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歴史と物語のあいだ『歴史学ってなんだ?』

歴史学ってなんだ 「歴史の専門家は、『ローマ人の物語』をどのように評価しているのか?」について調べたことがある。史学雑誌の論文によると、小説として読まれるならいいが、図書館や学校で「歴史」扱いされるのが問題だという。根拠のない断定や誤りが目に付き、聞き捨てならない記述もあるらしい。プロの目で徹底的に検証してやりゃいいのに……と思ったが、実際にバトルがあったかどうかは寡聞にして知らぬ。

 タイトルに「物語」と書いてるし、歴史家と違って小説家は自由に想像できると宣言しているので、読者も「そういうもの」として受け取るだろう。しかし巻末に膨大な「参考文献」を付けてきたり、図版を掲載することで権威の皮を被っており、演出上手だなぁと感心してた。

 上手にウソをつくコツは、真実の中に混ぜることだ。『ローマ人の物語』の面白さは、史料の裏づけのある論説と、自由に想像した物語とを織り交ぜながら、見てきたように書いてあるところにある。塩野だけでなく、司馬遼太郎もそう。エンタメは、エンタメとして楽しめばいい。

 だが、世の中に、本気にする人がいるようだ。つまり、小説としてではなく、史実として信じ込み、歴史学者に「デタラメ言うな!」と苦情を寄せるらしい。

「司馬遼太郎はどういう風に、シロウトをだましてきたのか?」(※褒め言葉)

 これは、読み手のリテラシーの問題である一方で、歴史と物語の境界という、微妙な問題をも浮彫りにしている。いわゆる歴史学者が書く「歴史書」と、小説家が書く「歴史小説」のあいだに、どのような違いがあるのだろうか。

 歴史学者である小田中直樹が書いた『歴史学ってなんだ?』によると、明確な違いがあるらしい。史料に基づくという「真実性」を経由しているか否かが、歴史書と歴史小説の境界だという。史料や先行研究に基づいて考察を進めるところまでは両者は一緒でも、最終判断に客観性が求められているのが歴史書であり、著者の主観に委ねられているのが小説になる。

 つまり、歴史書は、根拠がないものは正直に「分からない」「これはあくまで仮説である」と断らなければならない。これは、『理科系の作文技術』で、さんざん叩き込まれるやつ。どこまでが事実の報告で、どこからが仮説・意見なのか分からないような文書は、まともに扱ってすらもらえない。事実と意見は分けて書け、というやつだね。

 しかし、その境界は曖昧にみえる。試みに、『ローマ人の物語』を図書館で探してみよう。品川区立図書館の場合、分類コードは「232:西洋史・古代ローマ」になっている。ということは、『ローマ人』は歴史書の棚に並んでいる。いっぽう、『竜馬がゆく』は「913:小説・物語」だから、『竜馬』は小説の棚にある。この分類からすると、小説である『竜馬』を本気で信じる人でなくても、『ローマ人』を歴史書ではないと考えるのは難しい(わたしは「914:評論」が妥当だと思う)。いくら歴史のプロが「真実性」を強調しようとも、図書館や一般の人々にとって暗黙の了解として定着してしまっている。むしろ、そうした一般的な了解こそが、「真実性」をある程度左右していくのではないか。

 つまりこうだ。文書・証言・物証を通じて過去と向き合うとき、100%そのままを再現させることは不可能だ。代わりに、その人の関心領域や知的レベル、価値観といったフィルタリングを経て、出来事は選択的に認識される。そこから漏れたものは、無かったことか、重要でないものとして扱われてしまう。

 さらに、このフィルタは、その人が受けてきた教育や文化、地域性、その時代の常識によって作られている。プロならそうしたバイアスを自覚して、ある程度補正することも可能かもしれない。だが、世間一般は、フィルタを意識することすらできないかもしれない。そして、フィルタリングされた「史実」によって構築された歴史像が、次の時代の「常識」を再生産していく。もちろん、歴史家の仕事によって、歴史像は形作られているだろうが、その時代その地域の「常識」と衝突しないように作られている。歴史家のいう「真実性」のもっともらしさは、こうした時代や地域の「常識」との距離感による。

 『歴史学ってなんだ?』では、この「真実性」を軸に、従軍慰安婦論争を整理する。構造主義の流れから「史実は分からない」として、想像力で埋めた「物語」にしたり、主張に沿って「記憶」を選び取ろうとする先には、不毛な議論が待っているという。それよりも、証拠を集め、皆で突合せ、そこからどんな「コモン・センス」が得られるかを考えてみることのほうが、はるかに意味があるという。

 著者の主張には賛成だ。しかし、歴史認識における議論の正当性を測る基準として、歴史学がどこまで役に立つかは疑問が残る。なぜなら、そうした「コモン・センス」は、時代や地域、文化の影響を免れない。「どこから」証拠を集め、「どの国の」皆で突合せるかによって、異なる歴史認識が現れてくることは否めないからだ。

