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『なぜエラーが医療事故を減らすのか』はスゴ本

なぜエラーが医療事故を減らすのか 「バグを排除しようと圧力をかけると、バグが報告されないプロジェクトになる」

 この寸言は、よく忘れられる。シックス・シグマや日経ナントカに染まった管理者が、バグを目の敵にし、バグゼロの号令をかける。不具合が表面化すると、たまたまそこに詳しいだけの担当を犯人扱いし、なぜなぜ分析を強要し、ccメールや全体会議で晒し者にする。

 なぜなぜ分析とは、「なぜそれが起きたのか?」「その原因の原因は?」と、原因を幾重にも掘り下げる手法のこと。5段階も遡及すると、たいてい「私の不注意でした」となり、対策は「意識を入れ替える」という小学校の学級目標になる。反面、もっと深刻な「仕様変更が電話口で伝えられていた」とか「アジャイルの名のもとにテストが省略されていた」などは放置される(なぜなら、「人」を原因にしたいから)。

 こんな冗談みたいな施策を続けていくと、スケープゴートになった人はどんどん心をすり減らし、不具合の初期症状は「知りません」の壁に囲われ、詳しい人から順番にプロジェクトからいなくなる。かくしてバグは報告されなくなる、システムが崩壊するまで。

 いっぽう、人の命が懸かっている医療現場では、冗談では済まされない。ミスを排除するための基準が幾重にも設けられ、システム的にも人的にも厳しい安全管理・衛生管理がなされている。しかし、それでも事故は起こる。手術部位の左右取り違えや、併用禁忌の薬剤の投与、経口投与すべきものを皮下注射するなど、「あってはならない」ことが起こる。

 そしてひとたび、重大な障害が残ったり、患者が死亡した場合、大事件として扱われる。直接関わった医療者は参考人として事情聴取を受けるが、マスコミからは犯罪者として祭り上げられる。遺族は賠償訴訟を起こし、病院側との対決姿勢を鮮明にする。現場に居た人たちは殻に閉じこもり、「なぜそうなったのか」は不鮮明なまま。マスコミは「犯人」にフラッシュを浴びせ、うつむく横顔をクローズ・アップする。

 医療の専門家でもないわたしでも分かる。「原因」は、そこで頭を下げている人だけでないことを。もちろんその人にも過失はあっただろう。だが、そこに至るまでに様々なすり抜けがあり、不幸な偶然が重なったがためであって、その人に全責任を負わせて糾弾することが間違っていることを、知っている。

 そして、マスコミがこうした「犯人探し→吊るし上げ」の姿勢を強調すればするほど、スケープゴートになった人はどんどん心をすり減らし、真の原因究明は「知りません」の壁に囲われ、詳しい人から順番に現場からいなくなることは、どこかで見た構図になる。明らかに間違ったことをしているのに、何もできないもどかしさ。そもそも、何をすればいいのか、具体的に示せない。そこに明快な解を示してくれたのが、本書になる。

 著者はフランス人。医療安全の第一人者にして現役の臨床医でもある。原書のタイトルはもっとシンプルに、「エラー称賛」である。本書の主張は明確だ。複雑な人体と複合的な医療システムにとってエラーは必然であり、不可欠でもあるのだから、エラーを受け入れ、称賛せよという。そして、エラーを前提とし、これを報告・学習する文化を広げろという主張だ。そのための具体的な方法や事例が、現場から為政者レベルで書いてある。また、後半の訳者による「解題」には、日本での取り組みも併せて紹介されている。

 どんなに研究が進み、医療技術が高度になったとしても、相手は人の身体である。人が設計図を引いたエンジンや原子炉と異なり、人体は機械ではない。絶え間なく代謝し続ける複雑な生体だ。さらに、本書によると、医師は、7,200種類の医療行為、5,000種類の医薬品、50,000種類の医療機器および器具を用い、生体組織検査やX線撮影を依頼し、患者を入院させ、看護師、理学療法士、歯科医師などの協力を求める。数百の疾患に対し、選択の組合わせは無数にあるといっていい。よって、医療技術を用いて人体に何らかの介入をした場合、どのような反応がおこるか厳密に予測することはできない。ただ経験と実験の積み重ねにより、医療の不確実性を克服しようとしているのが現状なのだ。

 そして、人は誰でも間違える。絶対に間違えないのであれば、それは人ではない。1つの重大事故の背後には29の軽微な事故があり、その背景には300のヒヤリ・ハットが存在する。そうしたインシデントの連鎖を止めるため、さまざまなマニュアルやチェックリストが整備されている。成人向けと小児向けの薬剤を同じ棚に置かないとか、「入力の"打つ"と注射の"打つ"」を明確化・復唱するといった会話のプロトコルを定めておくとか、多すぎる薬量がオーダーされた場合にはシステムが警告するなど、有形無形のさまざまな関所が設けられている。

