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身体のリバースエンジニアリング『人体 600万年史』

 進化の光で照らした、人体の物語。

人体上人体下

 完成品を分解したり観察することによって、動作原理や設計・仕様を調査することをリバースエンジニアリングという。これを「人体」に適用したのが本書になる。

 しかし人体は「完成品」ではないし、設計図からデザインされたものですらない。その時々の環境に応じて「生きる」「殖える」ことを目的とし、変化を重ねてきた。人の身体には、パリンプセストの羊皮紙のように何度も消しては書かれてきた跡が見えるという。「私たちの身体には物語がある」と断言する著者は、そうした人体と環境の変化を、ときには精緻に、ときにはドラマティックに明らかにしてくれる。

 非常に面白いのは、「人の身体はなぜこのようになっているのか」というアプローチから迫ってゆくうち、「人は何のために生きるのか?」への回答がなされていること。人類の祖先との身体構造の違い―――長い脚、高い鼻、大きな頭といったパーツから始まって、なぜ食べ物を喉に詰まらせるのか(気管の設計ミス?)、こんなに太りやすいのはなぜか? なぜ身体の具合が悪くなるのか(そもそもなぜ病気は「ある」のか)……を、「わたしたちの身体は何に適応しているのか」に収束するよう巻き取ってゆく。

 衝撃を受けた答えの一つは、「わたしたちの身体は、"走ること"に適応している」である。人類の進化の決定づけるものは直立二足歩行の獲得だが、さらにその先を考える。弓矢や網などの道具が発明されていない長い期間、どのように狩猟をしていたかという問いに対し、腐肉漁りだけでなく、走ってとらえていたというのだ。

 狩猟者は大型哺乳類に狙いを付け、暑い日中に追い始める。もちろん四足の方が早いが、逃げ切った獲物は日陰に身を隠して浅速呼吸で体温を下げようとする。しかし狩猟者はすぐにその跡をたどって獲物に迫る(徒歩でもかまわないという)。獲物は、完全に体温を下げられないうちから逃げ出さなくてはならない。こうした追跡と追走を、歩行と走行を組み合わせて何度も繰り返しているうち、最終的に獲物は体温を致命的なレベルにまで上昇させて、熱射病を起こして倒れる。あとは洗練された武器がなくても、安全に、簡単にしとめることができる。

 この狩りを可能にしている適応は、人の身体に遺されているという。二足歩行により、直射日光にさらされる表面積を減らすことができる。突き出た鼻は、鼻腔内での加湿により乾燥した空気を和らげることができる。走りを助ける重要な適応は、発汗だという。他の哺乳類との決定的な違いは無数の汗腺で、そのおかげで、浅速呼吸ではなく発汗によって体温を下げられる。

 身体構造からみても同様だ。脚の筋肉と腱は、歩行よりもむしろ走行時の弾性エネルギーを効率よく働かせるために発達している。走行時の安定性を、大臀筋や項靭帯の構造、三半規管、足指、遅筋線維といった形質から解説し、人は歩くだけでなく走ることに適応したことを示す。

 つまり、"BORN TO RUN"の言葉どおり、人類は唯一の長距離ランナーなのだ。ランニングのときに感じる筋肉や腱の動きや生々しい感触は、もっとプリミティブなところから来ていることを知って、嬉しくなる。生物(せいぶつ)としてよりも、生物(なまもの)としての存在を強く感じる。

 もう一つ驚いた仮説は、「わたしたちの口腔は、しゃべることに最適化されている」という主張だ。もちろん、音を震わせたり区切ったりできる唇や舌や歯、トーンや音量を操る喉や頬、音程を調整する鼻、声道や肺も含めて、人の器官はしゃべることに最適化されていることは理解できる。驚くべきはそこではなく、「人体の設計ミス」と揶揄される、気道と食道の配置についてもそうだという点だ。

 人以外のすべての哺乳類においては、鼻と口の奥の空間(咽頭)は、二つの管に分かれている。内側の管は空気の通り道で、外側の管は食物と水分が通る。それぞれの管は、舌の基部の喉頭蓋と、鼻腔を封鎖する軟口蓋とが接触していることで境目ができており、食物が気道に入り込むことはない。

 ところが、人だけが、(おそらく)直立することで喉頭の位置を下げたことにより、軟口蓋と接触していない構造となった。これにより舌の奥に大きな共有スペースが発達し、食物と空気の両方がそこを通って食道か気道かのどちらかに入ることになった。結果として、餅や蒟蒻ゼリーが喉の裏側に入って、気道を塞いでしまうことが起こる(日本人の死因4位の肺炎のほとんどは、誤嚥により引き起こされる)。人は、食物の誤嚥による窒息が起きる、唯一の種だというのだ。もし人体が誰かの設計に基づき創造されたというのなら、この不具合はとんでもないバグだろう。

 著者は人類進化の系統と照らし合わせながら、発話の解剖学的構造を解き明かす。言語というのは基本的に、加圧されながら吐き出された空気の流れになる。類人猿と比較して、人間の喉頭の位置が低いこと、声道の垂直管と水平管がほぼ同じ長さになって、喉頭蓋と軟口蓋の奥の空間が開けていることを指摘する。この空間のおかげで、音声言語が成立する前の段階で、「複雑な発声」が可能になった。窒息リスクという大きな代償を払って、より明確にしゃべることに適応したという。人を人たらしめている、発話や言語というコミュニケーション能力は、この適応に支えられている。 "BORN TO TALK" わたしたちは、コミュニケートするために生まれてきたのだ

 悲しいが真実なのは、進化と疾病の件だ。著者は言う、「私たちは、健康になるように進化したのではない」。健康を無条件の"善"と見なしたいわたしを見透かすように畳み掛ける。もちろん健康は望ましいものかもしれないが、健康は「目的」ではなく「手段」になる。なんのために? それは、過酷で多様な条件下で、なるべく多くの子を持てるためだという。

 たとえば、人は肥満になりやすいように進化したが、それは、脂肪で健康的になるためではなく、脂肪が妊娠能力を高めるからになる。同様に、人が怖がりで、心配性で、ストレスを抱え込みやすい傾向を持つということは、危険を避けたり対処するための適応なのだ。自然選択を通じて形成される資質は、長命や幸福を促進させるようにふるまうかもしれないが、それはたまたまにすぎないという。その資質が、繁殖を成功させる(適応度を高める)ことに資する場合に限るのだ。

 いっぽうで、農業革命や産業革命を通じて、人体を取り巻く環境は激変している。遺伝子や身体構造はほとんど変わっていないにもかかわらず、食べるものから体温調節方法まで、ライフスタイルのあらゆる点で、徹底的に変化している。

