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読書猿『問題解決大全』はスゴ本

 一生役立つ一冊。

 これ、言い切っていいと思うが、わたしが直面するあらゆる問題は、検討済みである。

 新しい問題なんてものはない。「問題」をどの抽象度で定義するかにもよるが、新しく「見える」だけで、分析してみれば、分解してみれば、裏返してみれば、再定義すれば、古今東西の人たちがすでに悩み、検討し、着手し、対処してきた問題であるにすぎぬ。

 ただし、対応する人にとってみれば、それは新しい問題である。または、初見の状況に直面することもある。だが、人や状況が違えども、問題そのものは、ほどいてみれば、既出なのだ。新しい状況下で、新しい人が、既出の問題を解き直しているといえる。

 そして、問題を解決するための方法もまた既出である。わたしが知らないだけで、古今東西の人たちがすでに考え抜いている。ある手法は学問分野になっていたり、またある方法はライフハックやビジネスメソッドになっていたりする。規制や法制度化され、社会常識やルールのように見えていても、それは昔の人が編み出した解決法が化けている場合もある。

 そんな先人の知恵を借りないわけがない。「自分のアタマで考えろ」と言う人がいるが、その方法は先人に学ぼう。車輪をもう一度発明する必要はない。ハードルを乗り越える/潜り抜ける/別のものに変えるツールは、既にある。

 そして、世にある有用なツールを集大成したものが本書である。

 哲学、歴史、経済学、人類学、数学、物理学、心理学、生物学、文学、宗教、神話、そして学際研究の分野で培われた問題解決技法が、37のツールに結集している。アイザック・ニュートンは、先人の研究に基づいて新たに発見することを「巨人の肩の上に立つ」と言ったが、本書を用いることで、「巨人たちの肩の上に立つ」ことができる。既に考え抜かれてきた技法を利用することで、新しい問題を、既出のものと扱うことができるのだ。

 本書が一生役立つ理由として、「問題解決」を分かりやすく定義していること。学問やビジネスの問題から生殺与奪の問題、夫婦喧嘩や心身の悩みなど、問題には、大掛かりなものから個人的なものまで沢山ある。だが本書ではシンプルに、「問題解決とは、"~したい"と思うことを実現すること」だという。

 問題に気づき、その解決のために自分の行動を計画し、実行することは、人の能力であり、同時に人が人たる条件なのだと言い切る。ここは痺れた。よく生きようと努力することが、人の本質なのだと改めて思い知らされる(この、"よく"は、「善く」「良く」「好く」そして「欲」と、人によりけりだが)。これは、一生のどのような状況でも当てはめることができる「問題」だ。

 また、本書が類書と大きく異なるのは、そうした技法を漫然と並べるのではなく、技法の各々が相互に参照・影響しあい、人文知を作り上げていることが立体的に分かるように書いてあるところ。歴史上のそれぞれの現場で問題に取り組んだ軌跡が、脚注の人物、書籍、キーワードのノードでつながり、さらに巻末の年表で時系列に通貫していることが、読めば分かるように構成されている。これは、著者である読書猿さんが、人文書を目指して書いている志の高さの現れだろう。

 さらに、本書が凄いと感じるのは、技法を大きく二つに分け、「リニアな問題解決」と、「サーキュラーな問題解決」にしているところだ。

 リニアな問題解決とは、直線的な因果性を基礎に置く問題解決であり、理想と現状のギャップを何らかの形で埋めたり、より「上流」の悪原因を取り除くことを目的とする。解決者は、問題の外側から分析し、必要なリソースも問題の外から供給される。

 いっぽう、サーキュラーな方はより複雑だ。解決する人もまた、問題を構成する因果のループの中に組み込まれている。問題を問題たらしめている要素もまた、因果ループの中で再生産しており、必要なリソースも解決すべき問題として考慮しなければならない。技法としては、因果ループにゆさぶりをかけるため、例外や逸脱を強めたり、逆説的に介入する手段が紹介されている。ここまで丁寧&簡潔にまとめているのは、本書が初だろう。

 37の技法は読んでくれとしかいいようがないが、きっと役に立つ技法が必ずある。

 なぜそう言えるか?

 なぜなら、わたしが、何年もかけて効果を出しているやり方が紹介されているから。わたしは、様々な本を読み、自分の痛い経験を通じて身につけてきたが、その技法に名前があることを、本書で初めて知ったから。

 その中から、ふたつ紹介しよう。

 ひとつめは、リニアな問題解決にある、「100年ルール」という技法。問題を前にしたとき、不安で仕方がないときに、「これは100年後も重要なことか?」と自問する方法だ。100年が極端なら30年や5年にしてもいい。本書では、「問題との距離をとる」ことが重要だと説く。

 わたしはこれを、リチャード・カールソン『小さいことに、くよくよするな』と、ランディ・パウシュ『最後の授業 ぼくの命があるうちに』で学んだ。イライラしたときのライフハックとして、あるいは、(主に仕事上の)悩み事から距離を置くために編み出した。ほぼ日手帳(文庫サイズ)を使う。

 まず、ほぼ日手帳を携帯する。嫌な事や悩み事が思考にまとわりつき、ずっとそのことばかり考え始めると、いったん手帳に書き出すのだ。不安の原因→結果の心配→さらなる不安のネガティブループを、そのまま吐き出す。そして、来年までこれで悩んでいるだろうかと自問する。一年経つと、一冊溜まることになる。

 そして、ほぼ日手帳を2冊携帯するのだ。「今年の手帳」と「昨年の手帳」を一緒に持ち歩く( 文庫本サイズである必要性はここにある)。そして毎日一度、昨年の手帳の「今日」を開いて、その時のお悩みを読み返してみる。「あんな時代もあったねと、いつか笑って話せる」には少し早いが、1年置くと、たいていの問題は無害化している。ほとんどが解決済み、もしくは取るに足らない問題でしかなく、極端なやつになると、何だったのか思い出せないものさえある。

