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歴史と物語のあいだ『歴史学ってなんだ?』

歴史学ってなんだ 「歴史の専門家は、『ローマ人の物語』をどのように評価しているのか?」について調べたことがある。史学雑誌の論文によると、小説として読まれるならいいが、図書館や学校で「歴史」扱いされるのが問題だという。根拠のない断定や誤りが目に付き、聞き捨てならない記述もあるらしい。プロの目で徹底的に検証してやりゃいいのに……と思ったが、実際にバトルがあったかどうかは寡聞にして知らぬ。

 タイトルに「物語」と書いてるし、歴史家と違って小説家は自由に想像できると宣言しているので、読者も「そういうもの」として受け取るだろう。しかし巻末に膨大な「参考文献」を付けてきたり、図版を掲載することで権威の皮を被っており、演出上手だなぁと感心してた。

 上手にウソをつくコツは、真実の中に混ぜることだ。『ローマ人の物語』の面白さは、史料の裏づけのある論説と、自由に想像した物語とを織り交ぜながら、見てきたように書いてあるところにある。塩野だけでなく、司馬遼太郎もそう。エンタメは、エンタメとして楽しめばいい。

 だが、世の中に、本気にする人がいるようだ。つまり、小説としてではなく、史実として信じ込み、歴史学者に「デタラメ言うな!」と苦情を寄せるらしい。

「司馬遼太郎はどういう風に、シロウトをだましてきたのか?」(※褒め言葉)

 これは、読み手のリテラシーの問題である一方で、歴史と物語の境界という、微妙な問題をも浮彫りにしている。いわゆる歴史学者が書く「歴史書」と、小説家が書く「歴史小説」のあいだに、どのような違いがあるのだろうか。

 歴史学者である小田中直樹が書いた『歴史学ってなんだ?』によると、明確な違いがあるらしい。史料に基づくという「真実性」を経由しているか否かが、歴史書と歴史小説の境界だという。史料や先行研究に基づいて考察を進めるところまでは両者は一緒でも、最終判断に客観性が求められているのが歴史書であり、著者の主観に委ねられているのが小説になる。

 つまり、歴史書は、根拠がないものは正直に「分からない」「これはあくまで仮説である」と断らなければならない。これは、『理科系の作文技術』で、さんざん叩き込まれるやつ。どこまでが事実の報告で、どこからが仮説・意見なのか分からないような文書は、まともに扱ってすらもらえない。事実と意見は分けて書け、というやつだね。

 しかし、その境界は曖昧にみえる。試みに、『ローマ人の物語』を図書館で探してみよう。品川区立図書館の場合、分類コードは「232:西洋史・古代ローマ」になっている。ということは、『ローマ人』は歴史書の棚に並んでいる。いっぽう、『竜馬がゆく』は「913:小説・物語」だから、『竜馬』は小説の棚にある。この分類からすると、小説である『竜馬』を本気で信じる人でなくても、『ローマ人』を歴史書ではないと考えるのは難しい(わたしは「914:評論」が妥当だと思う)。いくら歴史のプロが「真実性」を強調しようとも、図書館や一般の人々にとって暗黙の了解として定着してしまっている。むしろ、そうした一般的な了解こそが、「真実性」をある程度左右していくのではないか。

 つまりこうだ。文書・証言・物証を通じて過去と向き合うとき、100%そのままを再現させることは不可能だ。代わりに、その人の関心領域や知的レベル、価値観といったフィルタリングを経て、出来事は選択的に認識される。そこから漏れたものは、無かったことか、重要でないものとして扱われてしまう。

 さらに、このフィルタは、その人が受けてきた教育や文化、地域性、その時代の常識によって作られている。プロならそうしたバイアスを自覚して、ある程度補正することも可能かもしれない。だが、世間一般は、フィルタを意識することすらできないかもしれない。そして、フィルタリングされた「史実」によって構築された歴史像が、次の時代の「常識」を再生産していく。もちろん、歴史家の仕事によって、歴史像は形作られているだろうが、その時代その地域の「常識」と衝突しないように作られている。歴史家のいう「真実性」のもっともらしさは、こうした時代や地域の「常識」との距離感による。

 『歴史学ってなんだ?』では、この「真実性」を軸に、従軍慰安婦論争を整理する。構造主義の流れから「史実は分からない」として、想像力で埋めた「物語」にしたり、主張に沿って「記憶」を選び取ろうとする先には、不毛な議論が待っているという。それよりも、証拠を集め、皆で突合せ、そこからどんな「コモン・センス」が得られるかを考えてみることのほうが、はるかに意味があるという。

 著者の主張には賛成だ。しかし、歴史認識における議論の正当性を測る基準として、歴史学がどこまで役に立つかは疑問が残る。なぜなら、そうした「コモン・センス」は、時代や地域、文化の影響を免れない。「どこから」証拠を集め、「どの国の」皆で突合せるかによって、異なる歴史認識が現れてくることは否めないからだ。

 著者は歴史学を、(トマス・クーンでいうところの)通常科学として評価し、「真実性」という基準をパラダイムの一種として考えているようだ。天動説や相対性理論は、地球のどこでも通用するだろうが、ある歴史認識を形作る考え方や認識の枠組みは、時代によっても地域によっても異なる場合がある。同じエビデンスから異なる認識が導き出されることもあるし、取捨選択されるエビデンスが異なることだって考えられる。

 わたしにとって、歴史と物語の間は、きっちりとした境界線というよりも、見方・枠組みによってグラデーションをなしているように見える。エンタメとして接するときは「物語」として割り引くし、プロパガンダに悪用されるときは、エビデンスと主張の距離からバイアスを測定する。そういう道具として、歴史とつきあっていきたい。

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最高のライトノベル『この恋と、その未来。』───ただし完結するならば

 「恋とは幻である」これに賛成するならば、『この恋と、その未来。』は最高のラノベである(断言)。

この恋1 この恋2 この恋3
この恋4 この恋5  

 恋とは、求めるものを投影した相手に惚れてから幻滅するまでのわずかな期間のことを指すか、または一生醒めない夢を見続けることだ。従って、叶った恋は恋でなくなるから、ホントの恋は片想いになる。「この恋」を、ずっと大事にしていきたいのなら、決して明かしてはならないし、露ほども表にしてはならない。そのためには、嘘でもいいから彼女をつくり(そのコにとってはいい迷惑だ)、周囲を騙し、自分を偽る。恋の本質は、秘めた幻なのだ。

 だが、そんなことできるわけがない。自分も相手も、若いんだし、若いということは、変化することなんだから。心はそのままでいたいと願っても、体は変化する。男は男の体に、女は女の体に。見た目だって、匂いだってそうなってくる。欲を求める自分の肉が、おぞましいものに見えてくる。変化に抗って、「この恋」をそのままに留めるには、すごい力を必要とする。恋は常に現在形である。「この恋」を、そこに留めておくために、絶えず全力で走り続けなければならないから、現在進行形なのだ。

