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理系に理解できない科学『科学するブッダ』

科学するブッダ ごめんタイトル煽りすぎ。文系なら理解できるかというと必ずしもそうではなく、理系であっても理解できる人がいるだろうから。なので言い直すなら、「パズル解きこそ全てだと考える科学者に対する、自らが依って立つパラダイムを超える科学」になる。その可能性を、量子論(1章)、進化論(2章)、数論(3章)とブッダの思考(4章)に追ったのが『科学するブッダ』である。

 著者は、理系出身の仏教学者。一見、無関係に見える科学と仏教の共通性を示すことが本書の目的だが、そこに至るまでを回りくどいほど丁寧に説明する。というのも、両者の似たものを並べてみせて一緒くたにする安直な議論を回避したいから。ありがちなネタとして、華厳経にフラクタルを見たり、法華経と量子論を重ねることは、面白いかもしれないが、ただの思考のお遊びに過ぎないと両断する。

 本書では、仏教の神秘性を極力排除し、上座部仏教の合理性の中に科学的思考を読み解いている。共通点を並べるのではなく、科学的思考そのものがどのように変遷していったかを巨視的に捉えようとする。そのため、科学を科学たらしめている本質にまで掘り下げてみせるのだが、その道筋が恐ろしくスリリングで面白い。

 仮に、実証性や合理性といった特徴をもって「科学的」とみなし、あたかも一枚岩の思想のように考えているのなら、本書によって足元が崩されてしまうかもしれない。というのも、合理性の理(ことわり)を、どこに置いているのかといった分析や、人間存在に起因する不可知論、さらには矛盾の実証まで踏み込んだ議論を展開しているから。「科学的であること」は、必ずしも一貫していないことが見えてしまうから。

 本書を貫くキーは、「科学の人間化」だ。それは、神の視点で語られていた世界の真理が、現実の観察により人の視点によって修正されていく過程のことを指している。この「神」も、いわゆる創造主としての神に限らず、我々の頭の中で納得できる、端正で美しい「完全性」としてとらえたがる思考も含んでいる。

 つまり、科学的アプローチによって詳らかにされた「世界はかくあるべし」というシンプルな姿が、さらなる科学的アプローチによって書き換えられたり、様々な例外や定数やモデルを必要とし、人に分かるように整理されて(理解の埒外は"複雑性"もしくは"確率の問題"と片付けられて)ゆく変遷が、「科学の人間化」なのだ。

 この変化は百年単位で眺めると分かるのだが、中にいる我々は、自分の依って立つパラダイムを相対化してみることは難しい。これは、西欧の一神教世界から近代科学の視点への変遷と捉え直しても面白い。

デカルトの立場からニュートン力学を見たとするなら、直覚の求める機械的宇宙観が否定され、重力という摩訶不思議力を組み込んだ怪しい体系に取って代わられたという点では堕落であり、理屈では納得のいかない重力という遠隔作用を、それが現実にみられるという理由で無条件に組み込んだという点では、人間化が一歩進んだということになる

 その根底には、「神」ないし「私」という絶対的な存在があり、その存在が見ている世界は、誤りや曖昧さを含めずに記述可能である、という考え方が潜んでいる。そして、絶対存在から見た世界の客観的なありようを正しく記述することが科学の目的だ、ということになる。

 さらに、ニュートン力学の神の視点から人の視点にさらに進めたものが、パラダイムとしての相対性理論だという。絶対的な時空間から瞬時に観測対象を認識できる主体としての「神」から、観測者の運動系によって事象の同時性すら左右されてしまう「人」に視点が移っていく。

 では、相対性理論を越えて科学の人間化を推し進めるなら、何が考えられるだろうか? 著者は、この同時性の問題から可能性を模索する。すなわち、認識する対象側の同時性については相対性理論で説明できてはいるものの、認識する主体側の同時性からアプローチするのだ。そこから、「脳の働きを厳密な数式として物理法則に組み込む」という現状では不可能なアイディアが飛び出してくる。ほぼSFの世界だが、科学が、世界の本当のありかたを人の視点から説明しようとする営みである限り、向かう先の一つであることは否めない。

 本書は、さらに踏み込んでくる。物理学の視点が神→人に移るさらにその先に何があるか? 著者はここで、もっと恐ろしいことを言い出す。

もしも物理学というものが、現実世界のありさまを、最も一般化した形で記述することを目的にするなら、生物の認識システムの違いに左右されない、普遍的法則を探究すべきであろう。この立場から見ると、相対性理論にはまだ「人間を唯一の認識主体とする」という点で神の視点が残っている。

 そして、相対性理論に残された神の視点を取り去るため、物理学の普遍化を提案する。つまり、認識媒体として普遍の存在である、「光」を相対化して、認識媒体のパラメータの一つとして扱ってみてはどうかというのだ。

 この発想は凄い! 理系文系関係なく、わたしが囚われていたパラダイムを破壊するアイディアなり。そして、「光」以外へ認識主体を拡大するシフトが起こりうるとしたなら、そこで必要とされるのは、それぞれの認識媒体ごとに要求される因果律の成立条件を記述できるような方法になるのではないかという。たとえば「音」を最速の認識媒体とする生物は、どのような物理体系を構築するかという視点から考察を進め、そこで得られた数学的手法を一般化することで、次世代の物理体系が構築できるのではないかという。

 これは、ユクスキュルの環世界を想起させる思考だ。普遍的な時空間は、認識媒体を異にするそれぞれの主体によって独自の世界として知覚されているのだから、それぞれの普遍性を説明するためには、いったん人の視点に依って立つ物理体系を相対化させる必要があるのだ。著者はこの後、認知科学と物理学のタッグにその可能性を示唆するが、未来すぎる。形になるのは数十年から百年かかるだろう。

 著者は、本書の大半を費やして、量子論、進化論、数論を切り口に、科学の人間化が起きていることを解き明かす。世界の真の姿を求めて論理思考を繰り返すうちに神の視点を否応なく放棄させられ、次第に人間という存在だけを拠り所として物質的世界観を作らねばならなくなってきたという。

 そして、その先にある、絶対者のいない法則性だけの世界で、自己のアイデンティティをどうやって確立していくかという話になると、それは仏教の話になる。ただし、方向性は異なる。神なき世界で人間という存在だけを拠り所として、精神的世界観を確立するために生まれてきた思考こそが、ブッダの考えなのだというのだ。著者が夢見る「科学者するブッダ」は百年千年先かもしれない。だが、百年千年前からの「科学の人間化」は、確かに同じ思考を辿っている。

 わたしの想像力では、確度を測ることすらおぼつかない。だが、考えるだけでも楽しくなってくる。百年先のパラダイムを創造するための一冊として稀有なスゴ本、それが『科学するブッダ』である。

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