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人は脳で食べている『味わいの認知科学』

味わいの認知科学 「食べる」を深めると科学と文化になる。「おいしい」とは、舌の先から脳の向こうまでをひっくるめた経験であり、歴史・文化的背景をも含めた現象なのだと考えさせられる。

 超ブラックな映画『未来世紀ブラジル』では、レストランの場面が印象的だ。客はメニューから選ぶのだが、必ず「番号」で注文する。メニューには肉やサラダの画像が並んでいるにもかかわらず、料理の名前がない。決して「ステーキを下さい」と言ってはいけない。なぜなら、「ステーキ」なんてものはもはや存在しておらず、「合成した何か」だから。客は番号で注文し、「合成した何か」を口に入れ、「おいしい!」と叫ぶ行為を楽しむ。この未来では、食事は過去の遺物であり、料理を名前で呼ぶことはタブーなのだ。

 本書を読みながら、このシーンが頭をよぎった。わたしたちは、「おいしい」ものを食べているというよりも、むしろ「おいしいと思うもの」を食べているに過ぎないのではないか。あるいは、能書きやネット・マスコミ情報に踊らされている客をバカにして、「ヤツらはラーメンを食ってるんじゃない、情報を食ってるんだ」と断ずる店主がいる。悲しいが、まったくもってその通り。それでも、「おいしい」と思わせる何かが「味」以外にあるのではないか───と何度も自問する。『味わいの認知科学』には、その反問に相当するものがある。

 味わいとは何か、「おいしい」とはどういう現象なのか? この疑問に、科学からのアプローチで迫ったのが本書になる。「食」は文化や地域によって異なり、その味わいはヒトの遺伝的特性や身体構造、個人的経験、文化的背景にも左右される。本書では、分子生物学、口腔生理学、情報工学、認知心理学、物性物理学など様々な知見を集めながら、人が「おいしい」と感じているときに何が起きているかを説明しようとする。そこでは、「おいしさ」は、単純に味や匂いや食感に還元できるものではなく、普遍的な美が存在しないように、普遍的な美味も存在しないことが分かる。

 たとえば、「味」は「におい」によって騙される。バニラエッセンスなど甘い香りを加えると、実際に含有している甘味物質量以上の甘味を感じる。これは、バニラそのものに甘味があるのではなく、過去に食べたアイスクリームなどの記憶が主観的甘さを想起させている。減塩食品に醤油のにおいを添加し、(主観的)塩味を付与した商品が開発されている。これも同じ理由によるが、文化や食生活による学習によって増強効果が左右される。

 また、「味」は「色」によって騙される。黄色や赤、ピンクなど様々な色を付けた同じ白ワインの甘味を判定させると、テイスティングの熟練者であればあるほど、ピンク色のワインを最も甘いと判断する。これは、「ピンクのロゼは一般に甘い」という知識を反映している可能性がある。また、「青色の食べ物はおいしそうに見えない」のは、青色の食べ物に慣れていないからだという指摘もある(ある種のエビの卵や熱帯地域の魚は、青い料理の食材になる)。

 あるいは、「味」は「共食者」によって騙される。共食者とは、一緒にご飯を食べる人のこと。その表情や食卓の雰囲気によっても味は変わる。これは子どもの好き嫌いをなくす裏技としても有名だが、幼稚園児を対象としたモデリング効果の研究が紹介されている。ニンジン嫌いな子は、ニンジンが好きな子と一緒に食事をすると、ニンジンが好きになるというやつ。ヒトは、他人が飲食しているものが気になって仕方がない傾向をもつというのだ。ラーメン屋の行列や、口コミ情報をチェックする心理は、ここにある。

 「情報を食べている」まさにそこを突いた研究もある。心理学からのアプローチだが、「誤帰属」や「気分一致効果」という理論で、料理の味ではなく雰囲気の満足感が「おいしさ」に大きな影響を与えているという。笑ったのは認知不協和の解説だ。自分でメニューから選んで、代金を払うという行為によって、おいしさの評価が上昇するという。つまり、わざわざお金を出して自分で選んだ料理がおいしくなかった場合、労力と対価の間に不協和が生じることになる。これを回避するため、その料理を「おいしい」と判断する方向に傾くという。俗に言う「他人の財布で食う焼肉はおいしい」は間違っているのかも。

 「味」を歪める様々な要素や先入観のみならず、解剖学的なアプローチからすると「味」は受容器と知覚の間に高次処理が関わっているという。甘味や苦味といった味の受容体は、その反応と味認識が必ずしも一対一になっていないとうのだ。すなわち、一つの受容体で複数の味物質を受け取っていたり、逆に、一つの味物質が複数の受容体と結合することもあるため、「味」を知覚する複数のチャネルが存在するというのだ。言葉にすると「甘い」かもしれないが、それを惹起させる反応と経路は複数ある。紅茶に浸したマドレーヌが、同じ思い出を呼び覚ますこともあれば、違う経験に結びつくこともあるのは、このせいなのかもしれない。

 ヒトは五感すべてを使って食べており、「おいしさ」を感じている。「味」だと感じている大部分は、オルトネイザル嗅覚と口腔内の体性感覚(テクスチャー)に起因するものであり、色や形などの視覚情報、パリパリやシャキシャキなどの聴覚情報、鼻先に漂う香り(レトロネイザル嗅覚)など、「味」に留まらない様々な感覚が喚起される。さらに、その時の気分や体調、雰囲気、BGM、共食者などの環境に加え、パッケージや産地や能書きといった情報から得られるイメージ、そして、それまでの記憶と経験とあいまって、「おいしい」は感得させられる。つまり、人は脳を使って食べているのだ。