 だから、表紙の人の名前を「未来」(みらい)にしたのは素晴らしいアイディアだ。未来は、GID(性同一性障害)である。身体は女性なのに、心は男性という不安定な思春期を過ごし、「男」として全寮制の高校に入学する。そのルームメイトとなった四朗が、未来のことを好きになってしまう───というのが物語の骨格になる。最初は、戸惑いながらも男として、親友として接していく。しかし次第に、女の身体という秘密を隠す共犯者として、そして、いかにもラノベらしいフォーマットに則ったイベントを進めていくうち、だんだんと惹かれていく。

 だが、四朗は、自分の想いを伝えるわけにはいかない。未来は、あくまで「男」として相対してほしいのだから。告げた瞬間、「この恋」は失われるだろう。だから四朗は、「この恋」を大事にしていくため、心の奥底に押し込んで、絶えず全力で隠し続ける。現在形の恋を、「未来」に向けている時点で、決して叶わないことが分かる。「みらい」は性差のない名前であるとともに、恋の叶わない相手でもあるのだ。

 周囲には未来の身体の秘密を、そして未来には、自分の想いを押し隠しながら日々を過ごす。四朗の、その姿が滑稽で、時にゲスな行為にまで及ぶにつれ、読み手は息苦しさと、歪んだ緊張感を抱き始める。スラップスティックな鞘当てに陥ったり、周囲を欺くためにダミーの恋をしようとする(これはゲスの極み)。四朗は悩む、恋は、心でするのだろうか、それとも、体でするのだろうかと。

 四朗の苦悩は、(ラノベの主人公であるがゆえ)地の文に記されている。地の文=彼の思考のほとんどが、未来に埋め尽くされている。そして地の文を、将来という意味での「未来」に置き換えて読むことができるのだ。この仕掛けは凄い。単に性差の少ない、両方で用いられる人名としての「みらい」が、ここでも効いている。未来とのみらい、それは、恋が現在形である限り、叶わぬ幻なのだ。とあるさりげないシーンで、この本質を言い当てたアドバイス(?)がもたらされる。これは本書のテーマそのもの。

「幻ってことは、何をしてもいいってことだ。だって、幻なんだから。恋をする相手すら、所詮は自分で生み出した幻なの。だけど幻だから、何をしても後悔するし、何もしなくても後悔するよ。それだけ分かってりゃ、いい。以上、じゃあな」

 そして四朗は、したことと、しなかったことの両方を後悔することになる。物語の終わりが近づくにつれ、ラノベのフォーマットを逸脱するような展開になり、思わず知らず声が漏れる。これは、ラノベの皮を被った生身のラブストーリーなんだと分かる。前作の東雲侑子でやれなかった、生々しさをやろうとしていることが分かる。そして、これからどうなるの!? というところで唐突に終わる。あとがきによると、大人の台所事情のようだ。ものすごくもったいない。こんな重いテーマは、確かにライトノベル向けではないのかもしれない。そう考えると、よくぞここまでやってきたと思う。

 しかし、最終巻になる第6巻が出るならば、溜めに溜めてきた、秘めた思いが爆発すると思う。ここからはわたしの予想を描く。それまでのネタバレを全部さらけ出すので、ここから先は、5巻まで読んでからにしてほしい(反転表示)。

 ここから。

 

 出てった未来の行く先は分かっている。二胡姉のところだ。3巻の伏線と5巻の前フリから、未来は二胡と一緒に暮らし始めていることが分かる。「彼女がいるから付き合えない」と断ったものの、要とああなった以上、そして広島にいられなくなった以上、東京に戻るしかない。だが、家には戻りたくない。だから、中学までのしがらみから離れたところを探そうとするだろう。

 しかし、なぜ二胡なのか? もちろん彼女から言い寄られたというのもあるが、それだけではない。四朗の面影があるから───未来は、四朗と離れるために二胡を愛そうとする。

 これは、2~4巻で四朗が沙耶に対してしたことと相似をなす。「男」である自分が愛するとするなら、女だ。だからそうではない思いを否定するため、自分が本当に好きなものを上書きしてもらうように、二胡に委ねる。ずっと思いを胸に秘め、絶対に気取られないように慎重に行動していたのは、四朗だけではなく、未来もそうだったのだ。

 最初、未来は大いに困惑しただろう。「男」である自分が、四朗に惹かれるのだから。二重の意味で自分を気味悪く感じたに違いない。しかし、この感情を表に出さないようにしながら、四朗との距離を測りながら、未来も悩み始める。四朗への想いは、心なのか体なのかと。そして、四朗の告白により苦悩は深まり、扱いきれない気持ちを吐き出すため、半ば自覚的に記すようになる。この期間は半年から1年、あるいはそれ以上かかるだろう(著者が5巻に収められないといっているのは、この表面に出てこない物語中の時間を指しているのだと考える)。

 これらの想いは、そのまま未来の口から語られることはない。長すぎる告白になるし、だいたいファイナルインパクトというやつは、最後の手紙と相場が決まっている。だから、書かれたときに渡されなかった手紙という形で、四朗は向かい合うことになる。

 一方、四朗はどうしているか。広美さんの導きを経て変化した彼は、和田と対決しなければならない。いや、4巻で殴られた恨みを晴らす話ではない。殴られた理由を沙耶に告げず、ずっと耐えている四朗は、ツンデレの和田にとっては「フラグが立っている」状態なのだ。

 というのも、口絵を見ると分かる。恋人だった沙耶の姿は4巻から影が薄らぎ、5巻ではフェードアウトしている(代わりに5巻では、広美、ボンちゃん、そして和田がある)。この和田フラグを回収するところで、ひとつのエピソードを成すだろう。和田が未来の秘密までたどりつけるかは分からない(おそらく無理)。だが、四朗の想いの一途さに怯むことで収束するだろう。

 四朗は、未来からの手紙を記された順番に読み始める。それは、1~4巻までの、なんてことのない二人の出来事───運動部のために夕食を作ったり、プールで泳いだり、女装したり───を再度追いかけながら、四朗から見えなかった未来の気持ちが訥々と語られているだろう。そして、一番新しい手紙には、日時と場所が書いてある(たぶん宮島)。そこへ、こいと。

 それから─── そこからが分からない。なぜなら、GIDについて、わたしの知識が足りないから。従って、二つの結末が考えられる。

 ひとつは、そこに未来(ミキ)がいる。女性の姿をして、四朗に向かい合おうとする。性の同一性が「戻る」なんてことがあるのかどうか、わたしには分からない。ましてやそれが、薬や意志でどうにかなるとも分からない。だが、「女性」性になった未来(ミキ)が未来(みらい)でなくなるところで、恋が未来系から現在形に変わる。