 それでも、残り続けるものがある。形を変えて何年も何度も登場する。「残る」問題は課題化し手帳の見開きに転記している。ここ10年続けて、わたしのほぼ日手帳の第一ページに記された課題はこれだ→「まず体調。栄養と睡眠をとり、意識して体調を良くせよ」。毎日わたしが「問題」と感じるものの大半は、栄養と睡眠を意識的に取ったあとに相対すると、より問題化が和らいでいる。

 ふたつめは、サーキュラーな問題解決である「リフレーミング」。事実を変えるのではなく、そこから得られる意味を変えるという試みである。たとえば、ものは言いようというやつで、他者の評価を(自分の中で)変える言葉がある。あるいは、「よかった探し」や「ネガティブをポジティブに言い換える」というやり方だ。自分が、どのような認知に則っているかに、自覚的になる訓練だ。

  落ち着きがない→活動的
  デブ→(男)貫禄がある・(女)ぽっちゃり
  怒りっぽい→ 感受性が豊かな
  わがまま→妥協しない
  優柔不断→慎重
  しつこい→粘り強い
  協調性が無い→独立心が強い

 わたしは、このリフレーミングという手法を「妻の怒り」について適用していた。

 つまりこうだ。妻が怒り狂うとき、わたしは会話によってその原因を追求し、解消しようと努めていた。怒りの原因となるものがあり、それが怒りという結果を引き起こしているのだと信じていた。

 だが、それは間違っていた。いやむしろ、「怒りの原因を分析する」ことは、妻の怒りを劇化する一因となっていることに気付いた。「なぜ怒っているのか」「どうしたらその怒りの原因は解決するのか」について、ノートに詳細に洗い出し、分析し、論理的な対応付けしようとする行為そのものが、妻の怒りを増幅させる原因となっていることが、長期間のサンドバック状態を経て、ようやく分かった。

 そして、妻の「怒り」を再定義できないかと考えた。つまり、妻が怒っているとき、その怒りの原因の「何か」ではなく、別の感情が元にあり、その二次的な表出として「怒り」があるのではないかと仮定したのだ。たとえば、心配、苦痛、寂しさ、不安、残念、苛立ち、空腹といった感情や欲求不満的な状況が元にあり、それが「怒り」という形になっているに過ぎないと考えたのである。

 妻の「怒り」の意味づけを変えれば、対応が見えるようになった。怒りの予備動作の前に、妻がどのような状況なのかを判断し、その感情を増幅させるように相づちを打つのだ。すなわち、その怒り(の裏側にある感情)はもっともであり、もっと大げさに訴えてもいいものであり、そうなるのも当然だと同意するのである(たとえその矛先がわたし自身でも!)。妻は、怒りの因果ループにゆさぶりをかけられ、拍子抜けし、本当は何に対して怒っていたかに気付くようになる。

 つまり、怒りとは二次的な感情なのだ。そして、怒りをリフレーミングすることで、怒り→弁明を求める→弁明に対して激昂するという悪循環のループから逃れることができる。怒りに対処するのではなく、怒りの因果ループのエンジンとなっている一次感情を、怒りを再定義することで見つけ出すのだ。わたしは、スマナサーラ『怒らないこと』でこの技法を学んだが、『問題解決大全』ではわずか7ページでまとめている。

 もちろん、ここでわたしが紹介した本は、『問題解決大全』には出てこない。だが、本書を読むと、あなたの中でそれまで蓄えていた様々な知識とつながってくるに違いない。いっぽう、通読する脚注や巻末やエピソード紹介などから、「知りたい」がどんどん芋づる式に増えていく。これは、そんな知恵と知的好奇心のハブとなるような一冊なのだ。

 目の前の「問題」は違えども、わたしと同じ悩みに悩み、苦しみに苦しんだ証拠だといえる。歴史上の知の巨人たちの試行錯誤を見ていくうち、「わたしは一人ぼっちじゃないんだ」という気持ちになってくる。本書があれば、いつでも巨人たちを召喚できるのだ。

 巨人たちの数は135人。召喚せよ。そして好く生きよ。

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ゲームで子育て『スプラトゥーン2』

 「ゲームで子育て」シリーズの最終回。

 なぜなら、子どもにやらせたいゲームで、『スプラトゥーン2』を超えるものが、おそらく無いだろうから。父親になって十余年、子どもと一緒に、さまざまなゲームをやってきた。ポケモン、モンハン、レースもの、対戦もの、色々やってきたけれど、これが最高なり。

 ゲームは、現実社会の様々な事象を楽しめる形に抽象化したもの。現実より多めに報われるルールに則って、プレイヤーは楽しむためにプレイする。現実だと普通に直面する、見えないルールやチート術は、原則存在しない。

 子どもは、ゲームを通じて挑戦することを学び、安全に失敗を経験することができる。現代の日本では、「子どもが安全に試行錯誤できるという環境は、実は少ない。その希少な、かつ子どもが喜んでチャレンジする環境こそが、ゲームなのだ。ゲームは、子どもに必須といっていい。

 ただし、人生はゲームではないことに注意したい。人生をゲームに例える人がいるが、それは嘘だ。難易度は選べず、セーブポイントは皆無。1回こっきりでコンティニュー不可、パラメーター振分け不可、ランダム要素が多すぎ。攻略本は書店にあるが、全く役に立たない。一つだけ、人生とゲームの共通点があるとするならば、電源ボタンがあるところだな。

 人生はゲームじゃないが、ゲームは人生に役立つ。『スプラトゥーン2』は、その最高の一つである。暇つぶしに始めたのに、暇じゃない時間までが潰されていく中毒性の高いゲームだが、生きていく上で、重要なポイントを、知らず知らずのうちに学ぶことができる。ここでは、そんなポイントを解説する。

 ポイントは3つある。

■ポイント1 「集中力は有限だ」「ちゃんと寝よう」

 『スプラトゥーン2』はオンラインゲームである。ネットを介して4対4で戦うゲームである。水鉄砲のような武器でペンキを撃ちあう(というか塗り合う)ゲームで、マップを自陣の色に塗りまくれば勝利につながるゲームである。