 「食べる」奥深さと研究の成果を味わえる一冊。

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あなたの論文を学術書にする方法『学術書を書く』

学術書を書く 最初に答えを言うと、「良い編集者を持て」になる。

 あなたの修論や博論は、どれほどユニークで面白かろうと、そのまま本にはならない。だから、潜在的な読者を見つけ、物理的な本という形に仕上げ、配本・流通に載せて、最終的に買って読んでもらうために、いくつかの準備や手直しが必要となる。その一番の方法が「良い編集者を持て」なのだが、そんなに簡単には見つからない。本書は、こうした「ユニークで面白い論文」と「優れた学術書」の橋渡しをしている編集者が、どういう点に気をつけて、何をアドバイスしているかを、実際の出版事例を用いながら教えてくれる。

 最も重要で、かつ全体を貫く勘所は、「誰が読むのか」だと言い切る。ふつうなら「何を書くのか」というテーマが大事ではないかと思うのだが、そのテーマですら、「誰が読むのか」によって揺らぐという。専門性の高い限定された研究対象を論じるのであれば、自ずとそれに興味をもつ読者も限られてくる。いっぽう得られた知見が一般化できたり、他分野のフレームワークを持ち込んだ研究なら、読者の範囲も拡大される。だから、目の前の論文を「料理」する前に、それを食べたがる人が誰かを想定しなければならない。

 本書ではこの極意を、「もし、この論文をそのまま印刷・製本したら何人が読むか?」という質問に置き換える。その数は800-1000人が最低ラインになる。この「1000」という数字が曲者で、ビジネスとしての適合性からすると学術書といえど初版1000部は欲しいし、日本の学界の会員数は、(規模の大小はあれど)一領域1000人ぐらいになる―――といった事情を含んでいる。そして、最初の質問で答えた人数を「1000人」にまで持っていくために、さらに専門分野を超えた研究者や学生までターゲットに入れて、最初の論文をどのように手を入れればいいか、「魅せ方」をレクチャーしてくれる。図表やキャプションの見せ方、「コラム」や「用語解説」の効果的な活用法、リード文やキーワードなど可読性を向上させるためのライティング技法、最も避けるべき「ねじれた重複」の罠など、「論文を本にするためのべき&べからず集」になっている。

 たとえば、「ねじれた重複」の罠は、単著にありがちだという。長年研究を重ねてきたものをまとめた場合、同じ事柄に対しても、著者自身の評価が微妙に変化している。そこに気づかず整理せず、そのまま集成してしまうと、同じ事柄何度も登場しているにもかかわらず、その定義や評価が都度微妙に違っているぞという話になる。読者は不審に思い、議論そのものの精密さが損なわれてしまうという。あるね、そういう定義や評価を章ごとに微妙にズラしてくる大著。

 あるいは、目次の改変が面白い。日本における庭園植栽の通史を初めて記した研究として評価の高い、飛田範夫の博論「庭園植栽史の研究」(2002)が例として挙げられている。目次はこうなっている。

  第1章 飛鳥時代の庭園
  第2章 奈良時代の庭園
  第3章 平安前期の庭園
  第4章 平安中期の庭園
  第5章 平安後期の庭園
  第6章 鎌倉時代の庭園
  第7章 室町前期の庭園
  第8章 室町後期の庭園
  第9章 戦国時代の庭園
  第10章 江戸前期の庭園
  第11章 江戸中期の庭園
  第12章 江戸後期の庭園
  第13章 明治・大正時代の庭園
  第14章 昭和前期の庭園

 論文としては「正しい」のかもしれないが、あまりにも単調だ。これが学術書にするときは、以下のような改変が提案される。時代ごとに変遷する庭園の特徴をつかむキーワードを掲げることで、専門家ではない読み手が掴みやすくなったといえる。

  第1章 マツ・サクラ・カエデの登場-------飛鳥時代の庭園
  第2章 キク・タケからサクラの愛好へ-----奈良時代の庭園
  第3章 浄土式庭園の登場-----------------平安前期の庭園
  第4章 大規模庭園のサクラ---------------平安中期の庭園
  第5章 新しい美意識の登場---------------平安後期の庭園
  第6章 京都の影響と植栽の多様化---------鎌倉時代の庭園
  第7章 針葉樹の使用---------------------室町前期の庭園
  第8章 枯山水の発展---------------------室町後期の庭園
  第9章 美を必要とした武将たち-----------戦国時代の庭園
  第10章 大規模回遊式庭園の登場----------江戸前期の庭園
  第11章 「社会政策」としての庭園--------江戸中期の庭園
  第12章 個人経営庭園の増加--------------江戸後期の庭園
  第13章 「文人風」から「自然風」へ------明治・大正時代の庭園
  第14章 「実用庭園」の流行--------------昭和前期の庭園

 注意が必要なのは、論文作成のための本ではないこと。情報収集から整理、執筆といった、よくあるハウツーではない。あるいは、引用や参照、著作権の処理といった制度的な「お作法」の本でもない。そうした卒論や修論を書くためのTipsみたいなものは、ネットに沢山ある。本書は、原稿、モノグラフ、論集、翻訳、研究成果といった何らかのアウトプットがすでにあり、これをビジネスとして成り立つレベルまでの「学術書」に仕立てるためのノウハウなのだ。論文を書くための準備として東大教養部『知の技法』があり、実際のライティングでは木下是雄『理科系の作文技術』が役立ち、できあがったものを学術書にするために、本書が活躍するといった分担になる。

 "Publish or Perish" 出版か死か

 こんな言葉が冒頭で紹介される。これは、成果発表をしない研究者への批判や、学生を叱咤する教授の言葉として使われていた。だが最近では、成果主義が導入され、出版数や被引用数に振り回される大学や研究機関そのものに向けられるようにも見える。良い研究をして良い論文を書けば、必ず売れるというわけではない。ビジネスとして成立する「学術書にする」ためには、あともう一手間が必要なのだ。本書は、そういうキュレーター的に働く編集者の代わりになってくれる。

