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『世界システム論講義』はスゴ本

世界システム論講義 「なぜ世界がこうなっているのか?」への、説得力ある議論が展開される。薄いのに濃いスゴ本。

 世界史やっててゾクゾクするのは、うすうす感じていたアイディアが、明確な議論として成立しており、さらにそこから歴史を再物語る観点を引き出したとき。「こんなことを考えるの私ぐらいだろう」と思って黙ってた仮説が、実は支配的な歴史観をひっくり返す鍵であることを知った瞬間、知的興奮はMAXになる。

 たとえば、「先進国(developed)」と「途上国(developing)」という語に、ずっと違和感があった。「後進国」は差別的だからやめましょうという圧力よりも、この用語そのものが孕む欺瞞を感じていた。

 なぜなら、この語の背景として、近代化・工業化が進むというプロセスがあるから。なんなら、進化のメタファーを使ってもいい。産業構造が一次から高次に転換するとか、封建社会から資本主義社会に"進化"するといった欧米の経済社会を先頭とする暗黙のレースが隠れているから。その前提で、「発展した国」と「発展しつつある国」という分けがある。

 しかし、経済産業はそのような線形に進むものだろうか? 途上国と呼ばれる国は、何らかの努力やチャンスで、先進国へと「進む」ものなのだろうか? 「欧米の経済的成功」を踏襲することが「発展」なのだろうか? バナナや砂糖キビの生産性を上げることで、いずれ工業化するのか? 搾取と従属関係の上手い言い換えじゃないのか? と考えていた。

 結論を先に言うと、わたしの直感は正解だった。世界システム論という観点から近代史を描き直した本書によると、先進国への供給源として途上国は猛烈に「低開発化」された周辺国という位置づけになる。

 世界システム論では、近代からの世界を、一つのまとまったシステム(構造体)として捉える。そこでは、世界的な分業体制がなされており、それぞれの生産物を大規模に交換することで、はじめて世界経済全体が成り立つような、有機的な統合体である。いわゆる南北問題は、「北」の諸国が工業化される過程そのものにおいて、「南」はその食料・原材料の生産地として「開発」される。経済や社会がモノカルチャーにバンドルされてしまうわけだ。

 著者は、名著『砂糖の世界史』を書いた川北稔氏。『世界システム論講義』では、カリブ海の砂糖革命を紹介しながら、三角貿易に象徴される「奴隷・砂糖貿易」複合こそが、アメリカ開発のテコであったと述べる。そこでは、少数の白人支配で膨大な黒人奴隷を使役し、社会のすべての仕組みが、砂糖の効率的生産のために奉仕させられるようになっていたという。食料すら自給されず、社会資本への投資はない。道路や鉄道が整備されたとしても、それはすべて砂糖の効率的な運搬のために作られたに過ぎない。

 そして、そこで生まれたプランターたちの購買力が、イギリス製品の大量輸入を可能にしたという。ヨーロッパ大陸には売れない「雑工業製品」を植民地にさばいていき、アメリカやカリブ海におけるプランターの生活を「イギリス化」する役割を果たしたという。こうした奴隷貿易・奴隷プランテーションの拡大を背景に、イギリスの商業革命が成し遂げられたというのだ。「紅茶に砂糖を入れて飲む」という英国様式が繰り返し揶揄されているが、非常に象徴的だ。

 世界システムは、こうした地域間分業を通じて、西ヨーロッパ=「中核」では国家機構を強化しつつ、「周辺」では、国家を溶融させる効果を持ったという。国家機構が弱められ、その正体がはっきりしなくなり、ついには植民地化されてしまう。アステカやインカの帝国は消滅し、ポーランドにしても、分割によって消滅し、労働力や資源を供給する「周辺」となるのだ。