 単純に塗って楽しんでもいいが、単なるアクションシューティングだと思っていると、いずれ「越えられない壁」にぶつかる。いわゆる「立ち回り」を考えなければならない。制限時間の中で、自分の武器と、自チームの武器・ランク、マップの特徴、相手チームの武器・ランクを考えながら、最適な戦い方を選びつつ、勝つために自分ができることを考える。敵を排除するのか、味方のサポートに回るのか、攻めて相手を撹乱するのか、瞬時に判断し、実行する。

 これが非常にアタマを使う。30分もプレイすると、ヘトヘトになる。テキトーにやってもいいが、テキトーな結果しか返ってこない(ここがゲームのシビアなところ)。無理を承知で続けると、集中力が続かない。ボコボコにされる。そこで学ぶのだ、「集中力は有限」であり「寝れば回復する」ことを。言い換えると、「ちゃんと寝ないとダメ」だという、おそらく人生で最も重要なポイントを学ぶことができる。

■ポイント2 「コントロールできること、できないことを、分けて考える」

 『スプラトゥーン2』は、「鬼ごっこ」と「かくれんぼ」を合体させたようなゲームである。

 ペンキを相手に当てれば倒せるが、射程距離がないので、自ずと追いかけっこになる。自分の武器の射程を考えて立ち回ることで、有利に相対することができる。また、ペンキを塗ったところはイカに変身することで「隠れる」ことができる。ここぞというポイントで隠れては撃つことで、自チームを有利にすることができる。あるいは、「やられた!」「ナイス!」など、仲間に合図を送ることができる。

 だが、自分にできることはそれまでだ。

 その武器を持っているなら、サポートして欲しいと思っても、その人がどう動くのか、自分にはどうしようもできない。いま、この状況で、「こうすべき!」ことが分かっていても、自チームに伝える術がない。もっと言うなら、どんなチームになるかは選べない。「どうしてこうしてくれないの?」「なんでそこで突っ込む!?」「使えねーこいつらwww」と自チームを罵っても始まらない。そうではなく、想像力を働かせて「その状況で自分に何ができるか?」を常に考えながらプレイすると、自然と、勝ちにつながる(ような気がする)。

 イチローの名言を思い出す。「自分がコントロールできることを、コントロールできないことを、分ける。コントロールできないことは放っておいて、コントロールできることに集中する」というやつ。あたりまえなのだが、チーム編成、相手の動き、自チームの動きは、コントロールできない。コントロールできないことに気に病んでも仕方ない。何のためにプレイする? 勝ちを目指すため! なら、コントロールできることに集中しよう。

 スヌーピーの名言でもいい。「配られたカードで勝負するしかない、それがどうゆう意味であれ(You play with the cards you’re dealt …whatever that means.)」というやつ。チームメイトに恵まれない状況のときは、これを思い出している。そこで全力を尽くすほかはない。

■ポイント3 「先達はあらまほしきことなり」

 『スプラトゥーン2』は「実践で学べ」というスタンスだが、何事にも”コツ”というものがある。武器とマップの相性とか、敵のランク配分に応じた立ち回りかたとか、もっと単純に言うと「この場所を塗っておくと、後で楽に攻められる」といった豆知識まで。

 もちろん、自分の経験を通じて、そうした知恵を学ぶことができる。だが、そのためにはそれなりの時間や労力を必要とする。そんな努力は無駄ではないが、もうちょっと効率よく進めることができるはずだ。でもそれは、「もうちょっと効率よく進めた後」でしか知ることができない。即ち、通り過ぎた後で、「ああしておけばよかった」というもの。後悔先に立たずとは、言葉の定義からして免れぬもの。

 ではどうするか? 先達に学ぶのだ。

 自分よりも少し上の人とフレンドになって(ゲームの中でつながりをもって)、その人と一緒にプレイをする。すると、そのプレイスタイルから学ぶことができるのだ。もっと言うと、リアルでも話し合えるといい。子どもに聞くと、「スプラの会」を作って、休み時間や放課後に攻略談義をしているようである。我が家では「ゲームは2日に1時間」というルールがあるため、実ゲーム時間は少ない。だが、ランクが上の人(先達)に立ち回りかたを聞くことで上達している。

 さらに、上手い人と一緒にプレイすることで、「引き上げて」くれることになる。わたしよりも遥かに少ないプレイ時間で、わたしよりも遥かにランクを上回っているのは、そのせいだ。この経験は、『モンスターハンター4』でしたことがある。上手い人と一緒にやっていると、自分も上達する。

これは、仕事をするチームでも一緒だ。優秀な人と一緒に仕事をしていると、自分も優秀になる。700年前に「先輩の言うことを聞くと、効率よく攻略できる」といったのは兼好法師。『スプラトゥーン2』においても、彼は正しい。

 というわけで、先達の皆さま、どうかわたしを導いてやってくださいまし。

フレンドコード : SW-3436-3723-4801

 休日早朝とかに出没中(普段は嫁様がマスターモードに精を出しているため)。

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『神は数学者か』はスゴ本

 九九の9の段を眺めていて、ささやかな「発見」をしたことがある。一の位と十の位の数を足すと9になる。九九に限らず、9の倍数の各桁の数の合計は、必ず9になるのだ。

 9,18,27,36,45,54,63,72,81,90,99,108,……

 気づいたときには驚いたが、何のことはない。

 「9の倍数」とは、「9を加えた数」のこと。そして「9を加える」ことは、「10を加えて1を引く」、つまり「上の桁の数に1を加え、元の桁の数から1を引く」操作にほかならない。元の数が9から始まるから、「上の桁の数に1を加え、元の桁の数から1を引く」操作を繰り返しても各桁の合計は「9+1-1」になる。これは、9という数が、桁上がりする一つ手前の数という性質を持つから。2進数なら1、16進数ならF、n進数ならn-1に割り当てられた数が相当する。

