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科学者の生産性を決めるもの『科学の経済学』

科学の経済学 初見はナンセンスだと思った。

 科学に「生産性」は相容れないものだし、科学者は労働者でないから。むかし、電気が何の役に立つのかと問うた政治家に、「20年もたてば、あなたはこれに税金をかけるようになるだろう」と返した科学者の小話や、その別バージョン「生まれたての赤ん坊は、何の役に立つのでしょうね」あたりが思い浮かぶ。

 ところが、そこに斬り込んだのが本書になる。科学を経済学の視点から分析し、科学の持つ公共的性格と報酬の構造や、経済効率性と資金調達方式のメリット・デメリット、先取権(プライオリティ)のインセンティブとイノベーションの関係を、統計的手法を用いて明らかにする。

 企業や大学の研究職に携わる人にとっては心穏やかではないかも。科学の市場化に伴い、ただでさえ専門外の資金調達に汲々としているのに、論文数や被引用数、取得した特許などで「科学の生産性」を計測しようとする働きかけは、いわば文系からの理系への"越境"に見えるのかもしれぬ。

 ただし本書では、人材を投与して知という公共財を生み出すといった工業生産的な観点だけで終わらない。それに加え、知的好奇心の追求やパズル解きの喜びといった単純に測れない要素や、研究分野の流行り廃りが科学者の生まれた年代によって影響することも考慮に入れ、科学者の生産性を決めているものを多層的にあぶりだそうとする。

 たとえば、「科学は若者のゲームなのか」という仮説を立てる。アインシュタインの「30歳までに偉大な貢献をしなかった科学者は、生涯できない」が本当かどうか、すなわち年齢が生産性に関与する理論的証拠を探そうとする。結論は、科学は若手の活躍する領域であることを示唆する事例証拠は数多く存在するという。ノーベル賞受賞者を対象とした研究で、受賞理由となる研究に着手する年齢の中央値は32歳で、40歳を過ぎると劇的に低下するという(Stephan and Levin,1992)。

なぜ理系に進む女性は少ないのか あるいは、「科学者の業績に性差があるのか」という研究が紹介されている。以前このブログで、『なぜ理系に進む女性は少ないのか』を紹介し、知性の性差という地雷を盛大に踏み抜いたことがある(コメント欄参照)。それよりはもう少し範囲を狭め、女性科学者が男性より論文が少ないことに限定して、その理由を調査する。結論は、「出版に資する個人属性、役職、研究リソースが男性に比べて乏しいから」だという(Xie and Shauman 1998,2003,p.23)。

 興味深いのは、知識のスピルオーバー分析だ。科学の成果は(工業製品のように)線形に出てくるのではなく、一定の蓄積のうえであふれ出る(spillover)ように現れる。その蓄積がラグ(時間)にあるのか、地理的な集積によるのかという研究が面白い。科学的な発見が世界にインパクトを与えるために一定の時間を要するのは当然として、知の波及効果に地理的範囲が影響するという結果がユニークだ。ネットのおかげで伝達コストがゼロに近づいているから、影響しあう科学者が物理的に隣である必要はなかろうと思いきや、暗黙知の伝達を促すのは対面によるコミュニケーションが基本になるという。スタンフォード大学関係者が設立した企業や、MITがボストン地区の新会社設立に寄与したことの研究が紹介されているが、日本なら、筑波研究学園都市や大阪大学基礎工学部のような、産学複合体のようなものだろうか。

 限られたりソースをどう配分すれば、効果的にブレイクスルーを起こし、イノベーションにつなげられるか。この、経済学から科学への"越境"は、これから伸びていく分野だと思う。さまざまな論文をその位置づけとともに紹介しているだけなので、早急に「ストーリー」を求めている人には退屈に見えるかもしれない。だが、メタな立場から科学の市場化に適応しようとするならば、沢山のヒントを見いだせる一冊になるだろう。

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『クオ・ワディス』はスゴ本

 面白かった!