 もう一つは、未来(みらい)がいる。GIDは病気ではない。「克服」するものでも「治療」するものでもない多様性の一つである。だから未来(みらい)はそのままであり続けようとし、それゆえ本当のさようならを告げることになる。このルートだと、未来(みらい)、四朗、沙耶、和田、広美の全員が、幻を恋していたことになる。「恋は幻」テーマそのものを貫くと、このラストになる。
 ここまで。

 『この恋』は、フォーマットとパッケージがラノベなだけで、小説として十分な収穫がある。マグカップや携帯データ、"女装"を使った伏線と回収の技は巧みだし、"感情"を見せずに気付かせる描きかたもうまい。願わくば、最終巻が出ることを祈って。そしてわたしの予想を上回る素敵なラストであることを願って。

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理系に理解できない科学『科学するブッダ』

科学するブッダ ごめんタイトル煽りすぎ。文系なら理解できるかというと必ずしもそうではなく、理系であっても理解できる人がいるだろうから。なので言い直すなら、「パズル解きこそ全てだと考える科学者に対する、自らが依って立つパラダイムを超える科学」になる。その可能性を、量子論(1章)、進化論(2章)、数論(3章)とブッダの思考(4章)に追ったのが『科学するブッダ』である。

 著者は、理系出身の仏教学者。一見、無関係に見える科学と仏教の共通性を示すことが本書の目的だが、そこに至るまでを回りくどいほど丁寧に説明する。というのも、両者の似たものを並べてみせて一緒くたにする安直な議論を回避したいから。ありがちなネタとして、華厳経にフラクタルを見たり、法華経と量子論を重ねることは、面白いかもしれないが、ただの思考のお遊びに過ぎないと両断する。

 本書では、仏教の神秘性を極力排除し、上座部仏教の合理性の中に科学的思考を読み解いている。共通点を並べるのではなく、科学的思考そのものがどのように変遷していったかを巨視的に捉えようとする。そのため、科学を科学たらしめている本質にまで掘り下げてみせるのだが、その道筋が恐ろしくスリリングで面白い。

 仮に、実証性や合理性といった特徴をもって「科学的」とみなし、あたかも一枚岩の思想のように考えているのなら、本書によって足元が崩されてしまうかもしれない。というのも、合理性の理(ことわり)を、どこに置いているのかといった分析や、人間存在に起因する不可知論、さらには矛盾の実証まで踏み込んだ議論を展開しているから。「科学的であること」は、必ずしも一貫していないことが見えてしまうから。

 本書を貫くキーは、「科学の人間化」だ。それは、神の視点で語られていた世界の真理が、現実の観察により人の視点によって修正されていく過程のことを指している。この「神」も、いわゆる創造主としての神に限らず、我々の頭の中で納得できる、端正で美しい「完全性」としてとらえたがる思考も含んでいる。

 つまり、科学的アプローチによって詳らかにされた「世界はかくあるべし」というシンプルな姿が、さらなる科学的アプローチによって書き換えられたり、様々な例外や定数やモデルを必要とし、人に分かるように整理されて(理解の埒外は"複雑性"もしくは"確率の問題"と片付けられて)ゆく変遷が、「科学の人間化」なのだ。

 この変化は百年単位で眺めると分かるのだが、中にいる我々は、自分の依って立つパラダイムを相対化してみることは難しい。これは、西欧の一神教世界から近代科学の視点への変遷と捉え直しても面白い。

デカルトの立場からニュートン力学を見たとするなら、直覚の求める機械的宇宙観が否定され、重力という摩訶不思議力を組み込んだ怪しい体系に取って代わられたという点では堕落であり、理屈では納得のいかない重力という遠隔作用を、それが現実にみられるという理由で無条件に組み込んだという点では、人間化が一歩進んだということになる

 その根底には、「神」ないし「私」という絶対的な存在があり、その存在が見ている世界は、誤りや曖昧さを含めずに記述可能である、という考え方が潜んでいる。そして、絶対存在から見た世界の客観的なありようを正しく記述することが科学の目的だ、ということになる。

 さらに、ニュートン力学の神の視点から人の視点にさらに進めたものが、パラダイムとしての相対性理論だという。絶対的な時空間から瞬時に観測対象を認識できる主体としての「神」から、観測者の運動系によって事象の同時性すら左右されてしまう「人」に視点が移っていく。

 では、相対性理論を越えて科学の人間化を推し進めるなら、何が考えられるだろうか? 著者は、この同時性の問題から可能性を模索する。すなわち、認識する対象側の同時性については相対性理論で説明できてはいるものの、認識する主体側の同時性からアプローチするのだ。そこから、「脳の働きを厳密な数式として物理法則に組み込む」という現状では不可能なアイディアが飛び出してくる。ほぼSFの世界だが、科学が、世界の本当のありかたを人の視点から説明しようとする営みである限り、向かう先の一つであることは否めない。

 本書は、さらに踏み込んでくる。物理学の視点が神→人に移るさらにその先に何があるか? 著者はここで、もっと恐ろしいことを言い出す。

もしも物理学というものが、現実世界のありさまを、最も一般化した形で記述することを目的にするなら、生物の認識システムの違いに左右されない、普遍的法則を探究すべきであろう。この立場から見ると、相対性理論にはまだ「人間を唯一の認識主体とする」という点で神の視点が残っている。

 そして、相対性理論に残された神の視点を取り去るため、物理学の普遍化を提案する。つまり、認識媒体として普遍の存在である、「光」を相対化して、認識媒体のパラメータの一つとして扱ってみてはどうかというのだ。

 この発想は凄い! 理系文系関係なく、わたしが囚われていたパラダイムを破壊するアイディアなり。そして、「光」以外へ認識主体を拡大するシフトが起こりうるとしたなら、そこで必要とされるのは、それぞれの認識媒体ごとに要求される因果律の成立条件を記述できるような方法になるのではないかという。たとえば「音」を最速の認識媒体とする生物は、どのような物理体系を構築するかという視点から考察を進め、そこで得られた数学的手法を一般化することで、次世代の物理体系が構築できるのではないかという。

 これは、ユクスキュルの環世界を想起させる思考だ。普遍的な時空間は、認識媒体を異にするそれぞれの主体によって独自の世界として知覚されているのだから、それぞれの普遍性を説明するためには、いったん人の視点に依って立つ物理体系を相対化させる必要があるのだ。著者はこの後、認知科学と物理学のタッグにその可能性を示唆するが、未来すぎる。形になるのは数十年から百年かかるだろう。

 著者は、本書の大半を費やして、量子論、進化論、数論を切り口に、科学の人間化が起きていることを解き明かす。世界の真の姿を求めて論理思考を繰り返すうちに神の視点を否応なく放棄させられ、次第に人間という存在だけを拠り所として物質的世界観を作らねばならなくなってきたという。