 一方、たまたま数え方が10進数だから、9の性質がそうなっているとも言える。なぜ10進数なのか? それは、数を数える必要に迫られたとき、ヒトは指を折って数えたからではないか。一つの指に、一つの対象を対応づける。ヒトは、10進数を「発明」したといえる。

 同様に、一周の角度が360度であることも「発明」されたのではないかと考えたことがある。暦日なんてなかった時代から、季節が一巡する期間が何日かかるか数えられ、それに対し、最も約数が多い360という値が約束として決められたのではないか。従って1年が686日である火星で発達した知性の場合、一周の角度は680度になるのだろうか。

 ここで、数学の根源的な疑問が出てくる。すなわち、数学とは「発見」されたものか、それとも「発明」されたものかという疑問だ。『神は数学者か』という刺激的なタイトルの本書は、この疑問に対し、数学と科学の歴史を振り返りながら、慎重に答えようとする。

 まず、数学は「発見」されるものという立場から。人は世界を観察し、そこから一定の規則を見いだしてきた。抽象化された規則を記述するための言語が、「数学」である。惑星の運動に関するケプラーの法則や、ニュートンの力学方程式は、物体の運動を正確に示すことができる。人類の身長と体重、株式指数の年間利益率も正規分布に従う。世界の諸現象に対し、不条理なほど超越的にあてはまるのが、数学なのである。

 さらに、数学に対しプラトンのイデア論を挙げたり、「神は数学する」「宇宙とは数学そのものだ」と結論づける論者も登場する。こうした人々にとって、数学とはミケランジェロの「大理石の中のヴィーナス」や漱石の「仁王像を彫る運慶」のようなものかもしれない。数学は不変かつ究極的な存在であり、それは大理石という世界の中に埋まっている「美」ともいえるだろう。

 次に、数学は「発明」されたものとする考え方。非ユークリッド幾何学が誕生する経緯が象徴的だ。きっかけは、ユークリッドの第5公理を他の公理に置き換えるための試みだったという。第5公理とは、「一本の直線とその直線上以外の一点が与えられたとき、その直線と並行でその点を通る直線が一点だけ引ける」というもので、直観的で自明に見える。

 しかし、その試みがことごとく失敗したため、幾何学者は面白い発想の転換を行う。「もし、第5公理が成り立たないとしたら?」そして、公理の「正しさ」を疑い始め、別の公理体系を考え始める。空間を記述する数学として、ユークリッド幾何学が唯一でないことに気づき、「非ユークリッド幾何学」を構築してしまう。

 そこでは、自明と考えられていた三角形の内角の和が180度にならない世界が広がっている。たとえば、ボールの表面では三角形の内角の和は180度を越え、鞍状の面の上では180度以下になる。しかし、こうした別の公理体系を用いても、ユークリッド幾何学と同じくらい正確に物理的空間を記述することができるのだ。

 世界を記述する唯一で必然の体系が、「ルールの一つ」だと認識されると、数学は、様々なルールを「選ぶ」ことで演繹体系を作り上げるというゲームのようなものになる。かつて、ユークリッド幾何学は自然界そのものだった。しかし、別のルール(公理)を選ぶことで別の幾何学を構築できるというのであれば、数学は世界から見つけ出すものではなく、人が決めた約束事にすぎなくなる。

 すなわち、数学は、ア・プリオリな直観でも実験的な事実でもなく、人の想像力が作り出した巧妙な発明なのだ。もし「神は数学する」とすれば、神はどの数学を選んだのか? と反問できる。

 さらに、マイケル・アティヤやジョージ・レイコフを引きながら、人が物質世界の要素を理想化・抽象化することで、数学を構築したという主張を紹介する。

 たとえば、「2」という数の抽象的な概念は、人が、2つの手、2つの目、2つの乳房を見続けるうちに生み出されたというのだ。「数を数える」という行為は自然なものに見える。「自然」数("natural" number)なんて、原始的な概念に思える。

 だが、知能を持つのが手、目、乳房を持つヒトでなく、深海に棲む孤独なクラゲだとしたら? 周囲にあるのは水で、個々の物体を相手にする機会はない。クラゲにとって、基本的な知覚データは運動、温度、圧力だけになる。このような純粋な連続体のなかでは、不連続な量は発生しないので、数えるものは何もない。

 つまり、「数を数える」という行為は、不連続な量が発生する世界に身体を持つ存在にとって「自然」な行為なのである。「人は数学をどのように理解しているのか」に着眼すると、ヒトが世界をどのように理解しているかが見えてくる。これを認知科学のアプローチから追求したレイコフ&ヌーニェス『数学の認知科学』[レビュー]である。

 数学そのものは抽象的で厳密だが、これを理解する人は具体的で経験的な存在だ。その間にあるのがメタファーであり、それは感覚-運動経験から推論様式を用いて取り込まれるという。そして、数学の厳密さの領域の外にある「人の抱く数学的概念」は、このメタファーを調べることで明らかになると仮説づける。

 では、結局のところ、数学とはヒトが「発明」した精巧なゲームなのか? 火星の知性では一周が680度になり、深海の知性では「自然数」という概念が発達しないのだろうか?

