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「小中学生にお薦めする○冊」の欺瞞と、それでもオススメする10冊

 「小中学生にお薦めする○冊」を見かけるが、舐めてるだろ。それは大人のエゴイズムの押し付けにすぎぬ。選者のノスタルジックなブックリストであって、今それを手にする人を想像していない。そんな大人の自己満足を、子どもは正しく見抜いてる。

 どうしてそんなに言えるのか? わたし自身が薦めてきたから。『モモ』であれ『星の王子さま』であれ、読まない。考えてもみろ、学校だけでいっぱいで、動画やラインやゲームを無理やり詰め込んでいる生活に、『モモ』読む時間があるものか。それな! それこそがエンデが描いたカリカチュアなのだが、気づくためには読むしかないという自家撞着に陥る。

 さもなきゃ逆に考えろ、「愛読書はエンデです」なんて言う小学生がいたら気になるだろ。ふだん何してるの? ポーズなの? 本気なら、本気で親の顔が見たい。どうやって培養したのか知りたい。「愛読書は西村寿行」だったわたしには、得がたい世界だ。

 お薦めされる人は、自分より少し若いだけであって、毎日があり、学校があり、好きなもの、苦手なもの、まだ知らない世界がある。だから、その人の興味と世界を考慮せず、単純に「面白くてタメになる」じゃ読むわけがない。その人よりも、少しだけ年齢と経験がある分、「自分にとって」どう面白くて、「自分の経験上」どうタメになったかを語らない限り、ただの学校推薦図書リストと変わらない。

 だから、導線が要るんだよ。彼・彼女の興味を、「この一冊」に結びつけるための橋渡しが大人の役目なんだよ。もちろん放っておいても読むやつは読むし、読まないやつは読まない。でも、もったいないなぁ、と思うのなら、そういう理由となる「自分の経験」を語れ。その一冊で世界が変わって見えたのなら、使用前・使用後の自分を出せ。それが琴線に触れたなら、後は勝手に読むだろう。

 あるいは、彼・彼女の興味を、本の世界につなげる見晴らしのいいところに連れて行くのが大人の役目なんだよ。もちろん自力で見つける輩もいる(そういう自助努力を推す大人もいる)。でも、その獣道よりこの王道を知っておいても損はないと思うのなら、語れよ、こっちの道は旨いぞと。それが好きなら、これを読めと。熱っぽく「好き」を語るんだ。夢中になって生きる姿を見せることは、大人の役目なのだから。

 ここに挙げるリストは、わが子や周りにオススメして、反応の良かったもの。わたしの「好き」を熱く(暑苦しく?)語り、うまくノってもらえたもの。だから万人ウケもしない代わりに、その人に向けた導線が沢山あるリストと見てもらえばいい。

■死とセックス

 人生においてかなり重要なのに、教育課程で軽く扱われているのは次の三つ、「死」「セックス」「税金」だ。税金は高校で簿記をやればいいが、前二つはこれを薦める。

死を食べる

 まず、宮崎学『死を食べる』だ。動物の死の直後から土に還るまでを定点撮影した写真集で、キツネの死骸に蝿が群がり、蛆が湧き、その蛆を食べるための獣が訪れる様子が順に展開される。いわば九相図の動物版だな。どんな死も、誰かが食べてしまうということがわかる。蛙から鯨まで、さまざまな死の変化を並べることで、「死とは、誰かに食べられる存在になること」、そいつを裏返して「生きるとは、誰かの死を食べること」、さらに「死を食べている私も死ぬ」という、シンプルな真実に行き当たる。

ぼくどこからきたの 次はピーター・メイル著『ぼくどこからきたの?』だ。あるがままの命の話で、ごまかし、妥協、一切なし。男と女の違いから始まって、セックスとは? 赤ちゃんができるとは? 子どもの質問に、真正面から答えている。親子で読めて、きちんと話し合える。生々しすぎる描写ではなく、かといって抽象に逃げない。ひと通り読んでから、避妊の方法、性感染症の情報と、十代の妊娠の話を補足する。セックスはシンプルだ。そして、死と性と食はつながっている。これはセットで読んで欲しい。

