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科学の面白さ・楽しさを伝える100冊 「科学道100冊」

 科学の面白さ・素晴らしさを届ける企画として、「科学道100冊」が公開されている。これは、科学者の生き方や考え方を伝えるために、100冊の本が選ばれている。

「知りたい!」が未来をつくる科学道100冊

 ミソは「いわゆる理系本」に閉じないところ。もちろん分野ごとの啓蒙書もあるが、「世界の見え方の変遷」を鳥瞰する科学史、センス・オブ・ワンダーを喚起する小説や漫画、知的好奇心を刺激する図鑑など、いろいろ揃えている。

 例えば、ディックの電気羊やパワーズ『オルフェオ』が「科学の本」として並んでいる。これ、選者のメッセージが込められているんだろう誰だろうと見たら、編集工学研究所だった。松岡正剛さんの名前を前面にしてないのは、硬すぎず深すぎずが意図されているのだろう。

 この100冊からいくつか選んでみた。さいきん微生物にハマっているわたしとしては、そっち系を入れて欲しかったが、ないものねだりかも。

* * * * *


『世界はなぜ「ある」のか』

 ジム・ホルト

[レビュー]

 生命、宇宙、そして万物についての究極の疑問について、現代の哲学者、物理学者、神学者、文学者との対話を重ねる知的冒険の書。

 なぜ「何もない」のではなく、「何かがある」のか? この究極の疑問に囚われた哲学者が、各分野の権威と対話を重ね、謎の本質に迫ってゆく。実存哲学、形而上学、量子宇宙論、神仮説、数学的必然性などの分野を渉猟し、ワインバーグやペンローズ、アップダイクといった著名人とのインタビューを通じ、探偵のように「存在の謎」の犯人をあぶりだす(原題は、"An Existential Detective Story" すなわち「実存の探偵物語」)。

 面白いのは、この探偵の真犯人へのアプローチそのもの。形而上学であれ、量子力学であれ、最初は一貫した説明がもたらされるが、探偵役に徹する著者の検証により、無限後退にハマるか、循環論法に陥る。形而上学的な説明に対しては、質量・エネルギー保存則を用いて否定し、量子宇宙論的な説明に対しては、実存主義的メタファーを使って反論する。この仮説検証の過程が、たまらなくスリリングなのだ。


『響きの科学』

 ジョン・パウエル

[レビュー]

 ずっと不思議だった疑問「なぜこの曲に心が震えるのか」が、ようやく解けた一冊。音楽について新しい耳をもたらしてくれる。

 音楽家でもあり物理学者でもある著者は、音楽を科学的に説明するだけでなく、音楽を「芸術」という枠に押し込めていた思い込みを砕く。音楽は物理学を基盤とした工学であり、論理学に則った芸術なのだと主張する。

 音楽が感情を揺さぶるのは、転調に秘密があるという。音階が上がっていくにつれ、その調の最後の部分に「もうすぐ到達」するような感覚が与えられる。「もうすぐ到達」の音がメロディやハーモニーに現れると、到達したいという欲求が生じるため、聴き手は、次の音が主音になるはずだと感じる。

 そう期待させておいて、最後を主音に帰着させると、聴衆を満足させることができる。いっぽう、欲求を喚起させておいて、転調することでいったん裏切り、じらして、満たすことで、より一層気持ちよくなる。フレーズの連なりで期待と満足をゆききするのが、音楽の快楽の源泉なんだと。


『心はすべて数学である』

 津田 一郎

[レビュー]

 心を数学で解く。または数学に現れる心の動きを明かす。心は閉じた数式で書けるものではなく、ゲーデルの不完全性定理やカントル集合など、不可能問題や無限の概念を作っていくプロセスを応用しながら接近していくアプローチが有効だという。

 心は単独で形成されるものではなく、他者や環境とのコミュニケーションによって発達する。「私の心」と「他者の心」という区別は一種の幻想で、相互に影響しあっている以上、離散的なものにならざるを得ないという。

 それでも、何らかの共通的な普遍項があるように見える。その共通項を、「抽象的で普遍的な心」と見なし、それが個々の脳を通して表現されたものが、個々の心だと仮定する。そして、「抽象化された普遍的な心」こそ、数学者が求めているもので、数学という学問体系そのものではないかという考えを示す。この部分は、わたしが数学をやり直す動機に直結する。

 わたしの考えの半分までは合っていたが、その向こうにあるものを、[レビュー]に書いた。そういう化学反応を起こさせる。スゴ本なり。


『フォークの歯はなぜ四本になったか』

 ヘンリー ペトロスキー

[レビュー]

 モノの見方が確実に変わる一冊。

 フォーク、ナイフ、クリップ、ジッパー、プルトップなど、身近な日用品について、「なぜそのカタチを成しているのか」を執拗に追求する。日ごろ、あたりまえに使っているモノが、実は現在のカタチに行き着くまでに途方も無い試行錯誤を経たものだったことに気づかされる。

 いわゆるデザインの定説「形は機能にしたがう(Form Follows Function)」への論駁が面白い。著者にいわせると、「形は失敗にしたがう(Form Follows Failure)」だそうな。もしも形が「機能」で決まるのなら、一度で完全無欠な製品ができてもいいのに、現実はそうなっていない。モノは、先行するモノの欠点(失敗)を改良することによって進化していると説く。これが膨大なエピソードを交えて語られるのだから、面白くないわけがない。

 たとえば目の前のフォーク。そのカタチ・大きさになるまで延々と進化の歴史がある。最初は肉を適当な大きさに切り裂くナイフだけたったそうな。それが、肉が動かないように押さえつけるために、もう一本のナイフを用いるようになる。ただ、ナイフで押さえつけると肉がクルクル回ってしまって不便だ。その結果、又の分かれたモノ「フォーク」が誕生する。

 それなら、フォークは2本歯で足りるはずだが、それが3本になり4本になる過程や、なぜ5本も6本もない理由が面白い。無理なく口に入る幅と当時の冶金技術も相まって、フォークの生い立ちを考えると、モノの歴史は失敗の歴史であることが分かる。


『サイエンス・インポッシブル』

 ミチオ カク

[レビュー]

 SFのタネがぎっしり詰まった、けれども最先端の科学に裏付けられた科学読本。あるいは逆で、最先端科学でもって、SFのハイパーテクノロジーを検証してみせる。比較できない面白さに、かなりのボリュームにもかかわらず、イッキに読まされる。

 本書を面白くしている視点は、「どこが不可能?」というところ。つまり、「それを不可能とみなしているのはどの技術上の問題なのか?」という課題に置き換えているのだ。「技術上の課題」にバラしてしまえば、あとはリソースやパトロンの話だったり、量産化に向けたボトルネックの話になる。

 その結果、現在では「不可能」と見なされていながら、数十年から数世紀以後には当たり前になっていておかしくないようなテクノロジーが「課題」つきで紹介されている。しかも、その不可能ぐあいにもレベルがあって、レベル1(数百年以内)、レベル2(数千年)、レベル3(科学体系の書き換え要)と分かれている。

 たとえば、「ハリー・ポッター」の透明マント(invisibility cloak)を「光学迷彩」として実装させる技術や、大質量の恒星が一生を終える時のエネルギーを用いたガンマ線バースター砲、さらには自律的・再生的な超小型無人宇宙船「ナノシップ」などを見ていると、SFネタなのか科学技術の紹介なのか分からなくなる。


『明日、機械がヒトになる』

 海猫沢めろん

 「機械化する人間」と「人間化する機械」の境界を求め、科学と技術の最先端にいる7人にインタビューしたもの。SR(代替現実)、3Dプリンタ、ロボット、人工知能の第一人者の話を聞いていると、そもそも機械とヒトとの間に「境界」なんてないのだとう著者の主張がすんなり入ってくる。

