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『ぼくらが原子の集まりなら、なぜ痛みや悲しみを感じるのだろう』はスゴ本

 意識は科学で説明可能か? このとんでもなくハードな問題に突入する。ギリギリ捻られる読書体験を請け合う。

ぼくらが 著者は現役の哲学者、意識という現象を自然科学的な枠組みのもとで理解するという問題(意識のハード・プロブレム)に、真っ向から取り組んでいる。「物理主義」や「クオリア」、「哲学的ゾンビ」「意識の表象理論」を駆使して、科学・哲学の両方に跨がる難問に挑戦する。[wikipedia:意識のハード・プロブレム]に興味がある方は、ぜひ手にして欲しい。深く遠いところまで連れて行かれるぞ。

 ハードがあるなら、イージーもある。流行りの認知科学にありがちな、MRIやCT、電気パルスを用いて、脳状態と意識経験の相関を明らかにする研究だ。例えば赤い色を見たとき、脳のどの部位がどのような状態になっているかを解明する問題で、これが意識のイージー・プロブレムになる。怪しげな脳科学者が、「脳はここまで解明された!」と宣っているやつ。

 だが、意識と脳状態との相関を特定するだけでは、意識の問題は解決したことにならない。ある意識経験と、ある脳活動との間に、相関関係があることを示しただけだから。この相関が成り立つ理由を明らかにするのが、意識のハード・プロブレムになる。赤い色を見ることが特定の脳活動を実現するのか、あるいは逆か、さもなくば両者は同一なのか、たまたま同時に生じているだけなのかを解明する。

 その一方で、意識のハード・プロブレムは擬似問題だと主張する人もいる。問いを立てる際の前提が誤っていたり、検証できないものに依拠しているため、そもそも答えなんてない問題だという。著者は、この指摘も折り込んで、「これは擬似問題である」という立場からも解こうとする。つまり、正面突破が無理なら迂回してみようというわけだ。しかし、意識概念の特殊性が、物理主義と整合的な仕方でうまく説明できないとして、この立場を否定する。

 著者のスタンスは、「玉砕上等!」明快で潔い。古今東西の優秀な科学者や哲学者たちが、様々な説明を試みてきたこの問題が、すんなり解けるとは思っていない。行きつ戻りつ、ああでもない、こうでもないと考え抜くのだが、ダメならダメで、あっさり次へ行く。たとえある立場からの説明に失敗したとしても、その試みは無意味ではないとする。「そっちの道は袋小路だ」と示せたから。

 議論は複雑だが、分かれ道には必ずマイルストーンを置いておき、ロードマップの形で「イマココ」と指し示してくれる。主張がどのように展開されており、その意図どこから来ているのか、解決の手がかりをたどり直すことができる。これはありがたい。さもないと、あっという間に迷子になってしまう。言い換えると、これまで、いかに不毛な蒸し返しをしてきたのか、逆に見て取れる。

 しかし、本書の中盤で、デッドエンドに至る。意識を科学的に理解しようという試みも、それを否定しようという試みも、どちらもうまくいかなくなる。ここからの脱出が凄い。「われわれはそもそも何を経験しているのか」という問いかけから、意識の表象理論へ踏み込む。意識経験を一種の表象(世界がどのようであるかを表わす働き)とみなし、世界を(その生物にとって)どのように役立てるかに分節化された知覚表象システム論を展開する。

 そこで経験される性質は、知覚表象システムに相対的な性質であり、いかなる物理的性質にも還元不可能だという。知覚表象システムそのものは物理的に還元可能だが、経験される性質は、「世界がどのように(その生物にとって)あるか」によって分けられた事物の性質だから、例えば人間にとっての表象システムと、コウモリにとっての表象システムは異なる。だが、「世界がどのように(その生物にとって)あるか」を超え出て、世界そのもののあり方についての探求を進めることで、同一の物理的性質に到達することは可能だという。コウモリやAIが「経験」する性質は、その生物の中で表象可能だという点で客観性を持つし、逆に生物やAIの違いにもかかわらず表象可能であれば、物理的性質が同一であることに、より強い客観性を持つ。まさに、世界は、見えるように見えているのだ。

 正直、この議論の全てに納得しているわけではない。著者が「説得的ではない」「説明が不十分である」と早々に撤回した立場のそれぞれについても、ツッコミたいところがあったし、定義不十分の議論として批判したいものもあった。だが、おそらく哲学のシロウトだから言えるのであって、そっちは獣道なのだろう(わたしが思いつくような議論なら、これまで誰かが考え尽くしているはずだからね)。そういう方は、巻末の注を精読することをお薦めする。この問題に取り組むための論点および文献の宝の山だから。

 意識のハード・プロブレムについては、本書で一定の説明が付いたと考えたい。哲学的な批判であれ、認知科学から立証するのであれ、意識の表象理論を手がかりにすることで、獣道へ逆戻りすることを回避できる。AIに意識をもたせるには? といった最近の課題のヒントもここにある。また、同時に本書を読むことで、分析哲学とは、様々な「答え」を覚えることではなく、そこれ至るイバラの道を実際に行きつ戻りつする行為であることが、よく分かる(著者は一切、手を抜いていないから覚悟して)。

 意識の問題をテーマに、哲学を行為する一冊。

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