 本書では、こうした関所のことを、並べたスイス・チーズで視覚的にモデル化する。一つ一つのスイス・チーズは穴だらけだが、これを並べることにより、エラーという矢の通り道を塞ぐ。幾つもの穴をすり抜け、刺さったチーズが「ヒヤリ・ハット」になる。一つ一つの確認行為は関所として機能しているはずなのだが、完璧ではない。病気が、環境や遺伝要因の複合的な要素によって起きるように、エラーの原因は一つとは限らない。刺さった最後のチーズは確かに目立つかも知れない。だが、そこへ至る一連の流れを見なおし、各ステップでの不具合を見つけ出し、システム全体としての改善を図ることが必要になる。

 この考えに基づけば、不幸にして最後のチーズとなった医療者を責めるのは意味がないことも明白である。事故の当事者は、たくさんあったはずの防御装置の欠陥を明るみに出した者にすぎないのだから。ヒューマンエラーは原因ではなく、むしろ結果なのだという。

 また、起きてしまった事故に対し、司法からのアプローチの限界を指摘する。司法の介入は必ずしも真実の追究につながるとは限らず、むしろ妨げる結果に終わることも少なくないという。なぜなら、裁判では勝ち負けが焦点となるから。裁判では、責任者すなわち犯人がいる前提で行われ、だからこそ損害賠償が可能になるのだと考える。自己防衛のため自己に不利な発言はしなくともよいという状況下では、全ての情報が明らかにされることは期待できないから。

 複雑なシステムの安全性を高めるには、当事者に自己保身の殻から出て、原因究明に参加してもらうことが必要だ。特に、本人がどのような認識だったかが肝となる。当事者の認識は、客観的事実ではない(感覚は人を欺く)。システムの危険性を回避するためには、当事者の目に映っていた状況を把握する必要がある。その際、過失は過失として、偶然によるエラーはエラーとして、分けて考えなければならない。さもないと、何を語ったところで「罪状」扱いされることを恐れる当事者は、最低限のことにしか口を開かなくなるだろうから。

 2002年にフランスで施行されたクシュネル法は、この医療の不確実性というコンセプトに基づいている。同法により、意図せざるエラーと、裁判で追求される過失を切り分けて考えるようになり、何よりも素早く実施されなければならない被害者の補償と救済が、事故直後に行われるようになったという。

 医療の不確実性に起因するヒューマンエラーは原因ではなく結果として捉え、エラーを前提としたシステムづくりを目指す。この営みは日本でも行われている。日本医療安全調査機構といい、診療行為に関連した死亡事故について、専門家が中立的な立場で原因を究明し、患者の遺族に説明、さらに再発防止のための提言を行うというモデル事業である。完全に匿名化し、懲罰的な扱いはしないことで、「犯人」探しの法廷論争から一線を画しており、2005年から2014年まで200件あまりの死亡事例を扱っている。

 また、医療現場で起るヒヤリ・ハット事例の原因分析として、日本医療機能評価機構がある。そこでは、「誰」に焦点を当てているのではなく、「どのように」起きてしまったのかが徹底的に調べ上げられている。そして、同様の事象が起るのを防ぐために必要な手立てが提言されている。複合的システムの安全性を維持するために不可欠な、「報告する文化」および「学習する文化」というコンセプトが、リンク先では具体的な形として見ることができる。

 ただ、これらがどのように生かされているかは、分からない。いずれも医療の質と安全性の向上のためお役立てくださいとあるだけで、注意喚起以上のフィードバックはないようだ。わたしが調べ切れていないだけで、医療の現場では、たとえば研修カリキュラムへの導入といった形で行われているのかもしれない。

 冒頭の寸言は、本書の提言でこう書き換えられる───「エラーを称賛することで、エラーから学習するシステムになる」。そしてこれは医療に限らず、安全性が求められるあらゆる分野に適用可能な姿勢だろう。

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『こころ』を読んだら、これを読め

01

 好きな本を持ちよって、まったり熱く語り合うスゴ本オフ。

 毎度まいど、収獲量が桁違いのブックハンティングで、やはり今回も凄かった。お題は夏目漱石の『こころ』。初の課題図書なのだが、これ読んで感想を言うありきたりな読書会ではない。『こころ』を読んだ人にオススメする作品を紹介するというメタ的な読書会なのだ。