 面白いのは、最新科学を追いかけていくと、いつのまにか実存や知性とは何かといった哲学の話になること。このルートは『人工知能のための哲学塾』でトレースしたことがある。機械とヒトの境界線には、現象学や認識論が横たわっており、エビデンスがあるもの・ないものが目に見える。

 なかでも、「ヒューマン・ビッグデータ」の件が興味深かった。これは、人に加速度センサをつけて大量にデータを集めて分析したら見えてきたもので、「幸福は加速度センサで測れる」というもの。まず、幸せを感じられる能力は遺伝子の影響で半分程度決まっており、残り半分の大部分は、「積極的に行動をしたかどうか」に寄るという。

 つまり、幸せとは結果ではなく行動なんだと。なにそれ面白い! 矢野和男『データの見えざる手』というらしい、これは読みたい。リチャード・パワーズ『幸福の遺伝子』と併読すれば、楽しい化学反応を起こしそうだ。

* * * * *

 以下自分メモ。「科学道100冊」からわたしの課題図書をリストアップしてみる。

・園池公毅『植物の形には意味がある』
・フィリップ・ボール『かたち』『流れ』『枝分かれ』
・畑村洋太郎『図解 失敗学』
・橋本毅彦『ものづくりの科学史』
・ユクスキュル『生命の劇場』

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読み始めたら最後、あなたを絶対寝かせない徹夜小説まとめ

 読み始めたら、徹夜を覚悟する小説がある。

 いきなり心臓をワシ掴みにされたり、直感が大好物だと告げたり、いくらも読まないのに、「これは当たりだ!」と小躍りしたくなる。

 嬉しいことに、この予感は高確率で当たる。だが恐ろしいことに、それは高確率で平日の夜だったりする。ここでは、翌日の寝不足を犠牲にして掘り当てた、「徹夜保証の小説=徹夜小説」を紹介する。

 ただし、2つだけ約束してほしい。ひとつめ、複数巻に渡るものは、全巻そろえてから読み始めること。上巻だけ買えばいいなんて甘く見てると、サクっと読みきってしまい、翌朝まで禁断症状に苦しむことになるだろう。ふたつめ、明日の予定がない夜に読み始めること。さもなくば、寝不足の頭を抱える破目になるだろう。2つとも経験したから言える、読み始めたら最後、絶対寝かせてくれない。だから約束だぞ。

* * * * *



『ガダラの豚』

中島らも

 2ちゃんねらが絶賛してたので、うっかり手にしてしまった。なるほど、「寝る間も惜しんで読みふけった」のはホントだ。

 半信半疑で読みはじめ、とまらなくなる。テーマは超常現象と家族愛。これをアフリカ呪術とマジックと超能力で味付けして、新興宗教の洗脳術、テレビ教の信者、ガチバトルやスプラッタ、エロシーンも盛り込んで、極上のエンターテイメントに仕上げている。中島らも十八番のアル中・ヤク中の「闇」も感覚レベルで垣間見せてくれる。

 エンタメの心地よさといえば、「セカイをつくって、ブッ壊す」カタストロフにある。緻密に積まれた日常が非日常に転換するスピードが速いほど、両者のギャップがあるほど、破壊度が満点なほど、驚き笑って涙する、ビックリ・ドッキリ・スッキリする。この後どうなるんだーと吠えながら頁をめくったり、ガクブルしながら怖くてめくれなくなったり。

 オカルトとサイエンス、両方に軸足を置いて、どっちにも転べるようにしてある(そして、どっちに転がしても「読める」ように仕掛けてある)。ホンモノの呪いなのか、プラセボ合戦なのか、最後まで疑えるし、読み終わっても愉しめる。どっちに倒すのかは、読み手がどっちを信じてるのかに因るのかもしれん。


『シャンタラム』

グレゴリー・デイヴィッド・ロバーツ

 読んでないなら、おめでとう! 中身を知らない、まっさらな状態で、いきなり始めよう。新潮文庫の裏表紙の「あらすじ」すら見るの厳禁な(結構ネタバレしている)。

 要するに、「これより面白いのがあったら教えて欲しい」という傑作だ。寝食惜しんで憑かれたように読みふけり、時を忘れる夢中本(わたしは4回乗り過ごし、2度食事を忘れ、1晩完徹した)。巻措く能わぬ程度じゃなく、手に張り付いて離れない。とにかく先が気になって気になって仕方がない。完全に身を任せて、物語にダイブせよ。

 蛇足を承知で述べるなら、テーマは2つある。ひとつは、「赦すとは何か?」。オーストラリアの刑務所から脱獄して、ボンベイへ逃亡した男が主人公だ。すべて彼の回想で進行する。だからコイツが死ぬことはないだろうと予想しつつ、強烈なリンチシーンや麻薬漬けの場面にたじたじとなる。敵意と憎悪と恥辱にまみれ、痛めつけられた彼が、憎しみと赦しのどちらを選ぶのか?

 そして彼は幾度もまちがえる。行動を過つこともあれば、まちがった理由で正しい選択をすることもある。これがもうひとつのテーマ「人は正しい理由から、まちがったことをする」だ。この復讐と赦しの物語は、世界で一番面白い物語『モンテ・クリスト伯』と同じ。手に汗握る彼(リン・シャンタラム)の運命は、そのままエドモン・ダンテスの苦悩につながる。

 心して読め。


『アラビアの夜の種族』

古川日出男

 とにかく「読め! 絶対に面白いから」としか言えない、抜群の構成力、絶妙な語り口、そして二重底、三重底の物語。

 これは、陰謀と冒険と魔術と戦争と恋と情交と迷宮と血潮と邪教と食通と書痴と閉鎖空間とスタンド使いの話で、千夜一夜物語とハムナプトラとウィザードリィとネバーエンティングストーリーを足して2乗したぐらいの面白さ。そして、最後の、ホントに最後のページを読み終わって――――――驚け!

 ただし、ネットで調べてはいけない。面白い物語を読みたいのなら、予備知識を一切絶って読むべし(まちがいないから)。優れた物語は語りから語り辺へ伝えられる。不死の、自己の永続化。恒久に譚(かた)られて、そして生きる物語として永らえる。そう、まるで、歴史のメタファーのように――身も心もトリコになる物語を、どうぞ。



『大聖堂』

ケン・フォレット

 極上のヒューマンドラマ。まさに「波瀾万丈」そのまんま。

 十二世紀のイングランドを舞台に、大聖堂を立てたいという夢を抱く建築職人と、幾多の人びとが織り成す壮大な物語。読み進むうち、運命のうねりが目に見え手にとれるようで、全身の毛穴が開く。面白いのは、作者が込めたメッセージ「なぜ大聖堂を建てるのか」への呼応だ。

 暗黒の時代、中世。飢饉と餓死と戦争が隣り合わせの中、迷妄と蒙昧と暴力と策略が渦巻いていたとき、なぜ「大聖堂」なんて代物を建てようと考えたか、という問いを抱えながら読むと、主人公の運命と共鳴する読書になる。

 「なぜ大聖堂を建てるのか」―――これを、宗教の視点で切るのはたやすい。なぜなら、主語を「神が」にすれば事足りるから(「全ては神の御心のままに」というやつ)。

 しかし、それ以外の理由を挙げると、それこそ無限に出てくる。権力欲、支配欲、愛欲、性欲、意欲、我欲、禁欲、強欲、財欲、色欲、食欲、邪欲、情欲、大欲、知識欲、貪欲、肉欲……それは、「欲望」だ。

 ありとあらゆる「欲望」を具現化したものが大聖堂だ。神の場と「欲望」、一見矛盾した取り合わせだが、読めば納得する。究極の大聖堂を描く、しかも「大聖堂をなぜ建てるのか?」という疑問に応える形で書こうとすると、とてつもない人間劇場になる。それが本書なのだ。