■サイエンスとノンフィクション

 世のお薦めリストは、なぜか小説・物語が多い。これは、お薦めするほうに理由がある。いわゆる「本が好きな人」の「本」とは、小説を指すことが多いから。なので、小説や物語に埋め尽くされたリストは残念至極なのだが、わたしも胸を張れぬ。「コレ!」という奴が出てこないから。学研まんがシリーズや、まんが歴史シリーズは分量が多いので、ここではとっかかりとなる本を選んだ。「写真から入る」は大事、エビデンスであり、想像力のブースターなのだから。

パワーズオブテン サイエンス代表として、『パワーズ・オブ・テン』を挙げる。公園で昼寝をしている姿から、10倍、100倍、1000倍と、どんどんカメラを引いていって、最後は10億光年離れたところからの映像を見せる。そして、逆に1/10、1/100、1/1000と、どんどん縮小していって、素粒子レベルの世界から見せてくれる。スケールによって見える世界が一変するのに、極大と極小が近似するという不思議。センス・オブ・ワンダーを見える化した、稀有な一冊。

オーパ ノンフィクションでは開高健『オーパ!』の反応が良かった。「オーパ!(Opa!)」とは、驚いたとき、感嘆したときの「うわっ」「すげぇ」に相当するブラジルの人の言葉で、タイトルどおり驚愕と瞠目の連続なり。釣竿を手にブラジルを旅した紀行文+写真集で、食、色彩、混沌、森、未明、雷雨、蕩尽、あらゆる描写と映像が読み手を圧倒する。わたしもそうだったが、「釣りが好き」「ルアーフィッシングに興味あり」という間口から入ると、体長5m体重200kgのピラルク釣りでのけぞって、ピラーニャは水面をバシャバシャ叩いて呼ぶ件で、釣りの本質を再考させられる。巨大から微小まで、生あるものの強さ儚さを見る一冊。

■最悪を想像しろ

 「サイアク」「サイテー」を連呼するわりに、おまえらは本当の最悪を知らない、と父は言いたい。ヤバいヤバいと言うわりに、危険とはどういうものか、想像してない。なぜなら、最悪とは何か、危険と何かといった、材料がないから。そんなとき、いわゆるデザスタものが思考実験に最適だ。わたしが子どもの頃なら、『日本あやうし』『地球あやうし』なんて煽る本があったけれど、今出したなら、「科学的な正しさ」を追及されるだろうな。

サバイバル さいとうたかを『サバイバル』が鉄板だ。巨大地震による壊滅した日本を生き抜く少年を描いた傑作なり。渡すや否や、読むわ読むわ、寝る間も惜しんで全10巻を読み終えると、何度も繰り返し読んでいた。地震、火災、洪水、疫病、暴力、飢餓、炎天、寒波―――次から次へと襲い掛かる猛威に、知恵を絞り、勇気を奮い、逃げ、耐え、運にも助けられながら生きようとする。壊れた世界をかき分けながら「少年」から「男」に成長していく物語に、何度読んでも撃たれる。わたしが子どものころはフィクションとして読めたが、今では現実の(最悪のパターンの)予習としたほうがいいのかも。天災は忘れた頃にやってくる。マンガのようにはいかないが、「こうすれば生きる方に進める」選択をあきらめないこと―――この極意が伝わっただけで嬉しい。

隣の家の少女 一言なら「読むレイプ」。読んだら後悔する、おぞましい小説。最初は旧き良きアメリカンな光景で、ボーイ・ミーツ・ガールなのだが、それは罠。初恋の女の子が虐待される目撃者となる少年の話。どんどんエスカレートしていく集団暴行と、「見る」しかない少年は、どんどん胸糞悪くなりながらも、「読む」しかない読者とオーバーラップする。これに拒絶反応を起こす人は、世界は公正あれかし、と期待してるんだろうな。世界は(特に物語世界は)コントロール可能で、理解可能で、因果は応報する。そういう「常識」に慣れた人を叩きのめすのは現実なのだが、これは小説でそれをやってくれる。もちろん、お薦めしていない。本当の悪とは何か? 本当の痛みとは何か? が議論になったとき、「これは読むなよ、ぜったいに読むなよ」と念押しするつもり。

