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『グールド魚類画帖』はスゴ本

グールド魚類画帖 傑作という確信が高まるにつれ、頁を繰る手は緩やかに、残りを惜しみ惜しみ噛むように読む。先を知りたいもどかしさと、終わらせたくないムズ痒さに挟まれながら、読み返したり読み進めたりをくり返す。そんな幸せな一週間を味わった。

 同時に、物語に喰われる快感に呑みこまれる。はじめは巧みな語りに引き込まれ、次に溶けゆく話者を見失い、さいごは目の前の本が消え、自分が読んできたものは一体なんだったのか? と取り残される。わたしが世界になったあと、世界ごと消え去る感覚。

 これは感情移入ではない。19世紀、タスマニアに流刑になった死刑囚の運命だから。猥雑で、シニカルで、残酷な語り口は、けして同情も承認も誘っていないし、シンクロの余地もない。野蛮で下品でグロテスクな描写にたじたじとなるが、妙に思索的でときに本質を掴みとった省察に、つきはなされるようにも感じる。

 人臭くて生々しい顔をした魚の絵とともに、その魚にからむエピソードが、セピアや擦れた黒インクで記される。この「演出」が、ニクいのだ。というのも、描き手・語り手であるグールドは獄中で、書くことが禁じられているから。ウニを砕いて唾を混ぜて顔料にしたり、イカスミや自分の血や排泄物をインク代わりにすることで、「手記」を綴る(エンデ『はてしない物語』の現実世界とファンタージエンの書き分けみたいだな、と油断しているとガツンと犯られるぜ)。この「手記」がどういう代物かは、ずっと後の時代の読み手から、こう知らされる。

その混沌を要約するなら、決してはじまらず、決して終わらない物語を読んでいるような感じだった。変幻する景色を映し出す、魅惑的な万華鏡をのぞいているような感じ―――風変わりで、ときにもどかしく、ときにうっとりするような体験だが、良質の本がそうであるべきように、単純明快なものではまったくない。

 まさにその通り。決して尽きず、終わることを物語は拒否する。というのも、本を開くたび、記憶のない事柄が出てきたり、以前読んだときに見落としていた注釈に出会ったり、くっついていた頁を引き剥がすと、全く別の観点をもたらすエピソードが描かれているからだ。

黄金時代 ここは、ミハル・アイヴァス『黄金時代』に出てくる奇妙な「本」を思い出す[レビュー]。ある島にある一冊しかない本で、その島に他の本はないため、単に「本」と呼ばれている。島民のあいだで回し読みされ、読み手が書き手になり物語を重ね書いたり、自らの着想や注釈を加えたり、気に入らなければ破いたりする。余白が無くなると、手元の紙、布、皮に書き、貼り付ける。手から手へ渡るたび、本は膨らんだり萎んだりする。物理的な挿入・更新・削除が繰り返される、いわば代謝する「本」なのだ。この「本」を、特定の言語文化における記憶や知識のメタファーとしても面白いし、もっと拡張して人類のそれにしてしまってもいい。

 他にも、これまで読んできた/観てきたさまざまな記憶が響きはじめる。たとえば、コーマック・マッカーシー『ブラッド・メリディアン』の途方もない絶望や、コッポラ『地獄の黙示録』の王になろうとした男、ガルシア=マルケス『百年の孤独』の、めくるめく収束するイメージが明滅する。読むたびに開くたびに、美しいおぞましい切ない思い出が、刺激され開発され掘削される。本を開く人によって(あるいはページを開く度に)、それぞれの(さまざまな)フィクションの記憶が甦る。

 ひょっとすると著者は、これらを知らないかもしれない。だが、言葉が続く限り、人から人へ伝えられる「お話」が、改変され追随され再編されていくうち、ここに重なっていたとしても不思議ではない。『グールド魚類画帖』は、そんな再読性、代謝性を持っている。

 これはuporekeさんの[2015年のベスト ]のおかげ、ありがとうございます。知ってはいたけれど「ジェットコースター小説」と言われたら手にしないわけにはいけませんな。早い段階で傑作だと分かったので、ブレーキかけまくりだったけど。

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人生を変えたゲームと、ゲームが変えた人生───スゴ本オフ「ゲーム!」

