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『規則と意味のパラドックス』が超絶的に面白い

 今から奇妙なことを書くが、いったん真面目に受け取ってほしい。

 68 + 57 = 5 ……(1)

 いろいろ前提はあるが、(1)は正しいという。前提を聞くと、屁理屈にしか見えない。だが、いったん理解すると、論理的に正しいことが導かれる。これまでわたしが受けてきた「正しさ」が揺らぐ。そこから、ウィトゲンシュタインとクリプキを出汁にして、言葉と意味に内在するパラドックスを解き明かす。狂っているのに信じられる感覚が、超絶的に面白い。

 前提として、著者は生まれてこのかた、57より小さい数の計算だけしかしたことないという(普通もっと大きい数を計算しているだろうが、桁は議論の本質ではない)。

 そして「+」は和を示すプラスではなく、「クワス」という規則だと言い出す。クワスとはつまりこうだ。

 x と y がどちらも57より小さいとき
 x クワス y = x と y の和 ……(2)

 上記以外のとき
 x クワス y = 5 ……(3)

 ナゾナゾでもトンチでもない。だが、「+」を使う計算で、これまでにしてきたのは全て57より小さな数だけであるならば、「+」はプラスではなくクワスだとみなして悪い理由などないという。そして、次々と反論が繰り出される数学的な説明に対し、哲学的懐疑の立場から攻撃する。

 まず、足し算の規則を覚えているからという理由では十分ではないことを示す。さらに、合わせて数えるという足し算の原則からの反論や、加法の結合法則からの主張、そしてペアノの公理による反論も退ける。その理屈は共通している。すなわち、「x + y」を説明するどんな規則に関して、全く同じ問題が提起されるというのだ。

その規則に関してまったく同じ問題が提起されるからである。この規則は私はこれまで有限の回数しか用いていないはずである。そうした有限個の適用例のすべてと矛盾しない形で、この規則をクワス算のための規則と再解釈することができる。つまり、私の過去の行動は、私がこの規則をクワス算の規則として用いてきたという仮説と矛盾しない。

 つまり、演繹的に「すべて」を包括できる規則があったとしても、それを適用してきたのは有限回数だから、その「正しさ」を推論しているのは帰納的な経験(例えば、周囲に受け入れられた)に過ぎないことになる

 わたしが「+」を使ってきた経験が強固なため、クワス算は荒唐無稽に見える。だが、これを発展的に考えると面白い。本書では指摘されていないが、数学や科学の歴史を想起させられるから。

 たとえば望遠鏡。精度の高い望遠鏡により、「他の星の運行とは異なり、まるで惑っているように見える星」すなわち惑星が注目され、最終的に地動説の証明につながったエピソードは有名だろう。この場合は「望遠鏡」が「57」であり、「惑星」が「クワス」になる。数学なら無理数や虚数がそうだ。最初は荒唐無稽なものと扱われていたが、徐々に受け入れられ、今ではあたりまえのものとして教科書に載っている。

 著者はクリプキのウィトゲンシュタイン論から、さらに斬りこみ、「何が推論を正当化するのか?」と問うてくる。ある命題から命題を推論することと、その命題の「正しさ」を主張することは、根本的に別の問題である。したがって、推論の正当化は、命題の正当化とは根本的に異なるやり方で果たされなければならないという。例を示す。アリストテレスのこれだ。

  (a) 人はみな死ぬ
  (b) アリストテレスは人である
  (c) アリストテレスは死ぬ

 「人はみな死ぬ」があたりまえすぎるので見過ごされがちだが、「人はみな死ぬ」ことと、(a)と(b)から(c)が導けることは、根本的に別の問題だ。「人はみな死ぬ」命題が正しいからといって、(a)と(b)から(c)が導けることが「正しい」と考えるのは誤りだ。「アリストテレス」や「偶数の定義」を入れるから、正しいというバイアスがかかってしまう。だからいったん、これを抽象化させる。