 これは、最高に面白い小説になる。そして、誰にでもお勧めできる夢中小説であり徹夜小説であり試金石ならぬ試金本となる。(幸福な)未読の方は、だまされたと思って読んでほしい。そして、もし本当に騙されたと思ったならば、これを凌駕もしくは匹敵する作品を教えてほしい。まさにその作品名は、検索できないものだから。

クオ・ワディス上クオ・ワディス中クオ・ワディス下

 舞台は頽廃の都ローマ、暴君ネロの治世。キリスト教徒の娘リギアと、エリート軍人ウィニキウスとの恋愛を縦軸に、粋なトリックスターであり審判役もするペトロニウスとネロの権謀術数、弾圧されるキリスト教が大化けして世界を変革する様相が、ドラマティックに描かれている。絶望と狂気、快楽と歓喜が、圧倒的に伝わる物語となっており、人の魂の最上級の姿と、人の欲望の最も醜い貌の、両方を同時に見ることができる。

 さらに、豪華贅沢三昧の宮廷イベントや、読むのをためらうほど身の毛もよだつ残虐シーンや、劫火と苦悩が異様な美を織りなす光景など、どんな映画よりもスペクタクルな場面が用意されており、これまた見てきたようにきっちり考証して事細かに書いている。

 根底に流れるテーマは、「変化」だ。肉欲から始まった恋が献身的な純愛に変わっていくプロセス、飽満が変態の一線を越える様、ただの権力者が人外になる変化が、幾重にも埋め込まれている。特に、暴力と権力を信条とする極めてローマ的なウィニキウスが、どうやって献身的なキリスト教徒に変わっていくのか、心情も含めて詳らかにされる一方で、徹底的に迫害されるキリスト教徒が、どのようにローマを、世界を変革していくかの"理由"が、くっきりと描かれる。

 いわゆる「信仰か愛か」「殉教か救済か」という二択の葛藤を描いたドラマはたくさんある。だがこれは、「信仰が愛へどのように変化してゆくか」「どのように考えたら殉教が救済だという確信に至るか」という過程が読み手を揺さぶる。ハラハラ・ドキドキしながら物語を追いかけていくうちに、ぜんぜん違う自分を見出すことになるだろう。物語の最初と最後で、世界はまるで違って見える。地滑り的にうねるローマの変わり具合こそが、いちばん面白いところ。まるで自分が変わってしまったような印象をうけるから、文字通り「世界を変えてしまう」小説なのかも。

 変化を変化と認識するためには、不動の軸となるものが必要だ。この物語では、巨大な不在としてイエス・キリストが軸となる。その目撃者であり使徒でもあるペテロやパウロの"言葉"がローマに浸み込み、ローマをひっくり返す過程こそが、物語全体を貫くダイナミズムなのだ。神の奇跡ではなく、それを確信する人間たち、その信条と心情の変転が、そのまま読み手であるわたしを撃つ。

 涙腺ゆさぶる「許し」のシーンで思わず叫ぶ。座って読んでいたのだが、思わずうわあと言うだけでは足らず、立ち上がって再度うわあと叫んだ。足を踏みならし、頭を振りたてて、肩をぶるぶると震わせて、三度叫んだ。それぐらい脊髄にクる「許し」の場面がある。呼吸をやめて、頁をめくれ。

 これほど夢中になったのは、吉川英治『三国志』ぐらい。ミソは正史ではなく演義なところ。歴史家の云いによると、『クオ・ワディス』はエンタメ色たっぷりに脚色されているらしいが、そこが良い。正しさよりも豊かさ。豊かさよりも面白さ。面白さよりも眠れなさ。眠れぬ夜に開いたならば、寝かせてくれないことを請け合おう。ちょうどいいところ、「この後どうなるんだ!?」的なシーンで次巻へ続く構成なので、必ず上中下そろえてから読み始めること。

 未読の方は幸せ者よ、読まずに死んだらもったいない。明日の予定がない夜にどうぞ。

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