 好きな本を持ちよって、まったり熱く語り合うスゴ本オフ。読書会なのにいい汗かいた。ふだん使わない脳筋も、たっぷり働いてもらいましたな。

 というのも、今回のテーマは「ゲーム!」だから。ゲームにまつわるお薦め本や音楽や映像、そしてゲームそのものを持ちよって、その面白さ・中毒性を語り合う―――だけでなく、持ってきたゲームで遊ぼうという「読書会」だったから。

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 そのゲームも、『ウミガメのスープ』のような推理ゲームだったり、「ぷよぷよ」のような携帯ゲーム、ドミノやオセロのようなボードゲームも種々様々。カードゲーム「ニムト」で脳筋を酷使したり、Wii「ハッピーダンスコレクション」でへとへとになるまで踊ったり。ブックトークといい、ゲームといい、大人が本気で遊ぶ場でしたな。

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 twitter実況のまとめは[人生を台無し or 激変させるドはまりゲーム『Fallout』『アサシンクリード 』から究極の意地悪クイズ『ウミガメのスープ』ギャンブラーのバイブル『金と銀』などスゴ本オフ「ゲーム!」まとめ]を見ていただくとして、ここではいくつかピックアップして、紹介された作品を並べてみよう。

fallout4 わたしが紹介したのは『Fallout3』と『Fallout4』。ポストアポカリプスの世界を生き抜く、ロールプレイングゲームだ。「発売日は犯罪数が激減」とか「ハマりすぎて妻子と仕事を失った」とか伝説を更新する曰くつきでもある。レトロフューチャーで「いかにも冷戦」な設定と、放射性降下物質(fallout)の恐怖と隣り合わせの世界は、新しいのに懐かしい。いわゆる「オープンワールド」で、主人公はどこへ行ってもいいし、何をしても(どんな非倫理的な行為をしても)いい、なんでもありの全部入り。

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 『Fallout3』の目的が「父を探す子の物語」であるのに対し、『Fallout4』が「子を探す親の物語」であるのが意味深い。あと一手で決定的な状態になることは分かっているのだが、「終わらせたくない」「もっと浸っていたい」の一心で、メインクエストをわざと後回しにしている。安全に、完全に、狂人になれる世界は、わたしにとって結構重要。

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この世でいちばん大事なカネの話 ササキさんご紹介の、『この世でいちばん大事なカネの話』(西原理恵子)は教わるところが多かった。どこの親も悩ませる、「子どもとゲームの関係」への解の一つとして、「カネの話」がある。ゲームの世界での「カネ」に溺れるあまり、金銭感覚が麻痺することが最も恐ろしい。それを学んでもらうため、「ゲームのし過ぎでお金がなくなってしまった」リアルの恐怖を本書で知るのだ。わたしも、子どもに薦めよう。「マネーゲーム=人生ゲーム」という本質の半分でも子どもに伝えられればいいな。

ゲーム理論の思考法 着想がユニークなのが、みかん星人さんのご紹介。今年の大学入試センター試験「倫理・政経」の第3問を持ってきたのだ。というのも、囚人のジレンマがテーマだから。そういえば、問題文が変だと物言いをつける「識者」がネットに湧いたなぁ。二つの利益が相反する際、どうやって「落としどころ」を探っていくか? という状況なのだが、キューバ危機を空目するという指摘が面白い。そこからナッシュ均衡を語った川西諭『ゲーム理論の思考法』の紹介につながる。センター試験もそうだし、キューバ危機も然りだけれど、1回だけのゲームは、理論が成り立つか微妙かもしれぬ。なぜなら、理論が成立するための安定的な均衡状態(もしくは一定の式で示せる遷移)は、「1回だけ」では導けないから。

かがみの国のアリス パッケージの勝利ともいえるのが、角川つばさ文庫『新訳 かがみの国のアリス』だね。わたしの頭の中の「アリス像」にぴったりの姿が表紙になっている。チェスの棋譜がそのままストーリーラインの隠喩になるメタ構造が面白い、いわば「ゲーム小説」の古典とのこと。アリスはポーン(歩兵)として扱われ、一番上の列に達するとクイーンに「成る」。そこには、いずれ大人になるアリスへの決別の意味が潜んでおり、泣き所の一つだという。これは、この角川つばさ文庫のパッケージで読みたい。

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 紹介された作品は以下の通り。あっという間の6時間でしたな。泊りがけでブックトーク漫談したり、徹夜でゲームしたいね。次回は「音楽」がテーマ、詳しくは[facebookスゴ本オフ]をご覧あれ。

