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数学のセンス・オブ・ワンダー『数学の大統一に挑む』

数学の大統一に挑む 美しいものに触れたとき、感動はどうすれば伝わるか。

 満点の星空や、圧倒的な夕陽を一人で見ていたとしよう。もし、愛する人がいたら、この美しさやそのときの気持ちを、どう伝えるだろう? 写真を撮るか、キャンバスに描いてみせるか、やはり言葉で伝えたらいいのか。

 この問いに対し、星野道夫は、すてきな返答を遺している。それは、自分が変わってゆくことだ。その夕陽を見て、感動した自分が変わることによって、それがいかに凄いものであったかが伝わる。アップデートされた自分自身こそが、ビジュアルや言葉を超えたメディアとなる。

 『数学の大統一に挑む』の著者エドワード・フレンケル自身がそうだ。彼の半生を知るにつれ、数学が人を捕え鍛え変えてゆくさまを見て取ることができる。同時に、その一端でも触れることができるならば、世界の見え方が一変するほどの秘密が潜んでいることが分かる。

 その名は、ラングランス・プログラム。代数、幾何学、数論、解析という、異なる数学の領域のあいだに、さらには量子物理学の世界にまで架け橋を設けようとする計画だという。数学のあらゆる領域の基礎構造を成す、いわば数学の「ソースコード」を明らかにする試みだ。

 本書は、このラングランス・プログラムを様々な比喩やエピソードを用いて紹介するパートと、波乱と挑戦に満ちた著者自身の自伝とが撚り合わさってできている。特に、最難関の入試問題を全問正解したにもかかわらず、不合格させるための口頭審問のやりとりがカフカ寓話そのもので印象深い。反ユダヤ主義のソ連時代の圧力にめげず、教育システムのセキュリティホールを衝いてくる実行力がすごい。これはひとえに、数学への愛が成し遂げている。著者は、ガロアの論文を「人類に宛てたラブレター」だと評しているが、本書そのものが数学へ宛てたラブレターだといえる。

 そして数学を語るパート。数学の美しさ、華麗さ、勇壮さを熱っぽく力説するあまり、深く遠いところまで連れて行こうとする。著者曰く、わたしたちが学校で習う数学は、いわば猫のようなものだという。これに対し、ブレード群やガロア群、リーマン面といった現代数学は、トラなんだと。同じネコ科とはいえ、ずっと猫ばかり見せておいて、トラとはこのような生き物だと言ったとしても伝わるものではない。だから、堂々としたトラの姿を見てもらうために書いたという。そのトラの正体は、正直にいうと理解できなかった。

 もちろん、喩え話なら分かりやすい。例えば、「写真は、四次元の影である」という。4つ目の次元が時間を表わしているのなら、時間について「スライス」することは、写真にほかならない。動いている被写体の写真を撮るということは、時間軸でスライスして三次元の断片を作ることに相当するという(その後、三次元のスライスを二次元平面に射影することになる)。たくさん写真を重ねることで、動いている印象を作り出すことはアニメーションそのものだし、マルセル・デュシャン『階段を降りる裸婦像No.2』の例も腑に落ちる。

 だがこれを一般化して、n次元のフラットな空間の点を、n個の数で表すところから怪しくなる。直線や平面が「フラット」なのはいいとして、三次元空間が平べったいとはどういうことだろう? ここから曲率の話やリーマン面に連れて行かれると、理解が追いつかなくなる。それを補うための数式や証明が巻末注にまとめられているが、知っているのならいざしらず、未見のものは(この分量だけでは)噛みきれない。

 けれども、わたしは学んでいる。かつて『ゲーデル、エッシャー、バッハ(G.E.B)』に何度も挑戦し、挫折した経験から知っている。ポイントはこうだ。

 1) 分からないところは、いったんカッコでくくる
 2) その本だけで、学ぼうとしない

 分からない箇所にぶち当たったとき、注釈やネットを渉猟しても、「その理解のための大きなリソースを要する」ことが分かったなら、早々と撤退する。さもないと、先に進めることができなくなる。また、注釈が充実しているから、比喩が分かるからといって、その本だけで学べると思うのも禁物だ。その世界を見てもらおうと、例え話もそこそこにどんどんスピードを上げていくから(不完全性定理を『G.E.B』で理解しようとしたのが敗因)。