 農業の発展は、人口密度の高い集約をもたらすことになる。井戸や灌漑用水を共有することで、規模の経済の恩恵を受けることができる。さらに、交通や交易を容易にし、経済的な利点があった。しかし、一方で、村や都市の発展は、急激に成長する人口に伴い、集約は伝染病や寄生虫の巣ともなった。

疫病と世界史上疫病と世界史下

 このあたりの人と疫病の距離感覚は、マクニール『疫病と世界史』[レビュー]と重なる。天然痘やチフス、インフルエンザ、マラリア、黄熱病といった感染症という観点から世界史を捉えなおし、ウィルスのミクロ寄生戦略と、征服者と被征服者のマクロ寄生関係を炙り出している。伝染病が一定の潜伏期間をもっているのは、生息環境を拡大するための生存戦略だろう。宿主がじゅうぶん遠くに行く前に発症してしまうなら、繁殖範囲を広げることができないからだ(裏返すと、移動距離の範囲=流行範囲であり、テクノロジーの発達により拡大する)。『人体 600万年史』では社会構造から演繹的に疫病の人類史を駆け足でくぐりぬけているので、『疫病と世界史』は具体的な補強例として読むことができる。。

火の賜物 食べ物一つとっても激変している。加工度の高い柔らかいものを、ほとんど噛まずに腹に入れることができる。ランガム『火の賜物』[レビュー]を読むと、切ったりすり潰したり、火を通すことによって、食物を摂取することに必要なカロリーと時間を節約することに成功したことが分かる。力強く噛み長時間かけて消化する他の霊長類と比べ、人の歯と顎と胃腸は小さくなった。節約できたリソースを、巨大な脳やコミュニケーション、文化や社会の構築に振り向けたのが人類になる。すなわち、人は料理で進化したのだ。

 問題は、そのスピードが早すぎることにある。遺伝的には受け継がれなくても、文化的には受け継がれる。親が食べるもの、住環境、生活習慣といった環境条件そのものが、子に受け継がれる。人類史でいうなら、ほんの一瞬であるここ数千年のあいだに、人の身体はこうした文化的変化の影響を受けて、大きく変化している。成熟が早くなり、歯は小さくなり、顎は短くなり、骨は細くなり、扁平足が増え、虫歯になりやすくなった。睡眠時間は短くなり、ストレスやうつに悩まされる度合いが高くなった。

 かつては適応的だった身体機能が、環境の激変により、反対に不適応となっている。このような、進化と文化のミスマッチを「ディスエボリューション(悪しき進化)」と定義づけ、どうしたらこれを解消できるか、そもそも解消「すべき」なのかを追及する。

 ふつう医学は、病気という現象があることを当然の現実として受け止め、その症状の緩和や根絶を目的としている。だが、著者の提唱する進化医学(ダーウィン医学ともいう)では、病気も健康も、生物からすると一つの状態であり、善悪といった価値判断から離れたところで、「なぜその病気はあるのか?」という根源的な問いから考える。すると、感染症や遺伝病、アレルギー、中毒症状等を、進化のデザインから合目的的に説明しなおすことができる。この視点から、ネシー『病気はなぜ、あるのか』と長谷川眞理子『ヒトは病気とともに進化した』に手が伸びる。

 身体をリバースエンジニアリングしながら、「人体は、何に適応してきたか?」を考えるうち、「人は、何を目的としているか」という究極の疑問にまで広がっていく。「人体」を進化・健康・疫病という観点で捉え直すと、生物学、医学、考古学、人類史を横断的に見ることになる。これまで積み重ねてきた知見を振り返り、これから知りたい世界が広がるスゴ本、それが『人体 600万年史』だ。

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「幸福の形は同じだが、不幸はいろいろ」というが、ホントは逆じゃないかと思えてくる『HAPPY』がテーマのスゴ本オフまとめ

 好きな本を持ちよって、まったり熱く語り合うスゴ本オフ。

 行くたびに、「この場」「その時」でしか味わえない驚きがあり、発見があり、積読がどんどん増えていく。せめてtwitter実況やブログまとめを張り切るのだが、伝えきれない(ネットには)載せられないネタが山ほど出てくる。北海道から沖縄まで、海外からも御参加いただける魅力は、この現場性にあると踏んでいる。同じ趣味で違う興味を持った人が集まると、こんなに面白い化学変化が楽しめる。

いろいろな「HAPPY」のカタチ

Happy1

 今回のテーマは「HAPPY」、読むとハッピーになれる本や、「幸せ」がテーマの思索、文字通りハッピーエンドの物語や、人生を前向きにする啓発書、なんでもないような幸せから、キュアハッピーまで、さまざまな「HAPPY」を眺める。

白ワインに合うのよ

Happy2

twitterまとめは[ソクラテス、老師から、さくら学院、おっぱいの科学、そして完璧なお尻の写真集まで。「ハッピー」なスゴ本オフ]をどうぞ。

最速情報は、facebook「スゴ本オフ」をどうぞ。

次回の申込みは[今年のMyBestスゴ本]をどうぞ。

これも幸せのカタチ

Happy5

タオ―老子 気になったのが、タオイズムのご紹介。社会の中での役割や生き様をあがくより、「生きる場所はどこにでもある」と納得するほうが自由だ。これを教えてくれるのが、『タオ―老子』(加島祥造)とのこと。「ようこそ駄目人間の避難場所へ」みたいな感じで、「俺って生きていていいんだな」と思えてくる。この「自由」という言葉が実に老子的で、教条主義の正反対というか、ルールに縛られない自在な生き方を目指す手がかりがここにある。死にたくなったら読んでる本とのこと。

日本一のアップルパイ(マミーズ)

Happy4

ネガティブな感情が成功を呼ぶ 「HAPPY」を逆説的に捉えた『ネガティブな感情が成功を呼ぶ』(ロバート・ビスワス=ディーナー)が面白そうだ。普通ならマイナスイメージのある「怒り」「罪」「後悔」といったネガティブ感情が、実は行動力や創造性を促す有益な源として再評価されている。現代人は幸福に拘りすぎた「快楽中毒」で、ネガティブ感情に慣れていないと「精神的敏捷性」が失われてしまうと説く。無理やりポジティブに持っていくのでなく、あえて様々な感情に目を向け、ありのままの自分を利用するのが大事らしい。

