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文の芸とはこういうもの『悪の引用句辞典』

悪の引用句辞典 名言で時事問題を斬ったエッセイ。

 タイトルからビアスを想起したが、寸言より引用量があり、ブックガイドの亜種として楽しめる。著者・鹿島茂のブンガク薀蓄が聞けると思いきや、むしろ(意図的に)離れ、社会批評したい対象から作品・警句を逆引きしたかのような選び方をしているのが凄い。

 しかも、引き出しの多さ、ストックの量がすばらしい。このテにありがちな種本は(ほとんど)使ってないはず。有名な本の有名でない引用は、本人が自分の裁量で切り出した証左になる。そして、有名な引用を意外な時事ネタにつなげる想像力は、創造力といっていい。筋金入りの書痴だからできる芸や。

 たとえば、ポール・モラン『シャネル 人生を語る』。なぜモードの革命家という人生を選んだのか?という問いに対し、ココ・シャネルの答えを持ってくる。

自分の好きなものをつくるためではなかった。何よりもまず、自分が嫌なものを流行おくれにするためだった。わたしは自分の才能を爆弾に使ったのだ。わたしには本質的な批評家精神があり、批評眼がある。「わたしには確かな嫌悪感がある」とジュール・ルナールが言っていたあれね。
(太字化はわたし)

 これを、大学の独立行政法人化に絡める。若者という「顧客」の好みに迎合するマーケットとしての大学に異を唱える。若者という「おこちゃま」の好きなものばかりを提供していったら、大量のオタクや腐女子を生み出すだけで、学生も大学も不幸になるだけだからだという。「最近の若者は~」臭が鼻につくけれど、言ってることの半分は頷ける。

 つまり、「好きなもの」は不安定だが、「嫌いなもの」を軸にした選択は確かだという。イメージに左右されがちな「好き」よりも、フィジカルな反応をもとにした「嫌い」の方が安定している。そして、結婚相手を選ぶときは、好きなものが一致する人よりも、嫌いなものが一致する人を選べと勧める。こと結婚については、わたしの経験から言っても同意する。

 文化や世相をシニカルに眺め、エスプリたっぷりのコメントは文の芸そのものだが、こと話題が政治・経済になると鋭くも深くもない床屋談義になる。なぜなら、ネット論説やtweetを読むように、エビデンスやロジックを検証しようとすると、皆無だからだ。

 たとえば、クラウゼヴィッツ『戦争論』を日本の政局にあてはまて、代議士の劣化が起こっていると断ずる。失言で大臣がコロコロ変わるのは、将たる資質のないものが将となっているからだという。この欠陥は構造的であり、小選挙区制の採用と派閥の消滅が原因だという。小選挙区制により、勝ち組の政党であれば、お粗末な候補でも当選できるようになり、派閥の消滅により、指導者の育成ができなくなったと分析する。

 たしかに、小選挙区制が衆院選で採用されているのと、派閥が「グループ化」したのは事実だが、裏付けるためには、小選挙区制になる1996年以前や比例代表で選ばれた議員と比較せねばならぬ。「昔は失言でコロコロ変わらなかった」「比例代表の議員は資質あり」というのであれば頷けるが、そんなに優秀でしたかしら。

 ところどころ主語が大きくなるのと、微笑ましいツッコミどころが散見されるが、ロジックもエビデンスもないのに、どんどん読ませる芸は素晴らしい。さらに、地雷のように埋め込まれた箴言も見習うべき。サミュエル・ジョンソンの「愛国心とは悪党の最後の隠れ蓑」はいつでもどこでも使える寸鉄だし、「善は変数だが、悪は常数」という名句は、twitterで見た「常識と正義は多数決で決まる」を思い出す。

 微笑みながら、ツッコミながら、そしてときには唸りながら、文の芸を楽しめる一冊。

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人と文のインタフェース『文体の科学』

文体の科学 言葉のスタイルに思考を読み取る。記されたものを、人と文のインタフェースとしての「文体」と捉えなおし、聖書からtwitterまで、さまざまな「文体」を吟味する、面白い試み。

 目の付け所がシャープなのは、文体を「配置」だと言い切っているところ。文字や語、かたまりとしての文章が、媒体にどのようなスタイルで配置されているかを、まるごと掴まえてみる。普通、文体論といえば漱石の文体というような文学寄りの話になるが、ここでは「対話」「科学」「法律」など、意識して領域を越えている。さらには、媒体の物質的な側面からも考察する。本であれiPhoneであれ、文はかならず何らかの媒体を通じて入ってくる。つまり、文が象られるインタフェースもひっくるめた文体論なのだ。

 そのため、なじみの本から面白い考察が出てくる。手垢がつくほど料理されてきた『吾輩は猫である』を、「距離」で捉えなおす。つまりこうだ、新潮文庫の9ポイント活字で『猫』を読むと、358,020文字になり、これを一列に並べると、1.131kmに至る。本というパッケージは片手で掴めるが、『猫』を最初から最後まで読み尽くすとき、物理的にこれだけの距離を「移動」したことになる。読書は精神の旅だというが、物理的にも同じ喩えが当てはまりそうだ。

 そして、身体に引きつけて文を眺めることで、新たな気づきをもたらしてくれる。「科学」の事例として、植物図鑑の説明文を引き、人の立場から書かれていることを示す。たとえば「逆毛」とは、植物の生長方向に向かって逆方向に生えるから「逆毛」という。これが成り立つのは、地面に対して垂直上の方向に立っている存在から見た場合になる。そこには重力があり、それに抗う意識がある前提が隠されているというのだ。わざわざ断ってはいないものの、人という種が見たモノであるという暗黙裏がある。科学の文章は、主観を交えずに記す客観性が重要視されているが、そこには主観ならぬ種観があるという。

 ここから面白い分け方ができる。論文や小説や条文という分類ではなく、書き手や特定の人物の主観を「隠す」文体と「隠さない」文体だ。前者は、非人称のモノローグから客観や不偏を装ったものになり、論文や一部の小説・詩歌があてはまる。後者は小説一般と対話文になる。この観点から客観を装ったイデオローグの芸文と言える新聞記事を斬ると、愉しい分析ができるだろう。文体の詭弁性を知るのにもってこいの教材だが、そこまでの深堀りは本書でしていない。

 そう、斬り口がユニークなので、俎上に載せる文体がもっと欲しくなる。たとえば、最も数多くの人々の心を動かした文がある。ベストセラーでも聖書でもない。読んだ者の感情を揺さぶり、怒りや哀しみ、ともすると感動を与えた、Windowsのエラーメッセージについて考えると面白いだろう(昔の人なら、「コマンドまたはファイル名が違います」だね)。

 あるいは、同じ出来事を99通りの文体で描き分けたレーモン・クノー『文体練習』を挙げるなら、「爆発音がした」まとめ[村上春樹ジェネレーター]で言語遊戯したい。プログラミング言語の文体について触れるのなら、難読化について分析して欲しかった。コードの目的を隠蔽するため、故意にコードやロジックを難解に曖昧にする変換技術は、「文体は人のためのものか?」という興味深い問題を示している。さらには、「手紙」や「注釈」といったテーマで斬っても遊べるだろう。

 もう一つ。タイトルから、形態素解析して文の特徴を数値化した小論かと勝手に想像したが、そんな考察は無い。もとの連載時の題名『文体百般』のほうがしっくりくる。次回があるなら、正座して期待する。

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