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このホラーが怖い! 第1位『奥の部屋』

奥の部屋 ランキング形式のブックガイド「このミステリーがすごい!」や「このマンガがすごい!」のうち、「このホラーが怖い!」がある。そこでベストワンになったのがこれ。ただし、リンク先の解説にもあるように、99年版の一作しか刊行されていない。

 とはいうものの、モダンホラーの王スティーヴン・キング『グリーンマイル』や、エログロバイオレンスの覇者リチャード・レイモン『殺戮の〈野獣館〉』を押さえての堂々一位なり(日本だと貴志祐介『黒い家』が一位)。

 面白いことに、これらのホラーと比べ、エイクマンの『奥の部屋』は、怖さの方向性がまるで違う。強烈なキャラクターや残虐な描写で、読者を震え上がらせることを目的としていない。むしろ、何が起きたのかをはっきりさせず、読み手の心に問う余白を充分に残している。怖いというより不穏な、いつまでも後を引く短篇集だ。

 間違い電話で交わした口約束に囚われて、見ず知らずの女からの電話を待ち続ける狂気や、旅の途中で迷い込んだ古い屋敷は、幼い頃に買ってもらった人形の家にそっくりだったという奇妙なエピソードなど、「怖いもの」はバーンと出てこない。なので、"分かりやすい怖さ"を求めて読むと、肩透かしを食らうだろう。ホーソーンとか百閒の類やね。

 その代わり、見ず知らずの電話の主が、なぜ主人公を知っているのだろう(そしてそのことに彼は気づかないのはなぜ?)とか、初めて訪れるのに「人形の家」だと直感的に見抜いたのはなぜだろう? と考えると、試されているようで嫌な気分になる。小説を読むという「約束事」「常識」から徐々に剥がされているようで、不安になる。わざと語られていないことや読み手をミスリードさせようとする、物語の歪みがまことに上手い。

 なかでも、『スタア来臨』は白眉だ。主人公の視点から見ると、ただの変な話でしかない。(説明という名の)オチが無いなんて感想を持つ人もいるだろう。そういう意味で、人を選ぶ。だが、登場人物の誰を「本当」にするかで、まるで違う話に化ける。鍵は、ぽつりとヒロインがもらす、冗談とも本気とも分からないこの一言。

ミス・ロウクビーは続けた。「個性なんてただの言葉に過ぎない……私は誰の個性にもなれる。すべての人の。自分の個性をなくして以来、私は歳をとらなくなった」

 状況やキャラクターから、自虐的な暗喩として読める。だが、いったん彼女のことを信じるなら物語は禍々しさを増してゆき、もう一人、途中で不在になる人物に焦点をあてるなら、最も嫌な話になる。それぞれの視線に切り替えながら、とっかえひっかえ3通りに読んだ。そういう、「なにか」を読者に想像させる余白というか歪みを残している。それを埋めながら、創造しながら読むことが、そのまま奇妙な体験となっている。

 怪奇なものが出てきて、説明されたり退治されるホラーがある。怪奇なものが出てきて、説明されないまま終わるホラーがある。本書は、それに輪をかけて、説明してほしくない、できれば見なかったことにしておきたい、そんな不吉な物語たち。

 冬こそホラー、「語り手がどうしても見たくなかったもの」を想像してゾクゾクさ倍増しで愉しんでほしい。

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ホラーで人間を理解する『恐怖の哲学』

恐怖の哲学 一流の哲学者が本気で遊ぶと、ここまで面白いのか!

 科学と哲学の二刀流で、ホラーから人間を探索する試み。最初は哲学的アプローチだったのが、次第に科学からの知見を取り込み、最終的に両者が手を携えて、「人はここまで分かっている」ことと、「ここからもっと(科学も哲学も)人間の深いところまで行ける」ことを指し示す。その知的探索がめちゃくちゃ面白い。

 ざっくばらんな語り口で、「なぜホラーが怖いのか」から始まって、怖いのにホラーにハマるメカニズムを解析し、最終的にその恐怖を"怖さ"たらしめている深いところまで降りてゆく。そこには、意識は科学で説明可能か? というとんでもなくハードな問題が待ち構えており、ラストは哲学的ゾンビとの対決になる。結末は、映画に出てくるリビング・デッドのようにはいかないが、ある意味『ゾンゲリア』のラストのようで皮肉が利いている(著者はホラー好きなくせに怖がり&痛がりなので、ダブルで効く『ゾンゲリア』は観てないはず)。

 そもそも、ホラーはなぜ怖いのか? ともすると水掛け論のオタク談義に陥るのを、ガチで哲学する。「ホラーとは?」「怖いって何?」「怖さを"感じる"仕組みとは?」など、定義から入ってくる。ただし、教科書的なものではなく極めて実践的で、ざっと定義して分析し、必要に応じて手直しする。画家のデッサンを早回しで見ているようで、心地いい&気づくところ大なり。中でも、「恐怖とは何か」すなわち恐怖の本質の議論が面白かった。