ごちうさと断捨離

Happy3

ご注文はうさぎですか 100回うなづいたのが、『ご注文はうさぎですか?』(Koi)だ。可愛いものを愛でるように特化された現代人の脳構造に合わせて作られのが、この日常系マンガ最終進化形だという。アニメのキャッチコピー「かわいさだけを、ブレンドしました」の通り、かわいいだけのお話。これといい、『きんいろモザイク』を観ていると、葛藤とか確執みたいな物語の動力なんていらなくなる。かわいいは、正義。

休憩タイムのひとコマ

Happy6

おっぱいの科学 うれしかったのが、『おっぱいの科学』(フローレンス ウィリアムズ)。進化、環境衛生、遺伝子、授乳、がん、豊胸などから分析した、おっぱいのサイエンス。四足歩行から二足歩行へ移行した際、発情期を示すお尻が目立たなくなったのを補うために、おっぱいが発達したという。乳首に色がついたのも、視力の弱い乳幼児のための「目標」だと考察しているという。隠されたり、見せびらかされたり、測られたり、膨らまされたりされる、おっぱいの知られざる真実を「まじめに」探究した一冊。

赤ワインに合うのよ

Happy7

HIPS そして、お尻。ハッピーなものとは、満ち足りること、わくわくするもの……完全性を追求すると、それは円であり球であり、お尻に行き着く。わたしが紹介したのが、『HIPS 球体抄』(伴田良輔)。これがすばらしいのは、邪魔なものが一切なく、美しくみずみずしく撮っている。エロスを想起させるひじき等を写さないようにしているのもいい。[女は尻だ。異論は認めない][お尻を理解するための四冊]を圧縮して熱く語ったが、ちとフェチ色が強すぎたかもしれぬ。

美しいお尻について語りました

Happy8

 「幸福の形はいつも同じだが、不幸の形はそれぞれ違う」といわれるが、人によって幸せの形は、千にも変わるし万にも化ける。癒しであったり成長であったり、変化やフェチや"好き"そのものだったり。実にさまざまな形をとっている。「幸せ」をあるオブジェクトやステータスに置き換えたり、それを求める行為として見なしたり、幸せの定義や様相の変化が面白い。

サンドイッチ祭り

Happy9

 会場を貸していたただいたHDE様、参加されたみなさま、ありがとうございました。次回のテーマは「2015ベスト」、11/28に渋谷でやります。ちょい見、飛び入り、見学歓迎、詳しくは、[今年のMyBestスゴ本]をどうぞ。

 さまざまな形をとる「HAPPY」に属性のタグ付けするのは乱暴だけれど、紹介された作品の見通しをよくするために強引にまとめてみた。むしろこのキーワード/箴言の方がというのがあればご教授を。

    【愛】愛することと愛されること。 それより大きな幸福なんて、私は望みもしないし知りもしませんわ(モラティン)
  • 『100万回生きたねこ』佐野洋子(講談社)
  • 『100万分の1回のねこ』江國香織(講談社)
  • 『ダヤンと時の流れ星』池田 あきこ(白泉社)
  • 『フクとマリモ』五十嵐健太(KADOKAWA)
  • 『ライン』西村しのぶ(講談社)
  • 『エリカ 奇跡のいのち』ルース・バンダージー講談社)
  • 『宴のあと』三島由紀夫(新潮文庫)

    【癒し】もっとも平安で純粋な喜びは、癒しである(カント)
  • 『しあわせの香り: 純喫茶トルンカ』八木沢 里志(徳間文庫)
  • 『純喫茶トルンカ』八木沢 里志(徳間文庫)
  • 『ぬしさまへ』畠中 恵(新潮文庫)
  • 『レミーのおいしいレストラン』ルー・ロマーノ(主演)(Disney)

    【かわいい】かわいいは正義、かわいいは幸せ
  • 『けいおん!』かきふらい(芳文社)
  • 『ご注文はうさぎですか?』Koi(芳文社)
  • 『なんだこれくしょん』きゃりーぱみゅぱみゅ(ワーナーミュージック・ジャパン)
  • 『あずまんが大王』あずま きよひこ(小学館)

    【希望】寝るとき、明日を楽しみにしている人は幸福である(ヒルティ)
  • 『キッパリ たった5分で自分を変える方法』上大岡 トメ(幻冬舎文庫)
  • 『LIFE!/ライフ』ベン・スティラー(監督)(20世紀フォックス)
  • 『ソクラテスの弁明』プラトン(岩波文庫)
  • 『虹をつかむ男』ジェイムズ・サーバー(ハヤカワepi文庫)
  • 『夜間飛行』サン=テグジュペリ(新潮文庫)
  • 『Dorothy Little happy FINAL at NAKANO SUNPLAZA』Dorothy Little Happy(avex)
  • 『さくら学院 The Road to Graduation 2014 〜君に届け〜』さくら学院(ユニバーサル ミュージック)

    【自由と人生】一番幸せなのは、幸福なんて特別必要でないと悟ることです(サローヤン)
  • 『生きるとは、自分の物語をつくること』小川洋子・河合隼雄(新潮文庫)
  • 『イスラム飲酒紀行』高野 秀行(講談社文庫)
  • 『タオ―老子』加島 祥造(ちくま文庫)
  • 『フォレスト・ガンプ』トム・ハンクス(主演)(パラマウント)
  • 『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』佐々木典士(ワニブックス)
  • 『ふくろう女の美容室』テス・ギャラガー(新潮社)
  • 『死ぬ気まんまん』佐野 洋子(光文社文庫)
  • 『詩羽のいる街』山本弘(角川書店)
  • 『守備の極意』チャド・ハーバック(早川書房 )
  • 『博士の愛した数式』小川 洋子(新潮文庫)
  • 『有頂天家族』森見 登美彦(幻冬舎文庫)
  • 『トモネン』大庭 賢哉(宙出版)
  • 『細雪』谷崎潤一郎(中公文庫)