 学校の数学と異なる、大人の数学のメリットを生かそう。「数学は、待っていてくれる」のだ。試験や宿題といった制限時間を気にせず、ひたすら好きなだけ潜ればいいし、ダメなら他のルートを吟味すればいい。理解が困難な箇所や、手を動かす必要があるところは、別の入門書からやり直せばいい。

 本書の「トラ」ともう一度まみえるために、群論をやってみよう。対称性をはかる数学から世界がどう見えるか、わたしがどう更新されるか、楽しみだ。ブルーバックスの『群論入門』(芳沢光雄)からスタートするつもりだが、オススメがあったらご教授いただけると有難い。

 おまけ。p.273の正弦関数の値の印刷ミス(?)があった。φ=60度(π/3)なら、√3/2なんだけど、√が「3/2」全体にかかってた。改版時に直っているといいな。

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苦しまないと、死ねない国『欧米に寝たきり老人はいない』

欧米に寝たきり老人はいない

 せめて、死ぬときぐらい安らかに逝きたい。

 だが、現代の日本では難しいらしい。老いて病を得て寝たきりになっても、そこから死にきるためには、じゅうぶんな時間と金と苦しみを必要とする。寝たきりで、オムツして、管から栄養補給する。痰の吸引は苦しいが、抵抗すると縛られる。何も分からず、しゃべれず、苦しまないと死ぬことすらままならない。

 タイトルの「欧米に寝たきり老人はいない」理由は、簡単だが単純ではない。というのも、「寝たきりになる前に(延命治療を拒否して)死ぬから」が答えであることは分かっていても、なぜ「延命治療を拒否する」ことが一般化しているか明らかでないから。本書によると、数十年前までは日本と同様に、終末期の高齢者に対し、濃厚医療が普通だったという。欧米では、これが倫理的でないという考えが広まり、終末期は「食べるだけ・飲めるだけ」が社会常識になった。金の切れ目が命の切れ目。高齢化社会に伴う医療費の増加が、配分の見直しを促したのだろうが、それを受け入れる背景は宗教観や人生観の違いだけではないらしい。

 著者は、まさにこの問題に直面している現役の医師で、ブログ「今こそ考えよう 高齢者の終末期医療」をベースとしたものが本書になる。単純な欧米礼讃・日本批判に閉じず、この問題を「問題」にさせないようにしている動機を明らかにする。すなわち、日本の医療システムが生み出す「延命医療主義」の裏にある、医療関係者と高齢者を抱える家族との、いわば共犯関係を炙り出す。寝たきり老人を量産することが、医者と家族の利益に叶っているからこそ、このような現状となっているというのだ。

 テレビや新聞で紹介される、「元気なお年寄り」はレアケースだという。統計上、95歳以上は8割、100歳を超えるとほぼ全員が認知症になり、身体も言うことをきかなくなる。頭も体も元気な老人は、普通の老人ではなく、超人、スーパー老人であり、オリンピック選手のようなものだという。努力してもそうなれるものでもなく、だからこそニュースバリューがあるのだろう。

 人は必ず死ぬ。当たり前だと分かっていても、いざ自分の親の死に直面すると、本人の意志に関係なく、家族は延命措置を強く希望するのが常だという。医師は家族の要望に沿うべく「できるだけ生かす」ことに尽力する。救命救急センターは高齢者で一杯となり、長期入院の受け入れ先を探すことになる。さらに急性期病院では在院日数が長くなると診療報酬が減るため、退院へのプレッシャーが強くなる。そして、受け入れ側では、手間の掛かる食事介護に充分な人手がないことから、胃ろう(腹部に“口”を造る手術)が条件となる。医療現場で「延命措置」について話されることはない。ぎりぎりの切羽詰った状況での、一種の流れ作業となっており、内心では疑問に思っていても、議論する余裕がないのが実情らしい。

 受け入れ側の医療機関では、濃厚医療を行わざるをえない理由がある。というのも、財源を握る国側が、医療費抑制のために2年ごとに診療報酬を下げてくるため、経営のために濃厚医療が必要となるのだ。ベッド数は簡単に増やせないから、診療報酬が高くなる中心静脈栄養や、人工呼吸器装着を行うことで、単位あたりの"利益"を増やす経営判断が働くわけである。また、十分な延命措置を怠ったとして、遺族から訴えられる恐れがつきまとう。たとえ延命を希望しないというリビング・ウィルがあっても、法制化されていない以上、訴訟リスクを避ける運営になるのは当然だろう。