 もちろん、「恐怖」は生物学的適応という考え方から説明がつく。猛獣を怖がらなかったらぼくら生き残っていないからね。だが著者は、そこからアクセルを踏む。なぜ恐怖が「怖い」必要があるのだろうと考えるのだ。恐怖の、あの怖い"感じ"に着目する。ドキドキするとか、ゾクゾクするとか、すぅっと血の気が引くとか、あの"感じ"を持っている必要はあるのだろうか? 怖いという"感じ"を抜きで、「恐怖→逃げろ」システムを持っていればいいのでは? と問いかける。

 これも、闘うか逃げるかするために心拍数を増大させ、アドレナリンを分泌させている副作用だという説明ができる。著者はそこも踏まえつつ、さらに加速させる。猛獣という具体的な恐怖の対象がなくても、人間はもっと抽象的なインプットからあの"感じ"を感じられる存在であることを解き明かす。心を行動に還元しようぜ(還元主義)、刺激と行動だけで充分説明できる(処理モード理論)、そして身体化された評価理論などをめぐりながら、人が恐怖を恐怖する仕組みを説明する。

 なぜ、わざわざホラーにハマるのか? これは結論が分かっているのに、わざと遠回りしているような議論でムズ痒かった。恐怖はエンドルフィンという名の脳内麻薬を放出を促し、鎮静作用とともに快感をもたらす。また、大脳辺縁系の扁桃体は、恐怖だけでなく快楽の座でもあるため、この座への刺激が快と誤訳(?)されることもあるだろう。だが、この結論に一足飛びに行く前に、いわゆる「謎の提示と解決」の物語論に回り道する。

 いっぽうで、「なぜ嘘だと分かっているのに、ホラーは怖いのか」は目鱗だった。ダニエル・カーネマン『ファスト&スロー』[レビュー]で読んだ認知科学からのアプローチだろうなぁと予想してて、(その予想はおおむね合っているのだが)そこへ前段でさばいた恐怖の表象論をつなげてくる。恐怖というシステムは、表象(知覚によって得られた心象)の入力から始まる。はじめは蛇や炎など実在する表象だったものが、進化の過程でさまざまなものが表象としてアドオンされ、知覚表象以外も受け付けるようになったという。「嘘なのに怖さは本物」の理屈は、ここにある。えらく寄り道していたな、と思っていたが、実はこれは伏線だったのだと気づくと痺れる。

 このように、ホラーをダシに寄り道しながら思考モデルを組み立てる。恐怖の本質と人工の恐怖の違いから、怖いという「感じ」そのものにアプローチする。ラストの哲学的ゾンビと対決は見ものだ。哲学的ゾンビとは、私たちと機能的には等価だが、意識を欠いた存在として登場する。私たちとそっくりの行動をとるが、そこに意識はないという思考実験の産物だ。ケガをしたら血が出て痛がってはいるものの、そこに痛いという「感じ」はない。著者はそれまでの思考を武器に、いったんはゾンビを退けるのだが……結末はご自身で確かめてほしい(あるいは、『ゾンゲリア』を観るのも良いだろう、「眼球に針」のシーンが痛いけど)。

ぼくらが原子の 本書に感謝したいのは、意識の表象理論について、わたしの理解を助けてくれたこと。『ぼくらが原子の集まりなら、なぜ痛みや悲しみを感じるのだろう』[レビュー]でハマったのだが、わたしが陥っていた一種の「思考の沼」から抜け出せたことがありがたい。これは、意識は科学で説明可能できるのかという、とんでもなくハードな問題に取り組んだ試みだ。この本では、王道から獣道まで紆余曲折を経て、意識の表象理論というモデルに至る。そこでは、意識経験を一種の表象とみなし、世界を(その生物にとって)どのように役立てるかに分節化された知覚表象システム論が展開される。

 たしかにこれは、認知科学、神経生理学、哲学からのさまざまな批判に(今のところ)最も耐えうる意識のモデルなのだが、「こうでしか考えられない」というものでしかない。つまり、科学と哲学で分かるギリギリの範囲がこうなのであって、本当にそうなのか臨床的に確かめたわけではないのだ。意識を説明できる限界は、(意識を持つ)人の理解の中でしかなく、世界は分かるようにしかできていないことを再び思い知らされる。

 だが、『恐怖の哲学』の説明で、このぐるぐる巡りから脱出できた。意識のハードプロブレムについての暫定的回答として、プリンツのAIR理論が紹介される。このモデルが正しいかどうかは、現時点では解明されていない。このモデルは、いわばH2Oみたいなものと考えればよいという。水に「H2O」と書いてあるわけではない。ただ、水のふるまいを最もうまく説明するのに、このモデルは役に立つ。だからこれを使っていこうというスタンスだ。同様に、意識についてのさまざまな疑問を、仮説検証「できる」モデルとして使っていく。なんでもクオリアで済ませるより、よほどいい。

 ホラーをダシに恐怖を哲学すると、人という存在がよく見えてくる。見えにくいところは、アプローチと検証方法まで分かってくる。恐怖「の」哲学というよりは、恐怖「で」哲学する一冊。

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