 私が読んだとき、ラストは電車の中、感動のあまり立っていられなかった。それぐらい打ちのめされる、凄まじい本。



『影武者徳川家康』

隆慶一郎

 映画やドラマであるでしょ? ラストのどんでん返し。最後の最後になって、もろもろの謎を解き、伏線を回収し、かつ、世界を一変させてしまうファイナルストライク。隆慶一郎がすごいのは、これを一行目からやったこと。

 つまりこうだ。徳川家康がどんな人物で、何を成したかは、史実として「確定」している。これを、冒頭でひっくり返して、ひっくり返した前提で、もろもろの謎を解き、伏線を回収し、かつ世界を一変させてしまったから。

 答えはタイトルにある。家康は関ヶ原で殺され、残りの「家康」を影武者が成り代わる。

 ありえない。影武者が主の仕事ができるわけがない。だいたい姿は似ているかもしれないが、風貌は?記憶していることは?家族や家臣の目を誤魔化すことなんてできやしない。突拍子もないなーと進めるうちに……オイちょっと待て!えぇっ!うわっと叫ぶ読書になる。

 最初は替玉バレの脅威をかわしていくのをヒヤヒヤしながら見守って、次第に見えてくる影武者(二郎三郎という)の真の姿に戦慄し、怒涛のごとく襲い掛かる陰謀と暗躍の応酬に振り回される。

 問題は、それら一つ一つが、史実として裏打ちされていること。「家康は関ヶ原で死んだ」という爆弾を破裂させたあと、表では通史どおり。どんな生涯を送ったか、どんな事件が起きたかは、知っての通りに進行する。

 だが、その裏で進行する心理戦と権謀術数は凄まじい。影武者を殺して征夷大将軍ならんとする秀忠の執念には、こっちまで息苦しくなる。孤立無援から、仲間を集め、駆け引きを綱渡り、相手を出し抜く。そこにはしたたかで強靭で、かつ智略に富んだ、戦国生き残りの男がいる。この痛快さと逆転劇に魂を蕩かされる。

 荒唐無稽かというと、違う。「徳川家康」という怪物の、最大の変貌が、関ヶ原にあるという。子どもへの愛情、女の好みなど、齢をとると嗜好は変わるというが、極端すぎる。文字どおり、「人が変わってしまう」のだ。さらに、関ヶ原を境に、謎が出てくる。なぜ征夷大将軍に就任を3年も引き伸ばしたのか。その位を、たった2年で秀忠に譲っているのはなぜか。駿府を大改造し、西のみならず東に対しても難攻不落の地にしたのはなぜか。最大の謎、敵たる豊臣家との和解に努めたのは、なぜか―――著者はその解を、影武者家康の暗闘に求める。

 数百年経過してなお、未だに尻尾をつかませない怪物。隆慶一郎は、膨大な史料を読み込み、この怪物に徹底的に向かい合う。本当の家康をあぶりだそうとする疑義があちこちに挟まれ、立証され、暴かれる。この謎解き家康のプロセスに蕩かされる。

 徳川家康と隆慶一郎、二人の怪物が寝かしてくれない徹夜小説なり。



『ハイペリオン』

ダン・シモンズ

 「読まず嫌い」リストがある。その第一位にあった『ハイペリオン』を読んだとき、読まず嫌いだった自分自身を蹴飛ばしたくなった。

 のめり込むにつれて、面白さと嬉しさとともに、「もっと早く読めばよかった!」という後悔が混ざり合う。評判だけで読んだ気になり、有名すぎるからと天邪鬼になってた自分が馬鹿だった。かつて、ル=グウィン『ゲド戦記』がそうであり、半村良『妖星伝』がそうだった。こんなに面白いものを、ずっと読まずにいたなんて!

 上下巻を一気に読まされる。これ、でっかい容れものを用意して、そこにゆうに長編一本書けるネタを6つ詰め込んで、読者の前にぶちまけてみたという感覚なり。パッケージはSFだけど、SFというジャンルに入れたらもったいない。ホラー、ラブストーリー、ファンタジー、戦争モノ、冒険活劇など、物語のあらゆる「面白い」要素がぎっしりと入っている、いわゆる枠物語だ。ラーメンや丼もので、「全部入り」というのがあるでしょ? あれだ。

 ご馳走ばかり延々と食べ続けていると疲れてくるのだが、これは尻あがり的に面白さが加速する。もちろん序盤も面白いのだが、後へ行けば行くほど止め時を失う。面白い物語を求める全ての人にお薦め。



『ボーン・コレクター』

ジェフリー・ディーヴァー

 読書クラスタには、「屈辱」というゲームがある。各人、メジャーだけど未読の作品を挙げてゆき、既読の人が多ければ多いほど高ポイントになる。「おまえソレ読んでないなんてどんだけ~」と笑われる人が勝ち、というゲームだ。

 みんなに呆れられる一方で、羨ましがられる。なぜなら、絶対に面白いことが分かっているから。SF好きにとっての『ハイペリオン』がそれなら、ミステリ好きにとっては『ボーン・コレクター』になる。睡眠時間と引き換えに、ジェットコースターミステリーを堪能できる。

 あまりに夢中になって、眠くなる前に読み干してしまったが、やめられない止まらない。。わずか数日の間に、次々に起こる誘拐監禁殺人事件を、時間制限つき謎解きアクション濃縮サスペンス全部入りにした作品だから。

 数時間おきに犯行を繰り返すボーン・コレクターと、限られた時間でメッセージを解読し、次の被害者を救わねばならないリンカーン・ライム(しかも四肢麻痺の身体だ)。成り行きで彼の鑑識を手伝う婦警アメリア・サックス。科学捜査の薀蓄やプロファイリング推理戦だけでなく、それぞれの過去や苦悩が絶妙なブレンド比で絡んでくるのは、上手いとしかいいようがない。

 「やめ時」が無い、寝かせてくれない面白さ。徹夜を目指さないなら、休日朝から始めると、めちゃくちゃ充実した読書になるだろう。



『モンテ・クリスト伯』

アレクサンドル・デュマ

 ミステリ、ドラマ、SF、歴史と、間口を広めに紹介してきたが、ここで、世界で一番面白い小説と名高い傑作をお薦めする。筒井康隆が「ひとつだけ選ぶならコレ」という噂を聞きつけて、手を出して、どっぷりガッツリ浸る幸せな読書と相成った。

 ストーリーを一言であらわすなら、究極のメロドラマ。展開のうねりがスゴい、物語の解像度がスゴい、古典はまわりくどいという方はいらっしゃるかもしれないが、伏線の張りがスゴい。てかどれもこれも強烈な前フリだ。伏線の濃淡で物語の転び方がミエミエになるかもしれないが、凡百のミステリを蹴散らすぐらいの効きに唸れ。読み手のハートはがっちりつかまれて振り回されることを請合う。

 みなさん、スジはご存知だろうから省く。が、痛快な展開に喝采を送っているうちに、復讐の絶頂をまたぎ越えてしまったことに気づく。その向こう側に横たわる絶望の深淵を、主人公、モンテ・クリスト伯と一緒になって覗き込むの。そして、「生きるほうが辛い」というのは、どういう感情なのかを思い知る。

 読まずに死んだらもったいない。この記事を、ここまで読んできた全員に、強力にお薦めする。

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 全部で8作品を紹介してきたわけだが、いかがだろうか? 定番中の定番もあるので、既読の方も多いかと。その場合、あなたのお薦めを教えてほしい。「それを徹夜小説なら、コレも鉄板だよ」という「コレ」がどうしても知りたいのだ。

 あなたはそのタイトルを知っており、それは、わたしが知らない凄い本(スゴ本)のはず。徹夜の予感が高確率で当たるように、わたしが知らないスゴ本は、高確率であなたが読んでいるのだから。

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女の子の匂いを再現する

 女の子の匂いをご存知だろうか?