 そして、その先にある、絶対者のいない法則性だけの世界で、自己のアイデンティティをどうやって確立していくかという話になると、それは仏教の話になる。ただし、方向性は異なる。神なき世界で人間という存在だけを拠り所として、精神的世界観を確立するために生まれてきた思考こそが、ブッダの考えなのだというのだ。著者が夢見る「科学者するブッダ」は百年千年先かもしれない。だが、百年千年前からの「科学の人間化」は、確かに同じ思考を辿っている。

 わたしの想像力では、確度を測ることすらおぼつかない。だが、考えるだけでも楽しくなってくる。百年先のパラダイムを創造するための一冊として稀有なスゴ本、それが『科学するブッダ』である。

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絶望保険『絶望読書』『なぜ私だけが苦しむのか』

 いざというときが、いまというときであり、
 いまというときが、いざというときである。

 この「いざ」と「いま」を分けて考えているから、いざというときには間に合わない。だから常日頃、考えろと300年前のモノノフは言った。300年後のわたしは考える代わりに保険に入り、「いざ」というときに役立ちそうな保険本を読む。

なぜ私だけが苦しむのか 絶望の淵に立ち、「なぜ私だけが苦しむのか」と問いたくなったときに読むなら、文字通り『なぜ私だけが苦しむのか』を推す。病や事故、わが子や配偶者の死など、立ち直れないほどの出来事に遭遇したとき、人は宗教に救いを求める。だが、宗教はあまり役に立っていないという。ほとんどの宗教は「起こってしまった悪いこと」に対し、神を正当化することにかまけ、嘆き悲しむ人に寄り添っているものは少ないからだという。

 いま読まなくてもいい、タイトルだけを頭の片隅に入れておくか、棚のあそこにあると意識しておくだけでいい。絶望が本当にやってきたそのとき、どう向き合えばいいのかが、書いてある。「絶望の最中、本なんて読む余裕はない」という人がいるが、その通りだろう。そこまで気付けるのなら、これで予習するといい。わたしのレビューは、[なぜ私だけが苦しむのか]にある。

 そして、絶望する期間が長引くほど、荷はどんどん重くなり、日常は侵食され、朝起きることから辛くなる。時が解決してくれるかもしれない。いずれ折り合いが付くかもしれない。だが、そこに至るまでの期間、どうすればよいのか。

絶望読書 絶望からどうやって立ち直るのか、様々な方法論や先人たちの知恵を紹介してくれる本がある。くじけそうな自分を励ましてくれる本がある。そもそも絶望しないための本もある。だが、絶望している間、どうやって過ごせばいいのかという本は、ない。それに応えたのが、『絶望読書』になる。

 著者は、人生の輝かしい時期に大病を患い、辛い思いをしてきた。その間、お見舞いがてらに渡された、気分を上向きにしてくれる本を読んだという。ひき寄せ法則やポジティブ思考など、「信じれば願いはかなう」系は、読めば読むほど気分が沈んでいったという告白は、さもありなん。闘病記や逆境を克服する話も、読むほうは辛いらしい。病気になっても明るく前向きに頑張れる人は特殊で、普通はそんな立派な人になれやしない。病気だけで精一杯で、読書なんて無理。絶望した直後は、絶望していることしかできない。

 ただ、辛さが長期間続くとき、数週間から数年に渡るとき、どうすればいいか。著者自身の経験から、お薦めと、お薦めできない作品が紹介される。『なぜ私だけが苦しむのか』にもあるが、ほんとうに辛いときに必要なものは、激励や克服などではなく、ただ傍によりそってくれることだと考える。ドストエフスキーから桂米朝まで、本に限らず「よりそってくれる」ものを選んでいる。

 ちょっと笑ったのが、編集の手違い。p.170に新潮文庫『カラマーゾフの兄弟』の書影があるのだが、上巻と下巻しかない。tumblrで知った小話「カラマーゾフの兄弟」上下を読んで感動した。その後中巻を発見してびっくりした」を思い出す。隣の『罪と罰』の書影(これは上下巻でOK)に引きずられたのだろうか。

 いまというときはピンとこないが、いざというとき必携の2冊。いざというときは読んでられないから、いまというときに読んでおきたい。

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『私の本棚』を『無限の本棚』にする方法

私の本棚 わたしは自分の書棚を持ってない。そう言うと驚く人がいるが本当である。世に読書家なる人がいて、壁一面の巨大な書架や、本で埋め尽くされた部屋、重みで抜けた床などを自慢気に語るが、正直なところ、羨ましい妬ましい→愛と憎しみと諦めの『私の本棚』

 もちろん我が家にも本棚はあるし、トイレと浴室以外の全ての部屋にある。だが、それらは子どもの漫画場だったり妻の専用架になっており、いわゆる「わたしの本棚」は無い。わたしの本は、それぞれの棚の一部を間借りする形で、あっちへ数冊、こっちに少しと散らばっている。だから、本好きが「いつかは自分の書斎を」を夢見るように、いつかは自分の本棚を持てるようになりたい。

 では、不自由しているかというと、そうでもない。自分の書棚がないのは不便だが、「不自由」ではない。むしろ、自由を得ていると言いたい。近所に書店はたくさんあるし(書棚は諳んじている)、図書館から好きなだけ借りられる(ときにAmazonより早く届く)。わたしの本は、わたしの行くところにあるんだ、と考える。この心意気は、松下幸之助に学んだ。

 曰く、自分の行く先々の世界は、全部自分のもの(と考えよ)。自分のものだけど、全て自分で運営できないから、人にやってもらっている。そのお礼として代金を支払うのだ。そう考えると、感謝の念も湧いてくるし、何よりも「これ全部オレのもの」と思うと、心豊かにならないか―――というやつ(うろ覚え)。

 松下幸之助は料亭で喩えたけれど、わたしは書店・図書館で実践している。生きてるうちに読めもしない、たかだか数千冊を後生大事に抱えているより、「わたしの行くところが、わたしの書棚」と考えるほうが、「自分の本棚すらもらえないパパ」よりもポジティブである。わたしの書棚は、必要なときにアクセスできる、エア本棚なのだ(虚勢)。

無限の本棚 そんな奇特な人はわたしだけだと考えていたら、お仲間がいた。それが『無限の本棚』の著者、とみさわ昭仁氏である。しかも、もっとダイナミックでマニアックに成し遂げている。著者は、神保町の特殊古書店「マニタ書房」の店主だが、「人喰い映画祭の中の人」と言ったほうがピンとくるかも。「マニタ書房」は、Man-Eater(人喰い)をもじって名付けられたのだが、「特殊」古書店と宣言する通り、品ぞろえはかなり特殊だ。ジャンルも、「アイドル」、「格闘技」から始まって、「秘境と裸族」「人喰い」「尾籠本」など、サブカル色が強いが、店主の趣味全開といった感じがする(デイリーポータルZ:(変わった)古本屋の作り方)。