02

 あまりにも有名な『こころ』を、いかに教科書的でない読み解きをするか? ここが肝でスリリングなところ。みなさまの発想力と独創性により、意外だけど納得できる本が集まった。わたしもアクロバティックな読みを目指したつもりだけれど、予想のナナメ上を飛翔する想像力にやられましたな。集まった作品の書影は[リブライズ]に、tweetはTogetterまとめ[『こころ』はミステリだった? ハードボイルド? 恋愛小説? スゴ本オフ「漱石の『こころ』の次にオススメする本」]にまとめてありますぞ。

03

 まず、『こころ』をミステリとして読むやりかた。なぜ先生は死ななければならなかったのか? 語り手である「私」はどうなるのか? など、描かれなかった欠片を補う、謎解き『こころ』。なかでも『「こころ」で読みなおす漱石文学』は白眉で、解答の見事さもさることながら、再読へと誘う仕掛けがいい。また、『漱石の実験』は凄い。「なぜずっと後になって先生は死んだのか」に着目して、超絶かつ納得の"真犯人"をあぶりだす。こういう書き方そのものがネタバレなのだが、そこへ持っていく技量は文学者ならでは。

 そして、ハードボイルドとして『こころ』が読めるというアイディアに驚く。主人公が、ある男と出会うところから物語が始まる。その男の生き様に共感し、交流を深めるのだが、暗い影が付きまとっており、それは過去の恋愛と嘘と死のもつれから始まっていた―――という共通点から、チャンドラー『ロング・グッドバイ』が出てくる。さらに、『グレート・ギャッツビー』-『羊をめぐる冒険』とつなげていくと、いかにも『こころ』の人物が言いそうなセリフが頻出していることに気づく。信条を貫こうとするキャラクターを、感情を省き、簡潔な言動で描くところは、確かに同じ匂いがする。

 三角関係、自己欺瞞、こじらせ男子からボーイズ・ラブまで、様々な"読み"のうち、一番びっくりしたのは、「先生=女」説。序盤の鎌倉の海岸のエピソードで先生を女だと思い込み、立ちションの件で間違いに気づいた話が面白い。先生の性差のイメージが中途半端というか、トランスジェンダーな感じを受けたという。自分の中の性差を試されるような読書体験は、100年も読み継がれてきたからできたようなもの。

 この、先生の性差の曖昧さから、ペドロ・アルモドバル『トーク・トゥ・ハー』が出てくる発想が素晴らしい。愛する女が昏睡状態になってしまったため、必死に看病を続けるふたりの男の物語だ。相手の意思に関係なく一方的に与えることができるのは、「愛」の喜びなのか? これ観たあとに『こころ』を読むと、また違った感情が抱けそう。

 エピソードやキャラクターのイメージ連想により、『こころ』をいくらでもずらし、重ね、拡張できるのが愉しい。そして、連想先の作品からフィードバックすると、『こころ』がまた別モノとして新鮮に読めるのが嬉しい。恋愛小説としてとらえて『源氏物語』を推したり、善人が悪事をなし悪人が善を施す「人のゆらぎ」から『鬼平犯科帳』が出てきたり、遺書による告白オチから『ジーキル博士とハイド氏』が、親族に騙されるエピソードから『ハムレット』が飛び出してくる。いったん出てくると、さもありなんという風に見えてくる。読書の自由を満喫するラインナップとですな。「死んでいった人たちの記憶を引きずりながら生きている人たちに向けた物語として、『こころ』と供に『海街diary』(ただし映画版)がお薦めされる。映画版はスルーしていたが、なるほど『こころ』とあわせることもできるのか。

 コミック版『こころ』もある。省略しがちな表情がダイレクトに描かれているので、入りやすい一方で解釈が染まりやすいので要注意。入門者向けの「まんがで読破」シリーズや、大胆に現代風に解釈したオマージュもある。平成の時代で、「明治の精神」なんてないのに、先生はなぜ死ぬのか? と考えながら読むと、ラストであっと驚くだろう(『漱石の実験』に似ている)。さらに、『再話された「こころ」』を読むと、高橋留美子『めぞん一刻』は、『こころ』のパロディではないか? と思えてくる。八神いぶき編だけでなく、『めぞん』全体の構成で、『こころ』を念頭においていたのかも……と考えると、両方とも再読したくなる。読書は、どこまでも自由だ。

 いわゆる読書家というか、小説を読み慣れている人ほど、『こころ』を失敗作だと腐す。物語のほつれがあったり、未回収の伏線が放っておかれたりで、知名度のわりに小説としての出来は決してよくない。わざわざ読まなくてもいいんだよ、とまで言う人もいる。