 こういう本に出会うと、つくづく、羨ましい&恨めしい。学生のときに知りたかったことが全部書いてあるから。同時に、知とビジネスの間に立っている、編集人にも役に立つ。「ユニークで面白い論文」を「売れる学術書」にするために。

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『病気はなぜ、あるのか』→適応戦略と進化のミスマッチ

病気はなぜ、あるのか 風邪をこじらせたとき、とにかく体温を下げるのはダメで、頭を冷やして安静にしておく。これは知ってた。だが、処方された抗生物質は、症状が治まったとしても「すべて飲み切る」。これがいかに重要かは知らなかった。

 なぜなら、半端な服用は、抗生物質に耐性がある細菌の生き残りに手を貸していることになるから。このとき身体は、細菌のサバイバル戦略の最前線になっているのだ。発熱への対処も同様で、細菌にとって不適切な環境を生み出しているのに、解熱剤で下げてしまっては元も子もない。これらは進化医学からの知見で、身体の防御機能と細菌の適応戦略になる。

 「病気は、どのように(How)して起きるのか」については臨床医学の世界になる。もちろん病気の原因もそこで追究はされるものの、その病気を引き起こしている至近要因までになる。そもそも、「その病気がなぜ(Why)あるのか」という究極要因まで踏み込むのが、進化医学になる。発熱という症状がどういうプロセスで起きているのかだけでなく、そもそもなぜ身体は発熱しようとするのか、という発想の転換だ。

 本書が一番面白いのは、常識の逆転を味わえるところ。今まで常識だった対処法が非常識に見えてくる。わたしが子どもだった頃は、「とにかく熱を下げる」「どんどん抗生物質」は常識(だったはず)で、今では逆だ。

 また、鉄分という貴重な資源を用いた防御メカニズムも興味深い。慢性の結核患者は、血液中の鉄分レベルが低くなる傾向があるが、貧血を治すために鉄分の錠剤を与えると、症状は悪化するという。鉄分は、細菌にとって貴重な資源であり、ヒトの身体は、これをとらせまいとして防御メカニズムを発達させてきたというのだ。感染が起きると、白血球内因性媒介物質(LEM)を出して体温を上げ、血液中の鉄分の量を大幅に減らす。食べ物の好みも変わり、ハムや卵を避け、トーストを好むようになるのは、まさに病原体から鉄分を遠ざけるためになる。今では無意味とされている「放血」も、鉄分レベルを下げることで患者を助けた実績があったのではないかと指摘する。

 まだある。妊娠初期の吐き気は、子どもにとっての適応性があるもので、食べたくないものを無理に食べることはないという解説や、ある種のアレルギーは過敏というよりもむしろ、何万年と悩まされてきた寄生虫に対する「進化的にみて安上がりな」防衛反応だとする主張も興味深い。病気は、適応度(生存率と繁殖率を通じた次世代への遺伝的貢献度)と直結する現象なので、進化的なアプローチが有効になる。

ヒトは病気とともに進化した ある病気がなぜ「ある」のかという問いは、なぜ淘汰されず残っているのかという問いになり、それは、適応度に影響しないから残されているといえる。あるいは、適応度から見て何らかのメリット(もしくはデメリットを避ける何か)があるのかもしれない―――という新たな視点が得られる。たとえば、長谷川眞理子『ヒトは病気とともに進化した』にある、「統合失調症とは脳機能を高度化するための遺伝子パターンが蓄積されたもの」という仮説は、こうした視点に支えられている。

 原著が書かれたのは20年前だから、その間に「常識」がどう変わったのか確かめながら読むのも一興なり。前出の統合失調症(本書では精神分裂病)の事例は、原著が出た頃はそうした遺伝子が示唆される程度であったが、現在では、該当するリスクレアル(ゲノムのタイプ)のモデルによって説明できるほど研究が進んでいる。他にも、「サングラスを掛け続けると目が悪くなる」という昔話がある。可視光線だけ減らして紫外線をカットしないタイプだと、普段より大きく開いた瞳に紫外線を受け続けることになる(今はUVカットが普通)。今日の白内障患者の一部は、何十年も前にかけていた安物のサングラスが原因にあるのでは、という指摘は鋭い。

 ただ、ハンマーを持つと何でも釘に見えてくるように、何でも適応で説明したがる姿勢に危うさを感じる。ヒトは甘いものが大好きで、すぐにさぼりたがるのは、栄養を求めエネルギーを節約する狩猟採集社会で培われた適応だという。確かに合理的に説明できるが、そのエビデンスが欲しい。他にも、男女のラブゲーム戦略や、子どもの虐待・子殺し、愛や嫉妬や恐怖といった感情、女性器切除や纏足などの文化的側面まで、「まだ研究の余地あり」と留保はするものの、適応で説明しようとする。

1 本書では踏み込んでいなかったが、「レイプは適応か」という議論がある。ソーンヒル&パーマー『人はなぜレイプをするのか』では、進化生物学から「レイプ」という行動を解き明かす試みが行われている。養育の投資量に男女差があり、繁殖のため多数の相手に関心を向けようとする男のセクシュアリティの進化が、レイプの究極要因とする説明がある(ただしレイプが適応かどうかは判断を保留し、両論を併記している)。

 『病気はなぜ、あるのか』において、著者は目的論の危うさを充分に自覚している。だが、適応がその「目的」に取って代わってしまってないか、じゅうぶん注意しながら読み深めたい。現在のあるがままから出発して逆算しながら説明をするのだから、つじつまさえ合えばエビデンス抜きで信じてしまいたくなる。ここは危ういところ。かつてなんでも「無意識」で説明しようとしてた心理学と、同じ轍を踏みませんように。

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「小中学生にお薦めする○冊」の欺瞞と、それでもオススメする10冊

 「小中学生にお薦めする○冊」を見かけるが、舐めてるだろ。それは大人のエゴイズムの押し付けにすぎぬ。選者のノスタルジックなブックリストであって、今それを手にする人を想像していない。そんな大人の自己満足を、子どもは正しく見抜いてる。