 では、なぜヨーロッパを中核とする世界システムになったのか? この疑問への応答が物凄く面白い。発明や技術開発か? 火薬や羅針盤や印刷技術は、中国が発明したものだ。大航海か? 規模といい先行性といい、明のほうが先に展開していた(鄭和の大航海)。他にも、生産力や商業といった視点からヨーロッパとアジアを比較し、ことごとく欧州の優位性を否定する。

 だが、ヨーロッパのシステムと中華システムには、決定的な違いが一つあったという。すなわち、欧州は政治的統合のない経済システムである一方、中華は(明であれ清であれ)ユーラシア東部一帯をまとめて支配する「帝国」だった。帝国は帝国内部で武力を独占し、武器の浸透や発展を阻止する傾向が強い。これに対し、国民国家の寄せ集めであったヨーロッパでは、各国は「競って」武器や経済の開発をすすめた。このことが、16世紀における東西の武力の圧倒的な差となって現れたというのだ。

 そしてこの違いが、大航海に熱中するヨーロッパと、「海禁」という鎖国政策に転じていく中華の差になっていく。K.ポメランツは、『大分岐』において、東西の明暗を分けたのは、「アメリカ」という巨大な資源供給地を、ヨーロッパが得たことだとしている。わたしは単に、太平洋と大西洋という距離の違いをぼんやり考えていただけだが、海外雄飛する「動機」があったわけね。

 また、社会問題の処理場としての「アメリカ」が面白い。イギリス近代史を帝国ないし世界システムとのかかわりの歴史だとみなすと、アメリカは労働問題、犯罪問題、人口問題の処理場としての歴史になる。信仰の自由を求めてアメリカに渡ったピルグリム・ファーザーズは、WASPがでっちあげた「建国神話」にすぎないと喝破する。

 実際、植民地時代にアメリカに渡ったイギリス(ヨーロッパ)人の2/3は、期限付きの白人債務奴隷である「年季奉公人」だったという。食い詰めた者か、事実上の流刑人か、貧民税で育てられ売り飛ばされた孤児がほとんどだったらしい。アメリカ合衆国のような立派な国が、そんな下層民によってつくられたはずがないという強烈な愛国主義が、歴史の評価を歪めたのだと容赦なく切り捨てる。当時の世界システムからすると、アメリカは供給地であり「処理場」だったという指摘は鋭い。

 世界史を学べば学ぶほど、イギリスはゲスな国家だという認識が強くなる。だが、イギリスという「国」ではなく、ヨーロッパを中心とした経済のバケモノ(著者は成長パラノイアと呼ぶ)がその正体であることが分かってきた。

 この観点から、帝国主義を、地球上の残された「周辺化」可能な地域をめぐる、中核諸国の争奪戦であったと評価する。したがって、地球全体が、ほぼこの近代世界システムに吸収され、「周辺化」できる場所がなくなったとき、つまり「世界」(ワールド)は、「地球」(グローブ)と同じ意味になったとき、大戦にならざるをえなかったという。著者は冒頭で、日本や中国、韓国、マレーシアなどが追及している経済開発は、近代ヨーロッパ型の後追いでしかなく、アジア独自の価値観はどこにも見当たらないという。だとするなら、「中核化」と「周辺化」の争いがどんな問題に突き当たるかは自明だろう。

 歴史に学ぶなら、こういう本から学びたい。

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『時間SFの文法』決定論/時間線の分岐/因果ループ

時間SFの文法 面白くて危険な書。

 「時間SF」とは、特殊な時間世界を設定した上で、時間旅行のような特殊な経験を描いた作品を指す。タイムトラベルとかループものといえばピンとくるだろう。

 著者は、古今東西の小説、映画、アニメにおける時間SFを読み解きながら、基本的なアイディアや物語パターンを整理する。その上で、現代の時代感覚と照応するアイロニーやニヒリズムをあぶりだす。様々な定義や区分けを行っているが、代表的なものを書き出してみた。