 著者は結論づける。数学は発見か、発明かという疑問は愚問だという。すなわち、わたしたちの数学は発明と発見の組み合わせだというのだ。

 ユークリッド幾何学の公理は、チェスのルールと同じように、概念としてみれば発明である。そして、三角形や円、黄金比など、発明された数々の概念が公理を補っている。一方、ユークリッド幾何学の定理は発見であり、発見はさまざまな概念を結び付ける道筋になる。つまり、概念は発明であり、概念から導かれ・概念どう結びつける定理は発見だというのだ。素数いう概念は発明だが、素数にまつわるあらゆる定理は発見であるという主張である。

 そう考えると、数学と実存を結ぶ新たな視点が得られる。ニュートンは微積分を発明したし、現代の数学者はひも理論の研究過程でトポロジーや幾何学のさまざまなアイデアを生み出しているといえる。あるいは、現在の研究を進めるにあたり都合の良い数学的形式を気づく(発見する)ケースもある。アインシュタインはリーマン幾何学を利用することに気付いたし、素粒子物理学は群論を応用することに気付いた。数学を、実存の究極の記述体系として崇めるのも誤りだし、数学を体系的なゲームとして扱うのも不毛である。

 「発見」か「発明」か? という問いかけは、自然科学(特に物理学)に向けられるべきかもしれぬ。科学の研究において、世界をモデル化する際に便利な言語として数学を選択的に用いていることに、もっと自覚的になるべきだろう。微積分や確率・統計、幾何学といった数学的ツールは、適当に選ばれたのではなく、実験や観測の結果をモデリングできるよう、試行錯誤を重ね、意図的に選ばれている(数を数える際には「自然数」を使い、水滴を用いないだろう、クラゲでもない限り)。その「発見」と「発明」の取捨選択の歴史こそが、科学の歴史なのだ。

 だから、自然科学(特に物理学)が数学的に「正しい」(その時代・その世界のヒトにとって正しい)のは、あたりまえのことかもしれぬ。ある意味、科学者たちは数学で解決できそう問題を選び出し、研究してきたのだから。そして、知りえない世界を発見するために、新たな数学を発明していくのだから。

 数学とは何か? という問いについて、一冊で知りたいのであれば、本書を推す。数学と科学の本質を考える一冊。

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『虚数の情緒』はスゴ本

Kyosuu

 一言なら鈍器。二言なら前代未聞の独学書。中学の数学レベルから、電卓を片手に、虚数を軸として世界をどこまで知ることができるかを追求した一冊。

 「スゴ本」とは凄い本のこと。知識や見解のみならず、思考や人生をアップデートするような凄い本を指す。ページは1000を超え、重さは1kgを超え、中味は数学物理学文学哲学野球と多岐に渡る。中高生のとき出合っていたら、間違いなく人生を変えるスゴ本になっていただろう。

 ざっと見渡しても、自然数、整数、小数、有理数と無理数、無理数、素数、虚数、複素数、三角関数、指数、関数と方程式、確率、微分と積分、オイラーの公式、力学、振動、電磁気学、サイクロイド、フーリエ級数、フーコーの振り子、波動方程式、マックスウェルの方程式、シュレーディンガー方程式、相対性理論、量子力学、場の量子論を展開し、文学、音楽、天文学、哲学、野球に応用する、膨大な知識と情熱が、みっちり詰め込まれている。

 それも、教科書的な解説とは180度ちがう。日本の知力と品性を憂い、勉学の喜びを熱く語り、あらゆることに疑問を持ち、学び考えよと説く。「本書を疑い、自分自身を疑え」とまで言い切る。大上段な振りかぶりと、時折はさむオヤジギャグが鼻につくが、これほどエネルギッシュな独学書は初めてだ。

 最初の動機付けとして何ページも費やし、なぜ勉強するのか、いかに勉強するのかを力説する様に触れているうち、よっしゃこの1000ページ、踏破してやろうじゃないのとヤル気になってくる。

 最もユニークなのは、「電卓を使え」と言うところ。中学生なら手計算を重視するという考えこそが有害で、電卓を駆使せよと命じてくる。単純計算でできる部分は電卓に任せ、手を使わなければならないところでは手を使えという。

 その理由は序盤ですぐに分かる。ピタゴラスの定理を扱うにあたり、無理数を電卓で計算させてくる。当然、普通の電卓では桁落ちが生じる。ここが重要だ。電卓に任せられる有効数字と、その先を知る必要があるのなら容赦なく手を使わせる。つまり、どこまで知りたいかによって、電卓で済ませるか、式変形で桁落ちを回避するか、戦略が生じてくる。その見極めがもの凄く上手い。

 そうやって電卓を叩いて表を作り、手計算で項をまとめ式変形をする。そんな実際的な計算を続けていくうち、虚数という存在や輪郭が、次第次第に明瞭なものとなり、手で触れるぐらいの近しいものとなってくるという仕掛け。数学と天文学と物理学の歴史を振り返りながら、人類が世界をどのように抽象化していったかを、きわめて具体的な計算によって炙り出す。それが、本書の狙いなのだ。

 ど真ん中が圧巻だ。全数学の合流点として、自然対数eの虚数乗を求め、虚数単位を指数で表す。虚数の虚数乗を求め、幾何学との関係を探り、三角関数を経てオイラーの公式につなげる。人類の至宝とも呼ばれるオイラーの公式eiπ=-1を、電卓で捻じ伏せるところなんて凄まじい。本書のクライマックスといってもいい。

 類がないユニークさと、具体性と面白さを兼ねている一方、疑問点も沸いてくる。

 たとえば厳密さ。式や計算について厳密さを求める一方で、自論の粗に気づかない。数学と文学が混交するテーマとして、「言葉はどれくらい存在するのか」という問題を取り上げる。言葉を文字数で分解し、それぞれ階乗との関係から調べてゆく。いろは歌が48文字だから、全ての言葉の数は次の合計となるという。

 1文字の場合 48語
 2文字の場合 48*47語
 3文字の場合 48*47*46語
 ……

 あれ? 「い」一つとっても、井、胃、異と大量にあるが、同音異義語を一つに丸めているのがいただけない。さらに、1語は1回限りの制限をかけ、濁音、拗音、撥音を無視している。数学的には厳密さを追求する代わりに、日本語への雑さが目立つ。遊びとしては面白いが、意味がなく、中途半端感だけが残される。

 あるいは、数学や物理学の実在性について。振り子やサイクロイドの振動から得られるデータを元に計算を重ねると、そこにπやiが登場する。その不思議さには、もう驚かない。なぜなら、円や方程式を扱い計算を重ね、一定の式に収束させる以上、円や虚数解を示すための何か(=πやiなどの記号)が必要だから。

