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『思考の技法』はスゴ本

思考の技法 哲学するための装備を整え、著者自身の戦歴を踏まえながら自分のモノにする一冊。カタログ的なツール集というよりも、もっと大掛かりで強力な、知の増幅装置に近いイメージ。

 「意味」「進化」「意識」「自由意志」といった、手ごわいテーマに対し、手ぶらで対峙しないための装備と考えればいい。オッカムの「かみそり」ではなく「オッカムのほうき」、藁人形論法ではなく「グールドの二段階藁人形」など、一般の思考道具よりも威力のある、77もの装備が手に入る。

 たとえば、必要以上に多くの仮説を立てるべきでないとするオッカムの「かみそり」よりも、「ほうき」の方がより凶悪だ。なぜなら、自説に都合が悪いエビデンスや統計情報を掃き出して「なかったことにする」ほうきだから。著者ダニエル・デネットは、暗闇で犬が吠えなかったことが手がかりとなった、シャーロック・ホームズのあの推理を思い出させる。知的に不誠実な人が、不都合な事実を隠したとき、「ないこと」に気づけるのは専門家以外にいない。

 返す刀で創造論者に斬りつける。彼らの"理論"が扱えない沢山の証拠を巧妙に回避して作られた説明は、「そこに何がないのか」を素人では知ることができない。だからこそ、素人にだけは説得力を持つのだ。この「ほうき」、疑似科学やニセ医学の中に掃いた後を見ることができる。分かりやすさに飛びつき、愚かでいることは悪なのかもしれぬ。

 「グールドの二段階藁人形」は、腹を抱えて笑わせてもらった。もちろん、あのスティーヴン・ジェイ・グールドが槍玉だ(生きてたらさぞ怒っただろうに)。論敵の意見を都合よく歪めて、それを論駁するのが藁人形の論法だが、これは第一段階に過ぎない。第二段階では、藁人形に言わせた見解を、今の論敵は「もう」持っていないことに注意を向け、論敵は降参して意見を変えたのだと解釈させるやり方だ。もはや神業レトリックなのだが、デネットは根気よく解きほぐしてくれる。

 そして、藁人形(第一段階)もそうなのだが、自分で使うことを想定していない道具まで紹介されている。善いも悪いもリモコン次第というやつで、目くらましになったり議論を誘導できたりする。悪用は厳に慎むべきなのだが、相手が使ってきたら即座に指差すため、詭弁のガイドライン[参考]のようにラベリングしておきたい。

 なかでも、道具というより装置レベルのものを、デネットは「直観ポンプ」と呼んでいる。一種の思考実験で、「そうであるとしか考えられない」本質を直接、そのまま汲みだすためのツールだ(だから"ポンプ"なのだろう)。ユニークなのは、思考実験の前提や環境パラメータを色々変えて試行錯誤することで、そこから引き出される直観がどのように変わるのかを吟味しているところ。これにより説得力を増したり、逆に、直観を疑わしくさせているポイントに焦点を合わせることができる。本書では、サール「中国語の部屋」や、ジャクソン「色彩学者メアリー」の直観ポンプが、徹底的に批判される標的となっている。

 上手いと唸らされたのは、前半の思考の道具立てが、後半の哲学談義への戦略的地ならし&展開準備になっているところ。もしこうした道具や直観ポンプの比喩によって議論が済んでいなければ、同じような質疑応答を繰り返すハメになり、ただでさえ分厚なのが(700頁超)もっと巨大になっていただろう。

 特に、単純な命令で「計算」を定義する件が凄い。2つのレジスタの中の加減乗除から始まり、コピー、検索、画像の表示をこなし、自然数ではなく0と1だけで実行する原理を説明する。何のことはない、ノイマン型コンピュータのタネ明かしなのだが、重要なのは、コンピュータの仕組みを理解すると、コンピュータそのものは「理解」することなしに動作し、役に立っていることに気づく。レジスタマシンには心(マインド)がなく、わたしたちがしているような「理解」はしていない。にもかかわらず、完璧な算術ができるという証明なのだ。これが後半の「中国語の部屋」批判につながり、「意識」抜きで心を説明できるのではないかと考えさせられる。さらに、ライフゲーム[wikipedia]の直観ポンプを駆使することで、コンピュータが決定論的にも、そうでないようにも振舞えることを示し、決定論と自由意志を両立不可とする見解をぐらつかせる。

 ものすごく説得力があるせいで怖くなってくるのは、「意識」とは人の複雑な行動を予測したり説明するのに便利な直観ポンプにすぎないのではないか、という直感(≠直観)である。すなわち、意識とは抽象的な用語であって、実体なんて存在しないということだ。もちろん、現時点では意識を物理的に説明するとき、その実体が捉えられないことは分かっている。だが、そういう意味で「実体がない」といいたいのではない(この辺の議論は、『ぼくらが原子の集まりなら、なぜ痛みや悲しみを感じるのだろう』でトコトン追い詰めた……)。