■別の視線を得る

 物語の本質は、現実のシミュレーションだ。ありのままのリアルに向かい合ったなら、そのシビアさに痺れるから、辛すぎる現実を引き受けるため、自分で自分に嘘をつく。そのシミュレーターとして、物語が存在する。現実から目を背けるための快やハピネスとしての物語もそうだ。人は、物語を通じて複眼を得る(もしくは異なる視点・次元・側面があることを知る)。

夕凪の街 桜の国 なぜか学校にて『はだしのゲン』が定期的に流行し、競うように読まれているらしい。イデオロギー的な面が強調されたり色々物議を醸す作品だが、隣の棚の愛蔵版『ブラック・ジャック』も読んで欲しいところ。さておき、原爆をこれだけで伝えるのは危ういので、こうの史代『夕凪の街 桜の国』を渡す。これも一瞬で読み切って、幾度も幾度も読み返している。むごくて緩慢な死を見守りながら、現実の小さな幸せは大量の瓦礫と死体の上に成り立っていることを、ほんの少しでも分かってもらえたら、と願う。次いで『この世界の片隅に』を渡す。これも、何度も読んでいる。井伏鱒二や原民喜に触れるとき、歴史を引き受けるための器としての物語を思い出して欲しい。

悪魔のいる天国 現実を裏返すと夢になる? いいや、もう一つの現実だよ、という真実を寓話にしてくれる星新一のショートショートもお薦めして反応が良かった。『ボッコちゃん』『悪魔のいる天国』『きまぐれロボット』など、手当たり次第に読んでいる。短く鋭く、風刺に溢れた短編は、朝読にうってつけみたいだが、父的にはSFワールドの入口として魅力的だと思うぞ。ようこそ、少し不思議な世界へ。目の前の現実とは異なる次元・異なる視点から見なおすための有用なツールなり。

 この時代、「本が好き」とは結構変わった部類に入る。文字を追いかけるのは面倒だし、世界や構造を頭ン中で再構成したり、声や音や匂いや感覚を想像するのは手間かかる。ゲームやアニメの方が、ずっと入りやすいし分かりやすい。それでも、本の、物語世界へ誘いたいのなら、今の彼・彼女の興味から、きちんと導線をつくるのが大人の役割。「なぜ」その一冊なのか、説明すべし。

クラインの壷 そして、大人がおもしろがって喜んで読むのがもっと大事。「むかし読んで良かったから読め」といっても、「いま、わたしが読む」理由にならない。アニメ『ソードアートオンライン』にハマったなら、そのアイディアの源泉の『クラインの壷』を熱く語ればいいし、名探偵コナンが好きなら、シャーロキアンになる素質じゅうぶんだろう(その前に、ネタ集でもある『2分間ミステリ』が手軽でいい)。

あずけて時間銀行 それでもエンデを推したいなら、再読してみろ。ノスタルジックな想いをさっぴいてもお薦めしたいなら、その訳があるはずだろう。そいつを自分の言葉で語れ。「おもしろい」だけならスマホゲーに勝てぬ。「愛読書はエンデです」と言い切る小学生には、『あずけて! 時間銀行』をお薦めする。『モモ』の本歌取りで、ここまでエンタメ&哲学寓話に満ちたものはない。「灰色の男」側の話と思いきや、もっと世知辛い。人生をやりなおしたい人のために、過去をオーバーライドする「時間銀行」なのだから。ラブ&バトル満載のちっとも軽くないラノベに込められたメッセージ「過去は変えられない、未来はまだない。だから、今に、集中しろ」を受け取るべし。

 「おもしろいから」だけじゃ読まぬ。どうすれば伝わる? 大人がおもしろがるんだよ。大人の言うことは絶対に聞かないくせに、大人の真似だけは恐ろしいほど上手いのが、子どもなのだから