 とみさわ氏によると、全国の古本屋やブックオフを訪ね歩き、本を探して集めるのは好きだけれど、全部は読まない(読み切れない)。だから本棚に並べた瞬間から、どうでもよくなる。彼は、「日本一ブックオフに行く男」でもあり、日本全国にある約900店舗のうち500店を制覇したという。本を探すというよりも、ブックオフ全店舗リストをコンプリートするのが目的となってて面白い。その行脚の過程で、お宝を見つけること自体が楽しいのだ。もちろん商売だから売るのだけれど、本そのものに未練はない。このあたりの感覚が、わたしの「エア本棚」に似ている。あと、「ブックオフ→図書館」に置き換えるなら、東京図書館制覇!にも似ているね。

 そういう、本という「モノ」ではなく、本を見つけた「コト」を重視する姿勢は、どこから来たのだろうか? それを語りつくしたのが、『無限の本棚』なのだ。誰だって、子どものころ、ミニカーや切手、ライダーカードなど、何かを集めることに熱中したことはあるだろう(現在進行中の方もいるかもしれない)。

 著者は、さらに突き進む、しかもわざわざ、誰もいない道を選んで。「戦車の絵が描かれた」ジッポーだけを集め、メジャーリーグカードのうち、「リプケン・ジュニア」だけを2400枚集め、全国各地のダムだけで配布されている「ダムカード」を集める。まるで何かに取り憑かれたように集める。何かをコレクションすることを蒐集というが、そこに「鬼」という文字が入っているのは、鬼に憑かれることを指すのかもしれぬ。懐具合、家族の視線、置き場所、誰もがぶつかるコレクターの悩みが赤裸々で身に染みる。集めたものを手放すことになるのだが、その理由が切なくて身に染みる。

 そうやって集める→手放すのサイクルを何度もくり返すうち、著者は、ある領域にたどりつく。憑かれたように蒐集する自分を、メタな視線で見直し、いったい何を渇望しているのかを問い直す。そして、自分は「集める」という行為が好きなのであって、集まった「物体」には興味が向かないことに気付く。モノではなく、コトが動機なのだ。

 さらに、ここからが彼の凄いところなのだが、「エアコレクター」という新境地を開拓する。エアコレクターとは、「物体」ではなく「概念」を蒐集する。先の「リプケン・ジュニア」の野球カードなら、その全リストを作り上げる。次に、全国のカードショップを巡るのだが、探していたカードを見つけても、買わずに帰ってしまう。そして、リストにチェックを入れておしまい。つまり、見つけたカードを買う直前で寸止めして、「見つけたという事実」を蒐集するわけだ。これは賢い。

 その先にある、「持たずに集める」エアコレクションの実例が、さらに凄い。たとえば、「札束JPG」。Google画像検索に「100万円」とか「500万円」といった景気のいい数字を入力して、出てきた画像を集める。リンク元を渉猟するうち、著者は面白いことに気付く。そんな大金を写真に撮ってアップするような人は、ほとんどが普通の庶民なのだ。庶民がそんな大金を手にするだろうか? 実は、そんな機会は人生のうちに2つあり、「家を買うための頭金」と「葬式の香典」なんだって。「人間は本物の札束を目の前にすると記念写真を撮りたくなる」習性が垣間見れて面白い。

 かくいうわたしも、エアコレクションがあることに気付いた。それは、「読まなかった」リストだ。買う/借りる/貰うなどで手に入った本は、しばらくのあいだ積まれているものの、「今は読まない」と判断されると、容赦なく贈与/返却/売却される。そして、「あとで読む」本たちは、タイトルだけ控えておき、数週間から数か月のうちに読むかどうか再判断する(いま数えたら、1500冊ほどあった)。その中で、「やはり今読みたい」を抽出すると、20冊ぐらいになる。このリストは、新刊も入ってくるので、毎週更新される。

 この20冊、読む前からスゴ本が確定していることが分かっているものの、質・量ともにかなり手ごわいので、時間をかけて攻略している。わたしのエアコレクションは、20冊の未読スゴ本を抽出するための1500冊を、書店や図書館といったクラウド上に配置するためのインデックスなのだ。そして、このインデックスがある限り、わたしの本棚は世界の本棚とつながっており、置き場所や床抜けを気にすることなく、好きなだけ拡張することができる。

 私の本棚を、無限の本棚にするために、お試しあれ。

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動いているコードに触るな『失われてゆく、我々の内なる細菌』

失われてゆく プログラマの格言に、「動いているコードに触るな」がある。ビジネス環境の変化に合わせ、巨大なシステムを維持・改善していく上で、ほぼ原則といってもいい。

 その意味はこうだ。長いこと複雑怪奇な状態なのに、なぜか正しく動いているプログラムに対し、不用意に手を入れると、思いもよらない不具合が出る(これをデグレードという)。一見冗長で、まわりくどく無駄なことやっているようなので、よかれと思って直す。すると、触った部分とは関係なさそうな別の場所・タイミングで、予想外の動作をする。結果、因果が特定できないまま解析が長引くことになる。きちんとリソースを充てて改善するならともかく、「なぜ上手く動いているか」が分からないまま改修するのは、非常にリスキーなのだ。

 人体に常在し、ヒトと共進化してきた100兆もの細菌群を「マイクロバイオーム」と呼ぶ。このマイクロバイオームの多様性を描いた本書を読むと、抗生物質の濫用により、人体システムにデグレードを起こしていることが分かる。コンピュータより複雑で、何年、何十年、ともすると次の世代から影響が出るため、因果を見つけるのはもっと難しい。ここ数十年で急増した、アレルギーや自己免疫性疾患、ホルモン・代謝異常という「病気」の一部は、人体システムにおける細菌の生態系が破壊されたことが原因だと見えてくる。それも、数十年前、ともするとその親の世代に、「治療」として投与された抗生物質によるジェノサイドが引き起こしたものなのだ。

 たとえば、ピロリ菌。かつて、胃がんや胃潰瘍のリスクを上昇させる「悪玉」として、これを除菌することが治療だと考えられていた。しかし、近年の研究で、ピロリ菌は、胃食道逆流症を抑制し、結果として食道がんを予防することが明らかになった。ピロリ菌は、ヒトを病気から守る一方で、ヒトを病気にもする。

 この両義性について、生態学者は、ピロリ菌と人類の共進化の視点から説明する。ピロリ菌を保有していても、子ども時代から青年期にかけて病気を引き起こすことは稀だ。すなわち、そこに淘汰圧は働かない。医学の発展によって、ピロリ菌の病原菌としての振る舞いが目立つほど、ヒトの平均寿命が延びたと考えることができる。このメカニズムを理解しないまま、不用意に「ピロリ菌=悪玉」として除菌することで、人体をデグレードさせていたのだ。

