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食う寝る殺す『性食考』

 食べること、セックスすること、殺すこと。これらは独立しているのではなく、互いに交わり重なり合っている。「食べちゃいたいほど、愛してる」という台詞を起点に、古事記と神話、祭りと儀礼、人類学と民俗学と文学を横断しながら、人の欲の深淵を覗き見る。ぞくぞくするほど面白い。

 著者は民俗学者。引き出しを沢山もっており、バタイユやレヴィ=ストロース、デズモンド・モリスや柳田國男などを次々と引きながら、性と食にまつわるさまざまな観点を示してくれる。おかげで、わたしの引き出しも次々と開かれることとなり、読めば読むほど思い出す読書と相成った。

 たとえば、入口の「食べちゃいたいほど、愛してる」は、センダック『かいじゅうたちのいるところ』から引いてくる。いたずら小僧のマックスが、罰として寝室へ追いやられるところから始まる夢と空想と「かいじゅうたち」の物語。その愛のメッセージを引いてくる。

「おねがい、いかないで。
おれたちは たべちゃいたいほど おまえが すきなんだ。
たべてやるから いかないで。」

 そして、食と愛が、実に近しいところにあることを示す。たとえば、人間行動学の『マンウォッチング』にある、食べるための唇とシンボルとしての唇の話である。つまりこうだ。直立歩行するヒトにとって、雌が成熟し発情しているかどうかを示すディスプレイ部位が、お尻や陰唇から、おっぱいや唇に成り代わったという話だ。甘噛みにも示されるように、愛情表現のキスとは、摂食行為の代替なのだ。

 さらに、古代中国の伝説を集めた『捜神記』から、ペニスをむさぼり喰らう、もう一つの秘められた口の話を引いてくる。陰部が首や腹、背中など、本来と異なる場所にある女が出現すると、天下が乱れる兆しとされるそうな。いわゆる有歯女陰(ヴァギナ・デンタタ)の伝説は、古代中国に限らず、世界中にその例を見ることができるという。

 また、イェンゼン『殺された女神』から、世界各地の食物起源神話が、ある種のパターンに則っていることを指摘する。ハイヌウェレという神話である。ハイヌウェレという少女は、様々な宝物を大便として排出することができた。村人たちは気味悪がって彼女を埋め殺してしまうのだが、その死体からさまざまな種類の芋が育ち、人々の主食になったという話だ。東南アジア、オセアニア、南北アメリカ大陸に流布している神話で、日本や中国にも類似の話がある(画像はwikipedia[ハイヌウェレ型神話]より)。

XRF-Hainuwele
By Xavier Romero-Frias (Own work) [CC BY-SA 3.0], via Wikimedia Commons

 「女に飢える」や「性欲の渇き」という言葉や、愛の行為としての「甘噛み」、そしてキスなど、食べることと愛することは、重なり合っている。レヴィ=ストロースは「狂牛病の教訓」のなかで、世界のすべての言語がセックスを摂食行為になぞらえている、と書いていたという。やっていることは即ち、肉を喰らう肉であるため、文化を問わずそういう隠喩をまとうのだろう。

 種の保存行為としての食と性は、わたしたちの視床下部に隣り合っているだけでなく、文化の中にも、驚くほど交わりあっているのだ。

 最初に書いたように、これ読んでいると、さまざまな過去のスゴ本が浮上してきて困った。ここでは、エログロの無いものを選んでご紹介しよう。

 まずフレイザー『金枝篇』[レビュー]。人類学・民俗学・神話学・宗教学の基本書であり、世界中の魔術・呪術、タブー、慣習、迷信が集められている。「食と性」に関するものなら、植物と人との間にある、「種をまく」という相似性を慣習化したものが紹介されている。すなわち、種をまいた畑に若い夫婦たちが転げまわり、性交するという慣習が、ウクライナや中央アメリカにあったという。また、神を食う儀式として、ギリシアの穀物の女神デメテルとペルセポネが紹介される。穀物神は人の姿で表わされ、その姿のまま殺され、聖餐として食べられてしまう。すなわち、人の形をした聖なる食べ物なのだ。

 みだらで、せつなくて、うまそうな短編集『飲食男女』[レビュー]を読むと、食べることは、そのまま色っぽいことが分かる。少年時代の甘酸っぱさは「ジャム」に注がれるレモン汁に象徴され、性春のひたむきな欲情は、「腐った桃」の、ゾッとするくらい甘い匂いに代替され、酸いも甘いもかぎわけた行く末は、「おでん」の旨みに引き寄せられる。同時に、イチゴジャムに喩えられた血潮の鮮烈なイメージや、山茱萸にべっとり濡れた唇が「あたし、いまオシッコしてるんだ」とつぶやく様は、いつまでも読み手につきまとって離れないだろう。

 花とはセックスそのものだと喝破した澁澤龍彦も外せない。花弁、雄蕊・雌蕊といった部位は性器そのものだし、人によって見る/見られるために利用されることも然り。『エロティシズム』が有名だが、ここでは、「性」に加えて「食」も入るため、『フローラ逍遙』を紹介したい。水仙や椿、薔薇やコスモスなど、オールカラーの植物画とともに綴られる博物誌には、花から「性」、種や球根から「食」が喚起される。クロッカスの茎をファロスに、球根を睾丸に見立てる技はさすが。そもそも蘭のギリシャ語オルキスは睾丸の意味だと知ったのも本書なり。

 『性食考』では、マクロイのSF『歌うダイアモンド』が紹介されている。「食」と「性」が完全に入れ替わった世界に、強烈な男性批判が込められた短編「ところかわれば」である。わたしは未読だったが、あらすじの紹介で、藤子不二雄の短編「食欲と性欲」を思い出した(『気楽に殺ろうよ』所収)。人前で食事をするのがタブーとなり、反対にオープンな性行為が普通となった世界の話だ(ひょっとすると、マクロイから拝借したのかも)。食も性も、その周辺には文化と野性があいまいに重なりあい、タブーと聖なるものが生まれ出る場になることが分かる。

 人の視座から考察した『性食考』とは異なり、動物の観点から捉えたのが、写真集『死を食べる』になる[レビュー]。たとえば、キタキツネの死骸。冷たくなったキツネの体からダニが離れ→ハエが卵を産みつけ→ウジがわく。肉食の昆虫(スズメバチ)もやってくる。食い尽くされた後は、土に還る。屋外にうち捨てられた女の死体が朽ちていく経過を九段階にわけて描いた仏教絵画『九相図』の動物バージョンだ。『九相図』と決定的に異なるのは、『死を食べる』を最後まで見ていると、「あらゆる生きものは、死を食べることで、生きている」というシンプルな事実が腑に落ちるということ。

 食と性と死から、かくも豊饒な体験を思い出す。「食べること、交わること、殺すこと」を徹底した作品として、エログロ満載な映画『八仙飯店之〇〇饅頭』『ムカデ〇〇』コミック『バージェスの〇〇たち』『ミミ〇リ』等があるが、やめておこう(検索禁止)。いずれにせよ、このテーマを突き詰めると、人とは歩く糞袋にすぎぬというとこに行き着く。

 食と性と死、読めば必ず思い出す、人の欲の深いところを覗いてみてはいかが。

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