 漂ってくる「匂い」というより、すれ違うときにクる「あの感じ」といったほうがいい。あるいは、部屋に入ったとき、女の子がいる(いた)空気のようなもの。大事なのはカッコ()の中で、視覚的ものではない。「さっきまで女の子がいた部屋」でも分かるし、建物内ならある程度たどるのは可能だ。

 最初は、私の変態的妄想力が産み出した幻臭かと思った。「女の子って、どうしてあんなにいい匂いがするのだろう」と悶々したことがある。が、同志の意見を総合し、私の経験を重ねると、どうやら妄想ではなさそうだ。

 それは、いわゆる「せっけんの香り」だろうか。石鹸そのものに限らず、中高生が滴らせているシャンプーやボディケア香や、デオドラントのメチルフェノール系の匂いなどが相当する。そうした、後付けの合成香料をもって、我々は「女の子の匂い」とみなしているのだろうか。

 たとえば、「ビオレさらさらパウダーシート せっけんの香り」を使ってみたところ、かなりの再現率で「女の子のいい匂い」が味わえる。

ビオレさらさらパウダーシート せっけんの香り」はマジで理想の女の子の匂いがすると聞いて実際買って嗅いでみたんだけど、本当に衝撃的なくらい女の子の匂いだこれ…[togetterより]

 だが、これは刷り込みに過ぎない。かつてキンモクセイの香りでトイレを想起していたように、上書きされた代替記憶なのだ。そうした後付けではなく、もっと内側からくる「匂い」である。

 鋭い人は、排卵日直前のヴァギナの匂いを思い出すかもしれない。バルトリン腺や皮脂腺、アポクリン腺から分泌される粘液のもつ、ココナッツに似た香りだ(と言われるが、私の経験では白桃を想起させる)。これは、『ヴァギナ』はスゴ本【全年齢推奨】で紹介したことがある。

 この匂いが独特であることに、特別な理由があるのではとにらんでいる。つまりこうだ。人類史のほぼ大部分、夜は暗闇だった。今は電気があたりまえになっているが、常夜灯が無かった時代のほうがはるかに長い。暗がりの中、パートナーが女であり成熟していることを確認する術は、匂いだったんじゃないかと妄想する。それに加え、食の嗜好や体質、健康状態は、体臭に表れるものもある。すなわち、闇の中でパートナーを嗅ぎ分ける匂いであり、その匂いに敏感なことに適応的になっているのではと妄想する。

 だが、この匂いは、そうしたイベントフラグ的なものではなく、もっと日常的に感じられる。上書き記憶された香料でもなく、イベントフラグでもないのであれば、「女の子の匂い」の正体は何なのか?ヒントはネットにある。

女の子の匂いは高級脂肪酸と安息香酸エストラジオールとのことなので、以前混ぜてみたら、本当に若い女性が歩いた後を通ったときに感じる「あの匂い」ができた[twitterより]


 この高級脂肪酸や安息香酸エストラジオールとは何か? 高級脂肪酸は、天然の油脂およびロウの構成成分であり、リノール酸や、オレイン酸などの仲間がある。また、安息香酸エストラジオールは最初に製品化されたエストロゲン医薬品である[Wikipedia:安息香酸エストラジオール]。製造方法は特許で守られており、キッチンで合成できるものではなさそうだ。化学系の研究室なら揃っていそうだが、縁のない私には入手困難である。

 捨てる神あれば拾う神あり。需要あるところに供給あり。

 プロモーションやイベントで、「匂い」を使った空間演出を手がけるZaaZ(ザーズ)という会社がある。同社が開発したディフューザーは、マイクロミストを放出し、必要な空間を匂いで満たすことができる。面白いのはオリジナルな匂いを作ることができ、「西麻布のお寿司屋さんで仕込んだすし酢の匂い」とか「夏祭りでおじさんが鉄板で作った焼きそばのソースの匂い」など、実にさまざまな匂いがある[ZaaZ Energy]

 その中に、「お風呂上がりの女の子の匂い」がある。sankeibizレポート「“風呂あがりの女子の匂い”が買える時代」によると、こうある。

「モワっとした温度と湿度、そしてほのかな石けんの香りと、フローラル系のかすかな匂い。匂い自体は強いものではないが、複雑に混ざりあい、お風呂上がりの空気を感じられた」

 いいね! 喜び勇んで通販元のDMMに行ってみる→「お風呂上がりの女の子の匂い」。香料と再生装置で10万超えるのか……業務用というだけに、ハードルが高い。

 だが、諦めぬ。もうすぐ、VRを用いた性愛シミュレーターや、性交渉機能に特化したセクサロイド市場が一般化するだろう。視覚+触覚に対し「匂い」が売れることは必然なので、近いうちに東京ゲームショウで見かける(嗅げる)だろうから、そこでお試ししてみよう。個室ビデオやリンリンハウスのオプションになる日も近い。

 未来は今だ! ZaaZが設立した新会社VAQSOが、VR外付け匂いデバイスを開発したらしい。Playstation VR、Oculus Rift、HTC VRなど、様々なデバイスに装着可能で、女の子の匂いにも対応しているらしい。VRコンテンツと同期して、たとえば「銃を撃って何秒後に火薬の匂いを出す」ことも可能とのこと(参考:『女の子の香り』がするVR、実現へ──PSVR・Vive・Oculus対応の外付け匂いデバイス登場)。心のノートに彫っておけ。

 もっと手軽に(≒安価に)再現できないものだろうか。答えは本にあった。『危ない28号』『アリエナイ理科ノ教科書』で有名な薬理凶室の新著『悪魔が教える願いが叶う毒と薬』である。

 本書は、サプリメントから処方薬、漢方薬から違法麻薬まで、願いごと別に集めて解説したものである。人の身体の代謝や反応は化学物質により引き起こされる。ということは、化学物質を用いることである程度コントロールできるという発想で、一般的な使用法から「裏の使い道」までを紹介してくれる。

 たとえば、リ●ップには「悪夢」の副作用を引き起こす、ミノキシジルという成分が含まれているという。これを、「死なない程度で悪夢を見る程度」服用する用量と方法が書いてある。あるいは、老いたマウスと若いマウスの血液を交換することで、老いたマウスが若返えったというレポートが紹介される。なんともジョジョの奇妙な実験だが、スタンフォード大学で2011年に実際に行われたものらしい。さらに、ひまし油を使った下痢チョコ(≠義理チョコ)のレシピが載っている。シャレにならないネタ満載だが、その中に、「女の子の匂いを合成する」があった。

 女の子の匂いの合成レシピは、2つ紹介されている。

 まず正式バージョン。匂い成分の元はカプリン酸とカプリル酸だという。これを1:1に配合した母液を用意して、そこにミルク香料とバニラエッセンスを加え、安息香酸エストラジオールを添加させることにより、再現できるらしい。

 さらにエタノールで希釈して散布することで、「部屋の中に女の子がいる」いい感じに仕上がるという。Playstation VRと非常に親和性が高そうだ。これをベースに「プチサンポン」を重ねがけすると、「お風呂上りの女の子」バージョンになるという。4DXやMX4Dと非常に親和性が高そうだ。

 ただ、一般家庭にない素材もあるため、本書ではもっと身近な食材を使った合成方法も紹介されている。材料はバターとバニラエッセンスの2つだけ。バターの低沸点揮発流分を分解するという。手順は次の通り。