  1. タイム・トラヴェル型(意図した時間に計画的にジャンプ)
  2. タイム・スリップ型(否応なしに強いられた時間移動)
  3. シャッフル型(ジャンプ先がランダム)
  4. 歴史改変型
  5. 歴史不変型
  6. 並行世界型
  7. 生き直しパターン
  8. 再生パターン
  9. 反復世界型
  10. 逆行もの(時を遡上する)
  11. 異時間通信もの(メッセージが時を超える)
  12. 偶然世界型(些事の積み上げの中に分水嶺が潜む)
  13. 改良偽装型
  14. 自己増殖型
  15. 時の果てを望む(時間の外へ)

 ハインライン『夏への扉』や小松左京『果てしなき流れの果てに』、桜坂洋『All You Need Is Kill』やグリムウッド『リプレイ』など200作品を俎上にのせ、時間SFの広さと深さを探究する。物語のパターンを俯瞰していくと、作品ごとに時間の捉え方が違う。そこでは、物語が時間というものをどのように理解しているのかも併せて考察する必要が出てくる。面白いのは、そこで展開される批評だ。タイム・パラドックスと決定論世界を論じ、時間SFに隠されているニヒリズムを指摘し、物語論としての読み直すアプローチを示す。

 だが、かなりの作品のオチやトリックを盛大にネタバレしている。分析の性格上、ストーリーの根幹にどうしても触れざるを得ないため、ラストのどんでん返しまで明かされる。たとえば、R.F.ヤング『たんぽぽ娘』のエッセンスが4行にまとめられており、不覚にも涙してしまったが、これは実際に読んで味わいたかった。

 いっぽう、読んだ記憶はあるのだけれどタイトルが思い出せなかった傑作にいくつも再会できた。時の流れを数万分の一にする機械に閉じ込められた男と、彼に会いに来る彼女との悲恋や、些細なことで喧嘩別れして、そのまま死んでしまった愛妻に会うために時の門をくぐる夫の話など、懐かしすぎる。

 残念なのは、時間SFに突きつけられた問題に気づいていない(目を背けている?)ところ。タイムトラベルはテレポーテーションでもある。時間移動は、空間移動も一緒に考える必要があるにもかかわらず、あくまで「時間」だけしかスコープに入っていない。

 つまりこうだ。地球はおよそ時速1600kmで回転している。仮にタイムマシンで一時間前に戻るならば、出発地点と同じ場所に出現するためには、同時に1600km移動しなければならない。そして、地球は太陽の周りをおよそ時速1万6624kmで回っている。したがって、一時間前に戻るならば、同時に1万8224km移動しなければならない。

 まだある。太陽も時速8万6400kmで銀河を移動していたり、銀河もアンドロメダに向かって時速24万kmで移動していたり、さらに我々の宇宙がある場所自体が、乙女座グループの方に時速160万kmで移動したり、さらにさらに、乙女座グループも含めたグレートアトラクターと呼ばれる道の空間に、時速214万7200kmで移動している。

 そもそも「時間」なんて出来事を便利に伝えるための方便にすぎない。だいたい「一日」なんて、それこそ毎日変わる適当なもの。人は現在・過去・未来と分けて認識し、文法構造もこの区分に基づいている。人生とはすなわち今であり、今だけでしかないとするならば、時間とはすなわち、命を微分したものになる。

 だが物理学からすると幻想にすぎないらしい[時は流れない/日経サイエンス)]。そうだな、時が流れるのではなく、わたしが古びていくだけなのだ。サイエンス・フィクションとサイエンス・ノンフィクションの間に立つと、わたしの認識がよく見える。

 ひょっとすると、時間Science Fictionは、科学の装いをしたFantasyなのかもしれない。人が、時間というものをどのように理解している(理解したいと考えている)のかを映し出す鏡として、時間SFがあると考えると面白い。運命は変えられるのか、上書きされるのか、やり直しはできるのか、決定されているのか? 次の時間SFを読むときに、そこで扱われる「時間」の概念と、わたしの認識のズレを楽しもう。

 時間SFのガイドブックであり、百科事典でもある一冊。

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