 どうしてそんなに言えるのか? わたし自身が薦めてきたから。『モモ』であれ『星の王子さま』であれ、読まない。考えてもみろ、学校だけでいっぱいで、動画やラインやゲームを無理やり詰め込んでいる生活に、『モモ』読む時間があるものか。それな! それこそがエンデが描いたカリカチュアなのだが、気づくためには読むしかないという自家撞着に陥る。

 さもなきゃ逆に考えろ、「愛読書はエンデです」なんて言う小学生がいたら気になるだろ。ふだん何してるの? ポーズなの? 本気なら、本気で親の顔が見たい。どうやって培養したのか知りたい。「愛読書は西村寿行」だったわたしには、得がたい世界だ。

 お薦めされる人は、自分より少し若いだけであって、毎日があり、学校があり、好きなもの、苦手なもの、まだ知らない世界がある。だから、その人の興味と世界を考慮せず、単純に「面白くてタメになる」じゃ読むわけがない。その人よりも、少しだけ年齢と経験がある分、「自分にとって」どう面白くて、「自分の経験上」どうタメになったかを語らない限り、ただの学校推薦図書リストと変わらない。

 だから、導線が要るんだよ。彼・彼女の興味を、「この一冊」に結びつけるための橋渡しが大人の役目なんだよ。もちろん放っておいても読むやつは読むし、読まないやつは読まない。でも、もったいないなぁ、と思うのなら、そういう理由となる「自分の経験」を語れ。その一冊で世界が変わって見えたのなら、使用前・使用後の自分を出せ。それが琴線に触れたなら、後は勝手に読むだろう。

 あるいは、彼・彼女の興味を、本の世界につなげる見晴らしのいいところに連れて行くのが大人の役目なんだよ。もちろん自力で見つける輩もいる(そういう自助努力を推す大人もいる)。でも、その獣道よりこの王道を知っておいても損はないと思うのなら、語れよ、こっちの道は旨いぞと。それが好きなら、これを読めと。熱っぽく「好き」を語るんだ。夢中になって生きる姿を見せることは、大人の役目なのだから。

 ここに挙げるリストは、わが子や周りにオススメして、反応の良かったもの。わたしの「好き」を熱く(暑苦しく?)語り、うまくノってもらえたもの。だから万人ウケもしない代わりに、その人に向けた導線が沢山あるリストと見てもらえばいい。

■死とセックス

 人生においてかなり重要なのに、教育課程で軽く扱われているのは次の三つ、「死」「セックス」「税金」だ。税金は高校で簿記をやればいいが、前二つはこれを薦める。

死を食べる

 まず、宮崎学『死を食べる』だ。動物の死の直後から土に還るまでを定点撮影した写真集で、キツネの死骸に蝿が群がり、蛆が湧き、その蛆を食べるための獣が訪れる様子が順に展開される。いわば九相図の動物版だな。どんな死も、誰かが食べてしまうということがわかる。蛙から鯨まで、さまざまな死の変化を並べることで、「死とは、誰かに食べられる存在になること」、そいつを裏返して「生きるとは、誰かの死を食べること」、さらに「死を食べている私も死ぬ」という、シンプルな真実に行き当たる。

ぼくどこからきたの 次はピーター・メイル著『ぼくどこからきたの?』だ。あるがままの命の話で、ごまかし、妥協、一切なし。男と女の違いから始まって、セックスとは? 赤ちゃんができるとは? 子どもの質問に、真正面から答えている。親子で読めて、きちんと話し合える。生々しすぎる描写ではなく、かといって抽象に逃げない。ひと通り読んでから、避妊の方法、性感染症の情報と、十代の妊娠の話を補足する。セックスはシンプルだ。そして、死と性と食はつながっている。これはセットで読んで欲しい。

■サイエンスとノンフィクション

 世のお薦めリストは、なぜか小説・物語が多い。これは、お薦めするほうに理由がある。いわゆる「本が好きな人」の「本」とは、小説を指すことが多いから。なので、小説や物語に埋め尽くされたリストは残念至極なのだが、わたしも胸を張れぬ。「コレ!」という奴が出てこないから。学研まんがシリーズや、まんが歴史シリーズは分量が多いので、ここではとっかかりとなる本を選んだ。「写真から入る」は大事、エビデンスであり、想像力のブースターなのだから。

パワーズオブテン サイエンス代表として、『パワーズ・オブ・テン』を挙げる。公園で昼寝をしている姿から、10倍、100倍、1000倍と、どんどんカメラを引いていって、最後は10億光年離れたところからの映像を見せる。そして、逆に1/10、1/100、1/1000と、どんどん縮小していって、素粒子レベルの世界から見せてくれる。スケールによって見える世界が一変するのに、極大と極小が近似するという不思議。センス・オブ・ワンダーを見える化した、稀有な一冊。

オーパ ノンフィクションでは開高健『オーパ!』の反応が良かった。「オーパ!(Opa!)」とは、驚いたとき、感嘆したときの「うわっ」「すげぇ」に相当するブラジルの人の言葉で、タイトルどおり驚愕と瞠目の連続なり。釣竿を手にブラジルを旅した紀行文+写真集で、食、色彩、混沌、森、未明、雷雨、蕩尽、あらゆる描写と映像が読み手を圧倒する。わたしもそうだったが、「釣りが好き」「ルアーフィッシングに興味あり」という間口から入ると、体長5m体重200kgのピラルク釣りでのけぞって、ピラーニャは水面をバシャバシャ叩いて呼ぶ件で、釣りの本質を再考させられる。巨大から微小まで、生あるものの強さ儚さを見る一冊。

