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最高の入門書を一冊で『そうだったのか現代思想』

 きっかけは、このツイートに遡る。

 メンヘラに限らないし、2000年は盛りすぎだ。だが言ってることは合っている。ええトシこいたオッサンなのに、中学生からの悩み「私とは誰か(何か)?」がまだ悩み終わっていないのは、圧倒的に足りないから。存在論と認識論から始まって、認知科学や科学哲学、数学から仏教まで、道草が愉しすぎて終わる気がしない。わたしの時間が終わるまで、知りたいことを知り尽くしたい。

そうだったのか現代思想 その手引きとなる一冊がこれだ。網羅性はないし単純化バイアスが掛かっているが、現代思想のエッセンスを凝縮し、ひたすら噛み砕くのが良い。要所要所で出てくる概念図がこれまた分かりやすく、院生や教師のタネ本というのは本当だろう。正確・公平を期するなら、[Wikipedia:現代思想]だが、楽に楽しく読みたいなら本書を推す(社会人向け講義がもとなので、話し言葉ですいすい飲める)。今までバラバラに読みかじり・聞きかじってきた概念が、つながりを持って理解することができる。

 現代思想の水源をニーチェに求め、ヨーロッパが持っていた自信の喪失から始まった運動だと定義する。「哲学=真理」というちゃぶ台を破壊したニーチェから、構造を発見したレヴィ=ストロース、デリダの脱構築、知と主体を変換したフーコーまで、絶対的な知の破壊から、相対主義を超えたところまで、一気に駆け抜ける。

 古代・近代哲学を乗り越えるための現代思想という姿勢だから、ソクラテスやデカルト、ヘーゲルへの後方射撃がどんどん出てくる。自分で乗り越えた悩みもあれば、いま格闘している命題のアンチョコも見つかる。[「疑う自分は疑えない」というプログラムだったら?]程度なら簡単にできるデカルト批判だが、その言葉を規定する社会(文化)も包んで相対化する思考は、未だに乗り越えられぬ。言葉の外には出られないもの。

 いたく興味を惹いたのが、科学哲学にも触れてくるここ。

近代科学というのは複雑な考えかただと思っていらっしゃる方もいるかもしれませんが、じつは単純な考えかたなんです。よぶんなことをいっさい度外視してかんがえる。19世紀というのは、近代科学でわかることだけが正しいとかんがえられてきたんです。でもじつは、近代科学でわかるというのは、あらかじめわかりにくいものを度外視して、近代科学のやりかたで、わかるものだけをわかるとかんがえたやりかたなんですね。

 世界をなるべくシンプルな式で示そうという試みは、いま最終コーナーを曲がっている。部分に分けて考えるやり方は限界で、部分の和は全体にならない(ゆらぎやパラメーター過多で計測できない)。世界はそんなに簡単ではなく、シンプルな式に還元できる対象だけをピックアップして、理解、分解、再構築してきた営みにすぎないのではないか……と考える。分かるものだけを分ける、これが今までの「科学」の本質なのじゃないかと。

 そして、安くて速いコンピュータの利用により、分けられないもの、シンプルに還元できないものを丸ごと扱えるようになったのがここ数十年になる。統計をバリバリ使う複雑系からのアプローチが、部分の和が全体になると信じる「科学」を侵食している―――そんな構造が見えてくる。

 何をもって善とするかを分析すると、それぞれの時代・地域の倫理が見えるように、何をもって知とするか構造化できるなら、それぞれの時代・世界の科学(人文科学と自然科学)が分かるのではと考える。例えば、時代ごとに数学の概念を定義づけるなら、その時代ごとにどこまで抽象的に考えられたかを可視化できる。さらに、数学を使って考え付くことの全てを可視化できるなら、そこには、人が思考できる限界が現れる―――これは現在進行中の悩みなのだが、本書に道しるべがあった。

 すなわち、フーコーがやったことだという。ある時代の学問というものは、その時代全体の知の構造の中で発想している。ルネサンス、古典主義、近代のそれぞれで「知の規則」があり、どんな学問(=世界のとらえかた)も、この規則の中で出てきたと述べる。フーコーは、この規則のことを、時代全体の総合知という意味で「エピステーメ」と呼んだといい、『言葉と物』を読めと誘ってくる。これで、死ぬまでに読むべき本がまた追加された。

 もちろん、ネットで読んだフリはできる。Wikipediaには、知りたいことがまとめてある。だが、わたしは知りたいだけじゃない、分かりたいのだ。分かるための、よい道しるべとして。知ってるフリもできるけど、その先を分かりたい人のブックガイドとしても優秀な一冊。

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無知ほど完全な幸福はない『続・百年の愚行』

 『百年の愚行』は、人類が20世紀に犯してきた愚行を、100枚の写真で見える化したもの。奇形化した魚、エイズの子、鮮やかなガス室、貧困の究極形、人類が成してきた悪行とツケ100年分は、絶句するほかない。

百年の愚行続・百年の愚行

 その続編が出た。これは、人類の狂気を見える化したもの。まだ21世紀のはじめなのに、911と311に挟まれてはみ出てきた、おぞましい恥部が写っている。戦争、弾圧、差別、暴力、貧困、環境破壊と核という切り口で、映像として残る人間の愚かさを、思う存分飲み下し、腹下せ(精神的な下痢になる)。どんなに言葉を尽くしても、圧倒的な狂気の前に、声を失うだろう。

 最初の『百年の愚行』と比較すると、センセーショナルなどぎつさが、抑え気味になっている。新疆ウイグル自治区での弾圧は、もっと血みどろor火まみれな映像があるが、煽らないよう避けられている。代わりに、「シンジャンのパレスチナ化」という寄稿で、当局の迫害は「飲鴆止渇(毒酒を飲んで渇きをいやす)」であり、近い将来に支払われる代償が高くつくことを警告する。

 同様に、ルワンダの虐殺、北アフリカ移民船の海難事故も、ずばり死体、これぞ破壊された死体といった映像を見たことがあるが、やはり注意深く配慮されている。代わりに、(本書を読むと想定される)マジョリティには、被害者の心情なんて理解できるはずがなく、逆に、加害者の心理の方が想像できるなどと、挑発的に煽りたてる。たしかに、こんな蛮行は、見るものを「善意の第三者」にさせてはくれない。怒りの持って行き場も失うだろう。

 本書で炙り出されるのは、徹底した他者への想像力の欠如だ。自らの記憶の破壊も含めてもいい。相手に名前があり、家族がいて、人生があることを知らない/想像できないから、平気で殺すことができる。空間的に離れた場所や、時間的に遠い未来の世代を想像できないから、平然と奪うことができる。自らが殺し、奪い、焼いていることを“知らない”ままでいられるのは、幸福だ。だが本書は、強制的に見せつける。直視をためらう瞬間も、目を背けたくなる場面も、記憶から暴きたて、思い出させてくれる。この狂気が、よく見えるように。

 愚行の世紀は、まだまだ続く。人類は忘れっぽい。近い将来かならず出会う、不都合な真実の原因は、ここに写っている。そのとき、これを思い出せ。一度目は悲劇、二度目は喜劇、そして三度目は終劇とならないように。

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