■サバイバルゲーム
 『エンダーのゲーム』オースン・スコット・カード(ハヤカワ文庫)
 『All You Need Is Kill』桜坂洋(集英社スーパーダッシュ文庫)
 『クリムゾンの迷宮』貴志祐介(角川ホラー文庫)
 『ダークゾーン』貴志祐介(祥伝社文庫)
 『マリア・ビートル』伊坂幸太郎(角川文庫)
 『デニーロ・ゲーム』ラウィ・ハージ(白水社)
 『韃靼タイフーン』安彦良和(MFコミックス)
 『時のアラベスク』服部まゆみ(角川文庫)

■マネーゲーム
 『海賊の経済学』ピーター・T・リーソン(エヌティティ出版)
 『女騎士、経理になる。マンガ第1話コピー版』Rootport(幻冬舎)
 『マネーの進化史』ニーアル・ファーガソン(ハヤカワ文庫)
 『この世でいちばん大事なカネの話』西原理恵子(角川文庫)
 『狼と香辛料』支倉凍砂(電撃文庫)
 『銀と金』福本伸行(双葉社)

■スポーツゲーム
 『甦る全日本女子バレー』吉井妙子(日本経済新聞社)

■ラブゲーム
 『クロバス・カレシ』カレシシリーズ同人アンソロジー
 『カレシ・レシピ』環方このみ(ちゃおコミックス)

■ゲームの本、本のゲーム
 『ウミガメのスープ』ポール・スローン(エクスナレッジ)
 『へんな生きものへんな生きざま』早川いくを(エクスナレッ ジ)
 『へんな生きもの』早川いくを(エクスナレッジ)
 「へんな生きもの」展 サンシャイン水族館
 『失敗すれば即終了! 日本の若者がとるべき生存戦略』Rootport(晶文社)
 『新訳 かがみの国のアリス』ルイス・キャロル(角川つばさ文庫)
 『ゲーミフィケーション ゲームがビジネスを変える』井上明人(出版)
 『ドラえもん科学ワールド 失われた動物と恐竜たち』(小学館)
 『ゲーム理論の思考法』川西諭(中経の文庫)
 『妖怪ウォッチともだちまるごとファンブック』別冊コロコロ(小学館)
 『妖怪ウォッチBUSTERS 完全攻略本』(小学館)
 『ゲーマーはもっと経営者を目指すべき!』川上量生(KADOKAWA)
 大学入試センター試験2016「倫理・政経」第3問

■音楽のゲーム、映像のゲーム
 『ライフ・イズ・ビューティフル』ロベルト・ベニーニ監督
 『ファニーゲーム U.S.A.』ミヒャエル・ハネケ監督
 『ビデオゲーム the Movie』[youtube]
 『ATARI GAME OVER』[youtube]
 『Diggin' in the Carts』[URL]
 『GAME』Perfume

■ビデオゲーム
 『Portal2』(Valve Software)
 『ハッピーダンスコレクション』namco/Wii
 『大神 絶景版』playstation3
 『メタルギア・ソリッド』playstation3
 『アサシンクリード・シリーズ』playstation3
 『Fallout 4』playstation4
 『Fallout 3』xbox360
 『スペース・インベーダー』(日本科学館)[URL]

■スマホゲーム
 『Lifeline』(3Minute Games,LLC)
 『Deemo』(Rayark International Limited)
 『猫あつめ』

■リアルゲーム(ボードゲームやカードゲーム)
 ブロックス
 ドミノ
 ニムト
 絵合わせ「Kinder memory」
 オセロ(リバーシ)

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劇薬小説『ジグソーマン』

ジグソーマン ひさしぶりの劇薬小説、しかもとびきり猟奇でゴアなやつ。

 グロかったりキツかったり、読んだことを後悔するような小説を、「劇薬小説」と呼んでいる。選りすぐりは[わたしが知らないエロ本は、きっとあなたが読んでいる]にあるが、精神衛生上、非常によろしくない。

 お手軽に涙してスッキリしたい人向けの感動ポルノは飽きた。そういうのは小便と一緒で、涙と一緒にコルチゾールを排泄すればいい。「こころがほっこりする」とか「さわやかな読後感」は要らない。むしろ「こころが引き裂かれる」とか「とまらない嘔吐感」が欲しい。そういう点で、『ジグゾーマン』は素晴らしい。

