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科学者の社会的責任『科学・技術と現代社会』

科学・技術と現代社会上科学・技術と現代社会下

 「知りたい」が科学であり、「変えたい」が技術である。従って、技術の限界は人が今の姿形をしている身体的物理的な限界に依存するが、科学の限界は存在しない。人が「知りたい」を止めないかぎり。科学に善悪はない。だから、技術は物理的限界まで、科学は人である限り、どこまでも行ける。

 しかし、本書の著者である池内了はそう考えない。べき乗で歴史を振り返り、科学と技術が密接に絡み合い、社会の中で発展してきたことを指摘する。科学の軍事化、制度化、技術化、商業化といった観点から「科学と社会」の関係性を掘り下げる。そして、科学や技術を規定し限定するのは社会であり、「知りたい」科学、「変えたい」技術には、社会的な責任が伴うと主張する。これが本書の趣旨。

 歴史視点「科学の歴史と技術の変容」から始まり、倫理観点「科学者の社会的責任」、そして理論の視点「要素還元主義からの科学の限界」など様々な角度から掘り下げている。テーマも多岐にわたり、原発事故、科学の軍事化、核エネルギー、バイオテクノロジー、トランス・サイエンスなど、現代社会の科学にまつわるほぼあらゆる問題を俎上に載せている。

 これは、科学者のタマゴにとっての教科書にもなるし、人類の科学技術史の“早回し”として読んでもいい。ここ20年間の科学に関する諸事件のまとめが秀逸で、リアルタイムで接してきたものを振り返ると、世界が加速しているような感覚に囚われる。人類の祖先からSTAP細胞問題まで、一人の個人がここまで手広く科学論を展開したものは凄いの一言。

 特に、序章の「原発事故をめぐって」と題した原発問題が圧巻だ。話を展開していくうち、原発事故だけに留まらず科学者の社会的責任やトランス・サイエンス問題まで拡張する。多額の金を受け取ってきた原発立地自治体は、事故を引き受けるのは当然というニュアンスに、植民地的発想を感じるといった主張は鋭い。

 所々に出てくる、科学者としてのホンネが面白い。たとえば、科学者は「世界一」という言葉にめっぽう弱いという告白がある。これは、国家の威信を示すものとして推進された、宇宙開発、原爆開発、加速器開発、南極探検などのビッグサイエンスにそのままつながる。なかでも戦争は、社会から科学への作用が最も強く働く動機となる。愛国的な科学者・フリッツ・ハーバーの事例が象徴的だ。大気と水から窒素肥料の作成を可能にし、農業生産性を飛躍的に高めた業績がある一方、ユダヤ人虐殺に用いられたチクロンBを作り出した。

 科学の倫理性を問う事例が考えさせられる。2009年のイタリアの地震学者の例だ。ラクイラ地方の大地震が「予知」できず、被害を拡大させたとして、過失致死罪の容疑で訴追されたという。科学者は「安全」だと断言できないだろうが、パニックを回避するため行政サイドから歪められたのだろう。

 また、水俣病の加害企業が設けていた診療所の医師のエピソードも興味深い。奇病の原因は工場排水であると仮説を立て、誰よりも早く確証を得ていたにも関わらず、雇用主への報告にのみ留めていた。保身のためとはいえ公にしなかったことに対し、著者は「ジレンマ」という言葉を用いて、同情的な立場をとる。直前の、企業べったりの御用学者への辛辣さとは対照的なり。科学者である前に人間だという前提は、どちらにもあてはまると思うぞ。こうしたダブスタや脇の甘さが散見されるが、議論を誘っているのだろう。

 そう、個々の事例は有意義なのだが、そこからの考察に首をかしげたくなる。できの悪い新聞社説のように「○○すべき」「○○であるべき」が頻出し、そう言いたい気持ちは伝わるのだが、根拠がない。参考文献は沢山載せているのに、大いに参考にしたはずのURLが一切ないのが笑える。具体的な数値はインターネットで調べなさいという親切設計なので、著者が何を元にそれが正しいと信じるのかが分からない。ひょっとすると、ネットには好みの立場に応じたエビデンスが選べることを知らないのだろうか。

 また、著者自身が自白しているが、議論が整理されていない。MECEになっていないため、何度も同じ主張や事例を読まされるはめになる。削除すると前後のつじつまが合わなくなるからと弁明しているが、これは編集の責だろう。科学に関する議論の呼び水となるだけでなく、批判的な読みも誘惑する。一人の個人が全部を語るには、科学は壮大かつ複雑すぎるのかもしれぬ。

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