 だが、もったいない。100年間、これだけ沢山の人に読み継がれているのだから、通り一遍の教科書的な読みではなく、違う世界、異なる価値観に接続して、離れた舞台で再演させることができるはず。『こころ』を下地に、もっと"読み"を広げることで、読んだ人の感情を普遍化することができる。そんな可能性を確かめるオフ会でしたな。

04

 次回のテーマは、「対決(VERSUS)」。競争、勝負、因縁、対抗、タイマンでも団体でも、博打でもバトルでも、そこへ至る葛藤でも、そこから生まれた悲劇でも、何でもアリ。「対決」という言葉でピンときた作品のうち、一番お薦めできる作品を持ってきて、まったりアツく語り合いましょう。いつも通り、本に限らず、マンガもゲームも音楽も映画もなんでもござれ。途中参加/退場・見学オンリー大歓迎ですぞ。

■ミステリ/ハードボイルドとして読む 『こころ』
『ロング・グッドバイ』レイモンド・チャンドラー/村上春樹(早川書房)
『容疑者Xの献身』東野圭吾
『ロシア紅茶の謎』有栖川有栖(講談社文庫)
『ジーキル博士とハイド氏』スティーヴンスン(光文社古典新訳文庫)
『「こころ」で読みなおす漱石文学』の石原千秋

■こじらせ男子の告白
『人間失格』太宰治(新潮文庫)
『センセイの鞄』川上弘美(文春文庫)
『山月記』中島敦(新潮文庫)
『漱石の実験』松元寛(朝文社)

■心のよすがとしての 『こころ』
『夏目漱石「こころ」2013年4月(100分 de 名著) 』姜尚中(NHK出版)
『心』姜尚中(集英社文庫)
『心の力』姜尚中(集英社新書)
『話虫干』小路幸也(ちくま文庫)
『ブッダのことば』中村元・翻訳(岩波文庫)
『ブッダの真理のことば・感興のことば』中村元・翻訳(岩波文庫)

■恋愛小説として読む 『こころ』
『赤と黒』スタンダール(新潮文庫)
『サロメ』ワイルド/平野啓一郎(光文社古典新訳文庫)
『海辺の恋と日本人 ひと夏の物語と近代』瀬崎圭二(青弓社)
『源氏物語』紫式部
『友情』武者小路実篤(新潮文庫)
『愛するということ』小池真理子
『トーク・トゥ・ハー』ペドロ・アルモドバル(ヴィレッジブックス)
『蹴りたい背中』綿矢りさ(河出文庫)
『うみべの女の子』浅野いにお(太田出版)

■死者と向き合う
『海街diary』吉田秋生/是枝裕和監督(小学館)
『哀原』古井由吉(文藝春秋)
『阿寒に果つ』渡辺淳一(扶桑社文庫)
『草の花』福永武彦(新潮文庫)
『風雪のビヴァーク』松濤 明(ヤマケイ文庫)

■コミックという方法
『こころ』夏目漱石×榎本ナリコ(小学館)
『再話された「こころ」』宮川健朗(翰林書房)
『文豪ストレイドッグス』春河35(角川書店)
『さよなら絶望先生』久米田康治(講談社)
『カフカの「城」他三篇』森泉岳土(河出書房新社)
『まんがで読破 こころ』(イースト・プレス)
『ファミリー!』渡辺多恵子(小学館)

■想像力は創造力
『婦人画報2015年7月号』(110年前の創刊当時の複刻版)
『ビリー・ザ・キッド 21歳の生涯』サム・ペキンパー監督(ワーナー)
『ジャズ大名』筒井康隆(新潮社 『エロチック街道』所収)
『硝子戸の中』夏目漱石(岩波文庫)
『夏目漱石、読んじゃえば?』奥泉光(河出書房新社)
『自分の感受性ぐらい自分で守れ ばかものよ』茨木のり子(小学館)
『不良少年とキリスト』坂口安吾(講談社文芸文庫)
『WONDER』R.J.パラシオ著。中井はるの訳(ほるぷ出版)
『鬼平犯科帳』池波正太郎(文春文庫)
『新訳ハムレット』シェイクスピア 河合祥一郎/訳(角川文庫)
『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』村上春樹(文藝春秋)
『倒錯の森』J.D.サリンジャー(荒地出版社)
『高慢と偏見』オースティン(ちくま文庫)
『悲しみよこんにちは』フランソワーズ・サガン(新潮文庫)
『若きウェルテルの悩み』ゲーテ(新潮文庫)
『ツァラトゥストラはこう言った』ニーチェ(岩波文庫)

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