 交通事故で妻子を失い、人生に絶望して死のうとした男に、ある提案がなされる―――「右腕を200万ドルで売ってくれないか?」。再生医療の権威であり、指折りの大富豪でもある医師が求めているという。巨額の誘いに目がくらみ、研究所に連れて行かれるのだが……というイントロなのだが、惹句のとおり先読み不能・問答無用のホラーなり。

 これ、劇場で『バタリアン』観たときを思い出した。おぞましい嫌悪感と下品なバカバカしさに、ゲラゲラ笑うしかなかった。対処しきれない恐怖に直面して逃げ切れないと悟ると、人は笑うことで正気を保とうとするのかもしれぬ。本書もそうだ、比較的早い段階で、「なぜ右腕なのか」「真の目的」が明らかになるのだが、気分が悪くなること間違いない。一人称の主人公に、うっかりシンクロしていると、酸っぱいものがこみ上げてくる。目を逸らしつつ、ブラックな笑いでごまかして自分を守るべし。

 あるいは昔の近似作品を思い出して、気を紛らわすのもよし。くたばれ公序良俗とばかりに、しゃれにならん小説や映画を知ってるでしょ。たとえばこんな、絶望感。

 『獣儀式』友成純一
 『殺戮の野獣館』リチャード・レイモン
 『ネクロフィリア』ガブリエル・ヴィットコップ
 『ムカデ人間』トム・シックス(映画)

 さもなくば、「そのアイディアは知ってるぞ!」とばかりにネタ元を掘り返すのも一興。小学校の図書室で、この類の本(確か児童書だった)を読んだことがある。マンガでも見かけたし、そういや古典の大御所のオマージュでもあるな! と膝を叩いたり。あるシーンは『スター・ウォーズ』エピソード4を彷彿とさせるし(ただし、おぞましさ100倍)、またあるシーンはS.キングの景観荘(The Overlook Hotel)や「あの看護婦」から拝借しているよなぁと頷く。

 赤い絶望と黒い哄笑を堪能できる、けしてオススメできない一冊。

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偉大なる愚行の歴史『マネーの進化史』

マネーの進化史 マネーの本質は「花見酒」だ。それ自体に価値はない銭を、二人の男の間でまわすことで、一杯また一杯と売り物の酒を飲むことができる。いい気分で酔っていられるのは最初のうち、空になった酒樽に気づいて青ざめる。

 銭に限らず、株券や保険など、マネーは様々な姿をとる。たとえディスプレイに浮かぶ数字だけだとしても、マネーは、皆がその価値を信じているから価値がある、トートロジカルな存在だ。具体化された信用を回すことで、モノやサービスが回る。しかも信用を殖やすことで実体以上の価値を回し、人々は浮かれ騒ぐ―――酒が尽きるまで。

 『マネーの進化史』は偉大なる愚行の歴史だ。貨幣の誕生から銀行制度の発達、債券と保険の発明、「信用」を売り買いするマーケットなど、4000年に及ぶ行状を眺めていると、つくづく人類は学んでいないことがよく分かる。どの時代でも新しい「信用」が様々な名前で生まれ、膨らみ、弾ける。

 あるときは権力と結びつき、自己増大化が目的となり革命や戦争を引き起こし、またあるときは知識を従えて、自己理論化し高度に洗練され新たな領域を切り拓く。同じ過ちをくりかえす人類とは裏腹に、金融は過ちから多くのことを学び、変化してきた。技術革新という突然変異を繰り返し、新企業の創出という種の形成を行い、金融危機と淘汰で方向付けられる断続平衡を経てゆく、壮大な実験の歴史なのだ。それは、「金融」という得体の知れないモノが、徐々に形をなし、人にコントロールされるフリをしつつ何度も期待を裏切ってきた進化史なのかもしれぬ。

 世界初のバブル経済と崩壊を引き起こしたジョン・ローの話がめっぽう面白い。慢性的な政府債務を解消するため、王立銀行を設立して紙幣を発行させ、それを自分の会社に貸し付けては投機熱を煽るというやり方は、まさになんでもあり、金融の実験そのものといえる。彼が遺した手紙が象徴的だ、曰く「私は、賢者の石の秘密を探り当てました。つまり、紙から金を生み出せばいいのです」。金を刷れば人は豊かになるという発想はどこかで聞いたことがあるが、市場操作と粉飾決算に人々が踊り、笑い、そして絶叫する姿は確かに見たことがある。

