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科学の歩き方『サイエンス・ブック・トラベル』

サイエンス・ブック・トラベル 何が君の幸せか? それは、何を知って喜ぶかによる。知ることは、世界を拡げること。この喜びを分からないまま終わる、そんなのは嫌だ。

 本書は、科学の世界を歩くためのブックレビューだ。第一線の30人が選んだ100冊は、眺めるだけで見晴らしが良くなる。まずは、パラパラしながら興味を惹いた本を選んだ「人」を探そう。その人こそが、世界を広げ、知る喜びの先達になる(本を介して、人を探す)。

 ありがちな、「さわりを解説してお茶をにごす」タイプではなく、「なぜこれを選んだのか」について、その本との関わりも含め赤裸々に語りかけてくる。科学に対し、無味乾燥な数式や研究というイメージを抱いて読んだなら、「知りたい」という熱い思いと、「どうやって伝えよう」というもどかしい思いに揉まれるだろう。

 たとえば、講談社ブルーバックスの編集会議。7名の編集者が月1に集まる企画会議なのだが、そこで「通す/通さない」を決めるのは、担当者の"熱意"なのだという。専門家でない自分たちが、最初の読者として面白いと感じられるか、最後まで読者の目線で本作りができるかが大事なのだという。編集者はさぞかし理系と思いきや、文系・理系半々だというのも興味深い。確かに、科学の窓口を広げるのが役割だから、拘るほうが変なのかも。

 あるいは、青木薫氏が述懐する、ポピュラーサイエンス書の素顔。今でこそ普通にフィクション棚にあるが、昔は専門書コーナーの片隅で全然売れなかった。原因は翻訳のまずさ。やさしい言葉で語りかける原書が、日本語版だと専門書然としたものになってしまい、本来の読み手に届かなかったという。そんな状況で「伝えよう」と奮闘する氏の努力には頭が下がる。同時に、現在翻訳中の『数学の大統一に挑む』(原題は"Love & Math")を知って歓喜する。手にする前から知的興奮が保証されている本は珍しい。

 すべての章のタイトルを、疑問形にしているところがいい。「この世界の究極の姿は何か?」や「卵はどうして"私"になるのか?」、「科学的な思考とは何か?」など、挑戦的な見出しを掲げ、斬りこむための3冊を選んでくる。科学の根っこには、「知りたい」があることを伝える、良いメッセージになっている。サイエンス本好きなら、目次の問いかけをヒントに、「自分ならこれを選ぶかな……」と予想するのも一興。

 たとえば、「未来の医療はどうなるか?」について、映し鏡として過去をもってくるのではとマクニール『疫病の世界史』[レビュー]を予想したら、ドンピシャだった。これと、ソンタグ『隠喩としての病』[レビュー]をお薦めする鈴木晃仁氏は、興味の方向が一致しているありがたい先達なり。一番プッシュされているポーター『人体を戦場にして』は読む(ご本人による紹介は、[akihitosuzuki's diary]にあり)。このように、既読本から人を探し、その人が紹介する本と出合う。本を介して人を知り、人を介して本に会う。まさに、「わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる」を実践する一冊なり。

 ひとりで知れる世界なんて、たかがしれている。アフリカの諺に、「一人だと早く行ける、一緒だと遠くに行ける」がある。本書を探すと、あなたと一緒に行ける人が必ず見つかる。科学の世界を旅するために、世界を知る喜びのために、携えておきたい。

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レイプの遺伝子『暴力の解剖学』

 もちろん、レイプの遺伝子なんてものはない。だが、レイプは「遺伝」するのかという問いには、非難と議論の渦中から、様々な応答がなされている。

人はなぜレイプするのか たとえば、『人はなぜレイプするのか』[レビュー]は進化生物学の観点から解き明かす。結論からいうと、養育の投資量の男女差になる。男は養育の投資量が相対的に少ないため、繁殖のため多数の相手に関心を向ける。一方で女は、妊娠、出産、育児に多大な時間とエネルギーを費やされるため、男選びに慎重になる。このセクシャリティの差が、レイプの究極要因だというのだ。

 ただし、レイプそのものが適応かどうかについては判断を保留し、フェミニストの立場からの「学習理論」を紹介することで、バランスを取ろうとする。すなわち、レイプとは男性本位の歪んだ文化によってもたらされたという立場だ。挑発的な表紙とタイトルとは異なり、慎重にロジカルに議論を整理している。

人はなぜレイプするのか 一方、『暴力の解剖学』は大幅に踏み込んでくる。できる限り多くの女性を妊娠させて、"カイン"の遺伝子をばら撒かせる仕事を彼女らにまかせるという、進化によって生み出された究極の欺瞞戦略なのだという。ドーキンスの弟子を自称するわりに、『利己的な遺伝子』を読み誤っていて面白い。あれは、生物進化を遺伝子中心の視点で理解するためのメタファーであって、「利己的な遺伝子」というものが存在する、などとは言っていない[参照:分かりやすさという罠『利己的な遺伝子』]

 著者は神経犯罪学(Neurocriminology)の専門家で、脳や神経系などの生物学的な構造や機能の欠陥が、いかに反社会的性格を生み、犯罪者に至らしめるかを研究している。本書によると、暴力とは癌などの病気のようなものになる。癌は、遺伝など先天的な体質と、食生活など後天的な生活環境によって引き起こされる。同様に、暴力は、遺伝による脳の機能的異常と、貧困や幼少期の生育環境の相互作用から導かれるというのだ。この主張を、バイオソーシャル(Biosocial)理論といい、本書の大半は、その科学的な実証と、ケーススタディに費やされる。