 あるいは、抗生物質。ウィルス感染と細菌感染の区別を待たず、時間的制約や訴訟リスクを回避するため、抗生物質は安易に過剰に使われてきた。結果、何百万人の子どもたちが、罹ってもいない細菌感染症のために抗生剤で「治療」されてきた。これが問題にならないほうがおかしいという。

失われてゆく まず、抗生物質が効かない耐性菌の問題がある。突然変異により耐性が「親から子」へ伝達されるだけではなく、「菌から菌へ」水平に伝達される遺伝子の水平異動がある。これは、Rプラスミド(薬剤耐性因子)と呼ばれる環状のDNA分子が、抗生物質への耐性遺伝子を乗せて、接合によって菌から菌へ移動することで実現している。[見えない巨人 微生物]より。結果、製薬会社の新薬開発が、耐性菌の出現に追い付かない事態となっている。

 さらに、抗生物質の成長促進効果がもたらす影響がある。化学的組成や構造の違いによらず、抗生物質は成長を促進させることが知られており、鶏、牛、豚などの家畜に大量に投与されている。わたしたちは、より安い価格で食肉を手に入れることができる一方、日常的に抗生物質を摂取することになる。ここ数十年の子どもの早熟化は、単なる食生活の向上のみならず、抗生物質の影響もあるのだ。そして、その代償として、肥満や喘息、I型糖尿病の例が挙げられている。家畜を早く肥らせるために与えた抗生物質が、まわりまわってヒトの代謝や免疫の発達過程に悪影響を及ぼす。このデグレードの解析は数十年かかっており、いまだに解決に至っていない。

 著者はここから、腸内細菌が脳の発達に関与する仮説を示す。ヒトの腸管は通常、一億個以上の神経細胞を含んでおり、これは脳細胞の数に匹敵する。腸の神経叢から脳に直接送られる信号が、認識の発達や発達や気分に影響を与えることが、最近の研究から明らかになっている。たとえば脳で作られ、脳で作用していると考えられていたセロトニンは、実はその80%は腸内で産出されていたことが分かった。学習や気分、睡眠の制御にかかわるセロトニンは、脳ではなく腸がコントロールしていたのだ。

 さらに、腸の神経細胞は腸管細菌と恒常的な接触を持っており、そこには膨大な量の交叉応答があるという。つまり、腸内細菌は、腸の神経叢を通じて脳と「対話」を行っているのだ。子どもに抗生物質が投与されると、セロトニン産生に関わる細菌の構成が動揺するといった研究も示されている。ヒトは脳だけでなく腸でも「思考」し、その「思考」は細菌の働きに少なからず左右されているのだ。

 本書の主張はこうだ。長い時間をかけてヒトと常在菌は共進化し、代謝、免疫、認識を含む体内システムを発達させてきた。しかし、ここ数十年で抗生物質が大量に使われるようになり、常在菌の多様性が失われつつある。20世紀後半に劇的に増加した諸疾患は、(それぞれ個別の原因がある可能性はあるものの)この多様性の喪失が大きな要因を占めているのではないか。化学物質による環境破壊に警鐘を鳴らしたレイチェル・カーソンの『沈黙の春』に倣って、本書では「抗生物質の冬」と呼んでいる。数十年、数世代にわたって影響が出る、免疫と代謝のデグレードが起きているのだ。

 しかし、著者はどちらかといえば楽観的に先を見ている。数百万年かけてきたヒトと細菌の共進化からすれば、この急速な変化は数十年にすぎない。人類誕生からすれば一瞬の出来事になる。急速な変化は急速な離脱を可能とする。抗生物質の過剰使用の規制や、(母親の膣細菌への暴露機会を増やすため)できるだけ帝王切開に頼らない出産、計画的な糞便移植などのアイディアを提示する。「動いているコードに触るな」は原則だが、触るときには充分なリソースを充て、「なぜそうなっているのか」のメカニズムを解明した上で、段階的に改善してゆく。これは、プログラムもマイクロバイオームも同じだろう。

 マイクロバイオームと健康の関係を考えるとともに、そのメカニズムについて進化生物学の観点で理解を深める読書となった。今まで、ビタミンやミネラルといった栄養バランスに気をつけていたが、これからは、わたしの体内の細菌たちのことも考えた食事にしよう―――そう行動を促す読書にもなった。

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エロスの図書館『ソドムの百二十冊』

ソドムの百二十冊 古今東西の書物を、エロスの名のもとに分類した図書館。

 サドやバタイユといった王道から、漱石や鴎外、丸尾末広や村上春樹まで、様々なのに偏っている、その偏愛っぷりが素敵ですな。知っている本を手がかりに、周辺で紹介されている作品を浚うもよし、知らない作品の解説を飲み下すことで、快楽の世界を拡張するもよし。エロスの自由度の高さに驚くことを請合う。

 素晴らしいのは、わたしの既読本を、エロティックなまなざしで穿ち読むことで、そこに潜む煩悩を、黒く炙り出してくれるところ。そのときはサラリと通り過ぎた一文が、実は脈打つ欲望の熱い一端だったことに気付かされ、愕然とする。作品が、まるで別のものに変異する一方、さもありなんと何度も頷く。

火垂るの墓 たとえば野坂昭如の分析。ある観点から複数作品を横断的に見ていくことで、野坂文学における近親相姦の役割を明らかにする。その要となるのは、「蛍」だ。野坂文学では、蛍が女の性のメタファーとして表れてくるという。とことん猥雑だが、どこか滑稽な男のエロスを描いた『エロ事師たち』では、蛍を潰したときの臭いが登場する。その生臭さは、自分を犯そうとする義母から滴っていた臭いと重ねられて描かれる。

 また、有名な『火垂るの墓』では仲睦まじい兄妹における性の目覚めの箇所を示した後、節子が蛍の墓を作るシーンを読み解く。これは、ただの「お葬式ごっこ」という遊びではなく、女としての喜びを知らぬまま死なねばならない運命を、節子が先取りして演じた場面として読めるというのだ。清らかな光を放つ聖女としての存在の裏側に、生臭い肉を持つ女がいる。この構図を、「蛍」で読み解くのが面白い。

 また、バタイユの禁止と侵犯のパラドクスをBL(ボーイズ・ラブ)に当てはめた考察が面白い。BL腐女子がリアルで男性同性愛者に出会って好きになったとしても、寝た途端に相手は異性愛者になってしまう。腐女子は禁止の彼方の不可能な関係に萌えているというのだ。そしてこの欲望のメカニズムは、ロリコンやコスプレ萌えにも当てはまるという。ロリータ・コンプレックスは「無垢」な少女に欲情するものであって、もし彼女と性交してしまったら、それは少女ではなく「女」になってしまうから。また、どんなにコスプレに萌えても、いざ行為に及ぶため脱がせてしまえば裸になってしまう……というのだが、果たしてそうだろうか?