 したがって、様々な物理現象を計算させ、どこかで見たことのある式が浮かび上がってきても、それは既に分かっていることの確かめ算にすぎない。物理学の本質は、観測対象のモデル化である。数学はそのモデリング言語である。

 だから、「観測できる」「計算できる」対象を抽出して式変形したものは、その過程が複雑であればあるほど不思議だが、驚きはない。薔薇を「薔薇」という言葉で「薔薇だ」と言っているに過ぎない。薔薇と「薔薇」の間には沢山の言い換えがあったとしても、指しているものは人に把握できる範疇のモデルなのだから。

 世界に対して人が把握できるものを選択し、観測し、形式化したもののうち、再現性のあり有用な(技術に活用できる・他のモデルと合併できる・過去のモデルを包含している)モデルが、物理学なのだ。つまり、物理学と数学への理解を深めることが、「人が分かることのできる世界」を拡張することになる。

 そんな自問自答を抱えながら、1000ページを駆け抜ける。実をいうと、後半はほとんど理解できていない。「電卓を叩け」と言っているが、痛勤員電車では無理というもの。計算結果がそうなるのかと確認する程度で、ヘトヘトになりながら、かろうじて最後までたどり着いたといったところ。

 たとえば、「光は波か粒子か」といった問いが出てくる。著者は、複素ベクトルを用いて波動方程式を説明し、ヤングの実験で示された結果を、波のベクトルとして式にする。本書をきちんと理解しながら読み、電卓を叩き、手を動かしてきた者であれば、難なく分かるだろう。だが、手を動かすのをさぼったわたしには、どこかで聞きかじった知識レベルでとどまっている。

 だから時を措いて再読しよう。試験もレポートもない。知はいつでも待っていてくれるのだから。

 最後に。本書は、404 Blog Not Found の小飼弾さんの[伝われ、i - 書評 - 虚数の情緒]で俄然読む気になり、挑戦と挫折を繰り返し、よしおかさんの[虚数の情緒読了:バーチャル読書会やりたい]でブーストして、ようやく最後まで行けた。小飼さん、よしおかさん、ありがとうございます。こんなすごい本にめぐりあい、知る喜び(と苦しみ?)を味わうことができ、本当に感謝しています。いつかこの本について、いろいろお話を伺いたいです。

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『ゲーデル、エッシャー、バッハの薄い本』が電子書籍で読めます

 知的冒険の書として『ゲーデル、エッシャー、バッハ』という本がある。タイトルが長いので、頭文字をとってGEBとしよう。

 GEBは、ダグラス・ホフスタッターという天才が、知を徹底的に遊んだスゴ本だ。不完全性定理のゲーデル、騙し絵のエッシャー、音楽の父バッハの世界を、「自己言及」のメタファーで縫い合わせ、数学、アート、音楽、禅、人工知能、認知科学、言語学、分子生物学を横断しつつ、科学と哲学と芸術のエンターテイメントに昇華させている。
 知的興奮に満ち溢れた一冊であり、わたしも大いにお薦めしているのだが、一言で言うと、こいつは鈍器である。700頁を超える大著であり、だいたい1kgで、サイズ的には大きめのレンガといったところか。GEBで殴り続けると人は死ぬ。

 この厚いGEBを緩く読もうという読書会があり(ゆるゆるゲーデル、エッシャー、バッハ、略してゆるげぶ)、ゆるーくやっている。ゆるーくやっている割には、じつにさまざまな人が参加しており、「この本から楽しんでやろう」という熱い思いに満ちており、いくら語っても語り尽くせない面白さにあふれている。主催者の白石さんよしおかさんの記事が楽しそう。

 そんな読書会から出てきたのが『GEBの薄い本』なり。要するにGEBの同人誌やね。

 断っておくが、これはGEBの要約本ではない。天才が知を自在にあやつり楽しんだ600ページの遊び場が、たかだか数十ページの薄い本にまとまるわけがない

 しかし、GEBを手にするものが、いかに知的興奮を刺激し、夢中になり、そして何よりも楽しめるかは、この薄い本を読めば充分に伝わる。なぜGEBが面白いのか、GEBにインスパイアされて何を思い出し、どんな思考がつむぎだされたかが詰まっている。早めぐり、コミカライズ、音楽方面からの再解釈、腐女子のためのBL化、味わいつくすための年表など、薄いわりにバラエティ豊かな同人誌なり。わたしは、GEBへの熱い思いを語ったインタビューと、「GEBの読前・読後にお薦めする本の紹介」で参加させてもらった(先月、アキバの技術書典という同人誌の即売会があったが、開始1時間以内で売り切ったらしい)。

 GEBの薄い本は、「読むとGEBを読んでみたくなり、GEBを読んだらまた読みたくなる」がコンセプトだ。これは、GEBを読む気にさせる(既読者には再読する気にさせる)呼び水のような、エンジンのような本なのだ。

 GEBは、もっと気軽に、楽しく読める。薄い本は、未読の方は情熱を焚きつけるとっかかりとして、既読の方は再読の呼び水として。

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人肉食の名著『カニバリズム論』

 古今東西のカニバリズムを取り上げ、縦横無尽に語りあかした名著。めちゃくちゃ面白い。

 メデューズ号の筏から始まり、ひかりごけ事件、韓非子や水滸伝などの中国古典、魯迅、フレイザー、ゴヤ、バタイユ、スウィフト、サド、谷崎潤一郎、夢野久作などを渉猟しつつ、カニバリズムの普遍性を炙り出す。

 そして、人が人を食う行為をタブー視し、絶対悪のように「あちら側のこと」切り離そうとする「良識」を笑い飛ばす。そんなものは絶対的な状況下では糞の役に立たず、むしろ「あちら側のこと」として思考停止することを批判する。猟奇的殺人の動機として、何も言っていないに等しい便利な言葉「心の闇」で評し、「私とは関係ない」と片付けている人には、その欺瞞を暴き立てることになるだろう。