    【好き】なにが君の幸せ? なにを見て喜ぶ(アンパンマン)
  • 『Alice's adventure in Wonderland』クリストファー・ウィールドン振付のバレエ
  • 『Hate that Cat』Sharon Creech(HarperCollins)
  • 『Love that dog/あの犬が好き』Sharon Creech(HarperCollins)
  • 『エデン』近藤 史恵(新潮文庫)
  • 『サクリファイス』近藤 史恵(新潮文庫)
  • 『ディーバ』デラコルタ(新潮文庫)
  • 『算法少女』遠藤 寛子(ちくま学芸文庫)
  • 『恐竜 (講談社の動く図鑑MOVE)』小林 快次(講談社)
  • 『妖怪温泉』広瀬 克也(絵本館 )
  • 『理科好きな子に育つ ふしぎのお話365』自然史学会連合(誠文堂新光社)
  • 『アイヌ学入門』瀬川 拓郎(講談社現代新書)
  • 『ゴールデンカムイ』野田サトル(ヤングジャンプコミックス)
  • 『UYUNI iS YOU』TABIPPO(いろは出版)
  • 『にじいろのさかな』マーカス・フィスター(講談社)
  • 『おやすみロジャー』カール=ヨハン・エリーン(飛鳥新社)
  • 『FRAU 2014 3月号 女って、おしり』(講談社)
  • 『HIPS 球体抄』伴田良輔(スペースシャワーネットワーク)
  • 『アナル全書』ジャック モーリン(作品社)
  • 『おっぱいの科学』ウィリアムズ・フローレンス(東洋書林)

    【ライフワーク】一生の仕事を見出した人には、ほかの幸福を探す必要はない(カーライス)
  • 『happier 幸福も成功も手にするシークレット・メソッド』 タル・ベン シャハー(幸福の科学出版)
  • 『スティーブ・ジョブズ』ウォルター・アイザックソン (講談社)
  • 『その幸運は偶然ではないんです!』J.D.クランボルツ(ダイヤモンド社)
  • 『ネガティブな感情が成功を呼ぶ』ロバート・ビスワス=ディーナー(草思社)
  • 『バードマン』マイケル・キートン(主演)(20世紀フォックス)
  • 『甘美なる作戦』イアン マキューアン(新潮クレスト・ブックス)
  • 『遥かなるセントラルパーク』トム・マクナブ(文春文庫)
  • 『アルケミスト~夢を旅した少年』パウロ コエーリョ(角川文庫)
  • 『幸福論』ヒルティ(岩波文庫)

    【禍福】禍福は糾える縄の如し(老子)
  • 『幸福の王子』オスカー・ワイルド(新潮文庫)
  • 『クリスマス・キャロル』ディケンズ(新潮文庫)
  • 『マリファナの科学』レスリー・アイヴァーセン(築地書館)
  • 『ハッピーピープル』釋英勝(集英社)

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日仏科学医療対話「なぜエラーが医療事故を減らすのか」まとめ

 日仏科学医療対話を見てきたので、まとめる。

 日仏の研究者や医師が分野を超えて相互交流をするシンポジウムで、在日フランス大使館が後援する「日仏イノベーション・イヤー」のプログラムの一環になる。


 10/19 講演会と討論会
 「医療安全を考える なぜエラーが医療事故を減らすのか」

 10/23-24 日仏医学コロック
 「脳と心 日仏クロストーク」

 10/26-29 数理モデルとその応用に関する国際会議
 「自己組織化」

 11/6 講演会と討論会
 「憎むのでもなく、許すのでもなく レジリエンスを語る」


 わたしが見てきたのは、「医療安全を考える」講演会&討論会[日仏会館]。ローラン・ドゴース氏が基調講演を行った。氏は『なぜエラーが医療事故を減らすのか』の著者で、この[レビュー]が縁となって本講演会のことを知らせてもらった(山田様ありがとうございます)。

なぜエラーが医療事故を減らすのか 講演は、「犯人探しだけでは医療は良くなるのか?」という問いかけに始まり、大きな事故が発生したとき、根本原因を究明し再発を防止するというアプローチには限界があると説く。複雑系そのものである人体を相手に、これまた複雑に巨大化した現代医療システムを完璧に適用することは、事実上不可能。医療行為の手順をどんなに徹底させても、予想外の要素が重なった場合、防げない事故は必ずあるから。むしろ、予想外の事象に気づき、柔軟に対応できる弾力性(レジリエンス)こそが重要だという。

 ドゴース氏の講演を受け、討論会が行われる。パネリストは下記の通り。レジリエンス・エンジニアリングや医療従事者の「良心」のありかたなどが話題となった。

  橋本廸生(日本医療機能評価機構理事)
  長谷川剛(上尾中央総合病院院長補佐・情報管理部長)
  永井裕之(「医療の良心を守る市民の会」代表)

 特に興味深かったのはレジリエンスを実現する具体的な方法の議論だ。安全性のノウハウは学習できるもので、全国一律に展開(規制)したり教科書のように標準化することも可能。ただし、ノウハウを展開しても、現場には「常識」のような事例にとどまる。

 いっぽうレジリエンスはローカル(局所的)なもので、病院ごとに異なる。再発防止のため本当に自由に話してもらうためには、局在性(≒密室)が必要になる。飛行機事故調査における「パイロットと管制官だけ」のように、「医師と看護師だけ」での院内レビューが重要だという。レビュー結果を報告する段階で遺族が同席するのはいい。だが、遺族が原因究明の場に入ると、病院側は真実よりも自己正当化を優先するから。

 フランスでは、「原因究明・改善」と「被害者・遺族への補償」をセットで提供するようにしたため、犯人探しの輪から抜け出すことが可能となった。この「原因究明・改善」は病院ごとのローカルなレジリエンスで、「被害者・遺族への補償」は全国的な制度となる。

 ローカルスキルの蓄積と、制度的な安全システムとの対比は面白い。だが、最初から標準化に背を向けたレジリエンスをどのように評価するかは、別の問題。なぜなら、評価には必ず他病院との比較観点が入るから。一定の標準化された安全性に加え、柔軟性や「うまくやっていく能力」こそが求められるようになるのだろう。

最悪の事故が起こるまで人は何をしていたのか レジリエンス・エンジニアリングの考え方は、医療現場に限らず、あらゆる組織のリスクマネジメントに役立つ。『最悪の事故が起こるまで人は何をしていたのか』や『失敗のしくみ』を読みながら、自分でエラーに気づき是正できる文化を考察したことがある。飛行船墜落や原発事故、ビル倒壊など50あまりの事例を横断的に眺めながら、人的要因とメカニズムをドキュメンタリータッチで描いたものだ(ちなみに、「最悪の事故が起るまで人は何をしていたのか?」の答えは、「最悪の事故になるとは思いもせず、別のインシデントだと考えて行動していた」だ)。

 要するに、むかし流行った「失敗学」である。そこでは、エラーのデータベース化によって、失敗を排除するための標準化・手順化に注力していた。一般的なヒヤリハット集なんて、あたりまえすぎて参考にならない。問題は、次の想定外が起きたとき、それが「想定外のインシデントである」と早く気づけるスキルであり、そのインシデントをアクシデントにさせない打ち手を柔軟に考えられる能力なのだ。Hollnagel『レジリエンスエンジニアリング』をとっかかりにしてみよう。

