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生きるのが痛い人に『拳闘士の休息』

 暗闇の中で手渡されるように巡ってくる本がある。

 作家も書名も覚えてて、大事なものになる確信めいた予感を孕みつつ、積読山に埋もれている。それが、何かのはずみで、ふと、浮上する。人に倦んだり、生きるのに疲れたり、仕事がしんどいとき(ネガティブばっかりw)、救いのように目に留まる。

 それが、トム・ジョーンズ『拳闘士の休息』だ。O.ヘンリー賞を受賞しているが、名作というよりも、むしろ生きるのに必要な糧のような一冊。畳み掛けるように饒舌で、叩きつけるような一人称の文体は、舞城王太郎やジム・トンプスンを思い出す(舞城氏は次作『コールド・スナップ』を翻訳している)。主役は露悪的に振舞っているだけで、語られているのはいつも「痛み」だ。生きるのが辛いとき、生きるのに必要な痛みが伝わってくる。

 ただし、摂取タイミングによる。この短編集、登場人物がことごとく、イカれてたり壊れたりしている。うつ病、末期がん、脳障害、ぐずぐずになった骨など、自分ではどうしようもない病苦に悩まされ、回復する術などなく、痛みと向き合うしかない人生を見せつけられる。読み手の内に痛みがあればあるほど、呼応するように読める。

 どの短編、どの作品を読んでも、きっと、引っかかってくる一文がある。表題でもある「拳闘士の休息」では、作者自身が傾倒したショーペンハウエルの、"人生とは何と虚しく不実なものであることか。その与える喜びの、何と欺瞞に満ちていることか" を引いてくる。その視線でもって、自身の暗い内側にある、敵意や憎悪を貯水池のように喩える件があって、まんま『ファイト・クラブ』を思い出す。さもなくば、『冷たい熱帯魚』のラストの叫び「生きるってのはな! "痛い"んだよ!」がこだまする。

 いちばんぐっときた「蚊」では、ここだけ引いたら陳腐に見えるが、読んでる途中は、分かる、分かるよと呟きたくなる。ここに出てくる「俺」は救急外科医であり、人体の壊れやすさを嫌というほど知っているから、太く短く刹那の喜びに賭ける。そんなことをおくびにも出さずに、ただ行動に移す。生きるのは"痛い"ってことを、知っているのだ。

たとえ俺がろくでなしだとしても、これだけは言える―――この人生、欲しいものは自分から行って手に入れたほうがいい、今のこれこそが唯一の旅、たった一度の旅なのだから。

 むろん感覚なんて主観的なものだから、彼・彼女の痛苦は想像するほかない。わたしの痛みはわたしのものでしかないことと一緒。それでも、逃げまわり、タフに立ち向かい、打ち倒され、のたうちまわっている姿から分かる。人生は痛みでできており、そうでないわずかな、ごくわずかな時間だけを大切に抱えることで生きていけるのだと。

 わたし自身、楽に死ねると思っていない。統計的にがんで死ぬんじゃないかな、と感じている。死ぬときではなく、死にいたる過程で痛みを感じるとき、この短編を、ふっと思い出すような気がしている。

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