« 2016年11月6日 - 2016年11月12日 | トップページ | 2016年11月20日 - 2016年11月26日 »

なぜ『この世界の片隅に』を観てほしいのか

 来た。観た。良かった。

 封切り直後の映画館は、半分くらい埋まっており、それが多いのか少ないのか分からなかった。可笑しいシーンでは笑い声が場内を満たし、一杯になった胸から心が溢れだす場面では嗚咽が交じる。明るくなると拍手が沸きあがり、観た人みんな良かったと思っているんだなぁと分かる。

 結論から言うと、すばらしい映画なので、たくさんの人に観てほしい。できれば、大切な人と一緒に観てほしい。

 小学校高学年の娘を連れて行った。『君の名は。』『聲の形』と、今年はアニメ映画の当たり年で、どれも劇場で観てよかったねと話してたので、否でも応でも期待は高まっていた。『君の名は。』とは異なり、中高年ばかりの客層に少し驚く。「アニメは子供のもの」なんて時代もあったね(ジブリのおかげ)。

 あの原作のあの絵が動く、というだけで嬉しいと思ったのは最初だけで、あとは夢中で観てて、気づいたら終わってた。冗長な描写は1秒たりとも存在せず、あの世界がそのまま、無駄なく、きっちりとアニメーション作品になっていた。あのうつくしさに音が、さえずりやにぎわいやうたごえや、砲声や轟音や号泣が入ったものだと言えば伝わるだろう。そう言えば、原作読んでる人ならまっすぐ観にいくだろう。

 だからここでは、原作を知らない人に、なぜ観てほしいかを伝えてみよう。

 舞台は、1944年の呉。絵の上手い、18歳の浦野すずが主人公だ。彼女が広島から呉に嫁いでくるところから、物語は動き出す。物資不足の中、すずは懸命にささやかな暮らしを守るが、戦争の影は次第に濃くなってゆく……というのがお話の入口だ。

 伝えたいことは二つある。一つ目は、生きることは食べること。海苔や砂糖、米やスイカや芋が、人と人を結ぶ縁となり、人を生かしていく。食べ物で人はつながり、生活していくというごくあたりまえのことが、あたりまえに描かれていることに気づく。食事のシーンが象徴的に使われているのがいい。配給がだんだん乏しくなって、食卓がどんどん寂しいものになるのに、食べられる野草を採ってきたり、嵩を増やそうとあれこれ工夫するのが微笑ましい。

 ちょっと(?)おっとりしたすずさんの言動がまた可笑しくて、ともすると暗くなりがちな戦争の影が、そこだけ緩やかになっているかのように見える。寂しい夕餉と楽しい笑い声に加え、「みんなが笑って暮らせるのがええ」というセリフが胸にくる。

 なぜなら、この戦争がどのようになるか知っているから。すずの場所がどのように壊れてゆくかを、わたしは過去の出来事として知ってるから。シーンの折々に日付が入るので、観客は「その日」に向かって物語が進んでいることが分かる。

 その笑顔が失われるようなことになっても、どんなに辛いことがあっても、「食べる」描写をやめない。それは、観る人を勇気づける。まったく違うお話なのだが、レイモンド・カーヴァー『ささやかだけれど、役にたつこと』 ("A small, good thing")のラストで、悲しみの底で焼きたてのパンを食べる場面があるのだが、そいつを思い出す。生きるとは、食べること。食べ続けることなのだ。

 伝えたいもうもう一つは、物語の力だ。1944年で広島が実家で、20キロほど離れた呉が舞台というなら、どんな運命が待ち受けているか、わたしは「歴史」として知っている。しかし、この物語は、徹頭徹尾、彼女の場所を中心に描かれている。最も狭い範囲は、すずの見ている暗黒であり、最も広い視点は、すずのいる呉に爆弾を落とす飛行機からの視線になる。アニメーションだから物語のような一人称で描けないが、これはすずが見た世界なのだ。

 だから、誰かに伝えるための形容はない。「痛い」「辛い」「悲しい」「恐ろしい」といった感情表現は省かれ、出来事にまつわる解釈や主張もない。すずが何を見、どう感じたかは、彼女が描いたかのようにデフォルメされた「絵」で伝えられる。

 それと音! 戦闘機のエンジン音や跳弾の音、炸裂した破片の音、ものが焼ける音は、すべて彼女の耳がとらえた音として扱われる。彼女の「痛み」をわたしの痛みとして感じることはできないが、彼女の身に何が起こっているかは痛いほど分かる。辛すぎる現実は、そのままの形で受け止められない。すずの身に起こった物語にすることで、ようやく触れることができる。それが、物語の力だ。

 この物語の力は、今年読んだ『原爆先生がやってきた』を思い出す。小学6年生を中心にした、90分間の特別授業だ[原爆先生の特別授業]。原爆とイデオロギーを切り離し、一人の兵士の目から見た物語としてナラティブに伝えると同時に、原爆の科学構造や原理といった側面をも伝える授業だ。

 そこでは、「辛い」「悲しい」「恐ろしい」といった感情表現を廃し、身ぶり手振りや擬音もなくし、淡々と起きたことを口述する。原爆はダメとか反戦といった思い・解釈・主張も入れない。そこには、「平和」という言葉すら入っていない。イデオロギーを廃し、物語の形にすることで、ようやく飲み込むことができる。そこで何が起きたかは分かる。だが、どう思うかは、聞き手に委ねられているのだ。