 寝たきり老人を抱える家族側の事情もある。「命があるのに見捨てた」と後ろ指さされたくない思いや、親の年金を当てにして生活しているため長生きして欲しい動機もある。著者は問いかける。「生きているだけで嬉しい」という家族がいるが、本人のことは考えないのかと。寝たきりで、家族の顔も分からない。しゃべれず、食べれず、何年も入院をし、痰の吸引や気管チューブ交換のたびに体を震わせて苦しんでいる。家族の思いは尊重すべきだというが、本当にそうなのか? 家族はそれで満足かもしれないが、家族のために生かされている本人はどうなのか? 80代、90代の人が、最後の最後に来て、それでも「頑張って」生き永らえさせる。この、「むりやり生き永らえさせられた時間」は、一体誰のためのものなのかと。

 わたしは、この問いかけを、わたしの家族にさせたくない。強制的に生物として生かすのは、生きている側のエゴイズムなのか? とか、これはエセ人道主義なのか? などと自問してほしくない。

 本書では国民一人ひとりが考え、行動することが必要だと訴える。具体的には、「生命維持治療のための医師指示書(Physician Orders for Life-Sustaining Treatment/POLST)」を作成することを提案する。この医療指示書は頭文字を取ってポルストと呼び、終末期の治療方針が明確に記されている。

 ・心肺停止時の蘇生
 ・脈拍・呼吸があるときの積極的医療
 ・抗生剤投与
 ・人工栄養

 などを、事前に患者本人と医師が相談して決めておく。ポルストは、リビング・ウィルより強い効力を持ち、いざというとき、救急現場の医師がこれを見たら、治療方針に迷うことがないようにしておくのだ。

 実は、厚生労働省は2007年に「終末期医療の決定プロセスに関するガイドライン」を作成し、終末期医療について医師指示書を支援する制度が開始された。だが、「高齢者は早く死ねばよいのか」「自己決定の名の下に治療中止を迫られる恐れがある」などマスコミの猛反発を受け、制度開始から3ヶ月で凍結されたという。「いつまでも元気なお年寄り」というレアケースを拡散し、寝たきり老人を量産する現状には目をつぶっているように見える。

 この違和感は、わたし自身が自分の逝き方を考え、いざというときにどうして欲しいのかを書面にし、家族にも伝えておくことで解消しよう。直前までピンピンしてて、死ぬときはコロリと逝く「ピンピンコロリ」は願望にすぎぬ。そんな幻想を期待せず、今から腹を決めておこう。逝き方とは生き方でもあるのだから。

医師の一分 この課題は、『医師の一分』(里見清一)にもつながる[レビュー]。がんの専門医として沢山の臨終に立ち会ってきた著者が、現代医療の偽善を批判する。自己決定という風潮を幸いに判断を丸投げする医師を嘲笑い、終末期の患者への濃厚医療は、本当に「救う」ことなのか? と疑問をつきつける。

 こちらの方はシンプルに、命の値段を教えてくれる。一人一年、一千百万円、これが命の値段だ。根拠はWHOによる。その考えでは、一人を一年延命する費用の判断基準として、一人あたりGDPの3倍が相当するという。主語が大きいほどヒステリックに傾くため、「わたし」を主語にしよう。そこまでお金をかけて苦しんで生きたいか、あるいは安らかに逝きたいか、二択にするのは単純だが、覚悟を決める準備にはなる。

 最後は、どうか幸せな記憶を。

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現実の処方箋としての物語『アルブキウス』

アルブキウス 現実は厳しい。退屈で、ほとんど喜びを与えてくれず、ときに酷い運命に打ちのめされる。

 そんな受け入れがたい現実との折り合いをつけるために、人は物語を必要とする。物語りは物騙りであるからこそ、固有名詞を剥ぎ、バッファーを設けることができる。受け手が飲みこめるよう現実を変形させる、安全装置となっているのだ。

 だから、つぎはぎしたり、つじつま合わせの必要なんてない。嘘と嘘への欲望を、そのまま代弁してくれるだけでいい。小説とも随想ともつかぬ本書では、古代ローマの残酷でエロティックな物語と、それを紡ぎだす作家アルブキウスの奇妙な人生を重ねながら、物語と作家がお互いを必要としたことを炙り出してくれる。