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世の中、バカが多くて疲れません?『高慢と偏見』

 今は昔、桃井かおりが、つぶやいた。

 気だるく吐き棄てる口調に、ムッとしたことを覚えている。このCMにクレームが殺到し、「バカ」が「お利口さん」に差し替えられたという。「まるで自分のことを馬鹿にされたようで不愉快だ」という苦情が主だったらしい。

 だが、人はプライドの奴隷だ。差し替えられても意味は変わらないところに、そして差し替えられたら鎮火したところに、ユーモアが効いている。この可笑しさに、長いこと分からなかった。本当に嗤うべきは、反応した自分自身なのだということに、長いあいだ気づけなかった。

 ジェイン・オースティン『高慢と偏見』は、さながら馬鹿の見本市だ。超々々めんどくさい男、嫌味と自慢のマウンティング大会、度し難いツンデレ、殺意を伴う自己中など、人の愚かしさをこれでもかと見せてくれる。馬鹿をバカにすることは愉しい。イソターネットはそういう輩の発見器であり、拡大鏡であり、集光器なのだが、うっかり笑うと見つかってしまう。人間、何が一番腹を立てるかというと、ホントのことを言われることほど怒り狂うものはないからね。

高慢と偏見上高慢と偏見下

 だがご安心あれ、本書に登場する非実在青少年なら安全だ。主人公のエリザベスや、その父親のベネット氏など、お利口さんが、ちゃんと指差してくれるから、安全に、完全に高みの見物で、思う存分笑いのめすことができる。金だけはあったり、気位だけは高かったりする、正真正銘のバカの皮を剥いで嗤うことほど愉快なことはない。おまけに英国の小説だけあって、隙あらばうまいこと言ってやれとどのページも諧謔と名言に満ちており、電車で笑いが止まらなくなってえらく困った。

 しかし、中盤あたりで裏返る。どんどん明かされる"意外な真相"は、実は意外でもなんでもなく、お利口さんたちの偏見がなせる業だったりする。同時に、お利口さんも愛すべき愚か者であることが見えてくる。人は誰も笑いの網から逃れられない。エリザベスの独白「私が盲目になったのは恋のためではなく、虚栄心のためなのだ」が刺さる刺さる。

 だが、人は偏見の奴隷だ。自分が馬鹿にしていたものが、単なる思い込みにまみれた評価にすぎなかったり、神視点の読者のプライドを守らんがために固執していることに気づかされる。この辺りのエリザベスの変化が激しく面白い。本書に隠れたメッセージがあるならば、「人は愚かだが、人は変われる」やね。そして次第に、わたし自身の愚かしさがジワジワくるようになる。最初の考えを大事にするあまり、その偏見を正当化してくれる言葉を求めて探し回っているから。これはイソターネッツでいつもやってること、バカを嗤う大馬鹿とは、実はわたしなのだ。

 ここからはジェットコースター、自分が頂上にいるのに気づいたときにはもう遅い。あっという間に、すごい勢いで、次から次へと驚かされる。前半の伏線が後半できれいに巻き取られていく様は、よくできた推理小説のようだし、心情の機微を絶妙に(≒巧妙に)見せたり隠したりする手技は、ラブコメのお手本そのもの。

 桃井かおり「バカが多くて疲れません?」の返歌は、エリザベスの父がラストに吐く。曰く「われわれが何のために生きているのかね? 隣人に笑われたり、逆に彼らを笑ったり、それが人生じゃないのかね?」このセリフをこの父に言わせる、すったもんだのさんざんを、舐めてきたから分かる、刺さる。いつだって可笑しいほど誰もが誰か笑い笑われて生きるんやね。

 男女のすれ違いから生まれるおかしみと情熱を、小気味よく捌いて心地よく魅せてくれるうちに、気づいたら終わっていた。このラブコメの正統派感は ─── そうだな、『めぞん一刻』だな。話もキャラもぜんぜん違うけれど、200年と地球半分を超えて、同じ涙と笑いとヤキモキを保証する。