 生きることは食べること。そして、物語の力。これが、未読・未見の方に伝えたいことだ。わたしの娘に伝わったかは、分からない。だが、一緒に観ることができて、本当によかった。

 原爆の悲惨な面を拡大することで、戦争を引き起こしたことに対する「呪い」や「罰」のように刷り込む教育を受けてきた。「戦争→核兵器→忌避するもの」という連想で戦争反対を訴える人々を目にしてきた。その一面だけに固執するのではなく、「みんなが笑って暮らせるのがええ」生活を脅かし、それぞれの居場所をなくすものという戦争の姿を、それこそあたりまえのように描いている作品は、初めてなのではないか。少なくともわたしは、寡聞にして知らない。

 「この世界の片隅」は、すずさんだけではなく、わたしも住まう世界であり、わたしの子どもが住まう世界でもある。その世界に対し、イデオロギーとプロパガンダにまみれた「戦争反対」ではなく、この映画を示すことができて、本当にうれしい。

 大事なことなのでもう一度、『この世界の片隅に』は、すばらしい映画なので、たくさんの人に観てほしい。できれば、大切な人と一緒に。

| | コメント (4) | トラックバック (1)

知の巨人たちが取り組んでいる問題はこれだ『いま世界の哲学者が考えていること』

 やり方が分かっているものは、哲学に向いていない。森羅万象の問題のうち、やり方どころか、そもそも「問題」とすら認識されていないところから始まるのが哲学である。もしくは、問題の背景や根本領域からメタに捉え直し、やり方そのものを生み出すのが哲学である。

 だから、哲学に取り組むことで、視野は拡張され、思考ツールが集まり、なによりも「問題」そのものを疑う目が養われる。

 たとえば、与件を「物理学の問題」や「経済学の問題」に落とすならば、物理学や経済学の「やり方」で考えるしかない。それは一定の成果を生む一方、それぞれの「学」の前提から離れることはできない。

 しかし、哲学なら、それぞれの学問領域の成果に加え、「問題」そのものを疑い、再定義することで、さらに深く・広く考えることができる。「〇〇とは何か」をその学問領域に囚われずに追求し、「〇〇からもたらされるものは、結局なんなのか」を新しい目で評価することができる。

 そこで他領域を必要とするならば取り込めばいいし、ひょっとすると、新たな「やり方」―――すなわち、新しい学問領域を生み出すかもしれぬ。どんどん専門化・先鋭化する領域に比べ、哲学は自由で面白い。取り組むにあたり、関係が複雑すぎたり、領域が大きすぎて、既存の学問では手に負えなかったり、そもそも問題と捉えられなかった「新しい」問題が並んでいる。

 ・格差は本当に悪なのか
 ・脳科学で道徳を説明する
 ・人類は人工知能によって導かれるか
 ・ヒトゲノムの編集はなにを意味するか
 ・性犯罪者を化学的に去勢する是非
 ・地球温暖化対策の優先順位は?

 こうした問題について、いま世界最高の知の巨人たちが、何を考えているかが一望できる、エキサイティングな一冊なり。ただ、一冊で俯瞰しようとしているため、どうしても浅瀬の紹介になってしまい、読み手の得意・好きな分野だと物足りなさを感じるかもしれぬ。私の場合、人工知能や脳科学、経済と環境、生命倫理あたりはおさらいだった。

 たとえば、「格差は悪か?」の議論は、ハリー・フランクファート『不平等論』の山形浩生の訳者解説が分かりやすいし、人工知能は三宅陽一郎『人工知能のための哲学塾』が広範だ。ちょっと笑ったのが、『不平等論』のamazonレビューにおける2人の評者。どちらも★を一つしかつけていないのだが、自分の見えている領域でしか問題を認識できていない。自分が依って立つ前提を疑えていない好例となっている(もしくは、間違った読者に届いてしまったんだね)。

 実入りが大きかったのは、マルクス・ガブリエルの「新実在論」に触れたこと。物理的な対象だけでなく、「思想」「心」「感情」「信念」さらには一角獣のような「空想」さえも、存在すると考える。精神を脳に還元してしまうような自然主義的傾向を批判し、実在とは物理的なモノやその過程だけではないとして、原理的な次元からの再考を試みるという。科学的実在論の不確実性に揺らいでいるところだったので、いい刺激をもらえた。

 いっぽう、さらに考える余白に気付いた分野もある。「バイオテクノロジーは優生学を復活させるのか」という章で、ナチス型の優生学と現代の優生学の違いについて述べている箇所である。ナチス型の優生学は、国家が主体となって、個人の意志に反し、隔離・断種・殺害した。一方で、現代のバイオテクノロジーは国家の強制がないため、ナチス型の優生学ではないという。あくまでも自由に選び取ることができるデザイナーズベイビーであり、子どもの遺伝子工学的教育に過ぎないという。

 しかし、『ナチスドイツと障害者「安楽死」計画』を読む限り、ナチスが行ったのは「役に立たない人を安楽死させよう」というプロセスを明るみにしただけであり、強制的な介入に仕立て上げたのは、当時のドイツの医療社会であり、ひいては健康を強いるモラル的な風潮である。ナチスと結び付け、葬ることで違いを強調されても、生命の合理化という抽象度では残り続ける。もちろん程度問題なのだが、どの程度を是とするかは、これからも議論する余地がある。

 いま、何が問題となっていて、どこまで議論が進んでいるかを概観できる一冊。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2016年11月6日 - 2016年11月12日 | トップページ | 2016年11月20日 - 2016年11月26日 »