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一生遊べる学問へようこそ『哲学がかみつく』

哲学がかみつく やりなおしたり手を出したり、いくつになっても、学ぶことは楽しい。数学や生物学、物理学、経済学、歴史学など齧ってきたが、必ずといっていいほど、哲学に戻ってくる。

 これは、少し考えれば、あたりまえなのかもしれぬ。人が「学ぶ」「知る」すべての体系を哲学とすると、そこから、解き方が分かっているものや、道具立てがある程度そろっているものが、それぞれの分野として切り出される。そして、それぞれの分野の中で整合性をとりつつ、実際に解いてみせたり、解けることを示したり、応用したり便利に使ったりする。解法は「分かる=分ける」に従って、専門化・細分化することで、次第にわたしにはついていけなくなる。本質よりもメタファーの説明だけで、分かった気分になる(例:ひも理論)。

 いっぽう、解くアプローチが曖昧だったり、どの分野にもそぐわなかったり、そもそも"問い"として成立するかどうかもままならないものは、哲学の範疇に取り残される。さらに、いったん切り出された"問い"や"解き"が、実は有効でも有用でもなく、袋小路に陥ってしまったものも、哲学へ出戻ってくる。

 つまり、方法論(遊び方)とセットなのが、哲学以外なのだ。哲学以外の分野は、その世界のロジックや表現方法、「常識」と整合的に説明できるもの(できそうなもの)を扱う。そして哲学は、遊び方が確立されていないものや、うまく遊べず放置されたものが溜まってゆく。そこで抽象度を上げたり下げたり、(合ってるかどうかも分からない)道具を当てて切れるか・測れるかを試して遊ぶ。そもそも人が扱える"問い"なのかという、際キワのところまで、遠慮情け容赦もなく踏み込んでいく。哲学の、そのワクワク感が面白い。「その分野の中で整合的に説明する」ように問題を設定するのではなく、"問題そのもの"に取り組むのに脳汁が出るんだ。

 たとえば、代謝や器官のメカニズムや、免疫や進化、認知科学の成果を学び、そこから認識する主体とは何か、情動とは、心とはどういうものか、そして究極的には「わたしとは何か」まで考える。わたしが、さまざまな分野を齧るのも、人を人たらしめているものを理解し、その限界を知りたいという欲望を充たすための方便なのかも。

 こうした「解けない」「解法不明」「そもそも問題なのかも分からない」さまざまなトピックについて、現役の哲学者がインタビュー形式で答えたのが本書になる。元は「philosophy bites(哲学がかみつく)」というタイトルのポッドキャストで、心身問題や科学的実在論などスタンダードなやつから、無神論や動物の倫理といったキワモノまで、対話を通じて理解を深めてくれる。

 たとえば、「改造人間スポーツはありか?」といった遺伝子工学の生々しい設問から、「科学の"正しさ"とは何か」のような、これまでの価値観をひっくりかえすような強力な設問と、その応答(≠解答)がある。ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』の大審問官の件で出てきた巨大な問い「神様が創ったにしては、この世界は酷すぎやしないか」に対する、ロジカルで見事な返しには胸がすいた。「こんな変なこと、誰も考えてやしないだろう」と秘かに思っていたことに、まじめに取り組んでいる哲学者を見つけて、思わず顔がほころんでしまう。

 非常に興味深いのは、デヴィッド・パピノーの科学的実在論への取組みで出てきた発言、「科学には濃淡がある」である。科学は方法の一つであり、それが適用されてきたジャンルの実績によって一様ではないという。例として挙げられているものに、十九世紀以降に発達した化学の素晴らしい実績がある。化学結合や気体分子運動における豊富な証拠を示されたなら、原子説を否定することは懐疑主義でも難しい。いっぽう実績が乏しいのは宇宙論だという。

ここで大切なのは、現代の宇宙論に塩をひとつまみ加えて考えることです。現在の一般相対性理論にはビッグバンなどがあるわけですが、今後50年のうちに、実は現実は十三次元で、われわれが目にしているのは、低エネルギーの四次元投影像にすぎず、現在、信じていることはみんな間違っているといった事態も起こらないとも限りません。

 この科学の「正しさ」は変わりやすいものだと織り込み済みで対応するか、さもなくば、その変化を楽しんでしまえばいいだろう。空想科学よりも荒唐無稽に見えたり、ハードSFのほうがリアルな考察がなされてたりするギャップの面白さは、科学的実在論に因っていることが分かる。サイエンスとフィクションは、哲学によって面白くなる。

 有名どころだと、マイケル・サンデルが「改造人間によるスポーツ」を否定しているが、その理由が興味深い。彼は、健康や医療目的のための生命工学には賛成しているが、遺伝子療法による筋肉増強や記憶力などの能力向上は反対だという。なぜなら、天から授かった能力を育て表現する場としてのスポーツや競技をダメにする恐れがあるから。毎打席ホームランを打つ超人的な選手を作っても、最初はよくてもすぐに飽きるだろうし、代わりに凄いピッチャーを作ったとしても、それはロボットが戦っているようなもので、人の成績とはいえないという。

 これは、わたしの考えと異なっているのが面白い。風邪薬からステロイドまで、選手の能力を向上させる線引きは微妙だ。遺伝子医療は極端な例だが、ボンベによる酸素吸入はだめなのだろうか。ステロイドは禁止されているが、プロテインもダメなのだろうか。安全性と公平性が担保される限り、ぎりぎりまで努力するのが自然だろう。線引きは困難だが、まさにそのためのレギュレーションだろう。

 哲学者が日常語で語る問題は、哲学という学問に収まらず、あちこち首を突っ込み、いたるところで「哲学」から飛び出ている。専門に閉じずに語りだし、遊び方(方法論)を自分で産み出してまで解こうとする、その姿勢が自由でいい。

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