ロリータ ナボコフ『ロリータ』の語り手であり少女性愛者でもあるハンバート・ハンバートは、少女と肉体関係を持った後でも、崇高な存在として宝物のように扱う。逃避行の乱れた生活の中で荒んできたとしても、彼の「ロリータ」は変わらない。なぜなら、現実の少女ドロレス・ヘイズではなく、彼の内面に映る「ロリータ」こそが至高の存在なのだから。同様に、BL腐女子が男性同性愛者と寝ても、侵犯したことにはならないと考える。腐女子が望むのは、男×男なのであって、現実に女と関係を持つ男とは別のものなのだ。ロリコンであれ、BLであれ、抽象化した関係に惑溺するものだから、リアルがどうあれ、脳内が現実になる。

城の中のイギリス人 このように、作者と問答しながら読み進めると、新しい作品の発見のみならず、自分の中で抱いていた答えを掘り当てることもある。なかなか愉しい読書案内である一方、「それ入れるならコレ外すなよ」とツッコミたくなるのもいくつか。本書は、禁断の書を中心としたソドムの図書館なのだから、マンディアルグ『城の中のイギリス人』や野坂昭如『骨餓身峠死人葛』といった背徳小説を並べるのは素晴らしい。巨大な蛸がうごめく水槽に少女を突き落とし、墨と吸盤にもみくちゃに吸われているところを犯す、という場面から、マンディアルグは葛飾北斎『海女と蛸』を見たのではないかと想像できる想像力が凄い。

ジェローム神父 だが、これらを入れるなら、甘酸っぱい思春期を、残虐美とエロスで塗り固めたジャック・ケッチャム『隣の家の少女』がないのはなぜ? 食人猟奇の残虐性と少女性の両方を堪能できる、澁澤龍彦+会田誠+マルキ・ド・サド『ジェローム神父』は絶対でしょうに。丸尾末広をマンガとして推すなら、氏賀Y太や早見純は入れようよ、好みの問題というよりも、この図書館を「ソドム」と名づけるなら。エロスとタナトスのキーワードで論評するなら、命がけのオナニーをルポルタージュした『デス・パフォーマンス』は必携でしょう……など等、次々と出てくる。わたしの中に、暗い穴が開いていることがよく分かる。ツッコめばツッコむほど、穴を覗き込むことになり、その向こう側でこっちを視ている気配がはっきりしてくるのが、怖い。これは、そういう意味で、とても怖い本でもある。


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この世で一番、こわいもの

 ゾンビや異性、テロリズムから饅頭まで、世の中に「こわいもの」は沢山ある。もちろん人それぞれだろうが、「自分にとって、一番こわいもの」は何だろうか?

 そんなテーマで、「こわいもの」が集まったのが、今回のスゴ本オフ「こわいもの」だ。スゴ本オフとは、好きな本を持ちよって、まったり熱く語り合う読書会なのだが、本に限らず、映画や音楽、ゲームまで幅広く集まった。最新情報は、スゴ本オフへどうぞ。

01

凄く多様な「こわいもの」

 ホラー系なら分かりやすいが、ホラーでない場合、「なぜ"それ"が怖いのか」が興味深かった。当日のtwitter実況まとめは、『エクソシスト』原作に秘められた謎から、世論を操る『戦争広告代理店』、貧しさと同調圧力の怖さを描いた『破船』まで、「こわいもの」のスゴ本オフをご覧になっていただこう(zubapitaさんありがとう!)。

02

「この一行が刺さった」というお題で

 ここではまず、わたしにとって、最も怖いものを先に告白しておこう。結論を先に言うと、最も怖い存在は、人だ。なかでも一番は、「わたし」という存在そのものだ。

ダークソウル3 いま「Dark Souls 3」にドハマりしている。剣と魔法のRPGで、人生最高のゲームである。そこで最も怖い存在は、人だ。もちろん、対峙する敵は恐ろしく、Z指定の残虐シーンも山とある。雑魚でも囲まれれば瞬殺だし、ボスは信じられないくらい硬くてデカくて強い。どうしても辛い場合は、オンラインで協力プレイすることができる。これが、涙が出るほどありがたい。

 しかし、そうやって攻略するにつれ、今度は「人」が、手ごわい敵となる。つまり人は、オンラインで協力プレイもできるが、反対に、敵対プレイヤー(PK:Player Killer)となって襲ってくることもある。どんなモンスターでも、攻撃パターンを読めば勝てるが、人は違う。裏の裏をかき、卑怯な(≒合理的な)やり方で殺しにくる。

 最初は「モンスターを倒して探索する」ゲームだったのに、「化物だらけの世界で人どうしが殺しあう」場となっている。モンスターと違い、「人」はパターンがない。「何をするか分からない」のが怖さの本質だ。これは、ゾンビ映画のお約束だね、はじめはゾンビが怖いけれど、次は安全な場所や資源の奪い合いで、生きている人が怖くなる。そして、人は、信じられないほど残酷になれる。

 さらに、人(PK)どうしの闘いも乗り越え、なんとか勝てるくらいにまで上達すると、物足りなくなる。あれほど怖かったモンスターも、PKも、慣れてしまうのだ。そして、今度はわたし自身が敵対プレイヤーとなって腕試しをしたくなる。何度も心折られ、ビクビクおびえながら進んでいたダンジョンを、笑いながら「人」を探しながら殺しに行く自分が怖くなる。

ファニーゲーム そこで紹介したのが、映画『ファニーゲームU.S.A』と『冷たい熱帯魚』、そしてノンフィクション『消された一家』だ。これは、「人は、何をするか分からない」と「人は、慣れることができる」を、イヤというほど教えてくれる。

 ミヒャエル・ハネケ監督『ファニーゲームU.S.A』は、観る人を嫌な気持ちにさせよう、観たことを後悔させてやろうという悪意に満ちた映画だ。バカンスに来た3人家族が、掛け値なしの暴力に蹂躙され、酷い目にあう話なのだが、「不快指数100%」はその通り。映画や物語といったパッケージに包まれていない、ナマの暴力をそのまま目撃できる。

 どんなに酷い話でも、「これは映画だ、お話なんだ」と自分に言い聞かせることで、最後の逃げ場が用意されている。だが、これはそうさせてくれない、逃がしてくれないのだ。愛犬家殺人事件をモチーフにした『冷たい熱帯魚』、家族のなかで殺し合いして死体の処理をしていった『消された一家』もそう。ありえない話なのだが、暴力とはそういうもの。観るにつれ・読むにつれ慣れていく。閾値を超えた暴力に慣れていく自分が、いちばん怖い。

 これを超える「こわいもの」はないだろう……と思っていたが、甘かった。スゴ本オフは凄いね、わたしの想像の向こう側の出会いがたくさんあった。

エクソシスト たとえば、『エクソシスト』。「この恐怖を越えた映画はいまだ存在しない」というキャッチフレーズで有名な映画―――と思いきや、原作の小説のほう。少女に憑いた悪魔を追い払う、悪魔祓い(エクソシスト)の話は同じだが、力点が違う。映画では、少女の変貌と神父との闘いの壮絶なシーンが目に焼きついているが、小説は神父に悪魔祓いを頼むまでの葛藤に重心がある。