 本書がユニークなのは、この狂乱を現代に投射するところ。ミシシッピ・バブルの首謀者だったジョン・ローから、エンロンの最高責任者ケネス・レイの経歴に結びつける。著者によると、「控えめに言っても」驚くほど似ているそうな。続々と暴かれる不正経理・不正取引の本質は、何百年たっても変わらない。

 ただし、わたしもリアルタイムで見てたから分かるのだが、不思議なことに他人事のように書いてある。一部の、金に狂った不届き者が経済を大混乱に陥れた文脈の中で語られていて、当時の、マーケット全体が酔っていたかのような感覚がごっそり抜けている。LTCMやメリウェザーのヘッジファンド危機も、そういう錬金術師が引き起こした騒ぎのように扱われており、市場全体を覆っていた多幸感が、「熱狂」の一言で片付けられている。宴たけなわの酔っ払いは、その自覚がないのだろう。

 保険の歴史も面白い。ロイズ創立からの保険の歴史は、そのまま人類がどのようにリスクに向き合ってきたかを振り返ることになる。リスクをどこまで、そしてどのように「信じるか」は、その反対側にいくらまで張るかの話になる。損害への恐れは、起きうる可能性よりもむしろ、損害の大きさに左右される。そのギャップへの逆張りを見える化した賭金が、保険金なのだ。そして、可能性を正確に見積もり、分散して賭けられる者こそが覇者となる。パスカルの確率論やベルヌーイの大数の法則により、保険数理が確立されていく模様は、人間の「信用したい」という欲望がそのまま数学の地平を切り拓いていくことにつながっており、たいへん生々しい。

 不動産(real estate)ならぬシュールリアル・エステイトの話も既視感ありまくり。S&Lからサブプライム危機は記憶に新しいにもかかわらず、「不動産投資は安全」という神話をあざ笑うかのようなペテンは某国で真っ盛りだ。某国の人たちにこそ、サブプライムローンがどのように利用されていたか、声を大にして伝える必要がある。ローン初心者は皆無で、ほぼ全員が借り換えだったという。借り手は自分の家をATMでもあるかのように扱い、住宅の資産価値からローンを引いた純資産を現金に換え、その収入でカード負債を帳消しにしたり、新たな消費に走ったのだ。花見酒の、まだ売り上げになっていない銭で飲むというのは、文化のなせる業なのか。笑えない話だが大いに笑わせてもらった。

 マネーは、貨幣、債券、株、保険、不動産など、様々な形をとり、回転率とパワーを上げてきた。この信心こそが人類にレバレッジをかけ、モノとサービスを回してきた。本書に描かれるのは、マネーを信じる人々の熱狂や苦悩だが、その「信じたい」願望を逆手にとって翻弄してきたマネーそのものが主役だろう。

 人は判断力の欠如からマネーに熱狂し、忍耐力の欠如から失望し、記憶力の欠如からまた熱狂する。ちっとも歴史から学ばない人類をよそに、その思惑とは無関係に蠢くマネーの進化が、面白く恐ろしい。

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常識を書き換えろ『植物は<知性>をもっている』

植物は「知性」をもっている 進化について学ぶにつれ、わたしが間違った理解をしていたことが分かってきた。それは、「生命は、微小サイズから複雑化し、運動能力と知性を備えた最終形態がヒトである」という理解のことだ。左から右に引かれた矢印に、微生物、植物、昆虫や動物、そしてヒトを並べたイメージに囚われて、「単純→複雑」「汎用→専門」といった方向に進むことを、「進化」だと思い込んでいたのかも。

 そうではなく、現時点で生きているあらゆる生物は、進化の点からするとエリートなのだ。サイズやフォルムに違いはあるが、それは生き延びるために採った戦略の差異による。

 たとえば微生物を「遅れた」「下等な」ものと見るのは誤りだ。生命誕生以来、最も長期間生きてきた微生物こそ、超エリートといえる。スゴ本『小さな巨人 微生物』は、この誤解を解くばかりでなく、その優秀さを見せつけてくれた。微生物とは、サイズを小さくすることによって、高い代謝活性と増殖能力を手に入れた生き物であり、地球環境に働きかけ、さらにコロニーをつくり他の生物と共生することによって進化を方向付け・加速してきた存在だというのだ。

 いっぽう本書は、植物のエリートっぷりを見せつけてくれる。地球上のバイオマス(生物の総重量)で見た場合、多細胞生物の99.7%を占め、より高い適応力、より多様な生活圏を獲得している植物は、「緑の惑星」の言葉どおり、地球を支配している生態系だといえる。