  1. バターを試験管に入れてアルコールランプで加熱し、揮発したバターの成分をガラス管経由で氷水で冷やした試験管へ導き、液体として抽出する。抽出液は焼きたてのパンのような香ばしい匂いになる。
  2. 抽出液を透明な瓶に入れて、3~4時間直射日光に当てる。日光に含まれる紫外線によって適度な分解が起こり、バターの香りに少し鼻をつくようなツンとした匂いがプラスされる。
  3. 最後に、微量のバニラエッセンスを加えればできあがり。ツンと鼻をつくが、ほのかに甘い匂いで、女性の胸の谷間に分泌される芳香成分と非常に似ている
  4. さらにセッケン香水などを混ぜると、なかなか再現度の高い、女の子の匂いになる

 問題はステップ1。写真入りで分かりやすく説明してくれているが、試験管もガラス管もアルコールランプも持ってない。要するに、熱したバターの揮発成分を液体で集めればいいのであれば、蓋つきフライパンで事足りる。

Photo

 中の様子を確認するため、ガラスの蓋にして、とろ火で加熱しつつ蓋を水で冷やす(熱でビニールが溶けないように注意)。すると、蓋の内側に水滴が生じる。これを器に集めてラップして、あとはステップ2以降の通りに作るだけ。

 ひと嗅ぎしたら、プルースト効果に打ちのめされる。ほらあれ、『失われた時を求めて』の最初にある、紅茶に浸したマドレーヌの香りから、幼少時代を思い出すやつ。この「女の子の匂い」から、高校時代を思い出す。

 体育の後、女子は教室で着替えるやろ? 次の授業があるし男子は扉の外で待っているから大急ぎで着替える。8x4もそこそこに、女子全員が着替え終わった直後、まだカーテンも開けきっていない教室に足を踏み入れた瞬間の、「あの匂い」がそこにあった。「臭い」の二歩手前の、青い匂いである。懐かしさよりも恥ずかしさを思い起こさせる。

 私なりのアレンジとして、「クラブ ホルモンクリーム」をお勧めしたい。肌荒れを防ぐクリームで、女性ホルモンの一種であるエストラジオールが配合されている。

 これと、上で作成した「女の子の匂い」を配合させると、叔母さんの匂いそのものになった。私が小学生だから三十前半ぐらいだろうか。一緒のお風呂で、体を洗いっこしたっけ(めちゃくちゃ反応していたことを告白しておこう)。今となってはマドレーヌ並みに甘い思い出だが、これでいつでも呼び覚ますことができる。

 「奥さんがいるなら嗅がせてもらえばいいんじゃね?」というツッコミがあるだろう。そんなことは分かっている。だが問題は2つある。我が妻は、変態的行為には手段を選ばず、くんくんしようものなら容赦なく反撃してくる。そして、妻の匂いは「女の子」ではなく、女の匂いそのものになっているのだ。

 「ば~~~~~~っかじゃねぇの!?」というツッコミは、その通りだと思う。ただ、そういう方には、汚濁にまみれ悪臭の立ち込める18世紀のパリで、異様なまでに「におい」に執着した男の物語『香水』をお勧めしたい。匂いの天才が、至高の香りを求める、「におい」の饗宴を嗅ぎたまえ(映画版は『パフューム』)。

 匂いは言葉より強い。どんな意志より説得力をもち、感情や記憶を直接ゆさぶる。人は匂いから逃れられない。目を閉じることはできる。耳をふさぐこともできる。だが、呼吸に伴う「匂い」は、拒むことができない。匂いはそのまま体内に取り込まれ、胸に問いかけ、即座に決まる。好悪、欲情、嫌悪、愛憎が、頭で考える前に決まっている。

 だから、匂いを支配する者は、人を支配する。匂いで人を操る彼が求めた「究極の香りを持つ少女の匂い」とは、「女の子の匂い」の完全体だったのかもしれない。

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『石蹴り遊び』読書会が面白かった

 コルタサルの奇妙な小説『石蹴り遊び』の読書会に行ったら、目からウロコが飛び跳ねていった。主催のuporekeさん、ありがとうございました。

Isikeri02

 何が面白いかというと、様々な「読み」に会えること。一冊の小説から受け取ったものをお互いに見せ合って伝え合うのが良い。「そう感じたのはなぜ?」とか「ここからあれにつなげたのか!」などとおしゃべりすることが、なんと楽しいことか。たしかに読書は孤独な営みだが、小説というひとつの幻想を共有することで、慰められる思いがする。まるで、極寒の深夜に、焚き火を囲んでいるかのような高揚感と一体感を分かち合える。

 そして『石蹴り遊び』。作者はフリオ・コルタサル。わたしの場合、『南部高速道路』から入ったので、コルタサルは短篇の名手という第一印象だった(ちなみに『南部高速道路』は傑作なので読むべし)。600頁近い、ちょっとした鈍器並みの『石蹴り遊び』は、なかなか骨の折れる読書だった(感想は曼荼羅・パンドラ・反文学『石蹴り遊び』に書いた)。

 『石蹴り遊び』は物理的には1冊の本だが、実は2冊の本として読める。というか、作者そう読むことを推奨している。最初は1章から56章を順に読む。次は、第73章から始まり、作者が提示する「指定表」に従って読み進める(各章にはナンバリングがしてある)。こんな感じだ。

  73-1-2-116-3-84-4-71-5-81-74-6-7-8-93-68-.....

 よく見ると、...-1-2...-3...-4...-5... とあり、最初の1冊の間に他の章が挟み込まれる構成となっている。他の章は、著作ノートの断片や新聞のスクラップ、広告や引用など雑多な寄せ集めで、唐突だったり冗長な印象を受ける。

 ところが、2冊目を進めてゆくと仰天する。同じ『石蹴り遊び』という本に、違う書物が姿を現してくる。そこでは、1冊目で語られなかった理由が説明されていたり、脇役が実は極めて重要な人物だったり、宙ぶらりんの行動の「続き」が入れ子的に補てんされていたり、1冊目にはない可能世界を生きていたりする。

 そもそもこの『石蹴り遊び』は何なのか? わたしは、1冊目では脇役だった、ある人物が書いた小説なのではと考えた。そう仮定すると、その人物が書いた覚書、原稿、引用メモは、2冊目のあちこちに出現し、それをつないで読んでいくと、1冊目と2冊目が、ちょうど図と地をひっくり返すように入れ替わる。1冊目の中に、その人物が書いたノートを皆で読むというシーンがあるが、それこそが「読者を共犯者に仕立てる」この小説の臍ではないか―――と考えた。

 もちろん、読書会ではわたしの「読み」と同意見の人がいた(水声社版の解説がまさにそれだ)。だが、だからといって「正しい」とは限らないのが面白いところ。むしろ、わたしと違う「読み」の方が楽しい。『石蹴り遊び』が何と結び付けられているかに着目して、そのつながりから炙り出すような見方だ。構造的に似たものとしてパヴィチ『ハザール事典』が挙げられたが、ヘラー『キャッチ=22』もそうかも。「指定した番号の章を読む」手法は、いわゆるアドベンチャーブックから美少女ゲームへの系譜につながる。この辺は、keyの傑作『CLANNAD』を元に、わたしが熱苦しく語ってきた。

 そうしたつながり読みの中で、一番面白かったのは、「読者をコルタサルに仕立てる」というもの。これは三柴ゆよしさんから教えていただいた「読み」だ(ありがとうございます!)。1冊目では脇役、2冊目ではこの小説自身の「作者」としても読める、「ある人物」のことだ。実はこの人物は、コルタサルなのではないか、という仮説だ。

 え? 『石蹴り遊び』を書いたのはコルタサルだから、この小説の「作者」としてみなせる「ある人物」はコルタサルでいいんじゃないの? というツッコミは正しい。だがちょっと待ってくれ、事態は少し複雑だ。