 さらに、カニバリズムからエロティシズムに踏み込んでくる。肉欲の至高の表現は、愛するものを滅ぼし、これを食い尽くすことにありはしないだろうか? と問うてくる。性欲と食欲は重なり合う。上田秋成『雨月物語』の「青頭巾」にある、愛するものの死が信じられず、焼くことも埋めることできず、ぐずぐずしているうちにグズグズとなった腐肉を吸い骨を嘗め、ついには食らい尽くす様を引いてくる。究極の愛は、相手を食べることと、自分を食べてもらうことにあるのかもしれぬ(これは円城塔の完全なるジャパニーズ・ホラー訳で読んでほしい)。

 名著の特徴として、読めば読むほど、それまでに読んできた本が思い出される「引き出し」「のりしろ」があるが、本書もそう。カニバリズムとエロティシズムの関係は、赤坂憲雄『性食考』につながってくる。食べること、セックスすること、殺すことは独立しているのではなく、互いに交わり重なり合っていることを喝破し、古事記と神話、祭りと儀礼、人類学と民俗学と文学を横断しながら、人の欲の深淵を覗き見る、ぞくぞくするほど面白い考察だ[レビュー]

 屍体愛好の件では、ヴィットコップ『ネクロフィリア』が引き出される。屍体にしか性的興奮を覚えず、葬儀に列席しては墓地に通い、屍体を掘り出してきては「その形が分からなくなるまで」愛する男の話だ。どうやって愛し、どんな匂いを放ち、どのように崩れていくかが、観察日記のように綴られている。描写のひとつひとつは強い喚起力に満ちており、慣れない読み手に吐き気を催させるかもしれないが、たどり着いた結論は陳腐だ。すなわち、善や正義なんてものは多数決によって判定される程度問題に過ぎぬ。自分で線を引いて善や正義の側に立つ愚かしさをつきつけられる[レビュー]

 最も非常に興味深いのが、人肉を「食糧」と見るか「料理」と見るかの認識の違いについて。著者は『西遊記』の研究で有名な中国文学の教授であるが故、中国の事例が沢山出てくる。そこでは、人肉は単なる「食糧」としてではなく、「料理」の一形態として登場するというのだ。遭難などの危機的状況で、やむを得ず人肉を口にするのではなく、権力者の美食や薬膳として振舞われる。

 たとえば、陶宗儀の随筆である『輟耕録』を引いてくる。人肉一般は「両足羊」(二本足の羊)と隠語で呼ばれ、女の肉は「不羨羊」(羊よりうまい)、男の肉は「饒把火」(たいまつよりまし)だそうな。さすが、「翼あるものは飛行機以外、四つ足は椅子以外、二本足は両親以外を食べる」文化である。

 さらに、『水滸伝』の十字坡における人肉饅頭が出てくる。十字坡は居酒屋で、その女将は実は母夜叉という魔女で、旅人を殺してはその肉を饅頭にして売っていたという。著者は、人肉をこれほど具体的な食物に次々と料理した中国人の食品芸術を高く評価するが、必然的に『八仙飯店之人肉饅頭』を思い出すことになる。

 これはアンソニー・ウォン主演の映画で、ストーリーもビジュアルも凄まじくえげつない。借金のトラブルが原因で逆上した男が、「八仙飯店」に押し入り一家皆殺しにする。恐ろしいのかここからで、バラバラにした死体から肉を剥ぎ、それで饅頭を作って売り出し、それが非常に美味だということで繁盛してしまうという話。某殺人犯が観ていたとか、子どもの死体の解体シーンがエグいとかで有名な作品で、良い子は絶対に見てはいけない。

 他にも、デヴィッド・マドセン『カニバリストの告白』や、クライヴ・バーカー『ミッドナイト・ミート・トレイン』、ジャック・ケッチャム『オフシーズン』『襲撃者の夜』、岩明均『寄生獣』、『ネクロマンティック』(映画)などが次々と出てくる。『カニバリズム論』そのものは40年前の著作だが、そこで指摘される性と食の交わりは、全くといっていいほど古びていない。

 食べることは愛することであり、愛することは食べることなのである。

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服が脱げない、400億の負債、アポロ13号、宇宙消失……「トラブル」がテーマの読書会

 お薦め本を持ちよって、まったり熱く語りあう読書会、それが「スゴ本オフ」。読書会といっても「本」に限定せず、映画や音楽、ゲームなんでもあり(詳しくはfacebook[スゴ本オフ])。

01

 今回のテーマは「トラブル」。いざこざ、厄介、事故といった個人レベルから、騒動、戦争、厄災など国家・人類存亡レベルまで、実にさまざまなトラブルがある。本や映画は、常に1つ以上のトラブルを扱っており、何もトラブルが起きないという作品のほうが珍しい。そんな背景が映りこんだ、実にさまざまなトラブルが集まった。

02

 そんな中、3人が被ったのは、『最悪の事故が起こるまで人は何をしていたのか』になる(わたしも持ってきた)。いわゆる「失敗学」の名著。スリーマイル原発事故、チャレンジャー号の事故、タコマ橋の設計エラーといったトラブルが、どのような原因が積み重なり、どうやって見過ごされてきたかを丹念にレポートしている。往々にして人的要因に帰せられがちだが、本書ではもっと多角的に、業務設計からのエラーや、オペレーションフローのインシデント、さらには組織論にまで踏み込む。何らかの判断を迫られる立場にいると、身に詰まされる一冊。

 天国で見た地獄というキャッチがぴったりなトラブルは、ラリーさんお薦めの『地獄のドバイ』になる。ドバイの景気が良かった時代、30男が脱サラして、ひとヤマ当てようとしたのだが……そこで見た地獄のドバイのドキュメンタリー。景気が良いのは最初だけ、紆余曲折の末、肥料工場で日給3000円の最下層労働者として働くことになる。しかも会社が潰れて、ビザがきれ、身ぐるみ剥がされ留置所にぶちこまれる。鼻持ちならないオイルマネー成金と、ホモセクシャルに支配された国らしい。隣り合っているようで、決して重ならない世界は、ドバイに限った話ではないのだろう。