 植物は知覚し、記憶し、学習する。根と根の間、根と葉の間、さらには他の植物や微生物、昆虫、動物との間で、電位差や音、化学物質によるコミュニケーションをはかり、互いに利用し・利用される世界をつくりあげている。地下に張り巡らされた「根圏」は、モジュールにより構成され、光・重力・磁場・温湿度・振動・化合物などの情報を収集し、生き延びるための決定を自律的に行っている。たとえ食われたりして一部が破壊されても、モジュールが相互に作用しあい、全体として役割を果たすことができる。

 つまり、植物は、ヒトや動物などに使われる「個体」というよりも、コロニーに似た存在となっている。一本の木があるのではなく、木が抱える土壌や空間、そこに含まれる生態系も含めた全体が「木」という存在なのであって、それは人が作り出した巨大都市や鉄道網、インターネットにそっくりだ。著者は、植物が織り成す創発的なネットワークを「生きたインターネット」と呼ぶが、むしろ人類が植物の真似をするのが上手になってきたのではないかと思えてくる。

 本書では、「知性」を問題解決能力として定義し、「動かない」「脳がない」とされる植物が、どのように問題解決を図っているかを様々な例で示してくれる。読み進むにつれ、『植物は「知性」をもっている』は煽りどころか、むしろ控えめに付けられたタイトルだということが分かってくる。

 たとえば、草食の昆虫に襲われたとき、BVOC(Biogenic Volatile Organic Compounds 生物由来揮発性有機物)という「警報」を発するトマトの話は知っていた。この警報により、周囲の植物は葉を消化しにくくする化合物を出したり、虫の食欲を失わせる味に変えたりする。だが、「敵の敵」を援軍として呼び寄せるライマメの事例には驚いた。ライマメは、ナミハダニから攻撃を受けると、BVOCを放ち、それに惹かれて、ナミハダニの天敵である肉食のチリカブダニが集まってくる。つまりライマメは、誰から攻撃を受けているのかを識別し、その天敵を呼び寄せることができるのだ。

 根圏におけるコミュニケーションも凄い。マメ科の植物とその根に棲み付く窒素固定細菌は、窒素と糖を交換し合うことで相利共生を図っているが、互いにどうやって相手を識別しているのか? ほとんどの細菌は根にとって病気の原因となるため、植物は頑丈な防護壁を築いている。ところが窒素固定細菌は化学物質を使った会話を行い、根の中に入ってくるのを「許可」してもらう。その際、NODファクター(根粒ファクター:Nodulation factors)と呼ばれる、いわばパスワード信号をやり取りすることでコミュニケーションを確立しているというのだ。

 植物の「利他的行動」を試した実験も面白い。通常なら自分のテリトリーを守るため、エネルギーの大部分を地中部分の生長に費やし、大量の根を生やすことで、土地を占有するという闘いに勝とうとする。ところが、隣が「親戚」の場合、根の生長は最小限に抑えられ、その分エネルギーは地上部分に回される。2007年の実験で、同じ条件下で栽培した二つの植物群が、対照的な生育を遂げたという。一つは、同一個体から採取した30個の種子を育て、もう一つは、互いに異なる個体の種子30個を育てる。結果は明白で、前者は根の数を抑え共生する一方で、後者はそれぞれ自分のテリトリーを独占しようと無数の根を伸ばし妨害しあったという。つまり植物は、隣接する遺伝子の「近さ」に気づき、競争を避けるいうのだ。

 こうした最近の研究成果を知るにつれ、「植物には魂(プシュケー)がない」というアリストテレス以来の偏見により、植物を過小評価してきたことがよく分かる。物理的に見るならば、数千年を経て形成された都市における人とモノの流通網で、論理的に見るならば、数十年で形成された人と情報のインターネットは、実は植物の生態系をなぞっているのではないか……と考えると面白い。スケールこそ違えども、人類は、つながりあうことで、ようやく植物に追いついたのだ、と言えるのかもしれぬ。

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『分析哲学講義』はスゴ本

分析哲学講義  「哲学が何の役に立つのか?」という疑問が愚問になる時がある。

 それは、否が応でもせざるを得ない思考の格闘が、ずっと後になって哲学と呼ばれる活動であることを知ったとき。似たような思考の罠はハマった先達がたくさんいて、そこで足掻き、抜け出すために様々な議論の道具、視点、レトリック、そして観念そのものが成果としてあることが分かったときだ。