 固いタイトルは詐欺だ、読まずに死んだらもったいない。

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60分で常識が変わる『料理と科学のおいしい出会い』

料理と科学のおいしい出会い 切って、火を通して、味つけして、おしまい。あとは素材と種類のバリエーションで、料理とはそんなものだと思ってた。

 しかし、本気で「おいしい」を求めると、土や水からの話になるし、分子や組成レベルまで分け入った、味わいの認知科学・生理学の研究になる。そこはもはや、経験や伝統を超えた科学の領域で、台所はラボラトリーになり、調理技術はは化学や物理に還元される。

 本書では、「分子調理」をメインに、科学の視点から「おいしさ」の本質に迫る。「分子調理」とは、物理・化学・生物、そして工学の知識を調理プロセスに取り込み、新しい料理を創造する試みだ。「新しいご馳走の発見は、人類の幸福にとって新しい天体の発見以上のものだ」と言った美食家がいたが、これは新たな星雲の発見以上になるかもしれぬ。

 たとえば、食材の「相」を変えるという発想が紹介される。氷・水・水蒸気に代表される、固体・液体・気体の相のことだ。通常なら、加熱などにより相転移する前に、化学反応によって違う分子になることが多い。だが、食材の分子そのままに、相だけを変化させる試みがある。スパークリングワインをゲル化してジュレとして提供したり、コーヒーやチョコレートの成分が、"吸って"楽しむエアゾルで提供される「食」がある。エスプーマ(espuma)という技術も面白い。亜酸化窒素を使って素材を泡立たせる技術で、グリーンピースやハーブを「泡」にして料理に用いることができる。

 食品成分を「つなぎあわせる」酵素の話も興味深い。酵素といえば、油脂やタンパク質を分解するものと思っていたが、逆の働きをするものもある。特に、トランスグルタミナーゼが凄い。タンパク質を共有結合させる酵素で、最近の麺の「プリッ」とした食感や、ソーセージの「バキッ」とした弾力性はこのおかげ。もっとすごいのは、バラバラの肉片にこの酵素をまぶして一晩ラップに包んでおくと、あら不思議、翌朝には立派なステーキ肉になるという。さらに、「麺の再発明」とも言われるエビが99%入ったパスタが驚異的なり。酵素のおかげでいわゆる「つなぎ」が不要になるから、こんな魔法のような食品物性が可能になるわけね。

 調理技術の進展もすごい。「水で焼く」ヘルシオに驚いた人は、「空気で焼く」高圧調理機が出てきたら腰ぬかすだろう。7千気圧のプレスをかけて、食品を構成する分子を密の状態に押し込むことで、食材の色・香り・栄養素をそのままに「圧を通す」調理を聞かされると、科学なのか錬金術なのか区別がつかなくなる。「調理とは火を通すもの」という固定観念を破壊されたのは、「アンチ鉄板焼(anti-griddle)」だ。マイナス35度に冷やされた鉄板で、中身トロトロ外側カリカリに仕上げられたチョコレートやホイップクリームは、食わずに死ねるかレベルらしい。

 分子調理だけではない。舌から脳までフル活用する、味わいの認知科学も面白い。「おいしい」とはつまり、味と匂いに還元できると考えていたが、これはわたしの偏見だということが分かった。もちろん、味覚の原理から始まって、香りが味わいに果たす役割も解説される。だが、この辺りの件は『お皿の上の生物学』で教わったことがほとんどだった。本書ではそこからさらに進めて、テクスチャーの重要性を説く。

 テクスチャーとは、料理を食べたとき、口のなかで感じられる物理的感覚(mouthfeel)と食べ物が持っている物理的な性質(physical property)を合わせたもので、まとめるならば、「食感+物性」になる。甘味、塩味、酸味、苦味、うま味といった舌や鼻で感じる「化学的な」おいしさを風味とするならば、硬柔・温冷なめらかさ、のどごし歯触り舌ざわりといった唇、口腔内、喉頭、歯などで感じる「物理的な」おいしさが、テクスチャーになる。味や匂いがテクスチャーを変えることは少ないが、テクスチャーが風味を変えることはあるという。これは、食品中の味やにおいの拡散速度が変わるからになる。

