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人生の役に立って欲しくない『毒の科学』

 「部屋とワイシャツと私」の2番について、妻と語り合ったことがある。

 期待と不安が混じりあった新婚ほやほや感が、甘い思い出とシンクロしてええなぁ……と思っていたら、2番だった。オンナの勘は鋭いのよと前置きしてから、「あなた浮気したら、うちでの食事に気をつけて」と警告する。なぜなら、「私は知恵を絞って、毒入りスープで、いっしょに逝こう」だから。

 ほとんどの毒は臭いや味で気付くだろうし、微量で死に至らしめるようなものは、そもそも手に入らないだろう……と言ったら、「だから知恵を絞るんよ」と返された。妻曰く、ホームセンターで手に入るような化合物は、死ぬにはいいけどスープには適していないという。経口摂取ならキノコや魚類がいいそうな。く詳しいねと言ったらニッコリされた。

毒の科学 半信半疑で『毒の科学』を読んだら本当だった。もう一度言う、妻の毒の知識は本物だった。

 『毒の科学』は、人にとって「毒」とは何かという定義から始まり、人間の体のつくりから考える、毒の効き方を分析し、致死量の概念、最強の毒ランキングを「初心者」のわたしに易しく教えてくれる。そして、毒の由来(植物、キノコ類、動物、魚・貝類)といった分類で、それぞれの毒を持つ生物の外観、致死量、飲むとどうなるか? 助かる方法を淡々と伝えてくる。

 興味深いのは、名探偵コナンで乱用されている「青酸カリ」の毒性が想像よりも弱いこと。もちろん猛毒であることは間違いないのだが、タバコに含まれているニコチンの方が強いことを知って驚いた。なるほど、コルクボールに多量の針を刺し、タバコから煮出したニコチンを浸して、「触るだけで死ぬ」暗器が出てくる『○の○○』は本当だったんだね。青酸カリは工業用に用いられるため、(その筋の人にとっては)手に入りやすいので多用されるのかな……と邪推してみたり、面白い読み方ができる。

 恐ろしいのは、人が作り出した毒である。生物毒はそれぞれの目的があって「毒」となっているだけで、そこに善悪はない。だが、人が作り出した毒は、悪意の入った化学物質だ。相手にダメージを与え死に至らしめる、容赦の無さかげんに鳥肌が立つだろう。

 さらには、後半で紹介されている毒殺事件が凄まじい。最近なら、母親にタリウムを飲ませた女子高生の事件などが紹介されているが、1986年の沖縄トリカブト殺人事件はこれで初めて知った。それはこんな事件だ。

 沖縄を訪れていた女性観光客が、突然、苦しみ悶えて死亡。遺体は解剖されたが不審な点はなく、心不全として処置された。同行していた友人が納得せず、再検査を要求したところ、トリカブトの毒であるアコニチンとフグ毒であるテトロドトキシンが見つかった。

 どちらも神経毒で摂取すると十数分で異変が生じるが、犯人は両方の毒を一度に飲ませることで、毒どうしの潰しあいが行われ、勝ち残ったほうの毒が被害者に対して「毒」としてはたらいた。結果が出るまで最長2時間かかることになり、犯人はアリバイを作ることができる。

 逮捕されたのは犠牲者の夫で、2億円近い保険金をかけ、トリカブトやクサフグを大量に購入していたという。以前の2人の妻も突然死で、なにかの毒物による他殺を疑ってもよいようなものだと報告されている。まさに、事実は小説よりも、おぞましい。

図解毒の科学 あわせて読んだのが、『図解 毒の科学』だ。こちらはもっと専門寄りで、化学式や神経系の構造図がどんどん出てくる。

 毒は人間と出会うことによって毒となるのであり、人間と関わり合いがなければ、毒は単なる「もの」でしかない。つまり、毒の誕生には人間との関係(歴史や文化)が肝要となるという。この観点から、前半で毒と人の関わりの歴史を説き、後半で毒がどのように人体に効くかを説明する。

 特に、毒を神経伝達系のメカニズムから解説する件が詳しい。神経における情報の伝わり方には2種類あり、シナプスにおける伝達物質による伝達と、細胞内の電気的信号による伝道の2種類あるといい、運動神経系と自律神経系、さらに後者は交感神経系と副交感神経系とに分けて、それぞれの伝わり方の特徴を説明する。

 つまり毒とは、これらの神経系の働きを阻害するものであり、阻害の仕方も種々様々になる。単純に「神経をマヒさせる」でくくれないところが、毒の怖さであり、どの神経系を機能不全にするかは、そのまま毒の即効性になる。何が起きるかは想像したくないが、具体的に知ることができる。

 さらに、覚せい剤の合成ルートを化学式から解説する。麻黄→抽出精製→エフェドリン→化学変換→メタンフェタミンを作るルートと、生薬→気管支喘息の薬→ヒロポンを作るルートがあるという。麻黄は漢方薬「葛根湯」にも配合されているというから、やり方によっては葛根湯から覚せい剤を作ることもできるのだろうか? その答えは書いていないけれど、やってる人がいそうで怖い。そんなに「知恵を絞」らなくとも、高校化学の知識だけで、毒の構造から生成まで理解することができる。ベンゼン環アレルギーのわたしでもすんなりハマれたのが、さらに怖い。