 本書を読むと、自分で見つけて取り組んできた「問題」に、ちゃんと名前があり、応答(≠解答)があり、さらに批判と解釈が続いていることに気づく。このせざるを得ない問答に、たまたま哲学という名前がついているだけであって、役に立つ/立たない以前の話なんだ。もういい齢こいたオッサンなのに、この格闘は終わらない。なしですませられるなら羨ましいが、それは畜生にはニンゲンの悩みがなくていいね、というレベルだろう。考えることを、やめることはできない。

 語りかける講義調で、ときには著者自身が(意図的に)惑いながら、分析哲学の概観を示してくれるのが嬉しい。「言葉はなぜ意味をもつのか」「今とは何か」といった素朴な問いからはじめ、クワインやウィトゲンシュタインの格闘を紹介しつつ、可能世界、心の哲学、時間と自由といったテーマを掘り下げる。

 ただし、250頁の薄い新書にコンパクトにまとめるため、はしょっているところがある。議論を精密にするための概念の定義や、各論への反論・再反論といった目配りがない。なぜそう断言できるのかというと、素人のわたしでもツッコミ入れられるから。「心」や「時間」といった馴染み深い(反面たくさんの定義を抱え込んだ)言葉を未定義に分析していくのは無謀というか、ノーガード戦法とみた。

 たとえば、「"今を観察する"という奇妙さ」から、時間の形而上学へと踏み込むあたり。マクタガードとダメットの「時間の非実在性」の議論がめちゃくちゃ面白いのだが、人の約束事でしかない時間に対し、さも厳密な定義があるかのように扱うのはミスリードだろう。だいたい「一日」なんて時計で測るか暦で見るかによってですら、大きく乖離しているのだから。暦とかキュビズム、レイコフのレトリックや文学でいう「意識の流れ」など、様々な角度から「今」の性質を剥ぎ取るほうが、よっぽど直観に近いところにたどり着けるはず。

 そうはいうものの、そこまで目配りして書いたなら、このサイズに収まらないことは確かだ。本書は、読み手が引っかかったところを、自分で深堀りするための余白を充分に残したノートなのだ。

 そして、一番嬉しかったのは、勇気をもらったところ。世間の常識が変なのか、自分が狂っているのかと格闘してきた疑問が、ずばり示されていたこと。わたしの言葉で表すなら、「なぜイコールは等しいのか?」だ。つまりこうだ。

 a = b

 この正しさが分からない。b は長い演算式で、計算するのにすごく時間がかかるとしよう。でも式として成立できるのはなぜかが、どうしても分からない。プログラミングで、

if(a==b)  もしaとbが等しいのであれば

 と書き換えると顕在化する。このif文が実行されるとき、「aとbの等しさ」は評価される。本当はaとbは等しいのに、bの演算が終わっていなければ、偽(またはエラー)となるだろう。この、「等しい」の正しさの中には、演算する時間が入っていない。プログラムではなく、数式として見直しても同じだ。先ほど、bの計算に時間がかかると言ったが、計算の答えが「すべての自然数の数」だったら? アレフ数といった概念をつくりだして式を閉じることは可能だが、計算を終わらせることにはならない。計算が終わっていないのに、なぜ「等しい」と言えるのか?

 わたしの狂気は、本来であれば無時間であるはずの数式に、たまたま似ているからとコンピュータの世界の時間をあてはめているところにある。本書では、時間の矢における「今」を掘り下げることで、無時制的に理解されるべき科学の数式の中に、時間という直観が入り込んでいる危険性を明らかにしている。

 哲学やってよかったと言えるのは、「変なのは自分だけじゃない」ことが分かったこと、上には上がいること、今の考えを極限まで進めると、どんな世界が見えるのか分かることだ。「なぜ"ある"のか」とか「私の痛みと君の"痛み"はどう違うのか」「"私"とは何か」「科学の"正しさ"とは何か」という疑問に応えようとすることで、世界はずいぶん見通しがよくなった。わたしが何に混乱し、何を取り違え、どういうドグマに陥っていたか見えるようになったから。

 そして、次の方向性が見えるようになった。意味の両替、文脈原理、全体論、可能世界、心の哲学、時間論など、それぞれの講義に対応した参考文献が巻末にまとめられている。わたしの課題図書はこれ。

 『言語はなぜ哲学の問題になるのか』イアン・ハッキング
 『青色本』『哲学探究』ウィトゲンシュタイン
 『MiND 心の哲学』ジョン・R. サール
 『自由は進化する』ダニエル・デネット

 わたしがしてきた寄り道、回り道、獣道まで教えてくれる、得がたい一冊。

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ウンベルト・エーコ『異世界の書』がスゴい

異世界の書 汝の名は冒険者か? ならば我を求めよ!

