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善悪二元論という嘘『ジーキル博士とハイド氏』

ジーキル博士とハイド氏 人間は習慣の動物だから、長く被っているペルソナを人格だと思いこむ。たとえフリでも、続けるうちにキャラとなる。いわば、被り物がホンモノになるのだ。なにかのはずみで、ひょっこり隠れている方が顔をだすとき、「あれは"私"じゃない」と叫びたくなる。

 わたしの場合は酒だ。最近はめっきりだが、酒に完全に呑まれたとき、残忍で猥雑で暴力的な「わたし」が現われる。酒が人をダメにするんじゃなくって、もともとダメなことを教えてくれるのが、酒なのだ。

 だから、『ジーキル博士とハイド氏』を再読したとき、このあまりにも有名な作品を、ずっと勘違いしていたことに気づいた。これは、人の裡に潜む、善と悪の二面性を描いた作品ではない。「ジーキル=善、ハイド=悪」という二重人格がキレイにまとまっているが故に、薬による人格変換の構図として読んでしまったのだ。それは、メルモちゃんのキャンデーのように変化させるのではなく、モーフィアスが渡したカプセルのように本質を暴くものなのだ。

 名士として知られるジーキルこそが「悪」だろう。名誉ある人格者だと自認し、ハイド(hide)という隠れ蓑を被り、無味乾燥に倦んだ人生を、極悪徳に染め上げる。著者であるスティーヴンソンは巧妙に筆を省いてはいるものの、サディスティックで背徳的な悪事を、商売女に行っていたことが覗われる。どんなにおぞましい快楽行為でも、やったのは"私"じゃないのだから、悪いのは私じゃない、という思考こそが「悪」そのもの。

 むしろ悪のペルソナであるハイドこそが小心者だ。少女を踏みつけたことを咎められ、公にするぞという脅しにあっさり屈し、金で手を打とうとする。ついカッとなって振るった暴力の結末に怯え、逃げ出そうとする。薄弱で臆病な面を「悪」の人格とみなすことで、最後の最後になってまで、自分を高潔なものと見てもらいたいとする浅ましさ。ジーキルが発明したのは、「ハイドになれる薬」ではなく「ジーキルの仮面を外す薬」だったのだ。

 もともとは、漱石『こころ』を読んだ人にお勧めする作品として手にした『ジーキル博士とハイド氏』。とっかかりの共通点は、どちらも語り手に宛てた手紙の一文になる。

親愛なるアタスン。これがきみの手に落ちるころ、わたしは姿を消しているだろう。わたしの本能と、名づけようのない立場に置かれたわたしの目下の状況は、終末が確実であること、そのおとずれのはやいことを告げる。
スティーヴンソン『ジーキル博士とハイド氏』
この手紙が貴方の手に落ちる頃には、私はもうこの世にはいないでしょう。とくに死んでいるでしょう。
夏目漱石『こころ』

 漱石はスティーヴンソンを高く評価していたと聞くが、この死者の告白という手紙形式による結末は、ここから得ていたものと考える。同時に、長い長い手紙を使って、"私"の悪ではない証を立てようとする姿勢は、相通じるものがある。6/14(日)のスゴ本オフ「漱石『こころ』の次のオススメ」でこれを語ってみよう。

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