■最悪を想像しろ

 「サイアク」「サイテー」を連呼するわりに、おまえらは本当の最悪を知らない、と父は言いたい。ヤバいヤバいと言うわりに、危険とはどういうものか、想像してない。なぜなら、最悪とは何か、危険と何かといった、材料がないから。そんなとき、いわゆるデザスタものが思考実験に最適だ。わたしが子どもの頃なら、『日本あやうし』『地球あやうし』なんて煽る本があったけれど、今出したなら、「科学的な正しさ」を追及されるだろうな。

サバイバル さいとうたかを『サバイバル』が鉄板だ。巨大地震による壊滅した日本を生き抜く少年を描いた傑作なり。渡すや否や、読むわ読むわ、寝る間も惜しんで全10巻を読み終えると、何度も繰り返し読んでいた。地震、火災、洪水、疫病、暴力、飢餓、炎天、寒波―――次から次へと襲い掛かる猛威に、知恵を絞り、勇気を奮い、逃げ、耐え、運にも助けられながら生きようとする。壊れた世界をかき分けながら「少年」から「男」に成長していく物語に、何度読んでも撃たれる。わたしが子どものころはフィクションとして読めたが、今では現実の(最悪のパターンの)予習としたほうがいいのかも。天災は忘れた頃にやってくる。マンガのようにはいかないが、「こうすれば生きる方に進める」選択をあきらめないこと―――この極意が伝わっただけで嬉しい。

隣の家の少女 一言なら「読むレイプ」。読んだら後悔する、おぞましい小説。最初は旧き良きアメリカンな光景で、ボーイ・ミーツ・ガールなのだが、それは罠。初恋の女の子が虐待される目撃者となる少年の話。どんどんエスカレートしていく集団暴行と、「見る」しかない少年は、どんどん胸糞悪くなりながらも、「読む」しかない読者とオーバーラップする。これに拒絶反応を起こす人は、世界は公正あれかし、と期待してるんだろうな。世界は(特に物語世界は)コントロール可能で、理解可能で、因果は応報する。そういう「常識」に慣れた人を叩きのめすのは現実なのだが、これは小説でそれをやってくれる。もちろん、お薦めしていない。本当の悪とは何か? 本当の痛みとは何か? が議論になったとき、「これは読むなよ、ぜったいに読むなよ」と念押しするつもり。

■別の視線を得る

 物語の本質は、現実のシミュレーションだ。ありのままのリアルに向かい合ったなら、そのシビアさに痺れるから、辛すぎる現実を引き受けるため、自分で自分に嘘をつく。そのシミュレーターとして、物語が存在する。現実から目を背けるための快やハピネスとしての物語もそうだ。人は、物語を通じて複眼を得る(もしくは異なる視点・次元・側面があることを知る)。

夕凪の街 桜の国 なぜか学校にて『はだしのゲン』が定期的に流行し、競うように読まれているらしい。イデオロギー的な面が強調されたり色々物議を醸す作品だが、隣の棚の愛蔵版『ブラック・ジャック』も読んで欲しいところ。さておき、原爆をこれだけで伝えるのは危ういので、こうの史代『夕凪の街 桜の国』を渡す。これも一瞬で読み切って、幾度も幾度も読み返している。むごくて緩慢な死を見守りながら、現実の小さな幸せは大量の瓦礫と死体の上に成り立っていることを、ほんの少しでも分かってもらえたら、と願う。次いで『この世界の片隅に』を渡す。これも、何度も読んでいる。井伏鱒二や原民喜に触れるとき、歴史を引き受けるための器としての物語を思い出して欲しい。

悪魔のいる天国 現実を裏返すと夢になる? いいや、もう一つの現実だよ、という真実を寓話にしてくれる星新一のショートショートもお薦めして反応が良かった。『ボッコちゃん』『悪魔のいる天国』『きまぐれロボット』など、手当たり次第に読んでいる。短く鋭く、風刺に溢れた短編は、朝読にうってつけみたいだが、父的にはSFワールドの入口として魅力的だと思うぞ。ようこそ、少し不思議な世界へ。目の前の現実とは異なる次元・異なる視点から見なおすための有用なツールなり。

 この時代、「本が好き」とは結構変わった部類に入る。文字を追いかけるのは面倒だし、世界や構造を頭ン中で再構成したり、声や音や匂いや感覚を想像するのは手間かかる。ゲームやアニメの方が、ずっと入りやすいし分かりやすい。それでも、本の、物語世界へ誘いたいのなら、今の彼・彼女の興味から、きちんと導線をつくるのが大人の役割。「なぜ」その一冊なのか、説明すべし。

クラインの壷 そして、大人がおもしろがって喜んで読むのがもっと大事。「むかし読んで良かったから読め」といっても、「いま、わたしが読む」理由にならない。アニメ『ソードアートオンライン』にハマったなら、そのアイディアの源泉の『クラインの壷』を熱く語ればいいし、名探偵コナンが好きなら、シャーロキアンになる素質じゅうぶんだろう(その前に、ネタ集でもある『2分間ミステリ』が手軽でいい)。

あずけて時間銀行 それでもエンデを推したいなら、再読してみろ。ノスタルジックな想いをさっぴいてもお薦めしたいなら、その訳があるはずだろう。そいつを自分の言葉で語れ。「おもしろい」だけならスマホゲーに勝てぬ。「愛読書はエンデです」と言い切る小学生には、『あずけて! 時間銀行』をお薦めする。『モモ』の本歌取りで、ここまでエンタメ&哲学寓話に満ちたものはない。「灰色の男」側の話と思いきや、もっと世知辛い。人生をやりなおしたい人のために、過去をオーバーライドする「時間銀行」なのだから。ラブ&バトル満載のちっとも軽くないラノベに込められたメッセージ「過去は変えられない、未来はまだない。だから、今に、集中しろ」を受け取るべし。

 「おもしろいから」だけじゃ読まぬ。どうすれば伝わる? 大人がおもしろがるんだよ。大人の言うことは絶対に聞かないくせに、大人の真似だけは恐ろしいほど上手いのが、子どもなのだから