 いったん『石蹴り遊び』から離れ、コルタサルの代表作を振り返ると、面白い共通点がある。それは、「他の存在に変身する」だ。たとえば、異なる二つの世界が同時進行する『すべての火は火』。最初は段落レベルで交代していたのが、緊迫度を増すにつれ、フレーズや言葉を契機として異世界に変わり、物語は驚くべき結末に向かって邁進する(これも傑作だから読むべし)。あるいは、意識が山椒魚に乗り移る男の話『山椒魚』に代表される変身譚でもいい。現実が重ね書きされるような非現実感が、コルタサルの魅力だといっていい。

 その上で『石蹴り遊び』を眺めると、2冊目に挟み込まれている雑多な文の断片は、「ある人物」が小説を書くために準備した、様々な素材に見えてくる。ちょうど撮影済だが未編集の映画のテープ群のように、作品のどこに差し込むかまだ決めかねている素材なのだ。1冊目で起きる運命により小説は未完となるが、登場人物たちがこれらの素材を発見し、吟味する場面が出てくる。2冊目に差し込まれる断片は、登場人物たちと共に、読み手(=わたし自身)が「ある人物」になり代わり編集することを誘っている。

 その一方で読み手は、コルタサルが示す「指定表」を元に、あっちの素材、こっちの素材に付き合うことになる。これは、『石蹴り遊び』のコルタサル版であり、ディレクターズ・カットなのだ。

 読み手は、行きつ戻りつしていくうちに、コルタサルの目で『石蹴り遊び』の素材を見るようになり、コルタサルの頭で『石蹴り遊び』を考えるようになる。そのうち、読者の目は炯々と輝き、眉間に縦皺が生じ、もじゃもじゃ髭が生えてきて、ついにはコルタサル自身に変身してしまう―――のかどうかは分からないが、「ある人物」≒コルタサルのつもりで『石蹴り遊び』を再編するなら、わたしの版だとこうなる。

 60-61-62-66-71-74-79-82-86-94-95-96-97-
 98-99-102-105-107-109-112-115-116-121-
 124-136-137-141-145-151-152-154-155

 「読者をコルタサルに仕立てる」という「読み」は妄想が捗る捗る。他にもユニークな読みが提示され、その度に目からウロコが飛び跳ねていった。小説に「正解」なんてないんだね。

 小説に「解答」があって、そこからの距離によって正しさが伸び縮みするのなら、それは小説である必要がなかろう。辞書でも読んでりゃいい。そうではなく、同じ一冊から、様々な「読み」が発生し、それに共鳴したり反発したりを繰り返すことで、その読み手が見えてくる。それが面白いんだ。そこに置かれた物としての一冊が面白いのではなく、そいつを生身の人間が「どう読んだか」が肝なのだ。

 いま、「読み手」と言ったが、別に第三者である必然性はない。過去にそれを読んだ自分自身と比較することもできるし、世界で最初の「読み手」である作者がどう読んでいたかを想像するのもあり。『石蹴り遊び』の風呂敷は、そこまで広げて遊べるくらい自由に読むことができる。

 小説は、読み手と同じ数だけ「正しさ」があってもいい。uporekeさんの読書会は、そういう懐の深さがある。世に、「大書評家」なる人が参加者の「読み」を採点するような読書会があるらしいが、not for me だね。あるいは、怖いもの見たさで覗いてみようか……

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死ぬことよりも怖いこと『ウインドアイ』

 死ぬのはそんなに怖くない。必然だから。せいぜい苦痛は避けたいとか、お別れや身辺整理の時間があればと願うのみ。

 しかし、私が私でなくなるのは怖い。肉体や精神の欠損だけでなく、肉体であれ精神であれ、私の容れ物から「私」が滲み出たりブレだすのは嫌だ。私が私を保ったまま遠ざかり、時間からこぼれ落ちてしまうのが恐ろしい。この離人症的な怖さ、うまく伝えるのは難しい。

 だが、ブライアン・エヴンソンの短編を読むと、嫌というほどよく分かる。そして、分からない方が幸せだったかも……と後悔することになる。前作『遁走状態』[レビュー]は怖かったが、今回も輪をかけて恐ろしい。どちらも甲乙つけがたいが、『遁走状態』→『ウインドアイ』の順に読むが吉かと。

 読み始めてすぐ違和感を感じ、読み進むにしたがって「ざわざわ」が増してゆき、物語の決定的なところで胸騒ぎが本物だったことを思い知る。しかも、予想の斜め上の、もっと嫌な予想外の場所に置き去りにされていることを知る。

 不条理な寓話はとてもカフカ的だが、そこで浮彫りにされるのは物語世界の不条理さではなく、世界の認識の仕方の不条理さである。世界は狂っていないと確信できていたのは、世界と同じくらい自分が狂っていたからであって、現実と乖離しはじめた今、おかしいのは自分か世界か両方なのかと幾度も自問させられるハメになる。結果、読書はすなわち毒書となり、世界が歪んでいくような感覚に抗いながら読まねばならぬ。たびたび「私の気は確かだろうか?」と振り返ることを余儀なくされる。

 哲学畑にお馴染みの「クオリア」ってあるじゃない? 「トマトの赤い感じ」「頭がズキズキ痛む感じ」といった主観的に体験される感覚質のことだ。そして、反応は普通の人と全く同じだけれど、このクオリアを持たない存在を哲学的ゾンビとする話がある。エヴンソンのどの短編にも、このテーマが潜んでいるように見えてならない。

 クオリアそのものの話ではないんだ。そして、恐ろしいのはここからなんだ。哲学的ゾンビの思考実験をする存在は「私」のはずだ。だって主観的とはいえ、「赤の感じ」「痛む感じ」を持っているから。だが、エヴンソンを読んでしまうと、思考実験の主体から客体へ、「私」が滑り落ちてゆくことが分かる。すなわち、私が私の「赤の感じ」「痛む感じ」に確信が持てなくなってしまう。現実とのチューニングが合わなくなるにつれ、あるはずの感覚質から「私」が零れ落ちてしまうのだ(死ぬことよりも、怖いでしょ?)。

 試しに読むなら、「ウインドアイ」「二番目の少年」「食い違い」あたりはいかが。25編もあるので、枕頭において毎晩お布団で一編ずつ読むのが効果的。きっと何らかの喪失感を抱き情緒不安定になりながら眠りにつくだろう。毎晩の悪夢を請け合う。

 わざわざ悪夢をみたいかって? そりゃ違うよ。覚めているときにこれを読むということは、そのまま「私」の現実からの遁走状態になることになるのだから。

 嫌でしょ? 現実が悪夢だったことに気づいてしまうなんて。

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『土と内臓』はスゴ本

 人体をトポロジー的に見ると、消化器官を中心とした「管」となる。もちろん胃や腸には逆流防止のための弁が備えられているが、位相幾何学的には「外」の環境だ。

 この見方を推し進め、内臓をぐるりと裏返しにしてみる。くつ下を裏返すように、内側を外側にするのだ(このグロい思考実験は、クライヴ・バーカーのホラー小説でやったことがある)。裏返しにされた小腸や大腸を見ると、そこに植物の根と極めてよく似た構造と営みを見出すことができる。「水分や栄養素を吸収する」相似だけでなく、そこに棲む微生物との共生関係により、健康や成長面で重要な物質がやり取りされている。根と腸は、微生物とのコミュニケーションや分子取引をする市場なのだ。

 本書の結論は、微生物を中心とした人体の腸と植物の根の相似型であり、これに頭をガツンとやられた。ばらばらに得てきた知識が本書で一つにまとまるとともに、わたし自身が囚われていた先入観がぐるりと―――そう、くつ下を裏返すようにぐるりと逆転されたから。

