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あなたの論文を学術書にする方法『学術書を書く』

学術書を書く 最初に答えを言うと、「良い編集者を持て」になる。

 あなたの修論や博論は、どれほどユニークで面白かろうと、そのまま本にはならない。だから、潜在的な読者を見つけ、物理的な本という形に仕上げ、配本・流通に載せて、最終的に買って読んでもらうために、いくつかの準備や手直しが必要となる。その一番の方法が「良い編集者を持て」なのだが、そんなに簡単には見つからない。本書は、こうした「ユニークで面白い論文」と「優れた学術書」の橋渡しをしている編集者が、どういう点に気をつけて、何をアドバイスしているかを、実際の出版事例を用いながら教えてくれる。

 最も重要で、かつ全体を貫く勘所は、「誰が読むのか」だと言い切る。ふつうなら「何を書くのか」というテーマが大事ではないかと思うのだが、そのテーマですら、「誰が読むのか」によって揺らぐという。専門性の高い限定された研究対象を論じるのであれば、自ずとそれに興味をもつ読者も限られてくる。いっぽう得られた知見が一般化できたり、他分野のフレームワークを持ち込んだ研究なら、読者の範囲も拡大される。だから、目の前の論文を「料理」する前に、それを食べたがる人が誰かを想定しなければならない。

 本書ではこの極意を、「もし、この論文をそのまま印刷・製本したら何人が読むか?」という質問に置き換える。その数は800-1000人が最低ラインになる。この「1000」という数字が曲者で、ビジネスとしての適合性からすると学術書といえど初版1000部は欲しいし、日本の学界の会員数は、(規模の大小はあれど)一領域1000人ぐらいになる―――といった事情を含んでいる。そして、最初の質問で答えた人数を「1000人」にまで持っていくために、さらに専門分野を超えた研究者や学生までターゲットに入れて、最初の論文をどのように手を入れればいいか、「魅せ方」をレクチャーしてくれる。図表やキャプションの見せ方、「コラム」や「用語解説」の効果的な活用法、リード文やキーワードなど可読性を向上させるためのライティング技法、最も避けるべき「ねじれた重複」の罠など、「論文を本にするためのべき&べからず集」になっている。

 たとえば、「ねじれた重複」の罠は、単著にありがちだという。長年研究を重ねてきたものをまとめた場合、同じ事柄に対しても、著者自身の評価が微妙に変化している。そこに気づかず整理せず、そのまま集成してしまうと、同じ事柄何度も登場しているにもかかわらず、その定義や評価が都度微妙に違っているぞという話になる。読者は不審に思い、議論そのものの精密さが損なわれてしまうという。あるね、そういう定義や評価を章ごとに微妙にズラしてくる大著。

 あるいは、目次の改変が面白い。日本における庭園植栽の通史を初めて記した研究として評価の高い、飛田範夫の博論「庭園植栽史の研究」(2002)が例として挙げられている。目次はこうなっている。

  第1章 飛鳥時代の庭園
  第2章 奈良時代の庭園
  第3章 平安前期の庭園
  第4章 平安中期の庭園
  第5章 平安後期の庭園
  第6章 鎌倉時代の庭園
  第7章 室町前期の庭園
  第8章 室町後期の庭園
  第9章 戦国時代の庭園
  第10章 江戸前期の庭園
  第11章 江戸中期の庭園
  第12章 江戸後期の庭園
  第13章 明治・大正時代の庭園
  第14章 昭和前期の庭園

 論文としては「正しい」のかもしれないが、あまりにも単調だ。これが学術書にするときは、以下のような改変が提案される。時代ごとに変遷する庭園の特徴をつかむキーワードを掲げることで、専門家ではない読み手が掴みやすくなったといえる。