 地獄といえば、はるかちゃんがアニメ『地獄少女』を推してくる。いじめや人間関係のトラブルに対し、晴らせぬ恨みを引き受けて成敗する仕置き人の話。「貴方の怨み晴らします」という惹句に、依頼人が、それぞれの苦悩を「仕返し」という形で果たそうとする。重要なのは、最初は深刻なトラブルでもないにもかかわらず、悪いほう悪いほうに転がり、最悪の結末となる。依頼人も安全ではなく、むしろ「人を呪わ穴二つ」そのもの。一つは仕返し相手の、もう一つは依頼人の墓穴である。ちゃお『ショコラの魔法』を思い出す。

03

 「最悪のトラブル」としての、アドルフ・ヒトラー。ヒトラーがいなければ、あの戦争はなかったのか? 全てをヒトラーのせいにすることで、思考停止に陥っていないか? いわゆる「通説」に挑戦して激しい論争を巻き起こしたのが、シゲさんが持ってきた『第二次世界大戦の起源』。ヒトラーを「機会主義者」と評価し、開戦に到るプロセスを分析し好著とのこと。当時の欧州における多国間調整システム(ヴェルサイユ体制)の機能不全に着目し、これこそが、機会主義者としてのヒトラーの野心を刺激し、大戦へと繋がったと述べている。著者はこれで大バッシングを受け、大学をこ追われることになったという。これは読む。

 わたしが推したのは、『百年の愚行』。ありとあらゆるトラブル……戦争、弾圧、差別、暴力、貧困、環境破壊、核兵器……人間の愚かさと狂気が、圧倒的に迫ってくる。奇形化した魚、エイズの子、鮮やかなガス室、貧困の究極形、人類が成してきた悪行とツケ100年分は、絶句するほかない。人類が滅びるとするならば、その原因が写っている写真集である。読むと確実に気分が悪くなるが、必読やね。

04

 微笑ましいものからえげつないものまで、世界はトラブルに満ちており、トラブルに介したとき、人間性が露になる。積本が益々増えるオフでしたな。

 次回のテーマは「詩」。歌や唄に読み替えてもいいし、俳句や短歌、川柳狂歌、ソネットや律詩を追ってもいい。さらに、小説や映画から惹かれた一句を抜き出すのもあり。好きな箴言集や名言集を紹介するのもいいかも。

 一つ条件があって、「この一言が刺さった」というのを抜き出して、紙に書いていただきます(そしてそれを貼りだします)。以前やった「決めの一行」みたいな形。

 途中参加・退出OK、「見るだけ」参加歓迎。最新情報は、facebook[スゴ本オフ]をチェックしてくださいませ。

◆フィクション
『20世紀の幽霊たち』ジョー・ヒル(小学館文庫)
『ゲームの王国』小川 哲(早川書房)
『すべてがFになる』森博嗣(講談社)
『その犬の歩むところ』ボストン・テラン(文春文庫)
『宇宙消失』グレッグ・イーガン(創元SF文庫)
『吉祥天女』吉田 秋生(小学館)
『光』三浦しおん(集英社文庫)
『砂の女』安部公房(新潮社)
『最後の医者は桜を見上げて君を想う』二宮敦人(TO文庫)
『死のドライブ』ピーター・ヘイニング編(文春文庫)
『死神の浮力』伊坂幸太郎(文藝春秋)
『深夜プラスワン』ギャビン・ライアル
『水域』漆原友紀(講談社)
『毒見師イレーナ』マリア・V スナイダー(ハーパーBOOKS)
『平浦ファミリズム』遍 柳一(ガガガ文庫)
『羣青』中村 珍(小学館)
『もうぬげない』ヨシタケ シンスケ(ブロンズ新社)
『万次郎さんとすいか』ぶん・本田いづみ え・北村人(福音館書店)
『パンダ銭湯』tuoera tupera(絵本館)

◆ノンフィクション
『30歳で400億の負債を抱えた僕が、もう一度、起業を決意した理由』杉本宏之(ダイアモンド社)
『アポロ13号 奇跡の生還』立花隆(新潮文庫)
『哀しみを生きる力に』入江杏(岩波ジュニア新書)
『最悪の事故が起こるまで人は何をしていたのか』ジェームズ・R. チャイルズ(草思社文庫)
『新人OL、つぶれかけた会社をまかされる』佐藤義典(青春新書)
『人を襲うクマ』羽根田治(山と溪谷社)
『人民は弱し 官吏は強し』 星 新一 (新潮文庫)
『生き残る判断 生き残れる行動』アマンダ・リプリー
『戦火と混迷の日々』近藤紘一(文春文庫)
『百年の愚行』池澤 夏樹、フリーマン・ダイソン等(Think the Earthプロジェクト)
『続・百年の愚行』小崎 哲哉(Think the Earthプロジェクト)
『第三帝国の興亡』ウィリアム・L. シャイラー(東京創元社)
『第二次世界大戦の起源』A・J・P・テイラー(講談社学術文庫)
『地獄のドバイ―高級リゾート地で見た悪夢―』峰山政宏(彩図社)
『電撃戦』レン デイトン(ハヤカワNF)
『南アルプス山岳救助隊K-9 レスキュードッグ・ストーリーズ』 樋口明雄(山と渓谷社 )
『未知との遭遇』佐々木 敦(筑摩書房)
『夜と霧』ヴィクトール・フランクル(みすず書房)

◆映画・音楽・アニメなど
『ハングオーバー!』トッド・フィリップス監督(映画)
『Road to Revolution』LINKIN PARK
『地獄少女』わたなべひろし監督(TVアニメ)
『ダンケルク』クリストファー・ノーラン監督(映画)

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