 こんな風に始まる。わたしは、このイントロで夢中になった。

現在がほとんど喜びを与えてくれず、これからやってこようとしている月日には繰り返ししか望めないとき、人は過去へ押し入ることで日々の単調をまぎらわす。死者たちの股が開かれ、その腹(二千年の昔の古くて柔らかい腹だ)が触れ合い、折り重なる。
 面白いことに、本書の語り手であるパスカル・キニャールが、自らを隠そうとしない。か細く小さいプロットを並べ、それを書いたアルブキウス自身の現実との葛藤を掲げてみせる。キニャールがあちこち顔を出し、ときに生々しく、ときに悪趣味に、即興も挟みながら騙りかけることで、二千年前の作家が傍らにいるように思えてくる。昔も今も、人は、同じことで苦悩して、同じ理由で死ぬ。

 と同時に、同一のプロットが様々なバージョンを保っていることを知る。古代ローマではプロットは共有され、さまざまな語り手がいたという。同じ筋立てから、いかに魅力的なストーリーに仕立てられるか、説得性ある修辞技法を駆使できるか、作家どうしが競い合っていた。そんな中、上手に物騙る人たちが集まって、「作家」という存在ができあがっていたんじゃないかと想像させられる。

 つまり、「ホメロス」や「シェイクスピア」というのは一種のブランドで、実在する人物がいたかもしれないが、その一人がすべてを担っていたわけではないのでは……と思えてくる。それは、おもしろい物語を約束するブランドで、いわば、品質を保証する一種のレーベルのようなもの。アルブキウスver. の寓話は、そうしたブランドに取り込まれる直前の純粋物語である一方で、アルブキウスの人生を写す鏡のようにも振舞う。

 病と老い、貧しさと不安など、人生の不条理を受け入れるための物語を紡ぎながら、同時に自分が抱える問題も溶かし込もうとする。人生は混沌であり、人は自分が何を言っているのか、何をしているのか分からない。だから、現実を飲み込むために運命という因果を、自分がやっていることを納得するための説明を、物語に託す。物語の役割とは、現実の処方箋なのかもしれぬ。

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『思考の技法』はスゴ本

思考の技法 哲学するための装備を整え、著者自身の戦歴を踏まえながら自分のモノにする一冊。カタログ的なツール集というよりも、もっと大掛かりで強力な、知の増幅装置に近いイメージ。

 「意味」「進化」「意識」「自由意志」といった、手ごわいテーマに対し、手ぶらで対峙しないための装備と考えればいい。オッカムの「かみそり」ではなく「オッカムのほうき」、藁人形論法ではなく「グールドの二段階藁人形」など、一般の思考道具よりも威力のある、77もの装備が手に入る。

 たとえば、必要以上に多くの仮説を立てるべきでないとするオッカムの「かみそり」よりも、「ほうき」の方がより凶悪だ。なぜなら、自説に都合が悪いエビデンスや統計情報を掃き出して「なかったことにする」ほうきだから。著者ダニエル・デネットは、暗闇で犬が吠えなかったことが手がかりとなった、シャーロック・ホームズのあの推理を思い出させる。知的に不誠実な人が、不都合な事実を隠したとき、「ないこと」に気づけるのは専門家以外にいない。

 返す刀で創造論者に斬りつける。彼らの"理論"が扱えない沢山の証拠を巧妙に回避して作られた説明は、「そこに何がないのか」を素人では知ることができない。だからこそ、素人にだけは説得力を持つのだ。この「ほうき」、疑似科学やニセ医学の中に掃いた後を見ることができる。分かりやすさに飛びつき、愚かでいることは悪なのかもしれぬ。

 「グールドの二段階藁人形」は、腹を抱えて笑わせてもらった。もちろん、あのスティーヴン・ジェイ・グールドが槍玉だ(生きてたらさぞ怒っただろうに)。論敵の意見を都合よく歪めて、それを論駁するのが藁人形の論法だが、これは第一段階に過ぎない。第二段階では、藁人形に言わせた見解を、今の論敵は「もう」持っていないことに注意を向け、論敵は降参して意見を変えたのだと解釈させるやり方だ。もはや神業レトリックなのだが、デネットは根気よく解きほぐしてくれる。