 知の巨人が、また奇ッ怪な本を出した。それは古今東西の「実在しない場所」を紹介したもので、ギリシャ古典から現代ベストセラーまで大量の文献を渉猟し、エーコ一流の案内と膨大な引用からなる幻想領国地誌集成だ。面白いのは、いわゆる「虚構の場所」を扱っていないところ。アトランティスやシャンバラ、ユートピアやフウイヌムなど、多くの人がどこかに実在する、もしくは実在したと本気で信じ、その信念が幻想を生み出した場所が、本書の俎上に上っている。

 読み進むにつれ、この「伝説と虚構」の境界が揺らぎはじめて愉しい。想像力をどこまで信じられるかというテーマになるからだ。現実の世界は一つかもしれない。だが現実と並行して、先人たちの幻想が生み出す無数の可能世界を巡るうち、想像は現実の一部であることを、まざまざと思い知らされる。この幻想のもつリアリティこそが、本書を貫くテーマになる。

 エーコの焦点の当て方も面白い。普通なら時系列に語ってしまうテーマを、「伝説の土地」というピンで留めたために、時空を超越して語ることが可能となるからだ。

 たとえば、理想社会としての「ユートピア」なら、プラトン『国家』やガリヴァーの「フウイヌム国」を挙げてきて、この新語を作り上げたトマス・モアを引きあいにする。曰く、ユートピアには両義性がある。場所を意味する"topia"に否定辞の"u-"を付けた、「どこにもない場所」である"utopia"がひとつ。いっぽう"u-"の代わりに"eu-"をつけて"eutopia"とし、「良い場所」や「素晴らしい場所」とする解釈がある。つまり、ユートピアとは、存在しない理想社会なのだ。

 そして、ハクスリーやオーウェルやディックを引きながら、行過ぎた理想社会はディストピアの形をとって負の社会を物語ることを指摘する。爆笑させられたのは、ユートピアが可視化された都市としてパルマノーヴァ見取図を出してくるところ。壁と濠に囲まれた九芒星の城塞都市なのだが、フーコー『監獄の誕生』に出てくるパノプティコンそっくりだ。これは、むりやり天国を作るなら、たいてい地獄ができあがる実例だろう。行過ぎた理想はどの時代も相似するのかもしれぬ。

 他にも、「場所」をキーにした読み解きが面白い。ルブラン『奇岩城』の舞台となったエトルタの針岩はノルマンディに実在するが、その地域に古くからあるレンヌ・ル・シャトーの神話を読めば、虚構の人物ルパンがカソリックのメシア的な「大王」として見ることができるという。

 さらにそこからダン・ブラウン『ダ・ヴィンチ・コード』が引き出される。この世界的ベストセラーの種本は、空想歴史小説『聖血と聖杯』(邦題:レンヌ・ルー・シャトー)だというのだ。もっと凄いことに、ダン・ブラウンはこの種本のネタを正真正銘信じていると暴露する。いわゆる「この話は実在する資料に基づいて書かれた」という作話上の常套手段ではなく、このネタを広める意図を持ったパンフレットが、『ダ・ヴィンチ・コード』なんだって。

 現実は、想像力の数だけある。場所は実在するが、そこに何を幻視するかによって様々な現実が表れる。本書によると、今でも6月16日にダブリンのエクルズ通りを彷徨う『ユリシーズ』の熱狂的な読者が後を絶たないという。わかるよ、昔わたしも横浜の元町を歩いたことがあるから。赤いカチューシャを持って繁華街を散策し、タイヤキを買って食べたから。

 さすがにギャルゲは扱っていないが、本書は、そうした芸術上の聖地巡礼者にとって宝の地図となるだろう。これは架空の旅行記であり伝説の案内図でもある、オールカラー図版でいっぱいの「冒険の書」そのものなのだ。

 汝の名は冒険者か? 危険という名の滝を潜り抜けその奥に伝説の正体を求める者か? ならば本書を求めよ!

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