 この神父、実は精神病理の専門家で、少女の狂態は二重人格ではないのかと疑う。そうんな神父視点で見ていくと、確かにそう思えてくる。だがエスカレートする事態に、結局は悪魔祓いをすることになり、そこから先は映画の通りの悲劇が。そして、読者は釈然としないまま取り残される。もし、神父の仮説が正しかったのなら、この悲劇は一体なんだったのか? そこが、一番怖いというのだ。わたしは、映画も原作も観た/読んだけれど、そういう「読み」ができるとは知らなかった。この観点は、イヴァシュキェヴィッチ『尼僧ヨアンナ』を彷彿とさせられるので、読み比べてみよう。

戦争広告代理店 高木徹『戦争広告代理店』で紹介される「こわさ」も本物だ。ボスニア紛争の「報道のされ方」を追ったノンフィクションなのだが、「正義とは演出されるもの」であることが、怖いくらい身に染みる。ボスニア側がセルビア人を悪者にするため、PR会社が駆使する様々な広報戦略が紹介されている。典型的な「民族浄化」のキャンペーンにより、セルビア人が戦争犯罪者となり、国際世論が空爆を後押しする。

 人は「ストーリー」を信じたがる。起きたことの原因が示されると、それを信じる性質がある。だからニュースは「ストーリー」ありきで、それに沿うように「証拠」が集まり「編集」「演出」される。世論の誘導手法を知るにつれ、マスコミや報道、ひいては本書さえも信じられなくなる。

残穢 いわゆる王道ホラーもある。スティーヴン・キング『シャイニング』『クージョ』の他に、小野不由美『残穢』が気になった。お薦め(?)する人が、「怖すぎて、最後まで読めてません」と指でつまんで持ってきたのだ。最後まで読んでないのに、いいの? と聞くと、最後どうなるか気になって、顔を背けながら腕を伸ばしてパラ見したから分かってますとのこと。なにこれ大好物なんですけれど。『屍鬼』とか楽しませてもらったし。「本棚に置いておきたくないので、誰かに押し付けたい」と正直なので、ありがたくいただく。

 で、読んでみたら……ああ、確かにこれは、祟る本やね。「そこに、あるはずがないもの」を、直視をうまく回避させながら語る。輪郭を描かずに細部と空気だけで見せるのが上手い。知らないほうがよかった、物語りそのものの怖さというよりも、むしろそれに纏わるメタなところで障るやつ。関わらないほうがいいかも。

 ご興味のある方に紹介するなら、怪談系でわたしにとって最恐は、小池真理子『墓地を見おろす家』だ。読むほどに、のめり込むほどに、「そこにいる」感が強まっていく、怖い怖いお話だ。新作は、これを超えているかが評価基準になるし、そういう本はめったにない(Amazonレビューで叩く人は、代わりの作品を示して欲しいのだが、悲しいことに見当たらない)。『残穢』は、これには届かないけれど、怖い本というよりも、嫌な本だね。読むにつれ、自分の手が穢れていくような、(一人なら)後ろを振り返りたくなくなるドキュメンタリー・ホラーだね。

 嘘、病気、事故、殺人鬼、幽霊、そして自分自身。「こわいもの」が一杯だけれど、こうして並べてみると、わたしが好きなものばかり。今回集まった作品は以下の通り。怖いもの見たさで、お試しあれ(一部、劇物がありますぞ)。


事実は小説よりも怖い

  • 『ドキュメント 戦争広告代理店 情報操作とボスニア紛争』高木徹(講談社)
  • 『外道クライマー』宮城公博(集英社)
  • 『凶悪・ある死刑囚の告白』新潮45編集部(新潮文庫)
  • 『空気』の構造: 日本人はなぜ決められないのか』池田信夫(白水社)
  • 『消された一家』豊田正義(新潮文庫)
  • 『痛風―ヒポクラテスの時代から現代まで 』木原弘二(中公新書)
  • 『野蛮な進化心理学』

王道ホラー
  • 『エクソシスト』(創元推理文庫)
  • 『クージョ』スティーブン・キング(新潮社)
  • 『リカ』五十嵐貴久
  • 『禍家』三津田信三(光文社文庫)
  • 『残穢』小野不由美(新潮社)
  • 『百鬼夜行抄』(朝日新聞出版)
  • 『能登怪異譚』半村良

ミステリ・文学に潜む怖さ
  • 『イニシエーション・ラブ』乾くるみ(文春文庫)
  • 『メドゥサ鏡をごらん』井上夢人(講談社文庫)
  • 『ラバーソウル』井上夢人(講談社)
  • 『Another』綾辻行人(角川文庫)
  • 『いま見てはいけない』ダフネ・デュ・モーリア(創元推理文庫)
  • 『シャドー81』ルシアン・ネイハム(ハヤカワNV)
  • 『スクールカースト殺人事件』堀内公太郎(新潮文庫)
  • 『テレーズ・デスケイルウ』モーリヤック
  • 『ブラックサッド 極北の国』フアンホ・ガルニド、ファン・ディアス・カナレス(飛鳥新社)
  • 『悪女について』有吉佐和子(新潮社)
  • 『ロウフィールド館の惨劇』ルース・レンデル(角川文庫)
  • 『肩胛骨は翼のなごり』デビッド・アーモンド(東京創元社)
  • 『告白』湊かなえ(双葉文庫)
  • 『想像ラジオ』いとうせいこう(河出書房新社)
  • 『同居人求む』ジョン・ラッツ(早川書房)
  • 『特捜部Q 檻の中の女 』
  • 『破船』吉村昭(新潮文庫)
  • 『白いへび眠る島』三浦しおん(角川書店)
  • 『0をつなぐ』原田宗典
  • 『優しくって少しばか』原田宗典
  • 『肉体の悪魔』ラディゲ
  • 『日の名残り』カズオ・イシグロ

映画・ゲーム・音楽・コミックなど
  • 『マイノリティ・リポート』スティーヴン・スピルバーグ監督
  • 『ウェイヴ』デニス・ガンゼル監督
  • 『ファニーゲームU.S.A』ミヒャエル・ハネケ監督
  • 『シャイニング』スタンリー・キューブリック監督
  • 『冷たい熱帯魚』園子温監督
  • 『ダーク・ソウル3』フロムソフトウェア(PS4)
  • 『わたしは真悟』楳図かずお
  • 『ヤミヤミ』やくしまるえつこ

 ちょくちょくやっているので、お時間と興味が合えば。途中参加・退場・見学歓迎、最新情報は、スゴ本オフへどうぞ。

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