 著者は歴史学を、(トマス・クーンでいうところの)通常科学として評価し、「真実性」という基準をパラダイムの一種として考えているようだ。天動説や相対性理論は、地球のどこでも通用するだろうが、ある歴史認識を形作る考え方や認識の枠組みは、時代によっても地域によっても異なる場合がある。同じエビデンスから異なる認識が導き出されることもあるし、取捨選択されるエビデンスが異なることだって考えられる。

 わたしにとって、歴史と物語の間は、きっちりとした境界線というよりも、見方・枠組みによってグラデーションをなしているように見える。エンタメとして接するときは「物語」として割り引くし、プロパガンダに悪用されるときは、エビデンスと主張の距離からバイアスを測定する。そういう道具として、歴史とつきあっていきたい。

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最高のライトノベル『この恋と、その未来。』───ただし完結するならば

 「恋とは幻である」これに賛成するならば、『この恋と、その未来。』は最高のラノベである(断言)。

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 恋とは、求めるものを投影した相手に惚れてから幻滅するまでのわずかな期間のことを指すか、または一生醒めない夢を見続けることだ。従って、叶った恋は恋でなくなるから、ホントの恋は片想いになる。「この恋」を、ずっと大事にしていきたいのなら、決して明かしてはならないし、露ほども表にしてはならない。そのためには、嘘でもいいから彼女をつくり(そのコにとってはいい迷惑だ)、周囲を騙し、自分を偽る。恋の本質は、秘めた幻なのだ。

 だが、そんなことできるわけがない。自分も相手も、若いんだし、若いということは、変化することなんだから。心はそのままでいたいと願っても、体は変化する。男は男の体に、女は女の体に。見た目だって、匂いだってそうなってくる。欲を求める自分の肉が、おぞましいものに見えてくる。変化に抗って、「この恋」をそのままに留めるには、すごい力を必要とする。恋は常に現在形である。「この恋」を、そこに留めておくために、絶えず全力で走り続けなければならないから、現在進行形なのだ。

 だから、表紙の人の名前を「未来」(みらい)にしたのは素晴らしいアイディアだ。未来は、GID(性同一性障害)である。身体は女性なのに、心は男性という不安定な思春期を過ごし、「男」として全寮制の高校に入学する。そのルームメイトとなった四朗が、未来のことを好きになってしまう───というのが物語の骨格になる。最初は、戸惑いながらも男として、親友として接していく。しかし次第に、女の身体という秘密を隠す共犯者として、そして、いかにもラノベらしいフォーマットに則ったイベントを進めていくうち、だんだんと惹かれていく。

 だが、四朗は、自分の想いを伝えるわけにはいかない。未来は、あくまで「男」として相対してほしいのだから。告げた瞬間、「この恋」は失われるだろう。だから四朗は、「この恋」を大事にしていくため、心の奥底に押し込んで、絶えず全力で隠し続ける。現在形の恋を、「未来」に向けている時点で、決して叶わないことが分かる。「みらい」は性差のない名前であるとともに、恋の叶わない相手でもあるのだ。

 周囲には未来の身体の秘密を、そして未来には、自分の想いを押し隠しながら日々を過ごす。四朗の、その姿が滑稽で、時にゲスな行為にまで及ぶにつれ、読み手は息苦しさと、歪んだ緊張感を抱き始める。スラップスティックな鞘当てに陥ったり、周囲を欺くためにダミーの恋をしようとする(これはゲスの極み)。四朗は悩む、恋は、心でするのだろうか、それとも、体でするのだろうかと。

 四朗の苦悩は、(ラノベの主人公であるがゆえ)地の文に記されている。地の文=彼の思考のほとんどが、未来に埋め尽くされている。そして地の文を、将来という意味での「未来」に置き換えて読むことができるのだ。この仕掛けは凄い。単に性差の少ない、両方で用いられる人名としての「みらい」が、ここでも効いている。未来とのみらい、それは、恋が現在形である限り、叶わぬ幻なのだ。とあるさりげないシーンで、この本質を言い当てたアドバイス(?)がもたらされる。これは本書のテーマそのもの。

「幻ってことは、何をしてもいいってことだ。だって、幻なんだから。恋をする相手すら、所詮は自分で生み出した幻なの。だけど幻だから、何をしても後悔するし、何もしなくても後悔するよ。それだけ分かってりゃ、いい。以上、じゃあな」

 そして四朗は、したことと、しなかったことの両方を後悔することになる。物語の終わりが近づくにつれ、ラノベのフォーマットを逸脱するような展開になり、思わず知らず声が漏れる。これは、ラノベの皮を被った生身のラブストーリーなんだと分かる。前作の東雲侑子でやれなかった、生々しさをやろうとしていることが分かる。そして、これからどうなるの!? というところで唐突に終わる。あとがきによると、大人の台所事情のようだ。ものすごくもったいない。こんな重いテーマは、確かにライトノベル向けではないのかもしれない。そう考えると、よくぞここまでやってきたと思う。

