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死ぬことよりも怖いこと『ウインドアイ』

 死ぬのはそんなに怖くない。必然だから。せいぜい苦痛は避けたいとか、お別れや身辺整理の時間があればと願うのみ。

 しかし、私が私でなくなるのは怖い。肉体や精神の欠損だけでなく、肉体であれ精神であれ、私の容れ物から「私」が滲み出たりブレだすのは嫌だ。私が私を保ったまま遠ざかり、時間からこぼれ落ちてしまうのが恐ろしい。この離人症的な怖さ、うまく伝えるのは難しい。

 だが、ブライアン・エヴンソンの短編を読むと、嫌というほどよく分かる。そして、分からない方が幸せだったかも……と後悔することになる。前作『遁走状態』[レビュー]は怖かったが、今回も輪をかけて恐ろしい。どちらも甲乙つけがたいが、『遁走状態』→『ウインドアイ』の順に読むが吉かと。

 読み始めてすぐ違和感を感じ、読み進むにしたがって「ざわざわ」が増してゆき、物語の決定的なところで胸騒ぎが本物だったことを思い知る。しかも、予想の斜め上の、もっと嫌な予想外の場所に置き去りにされていることを知る。

 不条理な寓話はとてもカフカ的だが、そこで浮彫りにされるのは物語世界の不条理さではなく、世界の認識の仕方の不条理さである。世界は狂っていないと確信できていたのは、世界と同じくらい自分が狂っていたからであって、現実と乖離しはじめた今、おかしいのは自分か世界か両方なのかと幾度も自問させられるハメになる。結果、読書はすなわち毒書となり、世界が歪んでいくような感覚に抗いながら読まねばならぬ。たびたび「私の気は確かだろうか?」と振り返ることを余儀なくされる。

 哲学畑にお馴染みの「クオリア」ってあるじゃない? 「トマトの赤い感じ」「頭がズキズキ痛む感じ」といった主観的に体験される感覚質のことだ。そして、反応は普通の人と全く同じだけれど、このクオリアを持たない存在を哲学的ゾンビとする話がある。エヴンソンのどの短編にも、このテーマが潜んでいるように見えてならない。

 クオリアそのものの話ではないんだ。そして、恐ろしいのはここからなんだ。哲学的ゾンビの思考実験をする存在は「私」のはずだ。だって主観的とはいえ、「赤の感じ」「痛む感じ」を持っているから。だが、エヴンソンを読んでしまうと、思考実験の主体から客体へ、「私」が滑り落ちてゆくことが分かる。すなわち、私が私の「赤の感じ」「痛む感じ」に確信が持てなくなってしまう。現実とのチューニングが合わなくなるにつれ、あるはずの感覚質から「私」が零れ落ちてしまうのだ(死ぬことよりも、怖いでしょ?)。

 試しに読むなら、「ウインドアイ」「二番目の少年」「食い違い」あたりはいかが。25編もあるので、枕頭において毎晩お布団で一編ずつ読むのが効果的。きっと何らかの喪失感を抱き情緒不安定になりながら眠りにつくだろう。毎晩の悪夢を請け合う。

 わざわざ悪夢をみたいかって? そりゃ違うよ。覚めているときにこれを読むということは、そのまま「私」の現実からの遁走状態になることになるのだから。

 嫌でしょ? 現実が悪夢だったことに気づいてしまうなんて。

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