 たとえば、犯罪が遺伝する例として、モノアミン酸化酵素Aを生成するMAOA遺伝子に着目する。これは、衝動のコントロール、認知機能に関与する神経伝達物質を代謝する酵素で、異常をきたした場合、低いIQや注意力の欠如を引き起こすという。サイエンスの記事を引き、暴力の履歴をもつ全ての男性が、突然変異したMAOA遺伝子を持っていたという調査結果を紹介する。

 また、前頭前皮質の機能不全が暴力をもたらす研究や、妊婦の喫煙や鉛への被爆が、子の暴力性に影響をおよぼす調査など、興味深い例をいくつも見ることができる。栄養不良、虐待による脳の損傷、遺伝子などの危険因子が、劣悪な社会的環境と結びつくと、その子どもは、やがて犯罪者に至る道を歩みはじめることになる。暴力とは、脳や神経系の機能不全からくる病気だという。

 暴力は病気なのだから、予防できる。これが、著者の結論だ。暴力を公衆衛生の問題、社会的に悪影響を及ぼす疾病としてとらえ、「罪」や「悪」などの概念に歪曲されず、理性的、臨床的に対処することを提言する。

 具体的にはこうだ。18歳以上の男性は全員、脳スキャンとDNAテストを義務づけ、「異常あり」と認められたら、社会から隔離して生活してもらう。ただし、「まだ」犯罪者ではないのだから、刑務所のようにするわけではない。緩やかな隔離生活を送ることで、暴力の芽を予め摘み取っておくのだ。性犯罪に対処するための、化学的な去勢(薬物去勢)も推奨される。抗アンドロゲン薬を投与してテストステロンのレベルを下げ、性的な関心や行動を減衰させる対策は、英米で実際になされているという。

 さらに、親免許制度も紹介される。ダメな親に育てられた子が暴力的になりやすいなら、社会から暴力を減ずるために、最初からそういう人を「親」から排除しておく。重犯罪者を隔離して、子をもつ権利を剥奪することで、その遺伝子を遺伝子プールに残せないようにしている現状と、たいして変わりがないという。かくして、トム・クルーズ主演『マイノリティ・リポート』や、オーウェル『一九八四年』で見たような世界が提言される。トロッコ問題をヒトラーに適用したり、優生学スレスレの主張を展開したり、タブーに大幅に踏み込んだ議論がなされ、警告色のような毒々しいパッケージにふさわしい内容となっている。

 しかし、読みながら募る違和感は、定義なしで示される言葉に注意すると、増大する。読まれる方は、自分で考えずに鵜呑んでしまわないよう、気をつけて欲しい。それは、「正常」とは何か? という疑問である。たとえば、カラーの口絵にある、ポジトロン断層法(PET)による脳の鳥瞰画像だ。殺人犯の前頭前野の機能低下を示す証拠として掲げられているが、問題は「正常」のほう。

 これは何をもって「正常」とみなされるのか。比較するために撮影された殺人犯ではない人の、平均をとったものか。それとも、「殺人犯の前頭前野の機能低下を示す」ことが顕著になるよう、対照的な一群が選ばれたのか。前者の、平均をとったものであれば、「正常」の中でのばらつきのうち、殺人犯の脳と近いものもあり、それは対照群の中に埋もれてしまっている。後者であれば、殺人犯の脳を特徴的なものにするために、「正常」が操作されていることになる。

 何が言いたいかというと、著者のいう「正常」は、かなりゆらぎがあるということだ。暴力に訴えやすい人とそうでない人がいることは事実だが、わたしも含め、暴力に無縁である人なんていない。まだ暴力犯罪を起こしてないだけであり(言い方に気をつけるなら、巻き込まれていないだけであり)、そうなる可能性はじゅうぶんにある。そして、その可能性は、%で測ることはできない。本書で語られる数値は、相関関係であり、因果関係ではない。「因果関係が強く示唆される」という表現までに留まっており、疫学的な統計情報にまで至っていない。それを乗り越える方便として、「正常」が恣意的に使われることは、非常に危険だと考える。

 同様に、「暴力」を定義していないのも気になった。人や物への破壊行為なのか、無差別殺人からちょっとした嘘、会社の備品のちょろまかしまで、反社会的行為として幅広く適用されている。自分の使いたい文脈に応じて、「暴力」を伸び縮みさせていることが、非常に危うい。

 極端な言い方をすれば、戦場において敵に対する暴力は英雄的行為としてみなされるが、平和な公園では悪として扱われる。隠れた前提「暴力=悪」という価値観により、盗みや嘘も研究対象として入りこんでしまう。今では「児童虐待」としてみなされる行為は、それほど遠くない昔「しつけ」と称していた時代があったことを思い出すべし(Spare the rod, and spoil the child)。

 究極の破壊衝動として殺人を挙げるのなら、その対象を自分に向ける「自殺」の観点が、すっぽりと抜け落ちている。本書で扱う「暴力」が、どこからどこまで指すのかを定義せずに使うと、文化や時代、社会的背景により、統計情報はがらりと変わる。つまり、恣意的に扱えてしまう危険性に気づかないまま、自説に沿うケースだけを切り貼りできることになるのだ。科学者が「正常」を決められるように、「暴力」も定義できるのであれば、フリーハンドで為政者が規制対象を好きに扱えることになる。「正常」も「暴力」も、時代や文化によってゆらぎが生じるのだ。その危険の反面教師として、注意して読みたい。

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