 たとえば、小豆からつくられる固体の「あん」の糖度は60%と高いが、液体のおしるこだと甘すぎるため、30%に低く抑えられている。甘味・うま味の受容体の感度は、体温付近が最も高い一方で、塩味や酸味の受容体は温度変化を受けにくい性質がある。その結果、温かい味噌汁で感じるうま味が、冷めると感じにくくなり、塩味に際立つというのだ。口に入れたときの温度を考慮して五味の強弱をつけたいもの。

 また、日本人は世界に類を見ないテクスチャー好きらしい。ごはんの硬さや粘り気の薀蓄から始まり、うどんやそば、ところてんの「のどごし」を愛する文化がある。英語は "crispy" なのに、カリカリ、パリパリ、歯ざわりがいい、ポリポリ、サクサクなど、テクスチャーを表わす言葉が実に多様であることを指摘する。食べたときの感覚もひっくるめて「口福」はできているんだね。

 次の料理からは、テクスチャーを念頭に「おいしい」を求めてみよう。たとえば、おひたし・サラダ系は塩味薄め・うま味多めで、温かい料理は逆にするといった味付けの微調整をしてみよう。あるいは、ソテーひとつとっても、どこまで火を通すかは、どんな食感になるか予測しながら水分の飛ばし具合を変えてみよう。

 わたしの固定観念を揺るがす、面白いアイディアもある。「料理の公式」という概念で、どんな素材に対しても、物理化学的な特徴だけを考え、あらゆる料理を二つの要素式に還元させる。分子ガストロノミーの生みの親、エルヴェ・ティスが提唱したもので、「この食材にはこの料理」という経験・伝統の縛りから逃れることができるというのだ。

1.食材の状態
  気体(gas)
  液体(water)
  油脂(oil)
  固体(solid)

 2.分子活動の状態
  分散(/)
  並存(+)
  包含(⋃)
  重層(σ)

 これらの要素を組み合わせることで、あらゆる食材や料理の成り立ちを説明する。たとえば、泡立てる前の生クリームは、「水の中に油脂が散らばっている」状態であるため、式に表すとこうなる。

  o/w (油脂 分散 水)

 生クリームを泡立てるという調理は、油脂に空気を含ませるから、油脂に空気を加え、その空気を含んだ油脂が水の中に散らばっている状態なので、こうなる。

  (o+g)/w (油脂 並存 空気 分散 水)

料理の四面体 そして、油脂をチーズに置き換えるなら、ホイップチーズが作れるし、トマトをジュースにしてオイルを加えるなら、ホイップトマトも夢ではない。このように、式を改変したり素材を入れ替えることで、新たな料理の開発へ応用できる。料理の体系化により、意外な共通点や改良の過程が見えてくるのは、『料理の四面体』でガツンと学んだのだが、上記の式はその発展になる。レシピ本やサイトに頼りっきりにならず、そこからアレンジ・オリジナルへ展開できる肝は、ここにあるのだろう。

 食べ合わせならぬ「香り合わせ」というアイディアも面白い。余計なものを省き、素材を優先させる日本料理は「引き算の料理」、多彩な食材からソースをつくるフランス料理は「足し算の料理」と言われる。だがここで、フードペアリング仮説を唱える。なんでも食材を合わせればいいというのではなく、組合わせが大事で、そのベースとなるのが香りだという。一皿の料理内で好まれる香りの数には制限があり、共通する香りを持つ食材どうしを合わせることで統一感がでて、深みのある料理ができる(だろう)という仮説だ。

 本書ではフードペアリングの専門サイトを紹介する。香りの種類や特徴をデータベースにした[foodpairing.com]では、香り合わせのよい食材を、ペアリングツリーの形で見える化しており、直感的に分かるようになっている。たとえば、チョコレートとブルーチーズは、73種類の香気成分を共通で持っていることが分かっている。だから、両者を合わせることは無謀なチャレンジに見えるかも知れないが、実際に食べてみるとおいしいらしい。食べ合わせならぬ香り合わせ、ちょっと試してみよう。

 料理の常識が、科学で更新されてゆくさまが面白い。「おいしい」を最適化した「超料理」を、ご堪能あれ。

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