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貧乏人は早く死ねというのか『老後破産』

お皿の上の生物学 まだ暑い盛り「お年寄り、クーラーつけず熱中症、救急搬送8000円」というニュースを目にした。

 省エネなのか冷や水か、場合によっては生命維持装置でもあるスイッチを切るなんて。こまめにON・OFFしても、浮く電気代はわずかなものらしい。電気代ケチって病院代かかるなんてギャグかと思っていたら、事情は違うようだ。その差ですら惜しむような、さらには電気代すら払えない高齢者の現実を、本書で知った。

 本書では、年金だけでギリギリの生活をしている状況を、「老後破産」と位置づけ、必要な医療も受けられず、十分な食事もとれない高齢者たちの実態を報告する。元はNHKスペシャル『老人漂流社会 "老後破産"の現実』(2014.9.28放送)をベースに、番組では紹介しきれなかった事例も併せて書き直している。番組は見逃していたが、報われない老後の現実が痛々しく、他人事とは思えない。

 たとえば、港区の築50年のアパートに住む80代男性。ゴミが散乱し、布団も敷きっぱなしの中で、ただ生きている毎日。月10万円の年金は、家賃と光熱費と保険料を支払うと、2万円しか残らない。500円/日にまで食費を切り詰め、たまの贅沢は大学生協の400円ランチ定食だという。「こんなはずじゃなかった」「生きていることが辛い」という言葉が刺さる。

 「明るい老後」が冗談に見えるサブタイトル「長寿と言う悪夢」の通りの悲惨な現実が、これでもかと突きつけられる。介護も医療もカネの切れ目がサービスの切れ目、「結局、貧乏人は早く死ねということなのか?」という問いかけが重い。明日はわが身か、未来の自分を見ているようで真っ暗な気分になる。

 その一方で、拭えない違和感が迫ってくる。男性のアパートは、港区の高級住宅街の一角にある。地価が高いから家賃も高い(6万)、生活費も高くつく。引越しで解決するのではと思うのだが、取材者が先回りして質問してくれる。その答えがこれだ。

「毎月の生活に追われているので、引越し代なんてあるわけがないじゃないですか」

 自嘲気味に答えているが、おそらく一気にこのような状況になったのではないのだろう。ゆで蛙の喩えのように、長い時間をかけて、少しずつ切り詰めていって、「きょうを生きのびること」に全精力を使い果たし、先のことなんて考えなくなってしまった状況が怖い。

 また、切り詰めポイントに違和感を感じる。この男性に限らず、食費にしわ寄せがくると述べているが、自炊しないのだろうか? インスタントやレトルトではなく、ご飯と汁物と一品なら、同じ値段で栄養価の高いものが沢山食べられるだろうに。「100円のおにぎりで我慢する」といわれると、我慢するところが違うんじゃないかと思えてくる。500円/日を「食材」と見ると、ずいぶん変わってくるかと。また、タバコやアルコールなどの嗜好品についての記述が見当たらないが、いわずもがななのだろうか。「財布には小銭しかない」というが、CR機にお札が吸われた結果でないことを祈る。

 本書の随所で感じる、「わたしならこうするのに」というツッコミや、「わたしはこうはならないぞ」という戒めは、次の一言で砕かれる。周囲のゴミに無頓着な様子について、こう自嘲する件だ。

「この歳になるとね、ちらかっていると分かっていても億劫になって片付けようという気力も体力もなくなってしまったんですよ」

 おそらくその通りなのだろう。片付けて、洗って、自炊して、計画的に暮らすことで、生活の質を向上させることは分かっている。でもそんな気になれない、「おっくう」なのだ。そうやって放置して放棄していくうちに、ひたひたと貧困が迫ってくる。同じ状況になったとき、わたしは「おっくう」がらずにやれる自信がない。どうすればよいか? 本書には書いてない。

 本書は、あくまでもルポルタージュ。自己責任、世代間格差、制度破綻など、キーワードを散らかして、「現場からは以上です」で終わっている。ここでデカい主語にして嘆くのがBLOGOS界隈だが、主語は「わたし」に留めよう。自分がそうならないためには、生計や蓄えだけでなく、社会的なネットワークが重要かと。つまり、親族、地域社会、仕事がらみ、ネット越しで今ある社会的関係を定期的にメンテナンスしていく必要がある。きっかけは経済的なものかもしれないが、プライドや遠慮から孤立を深め、社会的に滑り落ちてしまうパターンなのだから。

 そして、「ちょうどいい」タイミングで死ぬほうが、わたしにとっても周囲にとっても「好い」ことなのかもしれぬ。生きることに「おっくう」になる前に、そしてそうできる間に、するりと去るのが、わたしにとって、好ましい人生なのかも。ただし、「ちょうどいい」がいつなのかは神のみぞ知るのだが……須原一秀『自死という生き方』を読んでみる。


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科学+教養+エンタメ『お皿の上の生物学』

お皿の上の生物学 料理と食材と人体で語る、教養科学エンターテイメント。

 味、色、香り、温度など、「食」にまつわる様々な要素が、生物学というフィルターを通じてクローズ・アップされる。調理しながら、料理を食べながら、「鍋の中で起きていること」「口腔内で起きていること」を分子レベルで解説してくれる。

 「料理したものを食べる」という日常的な活動の中に、感覚器官の精巧なメカニズムや、生き延びるための生体的なデザインが仕込まれていることを学ぶ。つくづく、料理とは実験なんだと痛感する。キッチンという、こんなに身近な場所で驚くべき科学体験ができることを知って、わくわくする。

 たとえば、「味」は脳が決めているという。人の目の原色のような「原味」に応答する細胞の話を始める。味蕾の構造から始まって、味細胞がどのように反応するかを解説する。それだけでなく、「ミラクル・フルーツ」を使って脳を騙す実験を始める。

 普通なら「酸っぱい」はずのレモン汁が、ミラクル・フルーツを舐めた後だと酸っぱくなくなる。ミラクル・フルーツにある「ミラクリン」というタンパク質がなせる技だという。ミラクリンが甘味受容細胞の表面にある甘味センサー分子と結合し、そこに酸がくるとミラクリン自身の構造が変わる。「酸」そのものの性質は変えないが、ミラクリンが甘味センサーを活性化させてしまうため、脳は糖がきたと解釈せざるを得なくなる。つまり、酸を「甘く」感じてしまうのだ。