 そうではなく、わたしたちが「意識」のせいにしているのは、ある部分は志向性の議論で、またある部分は進化論から、さらに他の部分は認知科学の適用によって、説明できてしまう個々の現象の寄せ集めなのではないか、ということだ。これは、分かりやすいから「意識」というラベルを貼っているだけで、分解してみたら何もなかった(個々の理論で解明されていたものの別称の総称だった)……ことになりはしないか、という恐怖である。クオリアであれ、哲学的ゾンビであれ、主体でしか認識できない現象からといって、「物理的性質に還元されない魂的な何か=意識」という幻想を抱いているのではないか、という疑問を突きつけてくる。

 強力なツールを得る一方で、その力に呑み込まれまいと抗う力も働く。容易に納得したくないと粗を探そうとする。攻撃対象の思考実験の瑕疵を見つけるために、直観ポンプのパラメータを操作している不自然さを衝けば良い。生まれてからずっと白黒の部屋で暮らしてきたが、色に関するあらゆる物理的知識を身につけている「色彩学者メアリー」に対する、デネットの攻撃パターンが典型だ。

 メアリーは、青や赤を実際に「見」たことはないが、そうした色を見ることが、光学的にどのような現象であるか、生理学的にどんな反応が生じるか、またそうした色をもつ物は何かを、知識として知っていた。そんな彼女が、ある日、白と黒だけの色のない部屋から外へ出たとき、視覚経験に関して何かを学ぶだろうということは明らかに思われる。ならば不可避的に、メアリーの以前の知識は不完全だったものになる。物理的情報以上の「何か」があることになるから、物理主義(あるいは唯物論)は虚偽である、という思考実験だ。

 デネットは猛然と、直観ポンプのダイヤルを目一杯に回す。すなわち、メアリーの物理的知識は、現在の知識をはるかに凌駕し、神に等しい全知レベルにまで引き上げる。そうした上で、そのような芸当を想像することは珍妙なので真面目に受け取れないとダメを出し、その後、ダイヤルをちょっとだけ下げ、色視覚だけについての物理的知識の全てという前提にしたとしても、珍妙さは変わらないとする。

 他にも、クオリアが何であるか、また何でないのかを巡って論争が続いており、厳密に定義できていないから、クオリアという直観ポンプにダメ出しをする。いったんはその土俵に乗っかるが、悪ノリして極端なところまで行き粗を出すやり方は、どこかで見た覚えがある。屏風から追い出してくれれば虎退治してみせましょうという一休さんそっくりだ。

 わたしの見解は、感覚的な経験は身体知を伴うというもので、デネットとは異なる。だが、「色彩学者メアリー」という思考実験がまずいという点では、彼と一致している。色を「見」ることなしに色についての知識を得たとしても、それは色を「見」ることで重ねられた身体的な経験にまでたどり着かないから。例えば、「青いパスタ」を思い浮かべてほしい(なんなら、google画像検索してもいい[注意:ちょいグロ]

 ちょっとウッときたでしょ? (手元にないので記憶をたよりにだけど)デズモンド・モリスの『マンウォッチング』で、青いパスタの写真を見た。食べ物として不自然な色の例としてだ。青は、自然界に存在する色であるが、食べものとしてはほとんどない。だから、画像を加工したり、食紅で色づけされたりした「そぐわない色」の料理には、食欲がわかないどころか、嫌悪感(かそれに近いもの)がわいてくる。これは、色の物理的知識ではなく、これまで食べてきたものと、その色との経験による(正確には、食べ物と色との関連に「なかった」経験による)。従って、色のない世界で得た物理的情報には少なくとも身体知が抜けているので、その前提を議論しない限り物理主義への論駁にはならない。

 そして、デネットの「色彩学者メアリー」への攻撃は、メアリーが研究分野を換えた場合に窮地に追い込まれる。すなわち、嗅覚学者として転生して、色の代わりに臭いで同じ思考実験をするのだ。カメラやロボットで代替しやすい「色」だからこそ、直観ポンプのスイッチをあれこれ操作できる。だが、極めて個人的で記憶と結びつきやすく、工学的に扱いにくい「匂い」の場合、どうしても「実際にかいでみないと分からない」という議論寄りになる。身体知に近いところで直観ポンプを扱うなら、むやみにダイヤルを回せないだろうと踏んでいる。匂いについてあらゆる「物理的な情報」を持っている彼女が、生まれて初めて匂いをかいでみたら……という思考実験だったなら、物理主義への有効な打撃となるだろう。直観ポンプは有用かつ強力だが、うっかりすると取り込まれてしまう。まさに、善いも悪いもリモコン次第やね。

 知力が欲しいと手にしたが、あまりの力に呑まれそうになる、強力な一冊。

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