 そして、藁人形(第一段階)もそうなのだが、自分で使うことを想定していない道具まで紹介されている。善いも悪いもリモコン次第というやつで、目くらましになったり議論を誘導できたりする。悪用は厳に慎むべきなのだが、相手が使ってきたら即座に指差すため、詭弁のガイドライン[参考]のようにラベリングしておきたい。

 なかでも、道具というより装置レベルのものを、デネットは「直観ポンプ」と呼んでいる。一種の思考実験で、「そうであるとしか考えられない」本質を直接、そのまま汲みだすためのツールだ(だから"ポンプ"なのだろう)。ユニークなのは、思考実験の前提や環境パラメータを色々変えて試行錯誤することで、そこから引き出される直観がどのように変わるのかを吟味しているところ。これにより説得力を増したり、逆に、直観を疑わしくさせているポイントに焦点を合わせることができる。本書では、サール「中国語の部屋」や、ジャクソン「色彩学者メアリー」の直観ポンプが、徹底的に批判される標的となっている。

 上手いと唸らされたのは、前半の思考の道具立てが、後半の哲学談義への戦略的地ならし&展開準備になっているところ。もしこうした道具や直観ポンプの比喩によって議論が済んでいなければ、同じような質疑応答を繰り返すハメになり、ただでさえ分厚なのが(700頁超)もっと巨大になっていただろう。

 特に、単純な命令で「計算」を定義する件が凄い。2つのレジスタの中の加減乗除から始まり、コピー、検索、画像の表示をこなし、自然数ではなく0と1だけで実行する原理を説明する。何のことはない、ノイマン型コンピュータのタネ明かしなのだが、重要なのは、コンピュータの仕組みを理解すると、コンピュータそのものは「理解」することなしに動作し、役に立っていることに気づく。レジスタマシンには心(マインド)がなく、わたしたちがしているような「理解」はしていない。にもかかわらず、完璧な算術ができるという証明なのだ。これが後半の「中国語の部屋」批判につながり、「意識」抜きで心を説明できるのではないかと考えさせられる。さらに、ライフゲーム[wikipedia]の直観ポンプを駆使することで、コンピュータが決定論的にも、そうでないようにも振舞えることを示し、決定論と自由意志を両立不可とする見解をぐらつかせる。

 ものすごく説得力があるせいで怖くなってくるのは、「意識」とは人の複雑な行動を予測したり説明するのに便利な直観ポンプにすぎないのではないか、という直感(≠直観)である。すなわち、意識とは抽象的な用語であって、実体なんて存在しないということだ。もちろん、現時点では意識を物理的に説明するとき、その実体が捉えられないことは分かっている。だが、そういう意味で「実体がない」といいたいのではない(この辺の議論は、『ぼくらが原子の集まりなら、なぜ痛みや悲しみを感じるのだろう』でトコトン追い詰めた……)。

 そうではなく、わたしたちが「意識」のせいにしているのは、ある部分は志向性の議論で、またある部分は進化論から、さらに他の部分は認知科学の適用によって、説明できてしまう個々の現象の寄せ集めなのではないか、ということだ。これは、分かりやすいから「意識」というラベルを貼っているだけで、分解してみたら何もなかった(個々の理論で解明されていたものの別称の総称だった)……ことになりはしないか、という恐怖である。クオリアであれ、哲学的ゾンビであれ、主体でしか認識できない現象からといって、「物理的性質に還元されない魂的な何か=意識」という幻想を抱いているのではないか、という疑問を突きつけてくる。

 強力なツールを得る一方で、その力に呑み込まれまいと抗う力も働く。容易に納得したくないと粗を探そうとする。攻撃対象の思考実験の瑕疵を見つけるために、直観ポンプのパラメータを操作している不自然さを衝けば良い。生まれてからずっと白黒の部屋で暮らしてきたが、色に関するあらゆる物理的知識を身につけている「色彩学者メアリー」に対する、デネットの攻撃パターンが典型だ。