  第1章 マツ・サクラ・カエデの登場-------飛鳥時代の庭園
  第2章 キク・タケからサクラの愛好へ-----奈良時代の庭園
  第3章 浄土式庭園の登場-----------------平安前期の庭園
  第4章 大規模庭園のサクラ---------------平安中期の庭園
  第5章 新しい美意識の登場---------------平安後期の庭園
  第6章 京都の影響と植栽の多様化---------鎌倉時代の庭園
  第7章 針葉樹の使用---------------------室町前期の庭園
  第8章 枯山水の発展---------------------室町後期の庭園
  第9章 美を必要とした武将たち-----------戦国時代の庭園
  第10章 大規模回遊式庭園の登場----------江戸前期の庭園
  第11章 「社会政策」としての庭園--------江戸中期の庭園
  第12章 個人経営庭園の増加--------------江戸後期の庭園
  第13章 「文人風」から「自然風」へ------明治・大正時代の庭園
  第14章 「実用庭園」の流行--------------昭和前期の庭園

 注意が必要なのは、論文作成のための本ではないこと。情報収集から整理、執筆といった、よくあるハウツーではない。あるいは、引用や参照、著作権の処理といった制度的な「お作法」の本でもない。そうした卒論や修論を書くためのTipsみたいなものは、ネットに沢山ある。本書は、原稿、モノグラフ、論集、翻訳、研究成果といった何らかのアウトプットがすでにあり、これをビジネスとして成り立つレベルまでの「学術書」に仕立てるためのノウハウなのだ。論文を書くための準備として東大教養部『知の技法』があり、実際のライティングでは木下是雄『理科系の作文技術』が役立ち、できあがったものを学術書にするために、本書が活躍するといった分担になる。

 "Publish or Perish" 出版か死か

 こんな言葉が冒頭で紹介される。これは、成果発表をしない研究者への批判や、学生を叱咤する教授の言葉として使われていた。だが最近では、成果主義が導入され、出版数や被引用数に振り回される大学や研究機関そのものに向けられるようにも見える。良い研究をして良い論文を書けば、必ず売れるというわけではない。ビジネスとして成立する「学術書にする」ためには、あともう一手間が必要なのだ。本書は、そういうキュレーター的に働く編集者の代わりになってくれる。

 こういう本に出会うと、つくづく、羨ましい&恨めしい。学生のときに知りたかったことが全部書いてあるから。同時に、知とビジネスの間に立っている、編集人にも役に立つ。「ユニークで面白い論文」を「売れる学術書」にするために。

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『病気はなぜ、あるのか』→適応戦略と進化のミスマッチ

病気はなぜ、あるのか 風邪をこじらせたとき、とにかく体温を下げるのはダメで、頭を冷やして安静にしておく。これは知ってた。だが、処方された抗生物質は、症状が治まったとしても「すべて飲み切る」。これがいかに重要かは知らなかった。

 なぜなら、半端な服用は、抗生物質に耐性がある細菌の生き残りに手を貸していることになるから。このとき身体は、細菌のサバイバル戦略の最前線になっているのだ。発熱への対処も同様で、細菌にとって不適切な環境を生み出しているのに、解熱剤で下げてしまっては元も子もない。これらは進化医学からの知見で、身体の防御機能と細菌の適応戦略になる。

 「病気は、どのように(How)して起きるのか」については臨床医学の世界になる。もちろん病気の原因もそこで追究はされるものの、その病気を引き起こしている至近要因までになる。そもそも、「その病気がなぜ(Why)あるのか」という究極要因まで踏み込むのが、進化医学になる。発熱という症状がどういうプロセスで起きているのかだけでなく、そもそもなぜ身体は発熱しようとするのか、という発想の転換だ。

 本書が一番面白いのは、常識の逆転を味わえるところ。今まで常識だった対処法が非常識に見えてくる。わたしが子どもだった頃は、「とにかく熱を下げる」「どんどん抗生物質」は常識(だったはず)で、今では逆だ。