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世の中、バカが多くて疲れません?『高慢と偏見』

 今は昔、桃井かおりが、つぶやいた。

 気だるく吐き棄てる口調に、ムッとしたことを覚えている。このCMにクレームが殺到し、「バカ」が「お利口さん」に差し替えられたという。「まるで自分のことを馬鹿にされたようで不愉快だ」という苦情が主だったらしい。

 だが、人はプライドの奴隷だ。差し替えられても意味は変わらないところに、そして差し替えられたら鎮火したところに、ユーモアが効いている。この可笑しさに、長いこと分からなかった。本当に嗤うべきは、反応した自分自身なのだということに、長いあいだ気づけなかった。

 ジェイン・オースティン『高慢と偏見』は、さながら馬鹿の見本市だ。超々々めんどくさい男、嫌味と自慢のマウンティング大会、度し難いツンデレ、殺意を伴う自己中など、人の愚かしさをこれでもかと見せてくれる。馬鹿をバカにすることは愉しい。イソターネットはそういう輩の発見器であり、拡大鏡であり、集光器なのだが、うっかり笑うと見つかってしまう。人間、何が一番腹を立てるかというと、ホントのことを言われることほど怒り狂うものはないからね。

高慢と偏見上高慢と偏見下

 だがご安心あれ、本書に登場する非実在青少年なら安全だ。主人公のエリザベスや、その父親のベネット氏など、お利口さんが、ちゃんと指差してくれるから、安全に、完全に高みの見物で、思う存分笑いのめすことができる。金だけはあったり、気位だけは高かったりする、正真正銘のバカの皮を剥いで嗤うことほど愉快なことはない。おまけに英国の小説だけあって、隙あらばうまいこと言ってやれとどのページも諧謔と名言に満ちており、電車で笑いが止まらなくなってえらく困った。

 しかし、中盤あたりで裏返る。どんどん明かされる"意外な真相"は、実は意外でもなんでもなく、お利口さんたちの偏見がなせる業だったりする。同時に、お利口さんも愛すべき愚か者であることが見えてくる。人は誰も笑いの網から逃れられない。エリザベスの独白「私が盲目になったのは恋のためではなく、虚栄心のためなのだ」が刺さる刺さる。

 だが、人は偏見の奴隷だ。自分が馬鹿にしていたものが、単なる思い込みにまみれた評価にすぎなかったり、神視点の読者のプライドを守らんがために固執していることに気づかされる。この辺りのエリザベスの変化が激しく面白い。本書に隠れたメッセージがあるならば、「人は愚かだが、人は変われる」やね。そして次第に、わたし自身の愚かしさがジワジワくるようになる。最初の考えを大事にするあまり、その偏見を正当化してくれる言葉を求めて探し回っているから。これはイソターネッツでいつもやってること、バカを嗤う大馬鹿とは、実はわたしなのだ。

 ここからはジェットコースター、自分が頂上にいるのに気づいたときにはもう遅い。あっという間に、すごい勢いで、次から次へと驚かされる。前半の伏線が後半できれいに巻き取られていく様は、よくできた推理小説のようだし、心情の機微を絶妙に(≒巧妙に)見せたり隠したりする手技は、ラブコメのお手本そのもの。

 桃井かおり「バカが多くて疲れません?」の返歌は、エリザベスの父がラストに吐く。曰く「われわれが何のために生きているのかね? 隣人に笑われたり、逆に彼らを笑ったり、それが人生じゃないのかね?」このセリフをこの父に言わせる、すったもんだのさんざんを、舐めてきたから分かる、刺さる。いつだって可笑しいほど誰もが誰か笑い笑われて生きるんやね。

 男女のすれ違いから生まれるおかしみと情熱を、小気味よく捌いて心地よく魅せてくれるうちに、気づいたら終わっていた。このラブコメの正統派感は ─── そうだな、『めぞん一刻』だな。話もキャラもぜんぜん違うけれど、200年と地球半分を超えて、同じ涙と笑いとヤキモキを保証する。

 固いタイトルは詐欺だ、読まずに死んだらもったいない。

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60分で常識が変わる『料理と科学のおいしい出会い』

料理と科学のおいしい出会い 切って、火を通して、味つけして、おしまい。あとは素材と種類のバリエーションで、料理とはそんなものだと思ってた。

 しかし、本気で「おいしい」を求めると、土や水からの話になるし、分子や組成レベルまで分け入った、味わいの認知科学・生理学の研究になる。そこはもはや、経験や伝統を超えた科学の領域で、台所はラボラトリーになり、調理技術はは化学や物理に還元される。

 本書では、「分子調理」をメインに、科学の視点から「おいしさ」の本質に迫る。「分子調理」とは、物理・化学・生物、そして工学の知識を調理プロセスに取り込み、新しい料理を創造する試みだ。「新しいご馳走の発見は、人類の幸福にとって新しい天体の発見以上のものだ」と言った美食家がいたが、これは新たな星雲の発見以上になるかもしれぬ。

 たとえば、食材の「相」を変えるという発想が紹介される。氷・水・水蒸気に代表される、固体・液体・気体の相のことだ。通常なら、加熱などにより相転移する前に、化学反応によって違う分子になることが多い。だが、食材の分子そのままに、相だけを変化させる試みがある。スパークリングワインをゲル化してジュレとして提供したり、コーヒーやチョコレートの成分が、"吸って"楽しむエアゾルで提供される「食」がある。エスプーマ(espuma)という技術も面白い。亜酸化窒素を使って素材を泡立たせる技術で、グリーンピースやハーブを「泡」にして料理に用いることができる。