 マクニール『疫病と世界史』が人類と微生物の負の歴史なら、本書は正の歴史として双璧を成す。しかも、歴史だけでなく、進化生物学、医化学、分子生物学、植物生態学、土壌生物学の知見を取り込んだエビデンスベースドなものになっている。

 原題は "The Hidden Half of Nature" 「隠された自然の半分」になる。目に見えるものが自然(nature)の全てではない。小さすぎて肉眼では見えない微生物や、地面や体内に隠れている根や内臓に光を当てることで明らかになる本質(nature)こそが重要なのだ―――そんなメッセージが込められている。

 土に隠された半分として、「根圏」が紹介される。植物の根の分泌物と土壌微生物とによって影響されている土壌空間のことだ。そこでは、根細胞から糖質が豊富な化合物が分泌され、微生物の餌となる一方で、植物にとって有益なミネラルが微生物によってもたらされる。クローバーや枝豆の根にある根粒菌が微生物と共生し、窒素化合物を生産することは知っていた。これは『植物は「知性」をもっている』で知ったが、常識が書き換えられることを請合う。

植物は「知性」をもっている だが、最近の研究ではもっと多様な栄養素が供給されているという。例えば、植物にたどりついた微量栄養素のうち、リンの80%、亜鉛の25%、銅の60%は菌根菌が運んでいる研究が紹介されている。根は、単純に養分や水分を吸収するだけでなく、植物にとって不可欠なフィトケミカル(植物栄養素)を生産する場所でもあるのだ。

 体内に隠された半分として、「内臓」それも腸に焦点をあてると、驚くほどよく似た世界が現れる。そこでは、栄養分や水分を吸収するだけでなく、そこで一種の生態系を成している腸内細菌とのやりとりを通じて、生きていくために必要な栄養素を生成していることが見えてくる。小腸の内側は絨毛と呼ばれる繊維状の小さな突起で覆われており、植物の根毛のように表面積を何倍にも増やし、栄養吸収を大幅に向上させている。

 そして、同時にそこは微生物たちの餌場でありお花畑(腸内フローラ)なのだ。ヒトは食べたものを吸収しているだけでなく、「ヒトが食べたもの」を食べる微生物の代謝物をも吸収している。生体リズムや睡眠に重要な働きをするセロトニンは、脳よりも腸の微生物群で生成されるほうが多いと聞いたことがある。それだけでなく、腸内細菌は、ドーパミンや短鎖脂肪酸、各種のビタミンを合成している。これらは、健康にとって不可欠でありながら、ヒト単体では生成することができない。言い換えるなら、こうした微生物群をもひっくるめて、「わたし」なのである。

 では、どうしてそうした本質(nature)が半ば隠されてきたのか? もちろん、小さすぎたり覆われていたりして物理的に困難だったというのもある。だが、本書に描かれている人類と微生物の歴史を追いかけていくうち、「人は見たいものしか見ない」カエサルの箴言が浮かび上がってくる。

 たとえばコッホ。結核菌やコレラ菌を発見した近代細菌学の開祖であり、その功績は人類史に残る大きなものだ。病原体の特定の指針「コッホの原則」は教科書にも載っているし、細菌を培養する寒天培地やペトリ皿は、今日でも使われている。その一方、「微生物研究=培養できる微生物の研究」に限られてしまったという見方ができる。

 つまり、培地で殖やせない微生物は分類できず、したがってコッホの原則を用いて研究できない。コッホの細菌論が広く受け入れられたことにより、自然(nature)から切り取られた微生物が研究の中心となり、土や内臓に宿る生態学的な研究は後手に回ったといえる。

 あるいはスティーヴン・ジェイ・グールド。動植物の化石に着目したグールドは、微生物の融合に着目し、細胞内共生説を主張するマーギュリスの考えを一顧だにしなかったという。

マーギュリスは、遺伝子の水平伝播やゲノム総体の獲得(単一の遺伝子内で起きる小さな変異ではなく)が、生命進化の初期には決定的に重要だったと考えた。細菌のような単細胞生物が別の細胞と合体すると、ゲノムは2倍になる。一方、多細胞生物は、新しく細菌を獲得しても、全体として数多くの細胞に新しい細胞が1つ加わるだけだ。
(「第4章 協力しあう微生物───なぜ「種」という概念が疑わしくなるのか」より引用)

 今日では細胞内共生説はほぼ定説化しているといえる[Wikipedia:細胞内共生説]が、これも隠された本質(nature)の一部なのかもしれぬ。

 隠された自然の半分が明らかになるにつれて、その本質にどのような攻撃を加えてきたか見えてくる。人体への抗生物質の過剰投与により微生物の生態系が乱れ、免疫性疾患や代謝異常が起きている事象は、そのまま化学肥料の過剰投与により土壌微生物の生態系が乱れ、作物の生育に悪影響を及ぼしている事象とつながる。人体に焦点を当てたのが、ブレイザー『失われてゆく、我々の内なる細菌』なら、土壌に焦点を当てたのがモンゴメリー『土の文明史』になる。どちらもスゴ本なり。

 『土と内臓』は、このモンゴメリーが妻と共に著したもの。根と腸、科学と歴史、医療と病気、見えている半分と隠された半分が、「微生物」というキーで一気通貫する。世界の見え方をも変えるスゴ本。

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円城塔訳『雨月物語』が完全にジャパニーズ・ホラー

 雨月物語は、語り調子で畳みかけるように怖い石川淳『新釈雨月物語』が決定版だった。が、円城塔が上書きした! 硬い語りを残しつつ、きっちり小説に仕立ててある。こいつは怖いぞ嬉しいぞ。ジャパニーズ・ホラーの金字塔『吉備津の窯』はこれで読むと吉。

 ジャパニーズ・ホラーの最大の特徴は、「わけが分からない恐怖」だろう。殺人鬼とかウイルス感染といった物理的に対応できる原因が引き起こす欧米ホラーと違い、真相が分からない。わけが分からないまま恐ろしい思いをし、原因を探してみても、「呪怨」や「穢れ」といった言葉で示すしかない「なにか」で終わる。文字通り、この世のものではないのだから、物理的な対処は効かない。「なにか」が過ぎ去るまで震えているしかないのだ(あるいは、取り憑き殺されるまで)。

 たとえば、スゴ本オフで出会った『残穢』(小野不由美)なんてそう。「怖すぎて最後まで読めませんでした」「もう触るのもイヤ」という曰くつきで紹介されたのだが、"穢れ"が感染する話だ。主人公(≒著者)が身近に起きた怪異現象を調べるうちに……という話をドキュメンタリータッチで描いており、その"穢れ"が読み手にまで感染(うつ)りそうで怖い。

 物理的なウイルスや殺人鬼でない怨念だからこそ、時と場所を超えて聞き手に迫ってくる。上田秋成によって江戸後期に著された『雨月物語』は、そういう怖さを孕んでいる。

 それと同時に、その怨念に至る愛憎も詳らかにされる。その「なにか」が抱いている妄執や執着している人が分かるにつれ、さもありなんと思う。それだけ非道な目にあえば、その恨み晴らさずには成仏しきれなかろう。あるいは、それだけ執着しているものが失われれば、さぞかし心も乱れることだろう───と同情する。愛欲に心乱し生きたまま鬼と化した第8話の「青頭巾」なんてまさにそれ。


 
泣くにも涙は枯れ果てて、叫ぼうにも声がつまって、とり乱して嘆かれ続け、火葬にも土葬にもしようとしない。そのあとは、子供の死顔に頬ずりしたり、手を握り締めてすごしていたようなのですが、とうとう気がおかしくなられ、まるで子供が生きているように振る舞うようになり、肉が爛れていくのを惜しんでは吸い、骨を舐めてと、とうとう食べ尽くしてしまったのです。[円城訳]