  (a) PならばQ
  (b) XはPである
  (c) XはQである

上記の(a)と(b)から(c)が導かれる推論規則のパラドックスを導き出す。こんなふうに。

  (d) 上記の(a)(b)(c)が推論規則に当てはまる形をしているなら、
    (a)と(b)から(c)と結論してもよい
  (e) 上記の(a)(b)(c)は推論規則に当てはまる形をしている
  (f) したがって、(a)と(b)から(c)と結論できる

では、(d)と(e)の前提から(f)という結論に移行しているが、その移行はどうやって正当化されるだろうか? もちろん推論規則である。

  (g) 上記の(d)(e)(f)が推論規則に当てはまる形をしているなら、
    (d)と(e)から(f)と結論してもよい
  (h) 上記の(d)(e)(f)は推論規則に当てはまる形をしている
  (i) したがって、(d)と(e)から(f)と結論できる

 以後、無限に続く。推論規則が別の推論規則を必要とするのはおかしいし、わたしたちはどこかの段階で推論規則を止めて、自明のものとして扱う。問題は、そうやって推論規則を止めることではなく、止めたことに無自覚となることである。人であるかぎり、有限回数しか推論規則を当てはめることしかできないのだから。

 これは、人が言語を用いて意味を表す限り、けして抜け出ることのないパラドックスだと思う。なぜなら、人は言語を有限回しか意味に当てはめることをしてこなかったのであり、その正しさは演繹的ではなく、帰納的な経験(例えば、周囲に受け入れられた)に基づいているのだから。

 以下、自分メモ。クワイン『論理的観点から』における最も重要な文章の一つであり、『規則と意味のパラドックス』のエッセンスでもある。

われわれのもつ信念の全体から成る体系のどこか別のところで思い切った調整さえ行うならば、何が起ころうとも、どのような言明に関しても、それが真であるとみなし続けることができる。周縁部にきわめて近い言明でさえ、それにしつこく反するような経験に直面したとしても、幻覚を申し立てるとか、論理法則と呼ばれる種類の言明を改めることによって、相変わらず真であるとみなし続けることができる。逆に、まったく同じ理由から、どのような言明も改訂に対して免疫をもっているわけではない。排中律のような論理法則の改訂さえ、量子力学を単純化する一手段として提案されている。そして、こうした転換と、ケプラーがプトレマイオスに取って代わった転換、あるいはアインシュタインがニュートンに、ダーウィンがアリストテレスに、といった転換とのあいだに、原理的などういう違いがあるというのだろう。

 「68 + 57 = 5」が成立する理由が分かれば、超絶的に楽しめる。言葉と意味の隙間でもだえる一冊。

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コメント

管理人はこれまでにも分析哲学や科学哲学の本を色々読んでいたのではないか。
今更、規則のパラドクスにそんなに面白がってどうした?

書評サイトとしては、管理人は同じ知的レベルで徘徊し続けなければならないのか。

確かに本書は規則のパラドクスに関する優れた概説書ではあるが、しかし・・・

投稿: | 2016.12.19 12:11

>>名無しさん@2016.12.19 12:11

ご叱責のお言葉(?)痛み入ります。
分析哲学なら、いまウィトゲンシュタインの『探究』の方を読んでいます。楽々と進むわけにいかず、寄り道・回り道・戻り路しながら、楽しんで進めています。このエントリは、そんな道程で得たものだと思ってください。

投稿: Dain | 2016.12.23 17:56

経験的に知るアプリオリに正しい規則と
経験によらず知ることのできるアプリオリに正しい規則
を混同してませんかね?

投稿: のじま | 2016.12.27 06:25

>>のじまさん

コメントありがとうございます。わたしの勉強不足のため、のじまさんのコメントを理解できていません。「アプリオリ」という言葉は、経験に先立つ自明な認識や概念を指しています。従って、「経験に依る/依らない」は、アプリオリに正しいこととは関係ないような気がします……

もし御回答いただけるのであれば、「経験的に知るアプリオリに正しい規則」の例と、「経験によらず知ることのできるアプリオリに正しい規則」の例を示していただければ、わたしにも理解できるかもしれません。

投稿: Dain | 2016.12.28 10:58

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