 しかし、最終巻になる第6巻が出るならば、溜めに溜めてきた、秘めた思いが爆発すると思う。ここからはわたしの予想を描く。それまでのネタバレを全部さらけ出すので、ここから先は、5巻まで読んでからにしてほしい(反転表示)。

 ここから。

 出てった未来の行く先は分かっている。二胡姉のところだ。3巻の伏線と5巻の前フリから、未来は二胡と一緒に暮らし始めていることが分かる。「彼女がいるから付き合えない」と断ったものの、要とああなった以上、そして広島にいられなくなった以上、東京に戻るしかない。だが、家には戻りたくない。だから、中学までのしがらみから離れたところを探そうとするだろう。

 しかし、なぜ二胡なのか? もちろん彼女から言い寄られたというのもあるが、それだけではない。四朗の面影があるから───未来は、四朗と離れるために二胡を愛そうとする。

 これは、2~4巻で四朗が沙耶に対してしたことと相似をなす。「男」である自分が愛するとするなら、女だ。だからそうではない思いを否定するため、自分が本当に好きなものを上書きしてもらうように、二胡に委ねる。ずっと思いを胸に秘め、絶対に気取られないように慎重に行動していたのは、四朗だけではなく、未来もそうだったのだ。

 最初、未来は大いに困惑しただろう。「男」である自分が、四朗に惹かれるのだから。二重の意味で自分を気味悪く感じたに違いない。しかし、この感情を表に出さないようにしながら、四朗との距離を測りながら、未来も悩み始める。四朗への想いは、心なのか体なのかと。そして、四朗の告白により苦悩は深まり、扱いきれない気持ちを吐き出すため、半ば自覚的に記すようになる。この期間は半年から1年、あるいはそれ以上かかるだろう(著者が5巻に収められないといっているのは、この表面に出てこない物語中の時間を指しているのだと考える)。

 これらの想いは、そのまま未来の口から語られることはない。長すぎる告白になるし、だいたいファイナルインパクトというやつは、最後の手紙と相場が決まっている。だから、書かれたときに渡されなかった手紙という形で、四朗は向かい合うことになる。

 一方、四朗はどうしているか。広美さんの導きを経て変化した彼は、和田と対決しなければならない。いや、4巻で殴られた恨みを晴らす話ではない。殴られた理由を沙耶に告げず、ずっと耐えている四朗は、ツンデレの和田にとっては「フラグが立っている」状態なのだ。

 というのも、口絵を見ると分かる。恋人だった沙耶の姿は4巻から影が薄らぎ、5巻ではフェードアウトしている(代わりに5巻では、広美、ボンちゃん、そして和田がある)。この和田フラグを回収するところで、ひとつのエピソードを成すだろう。和田が未来の秘密までたどりつけるかは分からない(おそらく無理)。だが、四朗の想いの一途さに怯むことで収束するだろう。

 四朗は、未来からの手紙を記された順番に読み始める。それは、1~4巻までの、なんてことのない二人の出来事───運動部のために夕食を作ったり、プールで泳いだり、女装したり───を再度追いかけながら、四朗から見えなかった未来の気持ちが訥々と語られているだろう。そして、一番新しい手紙には、日時と場所が書いてある(たぶん宮島)。そこへ、こいと。

 それから─── そこからが分からない。なぜなら、GIDについて、わたしの知識が足りないから。従って、二つの結末が考えられる。

 ひとつは、そこに未来(ミキ)がいる。女性の姿をして、四朗に向かい合おうとする。性の同一性が「戻る」なんてことがあるのかどうか、わたしには分からない。ましてやそれが、薬や意志でどうにかなるとも分からない。だが、「女性」性になった未来(ミキ)が未来(みらい)でなくなるところで、恋が未来系から現在形に変わる。

 もう一つは、未来(みらい)がいる。GIDは病気ではない。「克服」するものでも「治療」するものでもない多様性の一つである。だから未来(みらい)はそのままであり続けようとし、それゆえ本当のさようならを告げることになる。このルートだと、未来(みらい)、四朗、沙耶、和田、広美の全員が、幻を恋していたことになる。「恋は幻」テーマそのものを貫くと、このラストになる。

 ここまで。

 『この恋』は、フォーマットとパッケージがラノベなだけで、小説として十分な収穫がある。マグカップや携帯データ、"女装"を使った伏線と回収の技は巧みだし、"感情"を見せずに気付かせる描きかたもうまい。願わくば、最終巻が出ることを祈って。そしてわたしの予想を上回る素敵なラストであることを願って。

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