 メアリーは、青や赤を実際に「見」たことはないが、そうした色を見ることが、光学的にどのような現象であるか、生理学的にどんな反応が生じるか、またそうした色をもつ物は何かを、知識として知っていた。そんな彼女が、ある日、白と黒だけの色のない部屋から外へ出たとき、視覚経験に関して何かを学ぶだろうということは明らかに思われる。ならば不可避的に、メアリーの以前の知識は不完全だったものになる。物理的情報以上の「何か」があることになるから、物理主義(あるいは唯物論)は虚偽である、という思考実験だ。

 デネットは猛然と、直観ポンプのダイヤルを目一杯に回す。すなわち、メアリーの物理的知識は、現在の知識をはるかに凌駕し、神に等しい全知レベルにまで引き上げる。そうした上で、そのような芸当を想像することは珍妙なので真面目に受け取れないとダメを出し、その後、ダイヤルをちょっとだけ下げ、色視覚だけについての物理的知識の全てという前提にしたとしても、珍妙さは変わらないとする。

 他にも、クオリアが何であるか、また何でないのかを巡って論争が続いており、厳密に定義できていないから、クオリアという直観ポンプにダメ出しをする。いったんはその土俵に乗っかるが、悪ノリして極端なところまで行き粗を出すやり方は、どこかで見た覚えがある。屏風から追い出してくれれば虎退治してみせましょうという一休さんそっくりだ。

 わたしの見解は、感覚的な経験は身体知を伴うというもので、デネットとは異なる。だが、「色彩学者メアリー」という思考実験がまずいという点では、彼と一致している。色を「見」ることなしに色についての知識を得たとしても、それは色を「見」ることで重ねられた身体的な経験にまでたどり着かないから。例えば、「青いパスタ」を思い浮かべてほしい(なんなら、google画像検索してもいい[注意:ちょいグロ]

 ちょっとウッときたでしょ? (手元にないので記憶をたよりにだけど)デズモンド・モリスの『マンウォッチング』で、青いパスタの写真を見た。食べ物として不自然な色の例としてだ。青は、自然界に存在する色であるが、食べものとしてはほとんどない。だから、画像を加工したり、食紅で色づけされたりした「そぐわない色」の料理には、食欲がわかないどころか、嫌悪感(かそれに近いもの)がわいてくる。これは、色の物理的知識ではなく、これまで食べてきたものと、その色との経験による(正確には、食べ物と色との関連に「なかった」経験による)。従って、色のない世界で得た物理的情報には少なくとも身体知が抜けているので、その前提を議論しない限り物理主義への論駁にはならない。

 そして、デネットの「色彩学者メアリー」への攻撃は、メアリーが研究分野を換えた場合に窮地に追い込まれる。すなわち、嗅覚学者として転生して、色の代わりに臭いで同じ思考実験をするのだ。カメラやロボットで代替しやすい「色」だからこそ、直観ポンプのスイッチをあれこれ操作できる。だが、極めて個人的で記憶と結びつきやすく、工学的に扱いにくい「匂い」の場合、どうしても「実際にかいでみないと分からない」という議論寄りになる。身体知に近いところで直観ポンプを扱うなら、むやみにダイヤルを回せないだろうと踏んでいる。匂いについてあらゆる「物理的な情報」を持っている彼女が、生まれて初めて匂いをかいでみたら……という思考実験だったなら、物理主義への有効な打撃となるだろう。直観ポンプは有用かつ強力だが、うっかりすると取り込まれてしまう。まさに、善いも悪いもリモコン次第やね。

 知力が欲しいと手にしたが、あまりの力に呑まれそうになる、強力な一冊。

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恋は、遠い日の花火ではない『椿町ロンリープラネット』

椿町ロンリープラネット くたびれたおっさんに響くラブストーリー。かつて「恋は、遠い日の花火ではない」というキャッチで、中年男女の背中を押したのがサントリー。いまでは恋は、こういう具体的な形でAmazonで買える(第一話のお試しは、[マーガレット:椿町ロンリープラネット]で読める)。

 古風な女子高生と無愛想な小説家が、とある事情で同居するイントロに、『翔んだカップル』を思い出すくらいおっさんですよわたしは。それでも、そんな妄想を恥ずかしく思えるくらい、素なやりとりが心地いい。まだ、恋とか欲とか始まる前の、ニュートラルでいながら何かの予感を悟らせるような言葉と視線の応酬が面白い。

