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私の境界は外に開いている『具体の知能』

 プレステVRで「バイオハザード7」を初めてプレイしたとき、面白いことが起きた。「寒く」なったのだ。

 暑い盛りでクーラーきいてなくて汗かいているのに、「寒い」のだ。もちろん、めちゃくちゃ怖い思いをしたので寒く「感じた」のかもしれないが、違う。吐く息は白く、鏡は曇る。「私が」物理的に寒いのだ。ヘッドセット&ヘッドホンに包まれた頭を動かした分だけ、世界の「見え」と「聞こえ」が変わってくる。あの、空気の感じを、肌だけではなく眼でも知覚してたんやね。

 ラバーハンド実験もそう。自分の手を隠し、代わりに本物そっくりのゴム製の手を並べておく。ゴムの手に対し、ブラシで撫でたり、氷を近づけると、隠した自分の手が「触られている」「冷たい」と錯覚してしまう実験だ。あるいは、「停止したエスカレーター」を歩いたことはあるだろうか? あの黒い階段は動いているという思い込みのため、足の踏み出しが難しく感じたことはないだろうか。

 私はある。言葉では難しいが、視覚情報に身体が騙されているというよりも、「見え」の前に身体性が連動されている感覚がある。反射に近いが、生得的なものではなく、経験を裏切る錯覚のような反応だ。

 すなわち、知性を「入力→判断→出力」のプロセスに分けたとき、入力段階で成されているプレ判断のようなもので、入力される客体が持っている情報をトリガーとする。ドアノブ(握ることができる)とか、リンゴ(食べることができる)に代表される、アフォーダンスと呼ばれる概念をプレ判断するような「見え」だ。私の「見え」は、私の外側に既にあるという感覚だ。

 視覚ではなく、お玉やハンマーなどの道具を手にしたときにも、この経験をする。お味噌汁をお玉ですくうときや、ハンマーで釘を打つとき、私と道具の境界はグリップを握った手の部分なのだが、そこは感じて(意識して)いない。もちろんグリップの感覚から情報を受け取っていることは事実だが、「私」はお玉の先・ハンマーのヘッドにまで拡張されている。その道具に馴染めば馴染むほどこの感覚は強く、うっかりぶつけてしまうと「痛ッ」とつぶやいたりする(私の身体はどこにも当たっていないのに!)。

 この、私を拡張した感覚の研究成果をまとめているのが、本書になる。知覚という現象はアタマの内部で起きているのではなく、私と私を取り巻く環境との間で起きていることが分かる。「私の拡張」は、テンセグリティと触力覚やギブソンの媒質論によって解説されている。

 そこでは、「入力→判断→出力」や感覚器官と脳といった要素還元的なものではなく、「動く」器官と「感覚する」器官が同一だったり(即ち手)、環境を探りながら働きかける運動器官としての身体が現れてくる。何かを知ろうとするとき、私たちは身体を動かしたり、「なにか」を回したりして探索する。

 たとえば、新しいハンマーを持つとき、手首をぐるぐる回したり、ヘッドをゆらゆら動かして扱いやすさを測る。このとき、グリップから伝わる触覚へのばらばらな刺激を元に脳内でハンマーを再構成しているのではなく、手の先にあるハンマーという秩序(ヘッドとグリップで構成される経験的に獲得してあるハンマーらしさ)を検知・識別している。身体を動かすことで「ハンマーという不変のパターン」を浮かび上がらせているというのだ。

 「見る」についても、同じ考え方が適用される。何かを「見る」とき、私たちはどこかに固定されていて、無理やり網膜に光が投影されているわけではない。客体を眺め、見まわし、近寄って見ている。著者は警告する。

「見る」ことの議論を、光受容器への入力から始めてしまうと、それ「以前」に起こっている生きた活動は、すっぽりと抜け落ちてしまう。ニュートン以来、「見る」ことを、網膜像が入力された「以降」の内的なプロセスへと還元しようとする思考の習慣は根強い

 この還元主義的な思考から離れると、網膜像や光受容器の興奮は、入力ではなく、環境を視線につなぎとめ、見まわし、焦点を合わせるといった、身体全体の「見る」活動の結果として付随して起こっている現象だと考えることができる。この発想が凄い。そして、ギブソンの「包囲光配列」の考え方を用いて、「見る」とは観察点を包囲する光の配列を足場として、その変化や不変を検知し、識別する動物の活動がまるごとかかわるものとする。

 つまり、「見る」とは、感覚器へのばらばらな刺激を前提としているのではなく、観察点の移動がもたらす包囲光の構造の変化を通じて、「不変な」構造を洗い出す行為になる。観察者が眺め、見まわし、近づく動きによって、地面や物の肌理に依存する「不変量(invariants)」を抽出することの結果として「見る」ことになるのだ。

 ヒトの生理学的構造は変わっていないのに、「知覚」への生態学的アプローチによって「見る」「感じる」がこれだけ変わるのに驚く。このアプローチは、ものすごく面白い。『教養としての認知科学』『野性の知能』『「こつ」と「スランプ」の研究』など、最近の認知科学の読書がつながってゆく。世界は変わっていないのに、世界の捉え方が変わってゆくことを体感する一冊。

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