 さらに、「味」の向こうにあるものを考察する。たとえば、アミノ酸やヌクレオチドが「旨い」と感じるのはなぜかと問う。すなわち、動物がこれらの物質を必要とするから。言い換えるなら、動物は必要とするものを「旨い」と感じることによって摂取を促し、生き残ってきたという。「旨い」と感じなければ、栄養失調になって死に絶えていたから。

 ・旨味(タンパク質、つまり構成源)
 ・甘味(糖類、つまりエネルギー源)
 ・塩味(塩類、つまりイオン源)
 ・酸味(腐敗物の味)
 ・苦味(アルカロイド、毒物の味)

 最初の3つは、快楽とセックスの関係を思い出す。そして後の2つは、避けるべき警告信号だろう。これは、幼い子供が嫌う味として、そして様々な料理を食べることで慣れてゆく味として扱われている。ちなみに薀蓄もたっぷりで、トウガラシやマスタードの「辛味」は「味」というより痛覚であるという話や、第六の原味として「脂肪酸味」が発表された話(2015.5 米国バデュース大学)も盛り込んである。

 次の「香り」の話も興味深い。「味覚と嗅覚、なぜ二種類のセンサーがあるのか?」という素朴な問いへの解説に唸らされた。教科書的に言うならば、味と匂いは以下の違いになる。単純にセンサーの位置の違いでしかないのに、なぜ二つもあるのか?

  味覚:化学物質が口腔の受容器と接触して生じる感覚
  嗅覚:化学物質が鼻腔の受容器と接触して生じる感覚

 著者は、味と匂いは、化学物質やセンサーで分けるのではなく、「生物がその情報を何に使うのか」で区別したほうが正解に近いという。味覚は、対象に接近して口に入れ、そこで初めて得られる情報になる。栄養があるかないか、毒か毒でないか、要するに、個体維持のため、「そいつを取り込んでいいかどうか」を判断する近距離情報が「味」だ。

 いっぽう嗅覚は、離れた対象の性質に関する情報を引き出す。敵やライバルがいないか、生殖活動が可能か、餌の多寡や生存に適した環境か、要するに、種の保存のため「近づくべきか遠ざかるべきか」を判断する遠距離情報が「匂い」になる。

 食性が決まっていて栄養の多寡や腐敗、毒さえ識別できれば生存には十分だから、味覚の受容体の数が限られている。反面、敵、味方、配偶相手、環境など、多種多様の匂いを嗅ぎ分けなければ、自身と種の存亡にかかわるから、多種多様の嗅覚受容体があるという説明に納得する。わたしの直感に反して、人体のデザイン的には、嗅覚>味覚>視覚の順に優先されている。嗅覚は、より身体知に近いところにあるんだね。

 タイトルの『お皿の上の生物学』には二つの意味が込められているという。一つは、お皿の上の料理についての生物学。もう一つは、生物学自体を料理して、大学新入生に動機付けすること。科学の「美味しいところ」を召し上がれ。

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アキラ効果を確認する『知的トレーニングの技術』

知的トレーニングの技術 読むだけで知的に強くなる「読書猿」の種本だと聞いて、光の速さで買ったのがこれ。そもそも、読書猿ブログはこの一冊から始まったのだと勧められたら、読むしかない。

 「志を立てる」から始まって、「知的空間のつくりかた」「本の探索・蒐集術」「知的工具のそろえかた」「発想・発問トレーニング」「最後まで書き尽くす方法」など、知的生産が捗るテクニックが紹介されている。著者一流の求道的な言い回しが面白く、くじけそうなときに読み返して励ましてもらえる効果もある。たとえばこうだ。

書棚は記憶の貯蔵庫である。記憶が頭脳の飽和に達した分を、モノ(本)のかたちで外化しておく。頭脳それ自体は一種のインデックス(索引)となり、書斎空間がむしろ思考する身体にしてかつ主体、ということになる。それゆえ、思考するとは、まさしく本棚の前を「歩く」という身体的行為のことなのだ。

 わたしの場合、書斎はおろか自分の本棚さえないので、改めて妻と交渉する勇気を奮い立たせてくれる。「書斎は、知的能力の拡張空間だ」という指摘は正しい。なぜなら、読了した本を思い返すとき、家のあちこちに分散して置いてある「場所」や、なじみの書店や行きつけの図書館の書棚の「並び」を頭の中で巡らせているから。自分で整理したブックマークやデスクトップのショートカット、あるいはアプリの「場所」から芋づるで引き出す感覚だ。場所と対応づける暗記術があるが、そいつを拡張した場所に覚えてもらうやつ。

 紹介されるテクニックは、王道モノで激しく頷くものばかり。既視感を強く感じるのは、それもそのはず、30年以上も前に書かれたものだから。そして、本書自身が、ニーチェやボルヘス、フッサールといった巨人たちの手法をエッセンスのように取り込んでいるから。この一冊の背後に沢山の本があることが、よく分かる。本書の「種」があちこちに蒔かれ、そこからさまざまな知的活動が発生し、一定の成果を上げ、後進のためにとノウハウ本(今風ならライフハック)が書かれ……といったサイクルの中で、どこかでわたしも読んだのだろう。陳腐に見えてしまうのは、「大友克洋の何が凄いのか全然わからない」と同じ構造かと。

 これを密かに、アキラ効果と呼んでいる。エヴァでもシェイクスピア効果でもいい。いまシェイクスピアを読んだら、あまりの陳腐な言い回しに辟易するだろう。が、その「どこかで聞いたことのある感」のオリジンと向かい合っている。本書のどこを読んでも、そんな既読感に迫られる。

 なかでも膝ポンしたのが「外在的読書」と「内在的読書」。外在的読書とは、読書の目的が本の外部にあるもので、情報源としてのメディアにすぎないと割り切ったやつ。自分というものがカチッと定まっていて、何を読んでも「知った」以外の変化は生じず、「本なんて情報にすぎない」というタイプやね。反対に、内在的読書は「その本を読むこと自体」が目的のもの。楽しむため、自己変革のため、著者の思想と一体化するための読書だ。小説や自己啓発書「しか」読まず、他人の世界に浸ってるうちに一生終えるようなもの。バランスが大事やね。

 気になったのは、「独り」に頑ななところ。師を探すというテーマに一節を割いているものの、引用と一般論を展開していることから、実践していないノウハウだと分かる。教授や助手、大学図書館、司書、ゼミ、公開学習など、もっとアカデミズムを使えばいいのに、と歯がゆくなる。せっかく通れる路(≠レール)を拓いてもらい、道案内や同行人さえいるのに、それを棄て、勉強「法」のために多大な努力を費やしてきたように見える。

