納は、次の通りだという。

 体内へ摂取する 70g
    ↓
 体内で合成する 180g
 体内で分解する 180g
    ↓
 体外へ排出する 70g

 つまりヒトは、食べたタンパク質の他にタンパク質を作り出している。このタンパク質の再利用は、いったん出来上がった(構造体をとる)タンパク質を分解する必要がある。この分解は、「体の外側で」なされている。

 いま、おかしなことを書いた。体内で起きていることなのに、「体の外側」というのはおかしい。タンパク質を分解するための空間を膜でつくりだし、その中で分解する(体内で分解したら、他の必要なタンパク質も分解されてしまうから)。つまり、オートファジーによる分解機構とは、餌となるタンパク質を「膜の中という"外部"」に持ち出して、そこで分解する装置だというのだ。タンパク質のリサイクル・システムは、この「体の中の外側」でなされている。

 この発想にはガツンとやられた。考えてみれば、体の中に外側を持つことで、「閉じつつ、開く」を実現している。消化器官や呼吸器官は、「体の中」であるにも関わらず、トポロジー的には外側だ。共進化により不可分の関係になっている共生微生物は、「体の外側」にある、生きるために必須の存在だ。そもそもミトコンドリアは細胞内にある「外からやってきた」小器官だといわれている。

 つまり、完全に「わたし」という閉じた存在があるのではなく、さまざまな「わたし以外」へ開かれつつ、それでいて統一性を保っている存在なのだ。

 生命を「膜」で考える好著として、ニック・レーン『生命、エネルギー、進化』がある。これは、「生きているとはどういうことか?」をエネルギーの観点から解き明かした名著である。レビューは[ニック・レーン『生命、エネルギー、進化』は難しかった]に書いたが、生命とは電動であり、そのエネルギーは膜を挟んだ電位差で生じる仕組みを明らかにしている。

 生命と環境を隔てている境界は極薄の膜であり、それは閉じつつ開くことで「生きている」を実現する。そのメカニズムは、知れば知るほど面白い。

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