 また、鉄分という貴重な資源を用いた防御メカニズムも興味深い。慢性の結核患者は、血液中の鉄分レベルが低くなる傾向があるが、貧血を治すために鉄分の錠剤を与えると、症状は悪化するという。鉄分は、細菌にとって貴重な資源であり、ヒトの身体は、これをとらせまいとして防御メカニズムを発達させてきたというのだ。感染が起きると、白血球内因性媒介物質(LEM)を出して体温を上げ、血液中の鉄分の量を大幅に減らす。食べ物の好みも変わり、ハムや卵を避け、トーストを好むようになるのは、まさに病原体から鉄分を遠ざけるためになる。今では無意味とされている「放血」も、鉄分レベルを下げることで患者を助けた実績があったのではないかと指摘する。

 まだある。妊娠初期の吐き気は、子どもにとっての適応性があるもので、食べたくないものを無理に食べることはないという解説や、ある種のアレルギーは過敏というよりもむしろ、何万年と悩まされてきた寄生虫に対する「進化的にみて安上がりな」防衛反応だとする主張も興味深い。病気は、適応度(生存率と繁殖率を通じた次世代への遺伝的貢献度)と直結する現象なので、進化的なアプローチが有効になる。

ヒトは病気とともに進化した ある病気がなぜ「ある」のかという問いは、なぜ淘汰されず残っているのかという問いになり、それは、適応度に影響しないから残されているといえる。あるいは、適応度から見て何らかのメリット(もしくはデメリットを避ける何か)があるのかもしれない―――という新たな視点が得られる。たとえば、長谷川眞理子『ヒトは病気とともに進化した』にある、「統合失調症とは脳機能を高度化するための遺伝子パターンが蓄積されたもの」という仮説は、こうした視点に支えられている。

 原著が書かれたのは20年前だから、その間に「常識」がどう変わったのか確かめながら読むのも一興なり。前出の統合失調症(本書では精神分裂病)の事例は、原著が出た頃はそうした遺伝子が示唆される程度であったが、現在では、該当するリスクレアル(ゲノムのタイプ)のモデルによって説明できるほど研究が進んでいる。他にも、「サングラスを掛け続けると目が悪くなる」という昔話がある。可視光線だけ減らして紫外線をカットしないタイプだと、普段より大きく開いた瞳に紫外線を受け続けることになる(今はUVカットが普通)。今日の白内障患者の一部は、何十年も前にかけていた安物のサングラスが原因にあるのでは、という指摘は鋭い。

 ただ、ハンマーを持つと何でも釘に見えてくるように、何でも適応で説明したがる姿勢に危うさを感じる。ヒトは甘いものが大好きで、すぐにさぼりたがるのは、栄養を求めエネルギーを節約する狩猟採集社会で培われた適応だという。確かに合理的に説明できるが、そのエビデンスが欲しい。他にも、男女のラブゲーム戦略や、子どもの虐待・子殺し、愛や嫉妬や恐怖といった感情、女性器切除や纏足などの文化的側面まで、「まだ研究の余地あり」と留保はするものの、適応で説明しようとする。

1 本書では踏み込んでいなかったが、「レイプは適応か」という議論がある。ソーンヒル&パーマー『人はなぜレイプをするのか』では、進化生物学から「レイプ」という行動を解き明かす試みが行われている。養育の投資量に男女差があり、繁殖のため多数の相手に関心を向けようとする男のセクシュアリティの進化が、レイプの究極要因とする説明がある(ただしレイプが適応かどうかは判断を保留し、両論を併記している)。

 『病気はなぜ、あるのか』において、著者は目的論の危うさを充分に自覚している。だが、適応がその「目的」に取って代わってしまってないか、じゅうぶん注意しながら読み深めたい。現在のあるがままから出発して逆算しながら説明をするのだから、つじつまさえ合えばエビデンス抜きで信じてしまいたくなる。ここは危ういところ。かつてなんでも「無意識」で説明しようとしてた心理学と、同じ轍を踏みませんように。

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