 また、PCやネットを用いた技術が無いのも残念なり。書かれた時代からして仕方のないものの、今でも知的活動を行っているのなら、一言どころかたっぷりと追加したくなるはずなのでは。あとがきにて、「問いそのものの不在」から、ネットの宇宙に限界があることを指摘している。問いであれ答えであれ、ネット「の中」だけを探すのなら、その通りだろう。だが、ネット「の向こう」の人に到達する手段に気づかないのだろうか。ボルヘスのバベルの図書館モドキと見なすなら、ネットは確かに不十分だ。だが、生きている人であれ過去の人であれ、「人」にアクセスする手段ととらえるなら、ネットはいつでもいくらでも、ダイナミックに応えてくれる。

 積もる不満は、「読書猿」で解消する。ブログは本書の増補改訂版らしいが、その種は大きく花開いている。実践に裏付けられ、ツールとウェブサービスを縦横に使ったノウハウは、どこを読んでもタメになる。まさか知らない人はいないとは思うが、その「まさか」な人のために、まずは[ここ]を覗いてみるといい。初めてなら、質量ともにクラクラするだろう。そんな人にとって、『知的トレーニングの技術』は格好の入門書になる。ブックマークして満足せず、何度も読み直そう。

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お金、セックス、戦争、そしてカルマ『西洋の欲望 仏教の希望』

ホモセクシャルの世界史 仏教の智慧から、現代をほぐした一冊。

 巨大な問題を扱っていながら、わたし個人の「つらさ」を見透かされているように感じる。さらに、自分の中の仏教的な見方に気づくというよりも、むしろ、今までの知的探索のアプローチと重なっていることを思い知らされた。

 資本主義と格差社会の根源的な理由や、承認欲求・応答システムとしての性文化、持続可能な戦争のモチベーションなど、現代社会の問題を「仏教」というレンズを通して捉え直し、解きほぐす。「十分なお金を持つとはどういうことか?」「ブッダは遺伝子組換え食品を認めるか?」など具体的な問いを立て、「空」、「無我」、「縁起」、「カルマ」といった仏教思想の観点で斬る。すると、そこに潜む「dukkha(苦)」が露になる。

 残念ながら、こうした諸問題を一気に解決する手はない。ただし、わたしがどんな姿勢で向き合えばいいかは、分かる。イデオロギーや文化により常識化されたアタマからいったん離れ、自分を攻撃せずにすますやり方を見いだす。いわば、自分で自分の首を締めていた手に気づく、というようなものか。ただしこの「苦」が曲者だ。ここに出てくる「苦」は、必ずしも「苦しい」ではないから。

 むしろ「つらい」の方がしっくりくる(翻訳者の配慮からか、本書では「dukkha」のまま用いられている)。斬口から見える「dukkha」を重ね合わせると、一人称的な「苦しい」反応というよりも、「思い通りにいかない」→「つらい」ことを指しているように見える。何かに執着したり当然視していることが、思った通りにならない場合、その予想と現実の差から"つらさ"を感じる。

 たとえば「お金」、好むと好まざるとに関わらず、わたしは資本主義の世界に生きている。お金さえあれば、欲しいモノが買えるしサービスを受けることができる。保険という形で「安心」や、代行により「時間」さえ買うことができる。わたしの欲望のシンボル、「すなわち凍って固まった欲望」がお金なのだ。

 そして、わたしは「十分なお金」が無いと嘆くが、「十分なお金」とは何だろうか? と問うてくる。もちろん答えをもらわなくても、わかる。「わたしの欲望を満たすために十分なお金」なんてものはない。これが可視化されるとき、わたしは"つらさ"を感じる(妬みに化けたり強迫観念に至ったりもする)。これが「dukkha」なのだろう。

 同時に、著者は資本主義に目を向ける。前近代の富の再分配としての「お金」の役割は、価値の「交換」「保存」「尺度」と三つある。だが資本主義は、「お金」について新たな役割を生み出したのだという。それは「投資」。お金からお金を作る仕組みであり、利潤を投資して成長を監視する基盤でもある。投資した人はより多くのリターンを期待し、社会には連続成長を是とするプレッシャーが働くことになる。現在は決して「十分」ではないが、未来は良くなる、もしくは良くなる「はず」だという未来志向を集団的に保っているのが、資本主義(思考)なのだ。そこでは、いつまで経っても「十分なお金」を持つことはない。

 この問題に対し、「無我(anatta)」の教えから、お金との関係を断つ方法を提案してくれる。とはいっても、「お金」なしに生きていくことは不可能なので、「お金に対して抱いている幻想」との関係を断つやり方と言ったほうが適切かも。

 問題は、自我の欠如にあるという。何かがおかしい、つらいと感じ、自身の「穴」を意識する。それを埋めることで、リアルな存在を取り戻せると信じて、埋めるための行為に心を奪われてしまうことが問題なのだ。「お金」それ自体がダメということではなく、「お金」でその穴を埋められると思い込むのがダメなのだ。社会の約束事でしかない紙や金属、ディスプレイの文字列に、現実の証(リアリティー・シンボル)を求めていることに、"つらさ"が生じる原因がある。「お金」に対する幻想によって、自分から罠に掛かっているようなものだという。

 では、どうすればいいのか? 「お金」とはモノではなくプロセス(過程)だと考えろという。「お金」は本当は、自分のものでも人のものでもないエネルギーのようなものとして理解せよと説く。「お金なんてない」と考えろとまでは言ってない。

般若心経の説くように、すべての形は「空」だが、形から離れて「空」は存在しない。「お金」への先入観とは、それ自体には意味が無いものに対する思い込みのことである。それは、かたどられた形から離れられず、心から有り難いとは思えなくさせるものなのだ。

 そして、「お金」が「空」だと理解しているならば、シンボルとしてのお金の範囲で扱うことができると説く。反対に、リアルな存在を感じるために「お金」を使う人々は、空白の小切手(決して現金にならない約束手形)を掴んだ自我の感覚に振り回されて人生を終えると警告する。

 ここからもう一歩進め、そいういう「わたし」も「空」である話まで行くのだが、まずは「お金」への幻想に気づくところまで理解を深める。この資本主義(思想)の中で、シンボルに洗脳されている「わたし」に気づくのが、最初のステップなのだろう。