 同じ件で石川淳の『新釈雨月物語』も載せておく。石川訳が最高だと思っていたが、比べて読んでしまうと、円城訳のほうが、よりおどろおどろしく、哀しい。

泣くに涙なく、さけぶに声なく、悲嘆のあまりに、なきがらを火に焼き土に葬ることもせずに、顔に顔をよせ、手に手をとりくんで日かずをすごされるうちに、さしもの阿闍梨、ついにこころみだれ、生前にたがわずたわむれながら、その肉の腐りただれるのを惜しんで、肉をすい骨をなめて、やがては食らいつくされた。[石川訳]

 その後、この人外は夜な夜な里に下りて墓を暴いては新しい死体を漁るようになるのだが、問題はここからだ。人外の気持ちに寄り添い、同じ涙を流すことで、その妄執が晴らされるかというと、ならない。めでたしめでたしの予定調和の斜め上を行く。うっかり同情すると、そのまま引きずり込まれる。自然現象のようなものなのだ(ただし、高僧により祓われることで仏の加護を説諭するオチもある)。

 圧巻なのは第6話「吉備津の窯」。様々なジャパニーズ・ホラーの源泉となっている、この美しくも哀しい悲恋は、円城訳で戦慄してほしい。面白いことに、以前の「吉備津の窯」とは読後感が違う。これまで、浮気性の夫のゲスっぷりが因果応報に見えていたのが、円城訳では見慣れない口上があり、物語そのものの印象をがらりと変えている。それは、こんな風に始まる。

「嫉妬深い女は面倒だが、歳を取ると有り難いこともあるものだ」などと言う者がある。妬婦というのは、おとなしいやつであっても、仕事の邪魔をし、物に当たって、隣近所の噂の種になること必至であり、はなはだしくは家を傾け、国を滅ぼし、天下の笑い者になる羽目に陥る。昔から、この種の女で身を滅ぼしたものの数は知れない。

 つまりこうだ。古今の因縁話を引いてきて、嫉妬深い女がいかに恐ろしいかを淡々と語っている。これにより、妻を裏切った甲斐性なしの夫という印象から、女の嫉妬が化けて出る怪談に変化する。石川訳にはこの口上がないので、比べて読むと受ける印象がガラリと変わる。

 怖さの向こう側に、同情してはいけない哀しさがある。そこで人外となったものたちの中にある「鬼」は、まさにわたしの中にもあることに気付いてしまうから。

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『人喰いの大鷲トリコ』と人工知能について

 ゆっくり時間をかけて『人喰いの大鷲トリコ』をクリアした。これ、控えめにいってゲーム史に残る大傑作で、PS4あるなら是非ともプレイしてほしい。人を喰らうという巨獣「トリコ」と、少年が紡ぐ、新たな神話を目にしてほしい。

 廃墟となった古代遺跡の中を、少年と大鷲が謎を解きながら探索するのだが、プレイヤーが操作できるのは少年だけ。身体の小ささで狭い穴をくぐったり細い柱を渡ることはできるが、いかんせん非力だ。「敵」が現れても倒すこともできず、捕まったら連れて行かれる(『ICO』の白い少女を思い出す)。

 いっぽう大鷲は、強く、巨大で、賢い。一撃で「敵」を薙ぎ払い、軽々と絶壁を飛び越え、少年の言うことに耳を傾ける。犬のような顔つきに、羽毛で覆われた身体、そして猛禽類の翼と肢を持ち、猫のようにしなやかだ。少年は、大鷲にしがみつきよじ登ることで、単独で行けない場所に行けたり、ギミックを動かせるようになる(『ワンダと巨像』を思い出す)。

 そして、大鷲との絆が深まるにつれ、少年はして欲しいことを伝えられるようになるのだが、これがなかなか難しい。行きたい方向やアクションを「伝える」まではできるが、トリコがその通りに解釈してくれるとは限らない。「跳ぶんじゃない!」「そっちじゃない」と何度叫んだことか。これ、意図的に不自由に作っているのだろう。少年が斜めにしか走れないことや、トリコに指示してからのレスポンスが一呼吸要するとか。意思疎通に慣れるまでの「もどかしさ」が肝となっている。

 だが、あるとき気付いた。トリコに指示を出すとき、少年(=私)から見える状況ではなく、「トリコがどう捉えているか」を基準に考えるようになった。例えば、高い所にある狭い隙間の場合、トリコの巨体では抜けられない。この場合、トリコに「進め」と指示しても分からないだろう。だが、ある操作をして隙間を広げることで「進め」を理解してもらえる。

 実際、隙間が広がるギミックが発動する際、トリコは反応し、あたりをうかがい、状況が変わったことを認識する。目の輝きと大きさ、耳や口が示す表情、緊張している様子が羽毛の逆立ちやその下に隠れている筋肉の動きで分かる。もちろんプログラムされた動きであることは百も承知なのだが、環境の変化に伴い次々と判断を下し行動を変えていく様子は、その異様な姿にもかかわらず、いかにも生き物くさく見える。

 『人工知能の作り方』(三宅陽一郎)によると、これは「知覚空間」と「作用空間」が重なり合う世界だという。動物は、世界からの情報を単純に知覚しているだけでなく、世界に対して行動(作用)するために無数の取捨選択をしているというのだ。すなわち、カメラのレンズのように入ってくる光線をすべて受容しているのではなく、「食べる」「逃げる」などの意思決定をするための情報の要求を行っているのである。そして、ユクスキュル『生物から見た世界』における環世界の概念を引きながら、「知覚空間」と「作用空間」が重なり合う世界を「視る」ことの本質を指し示す。

 トリコは、周囲を見回したり、匂いを嗅いだり、爪で触ったりすることで、「食べられる」「回せる」「乗れる」「入れる」など、様々な意味を見出す(ときにそれはヒントとなる)。この、環境から「意味」を見出そうとする行動は、いかにも知能を持っているかのように見える。

 この、環境が動物に対して与える意味のことを、アフォーダンス(affordance)と呼ぶ。『人工知能の作り方』によると、アフォーダンスは、オブジェクト(樽やギミック)に行動のリストとして埋め込まれたり、ゲームステージそのものに行動の可能性として表現されているという。そして、アフォーダンスは自分との関係性において成り立ち、身体性と不可分な存在になる。

 大鷲の場合は、その巨大な身体と長い尻尾がカギとなる。高い場所や遠いところ、脆くて崩れやすい箇所、強い力を要するものなど、「少年+大鷲」で世界を視なおすようになる。そして尻尾! あの尻尾が超重要だ。幾度となく助けられるだけでなく、詰まったとき、尻尾込みで考え直すことで活路を開くこともあった。このゲームは、最初は少年で始め、大鷲と心を通わすうちに一体感を醸成し、古代遺跡から得られるアフォーダンスと応答するゲームなんだね。

 大鷲とは何なのか? なぜ少年は遺跡にいるのか? どこに向かっているのか、大樽や鎧兵とは何か? そもそもこの遺跡は何なのか? さまざまな謎が明かされるとき、思わず声を上げ、体じゅうをかきむしり、涙が止まらなくなった。と同時に、少年とトリコは私自身となり、心の中で分かちがたく結びつくこととなった。

 大事なことなので、もう一度。『人喰いの大鷲トリコ』は、控えめにいってゲーム史に残る大傑作で、是非プレイしてほしい。人を喰らうという巨獣と少年が紡ぐ、新たな神話を目にしてほしい。そしてプレイしたら、『人工知能の作り方』を読んで欲しい。いかに緻密で巧妙に「人工知能としてのトリコ」が作られているかを知って、驚いて欲しい。

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