 さまざまな毒に詳しくなれる2冊。非常に興味深いが、けっして役に立て欲しくない2冊でもある。

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脳の中に美を探す『脳は美をどう感じるか』

脳は美をどう感じるか 人はどのように「美」を感じるのか? 美学、脳科学、心理学の知見から、美の本質を探った一冊。

 著者のスタンスは明確だ。人が美しいと感じる対象はさまざまだが、美を感じているときの脳の働きには共通性があるはずだという。この仮説を検証するため、欲求と美の関係を分析し、美術作品を見ている際に起きている脳内反応の研究を紹介し、さらには視覚認識のメカニズムから画家たちの意図や手法をもとに、美をリバース・エンジニアリングする。こうした、「美と脳」のアプローチから得られる知見やトリビア、可能性がめっぽう面白い。

 たとえば、絵を見せて「美しい」「醜い」「どちらでもない」と判断してもらう際、脳内での反応を研究した成果が紹介されている。その結果、「美しい」と評価される絵を見るとき、報酬系の部分が活発に反応しているという。これは、前頭葉の下部にある眼窩前頭皮質で、欲求が満たされるときや、その満足への期待があるときに働く部分だ。つまり、美しさは、「欲しがる脳」で感じているといえる。

 あるいは、美学の文脈で、ラマチャンドランの「ピークシフト仮説」を紹介する。誇張された特徴により、より「らしく」感じられる人の視覚機能だ。これは、認知科学の研究で近年になって明らかにされてきたものだが、昔から芸術家たちは経験的に理解・応用していた。例としてモンドリアンの画面構成が挙げられている。その線分と色彩は、視覚脳の働きを最大化するような表現がなされているという指摘は、自分の目をもって納得することができる。アート/美術は視覚の神経科学的な法則に従うといい、「優れた芸術家は優れた神経科学者」と仮説づける。この発想がユニークだ。

 だが、その一方で、あえて「美」を定義づけていない。その結果、本書を散漫にも幅広にもしてしまっている。美の美的なところは、かならずしも描かれたモチーフの美しさにあるものではない。何が美しいのか、年齢、性別、パーソナリティ、文化的背景から個人的感情まで、千差万別だろう。アトリビュートやアレゴリーは、美を理解するための手がかりにもなるにもかかわらず、そいつを無視して完全に色彩や構成だけで語るには無理があろう。著者はそこを認めたうえで、そこから受け取る体験は共通性が認められるのではないかと踏みとどまる。

 つまり、その体験の仕方を分析したところに、美の共通概念を探す。howを突き詰めることで、共通的なwhatが見えてくるというアプローチから、美を微分する。「何が美か?」に答えようとする限り、古今東西の哲学者や美術家が束になっても終わらない議論に陥る。だが、「美を感じるとき、何が起きているのか」をボトムアップで分析するなら、集合知としての「美」があぶりだされてくるという発想なのだ。

 この研究はまだまだこれからだけど、実は、わたしの中で一つの「結論」がついている。

 それは、「美とは、パターン認識における調和とズレ加減が"わたし"と合っていること」だ。これは音楽から学んだ。音楽の快や美について研究した『音楽の科学』『響きの科楽』によると、耳に入ってくる情報は選択的に減衰されて処理されている。そして、耳に入ってくる情報(=聞こえ)から次の音律やリズムパターンを予測し、予測と「聞こえ」が調和していれば、快や美を感じる(ただし、ずっと"正解"ばかりだと飽きるので、一定のズレも必要となる)。耳に入ってくる情報の処理パターンは、"わたし"の経験によって学習づけられている。音楽がどう聞こえるかは、聞こえた音そのものだけによって決まるのではなく、その人が何を聴いてきたか、ひいてはどういう音楽が聞こえると予測するかによって、「聞こえ」が変わってくる。

 ヒトの感覚の本質は、「外界から情報を得る」だ。視覚であれ聴覚であれ、情報処理の過程で、予測と実際の調和やズレを絶えずフィードバックしながら高度に発達させてきた。本来ならば、外敵から身を守り、未来の危険を予測し、子孫を残すための聴覚情報・視覚情報の処理プロセスだったが、人類にとってサバイバルな時期を越えても、このプロセスは生き残った。

 その経験の最適化が、いま聴いている・観ている"わたし"に美を感じさせる。あまりにも予測を裏切られる旋律ではなく、あまりにも予定調和な構成でない、「いい感じで経験を裏切り、更新する」ちょうどいい最適化こそが、美しい音楽であり、美しい絵画になる。音楽は、経験によって最適化された「聞こえ」の快であるように、美術は「見え」の快なのだ。

 巻末の参考資料も充実しており、読みたい本がまた増える。知的探究心を刺激するだけでなく、わたしの知見と化学反応を起こす一冊。

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