 食品成分を「つなぎあわせる」酵素の話も興味深い。酵素といえば、油脂やタンパク質を分解するものと思っていたが、逆の働きをするものもある。特に、トランスグルタミナーゼが凄い。タンパク質を共有結合させる酵素で、最近の麺の「プリッ」とした食感や、ソーセージの「バキッ」とした弾力性はこのおかげ。もっとすごいのは、バラバラの肉片にこの酵素をまぶして一晩ラップに包んでおくと、あら不思議、翌朝には立派なステーキ肉になるという。さらに、「麺の再発明」とも言われるエビが99%入ったパスタが驚異的なり。酵素のおかげでいわゆる「つなぎ」が不要になるから、こんな魔法のような食品物性が可能になるわけね。

 調理技術の進展もすごい。「水で焼く」ヘルシオに驚いた人は、「空気で焼く」高圧調理機が出てきたら腰ぬかすだろう。7千気圧のプレスをかけて、食品を構成する分子を密の状態に押し込むことで、食材の色・香り・栄養素をそのままに「圧を通す」調理を聞かされると、科学なのか錬金術なのか区別がつかなくなる。「調理とは火を通すもの」という固定観念を破壊されたのは、「アンチ鉄板焼(anti-griddle)」だ。マイナス35度に冷やされた鉄板で、中身トロトロ外側カリカリに仕上げられたチョコレートやホイップクリームは、食わずに死ねるかレベルらしい。

 分子調理だけではない。舌から脳までフル活用する、味わいの認知科学も面白い。「おいしい」とはつまり、味と匂いに還元できると考えていたが、これはわたしの偏見だということが分かった。もちろん、味覚の原理から始まって、香りが味わいに果たす役割も解説される。だが、この辺りの件は『お皿の上の生物学』で教わったことがほとんどだった。本書ではそこからさらに進めて、テクスチャーの重要性を説く。

 テクスチャーとは、料理を食べたとき、口のなかで感じられる物理的感覚(mouthfeel)と食べ物が持っている物理的な性質(physical property)を合わせたもので、まとめるならば、「食感+物性」になる。甘味、塩味、酸味、苦味、うま味といった舌や鼻で感じる「化学的な」おいしさを風味とするならば、硬柔・温冷なめらかさ、のどごし歯触り舌ざわりといった唇、口腔内、喉頭、歯などで感じる「物理的な」おいしさが、テクスチャーになる。味や匂いがテクスチャーを変えることは少ないが、テクスチャーが風味を変えることはあるという。これは、食品中の味やにおいの拡散速度が変わるからになる。

 たとえば、小豆からつくられる固体の「あん」の糖度は60%と高いが、液体のおしるこだと甘すぎるため、30%に低く抑えられている。甘味・うま味の受容体の感度は、体温付近が最も高い一方で、塩味や酸味の受容体は温度変化を受けにくい性質がある。その結果、温かい味噌汁で感じるうま味が、冷めると感じにくくなり、塩味に際立つというのだ。口に入れたときの温度を考慮して五味の強弱をつけたいもの。

 また、日本人は世界に類を見ないテクスチャー好きらしい。ごはんの硬さや粘り気の薀蓄から始まり、うどんやそば、ところてんの「のどごし」を愛する文化がある。英語は "crispy" なのに、カリカリ、パリパリ、歯ざわりがいい、ポリポリ、サクサクなど、テクスチャーを表わす言葉が実に多様であることを指摘する。食べたときの感覚もひっくるめて「口福」はできているんだね。

 次の料理からは、テクスチャーを念頭に「おいしい」を求めてみよう。たとえば、おひたし・サラダ系は塩味薄め・うま味多めで、温かい料理は逆にするといった味付けの微調整をしてみよう。あるいは、ソテーひとつとっても、どこまで火を通すかは、どんな食感になるか予測しながら水分の飛ばし具合を変えてみよう。

 わたしの固定観念を揺るがす、面白いアイディアもある。「料理の公式」という概念で、どんな素材に対しても、物理化学的な特徴だけを考え、あらゆる料理を二つの要素式に還元させる。分子ガストロノミーの生みの親、エルヴェ・ティスが提唱したもので、「この食材にはこの料理」という経験・伝統の縛りから逃れることができるというのだ。

1.食材の状態
  気体(gas)
  液体(water)
  油脂(oil)
  固体(solid)

 2.分子活動の状態
  分散(/)
  並存(+)
  包含(⋃)
  重層(σ)

 これらの要素を組み合わせることで、あらゆる食材や料理の成り立ちを説明する。たとえば、泡立てる前の生クリームは、「水の中に油脂が散らばっている」状態であるため、式に表すとこうなる。

  o/w (油脂 分散 水)

 生クリームを泡立てるという調理は、油脂に空気を含ませるから、油脂に空気を加え、その空気を含んだ油脂が水の中に散らばっている状態なので、こうなる。

  (o+g)/w (油脂 並存 空気 分散 水)

料理の四面体 そして、油脂をチーズに置き換えるなら、ホイップチーズが作れるし、トマトをジュースにしてオイルを加えるなら、ホイップトマトも夢ではない。このように、式を改変したり素材を入れ替えることで、新たな料理の開発へ応用できる。料理の体系化により、意外な共通点や改良の過程が見えてくるのは、『料理の四面体』でガツンと学んだのだが、上記の式はその発展になる。レシピ本やサイトに頼りっきりにならず、そこからアレンジ・オリジナルへ展開できる肝は、ここにあるのだろう。

 食べ合わせならぬ「香り合わせ」というアイディアも面白い。余計なものを省き、素材を優先させる日本料理は「引き算の料理」、多彩な食材からソースをつくるフランス料理は「足し算の料理」と言われる。だがここで、フードペアリング仮説を唱える。なんでも食材を合わせればいいというのではなく、組合わせが大事で、そのベースとなるのが香りだという。一皿の料理内で好まれる香りの数には制限があり、共通する香りを持つ食材どうしを合わせることで統一感がでて、深みのある料理ができる(だろう)という仮説だ。