 上述は「お金」についての神話を解いたものだが、「戦争」「セックス」にまつわる現代的なテーマに斬り込んでゆく。そのアプローチも、「時間に仕掛けられた罠」や「性器がわたしたちを利用するトリック」といった、刺激的な問いかけと応答により続けてゆく。面白いのは、こうした問答を追いかけていると、認識論や言語学で深めてきたわたしの認識と重なってくるところ。ニーチェやヴィトゲンシュタインの思考と、それより千八百年前にナーガールジュナが明らかにした中観が、重なりあってゆく論証なんて読んでて非常に興奮する。さらに、メタファーを通した人間の認識の仕様を示したジョージ・レイコフ『レトリックと人生』や、意識とは抽象的な用語で幻想に過ぎないという疑惑を突きつけるダニエル・デネット『思考の技法』の解も、ナーガールジュナの論証に示されているような気がする。哲学的アプローチとは別に、一足飛びに、いわばチート的に正解を示してくれているのでは……と期待してしまう。

 認知科学、認識論、実存哲学から「わたし」に迫るだけでなく、ナーガールジュナからのアプローチを試みる。中村元『龍樹』あたりから攻めてみよう。

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人類の歴史とは、ホモセクシャルの歴史である『【図説】ホモセクシャルの世界史』

ホモセクシャルの世界史 読書の魅力は、「世界がそれまでと違って見える」である。世界が変わったのではなく、新しい目を得たのだ。いま見えている世界が唯一絶対だと思いたいなら、本は要らない。

 なかでも「スゴ本」は、読前読後で自分をアップデートするものだ。それまでの常識や固定観念を破壊するだけでなく、意識すらしていなかった部分を認識の明るみに引きずり出してくれる。本書は、わたしの中の飼い慣らされた部分を引きずり出してくれたという意味でスゴい(ただし、これをどう扱うかはわたしの問題である)。単にホモをいっぱい集めた本だと思い、興味本位で手を出したら、返り討ちに遭ったようなもの。自分がどんだけステレオタイプでホモを見てきたかを思い知った。

 本書は、古今東西における男どうしの性愛をまとめたものである。豊富な図版と大量の文献を元に、その美学、愛、官能、技法、因縁、そして運命を、微に入り細を穿ち、精力的に渉猟してゆく。大まかな時系列・地域別にまとめられてはいるものの、随所に異なる視点や斬り口が設けられており、じつに多様な読み方ができる。

 たとえば、歴史上の偉人や巨匠たちが大量に登場するため、ホモ列伝として読んでも凄いし、男の同性愛がどのように発生し、広まり、禁止され、復活したのかという巨大な文化史として捉えることもできる。また、男女の性愛や、女性の同性愛とを比較した歴史的考察を横断し、「人類にとって性愛とはなにか」を地球規模で考え直す一助にしても面白い。

 人類とともに古い少年愛の実践者が、山とでてくる。アレクサンドロス大王やレオナルド・ダ・ヴィンチといった有名どころの紹介だけでなく、そこに潜む異説エピソードが面白い。たとえばプラトン。あの哲人がそうだったのは知っていたが、「プラトニック・ラブ」とは精神的な愛であるというのは平俗化された意味だというのは知らなかった。元は男性同士の気高い情愛関係を示していたというのだ。

 宗教ネタ、開祖カップリングも興味深い。釈迦と阿難、イエスとヨハネの師弟関係がホモエロティックなものとして語り継がれ、ずばり「結婚」とまで言及されていたエピソードが紹介されている。最後の晩餐でイエスの胸元に寄りかかった構図は知らなかったが、見ればそうとしか思えなくなる(ヨハネではなくラザロという説も併せて紹介されている)。

 全員ホモのカップルで構成された、古代ギリシアの最強軍隊の話が泣ける。テーバイの神聖部隊の理念に基づいたもので、愛するもの同士で一緒になって戦った。互いに相手から見苦しい様を見られまいとして、かつ愛する者を守ろうとして、非常な威力を発揮した。これを破ったのはマケドニア大王フィリッポス二世(アレクサンドロス大王の父)で、戦闘後にこの事実を知って漢泣きに泣いたという。

 文学の観点からの洞察も面白い。メルヴィル『白鯨』にて、おおっぴらに行為を描いてはいないものの、ホモセクシャルな関係としかいいようのないシーンが出てくるが、著者自身がそうだったとは知らなかった。太宰治『走れメロス』の原典となったモイロスとセリヌンティオスの友愛関係や、スティーヴンソン『宝島』のジム少年と一本脚の海賊ジョン・シルヴァーのマトロタージュ(念友関係)、ウェルギリウスが少年愛者だったことを知った上で冥界案内人として登場させたダンテ『神曲』など、枚挙に暇がない。

 ホモセクシャルの痕跡を時間軸のエピソードで眺めるだけでなく、オセアニア、南北アメリカ大陸、アフリカ大陸、ユーラシア大陸と、地域文明を横断する巨視的な観点からも俯瞰する。すると、時代を問わず、場所に限らず、男を愛する男の話は極めて普遍的に見いだすことができるだけでなく、異性愛をも上回る人気を誇っていることが分かる。

 唯一の例外がユダヤ教で、つねに大国に脅かされた弱小民族の窮状を反映し、産めよ殖やせよが至上命題となっており、生殖以外の性行為を「浪費」とみなしたためだと説明する。イスラム、ヨーロッパ、中国と一定の反映を誇った文化には、必ずといっていいほど同性愛の痕跡を見いだすことができ、むしろホモセクシャルを禁忌とする考え方こそが偏狭だという気になってくる。

 ではなぜ、ホモセクシャルを悪徳とする考え方が広まったのか? 著者は愚直なまでにドグマを守るキリスト教徒に原因を求め、様々な根拠を提示するが、なかでもパウロの「自己嫌悪型ゲイ」という観点が面白かった。『コリントス信者への第二の手紙』の12章7節にある、「私の肉体に与えられた一つの棘」という件を元にしている。そこからパウロ自身の同性に対する情欲であった解釈を引き、自己の性的指向を知って嫌悪感に陥る「隠れゲイ」だったというのだ。

 わたしがホモセクシャリティに感じる背徳性は、キリスト教社会から押しつけられた倫理観だと考えると、ちょっと愉快である。日本にはかつて男性同士の性愛が「衆道」「美道」にまで高められ称揚されていた。そうした下地に花開いた今日のBL文化と、かつて移植された欧米的価値観がせめぎあっているのかもしれない。もちろん、異説、俗説、都市伝説が混ざりこんだものなので、そのまま「ほんとう」と信じるのは愚かだろう。だが、妄想の上とはいえ、人類はここまで自由になれるのかと思うと、嬉しくなってくる。

 ホモセクシャルは、ヘテロよりも、深くて多彩で、面白い。

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