 この表紙のふみちゃんがいいんだ。料理上手で控えめで、自分の美しさにまだ気づかないくらい若く、それでいて率直に切り込んでくる距離感ゼロと貧乏性に、ぎゅっとなる。そんな女子高生と一軒屋で、障子一枚隔てた同居生活とは、男に都合よすぎないか? もちろんそのとおり、同居する小説家をはじめ、周りの男性は皆イケメン。ここはイケメンしかいない世界。そうでない男は顔すら持たない。

 ご都合シナリオはテンプレとして、そこに乗っかる身体と表情がいい。首から鎖骨にかけるラインの硬さとか、男の骨ばった手首や細身の背中が醸す、魅力以上色気未満の線に、たまらなく惹かれてしまう。こぼれる前まで溜まった涙が、瞳にうっすら膜のように覆っていたのかと窺い知る。なぜなら、ふと呼ばれて振り返ると、目に映る光だけ残像のように描かれているから。滴になる前の、「涙を出さずに泣いている」女の子を描くのが、とても上手いのだ(女性はツンデレ男子に萌エロ)。

 表立って、喜怒哀楽を出してこないのもいい。表情ではぐっと堪えて、内面キャラでデフォルメするアンバランスがいい。そうした葛藤を何度も経て、何気ない一言に隠された優しさに揺さぶられ、はらりと顔に出てしまう、その一瞬が素晴らしい。目は口ほどに……まんまに、目線が好きだと告げている(そしてどちらも気づ[か|け]ない)。読み手だけが、その心の裡を知っている、というカラクリ。

 最近ハヤリの、「女子高生と中年男」の組み合わせでないから、より一層胸にクる。過ぎ去って手の届かないものから、まんざらでもないですよアナタと、ひととき夢を見せてくれるのは心地よいもの。だがこの組み合わせは、悲恋から悪落ちまで、使い尽くされている。我欲を満たす物語に、ドロドロにまみれたわたしにとって、これは、恋の痛みを思い出すじゅうぶんな近さを持った花火なり。

 竹久夢二の椿を髣髴とさせるレトロモダンな表紙に惹かれて手にしたが最後、大正解。胸いっぱいに迫るもどかしさと甘酸っぱさを反芻すべし。

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社会科学と歴史学を統合する『歴史から理論を創造する方法』

歴史から理論を創造する方法 社会科学と歴史学をつなぐ、ユニークな試み。

 野心的なタイトルとは裏腹に、堅実な理論構築を目指した好著。政治学や経済学、社会学の推論と検証の方法をおさらいすると同時に、歴史分析の手法を学べる。これらの学術分野において、論文のテーマ出しをシステマティックに行い、生産性を向上させたい方には、有益なヒントが得られるだろう。

 そして、同じ「社会現象を説明する」学術でも、社会科学と歴史学の間には、深い溝があることを知る。それぞれの分野の書籍から感じていた「差」が、如実に見えてくる。すなわち、一次資料を渉猟して、歴史的新事実を提供する歴史研究者と、それを利用して理論構築を行う社会学者の構図である。さらに、自説に都合良く歴史的事実を取捨選択したがる社会科学者と、蛸壺化された研究対象しか見ようとしない歴史家の双方が、批判されている。

 これを解消し、両者の歩み寄りを促すための方法論が、本書だ。恣意的に事例を選び取る「プロクルーステースの寝台」の問題を回避し、選択バイアスを解消するため、範囲を絞った「事例の全枚挙」という手法を提案する。また、帰納・演繹を乗り越える第三の推論として、アブダクションを紹介する。ジャレド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』のようなビッグ・ヒストリーには向かないが、戦後日本の外交戦略といった期間・地域・イシューを限定した上で事例を説明する理論構築には良いかも。

 もともと、歴史研究者が明らかにしてきた膨大な事実から、一定のパターンを見いだし、理論で裏付けるのが社会科学者だと考えていた。棲み分けというか役割分担のように感じていたため、歴史学からの理論構築というアプローチは、非常に有用だと思う。しかも、自説に沿う箇所をつまみ食いするやり方を禁じ手としており、適用範囲は限定的となるものの、強い説得力を持つだろう。著者はこの手法の具体例としていくつかサンプルを出してくるが、願わくば実地に適用された論文につながらんことを。

 ずいぶんトシ食ってから、こういう良書に出会うと、少し恨めしく思う。大学のときに出会いたかった……

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