 本書ではフードペアリングの専門サイトを紹介する。香りの種類や特徴をデータベースにした[foodpairing.com]では、香り合わせのよい食材を、ペアリングツリーの形で見える化しており、直感的に分かるようになっている。たとえば、チョコレートとブルーチーズは、73種類の香気成分を共通で持っていることが分かっている。だから、両者を合わせることは無謀なチャレンジに見えるかも知れないが、実際に食べてみるとおいしいらしい。食べ合わせならぬ香り合わせ、ちょっと試してみよう。

 料理の常識が、科学で更新されてゆくさまが面白い。「おいしい」を最適化した「超料理」を、ご堪能あれ。

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進化医学の最先端『ヒトは病気とともに進化した』

ヒトは病気とともに進化した もちろん病気は避けたい。誰だって苦痛は嫌なもの。

 だが、その「わたしの価値観」に囚われるあまり、健康は善、病気は悪といった二元論に陥っているのではないか。生物の営みからすると、疾病とは現象であり、状態にすぎない。病気が引き起こす諸症状を、排除するべき悪と捉える限り、病の本質を見誤ることになりはしないか───本書を読みながら、幾度もそう感じる。

 「どうして病気になるのか?」という問いには、2つの意味がある。

 「どうして→どのようにして(How)」と見るなら、病気になる直接的な要因を探る伝統的な医学の営みになる。たとえば、心筋梗塞を引き起こす動脈硬化の原因を、コレステロールの蓄積や原因遺伝子に求める。いっぽう、「どうして→なぜ(Why)」と考えるならば、そもそもなぜ「ある」のかという究極要因に答える進化医学の範疇になる。動脈硬化を引き起こすのがコレステロールなら、そもそも人はなぜそれを好むのか? 原因遺伝子は自然選択で取り除かれなかったのはなぜか? まで考える。

 この、「なぜ病気はあるのか?」という出発点から、進化医学の知見を集めたのが本書になる。ゲノム情報から疾患原因を見つける手法を紹介したり、疾患の進化的モデルとその意義を深掘りする。この観点から見ると、本来なら避けたい病気の症状が、実は適応的な意味を持っていることに気づかされる。あるいは、病気というものは、長い期間を経て適応してきた結果の副作用であることが分かる。病に対し抱いていたパラドキシカルな考えが炙り出されるようで、面白い。

 たとえば、風邪をひいたときの発熱などがそう。高熱で苦しそうだから、とにかく解熱剤で下げようとする考えがある。一方で、ウィルスに高温で対抗しようとしている防御反応だから、解熱剤は処方しない方針もある(ただし頭は冷やす)。かつては前者、今では後者が有力となっているが、全く逆のことを「正しい」治療としていたことが興味深い。

 あるいは、栄養過多による肥満。長期間の狩猟採集生活に適応した身体にとって、農耕や産業を手に入れたのは、生物進化としては「つい最近」の話になる。環境の変化に身体が追いつけず、過剰な栄養と運動不足が肥満という「病気」を生み出すことになる。この場合に「異常」なのは、身体ではなく環境なのだ。病気を「正常」「異常」というカテゴリにはめる従来の見方から離れると、より本質的な真因への道筋を見いだすことができる。

 最も興味深く感じたのが、統合失調症への進化医学的な説明だ。認知障害や幻覚・妄想など多様な症状を示すこの病は、実はありふれた疾患(common disease)だという。というのも、発症頻度はきわめて高く、約100人に1人の割合でなるからだ。それだけではない。この値は、世界中どこでも一定になる。地域、民族、文明化の度合いに関わらず、統合失調症になる割合はいつも一定の1%だというのだ。

 さらに興味深いのは、統合失調症が「残っていること」そのものだと指摘する。多くは思春期前後に発症し、一旦発症すると、社会性を著しく損なうことになる。配偶者を見つけることも、子どもをもうけることも非常に困難になる。したがって、統合失調症の子孫が育ち、そのリスクアレル(ゲノムのタイプ)が次の世代に伝わっていく可能性は極めて低く、すぐに人類集団から除去されてしまうことが予測される。それにもかかわらず、なぜ統合失調症のリスクアレルが残っているのか?

 本書では、このパラドクスに対し、平衡淘汰仮説(Horrobin,2001)を用いて説明する。これまで、「病の原因」として見なされていた統合失調症リスクアレルこそが、実は脳機能に貢献していると考える。

 つまりこうだ。統合失調症リスクアレルは高次脳機能を少しずつ上昇させ、個体の適応度を上昇させる。だが、そこには限度があり、リスクアレルをある数以上に併せ持つと統合失調症を発症し、個体の適応度を減少させてしまう。反対に、統合失調症リスクアレルが少ない個体は、高次脳機能の維持が困難になり、この場合も適応度が減少すると考える。

 統合失調症と高次脳機能、この相反する二つの淘汰圧によって、集団内に一定の頻度に保たれると期待できるというのだ。この仮説に従えば、統合失調症の発症者には、脳機能向上アレルが集積していると期待される。ノーベル経済学賞を受賞したジョン・ナッシュや芸術家のエドワルド・ムンク、アインシュタインの息子やジェームス・ワトソンの息子といった事例を出して、期待の裏づけを取っている。一種の閾値のように働く統合失調症リスクアレル(=脳機能向上アレル)は、人類をそれ以上聡明にしすぎないためのリミッターのようなものなのかもしれない。

 ヒトには約2万もの遺伝子があると考えられているが、病気に関連する遺伝子は、その一割にまで達するらしい。研究が進むにつれ、この割合はさらに増えていくという。「この遺伝子がこの病気の原因」という単純な対応は珍しく、病気を引き起こすことに関連した遺伝子が、複雑に絡み合い、広まったり取り除かれなかったりするのだ。そして一見、「不都合な変異」だとしても、実はさらに重要な役割を果たしていることが、次々と明らかにされてゆくのを知るにつれ、タイトルの通り、わたしたちは、病気とともに進化してきたことがよく分かる。

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