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科学の歩き方『サイエンス・ブック・トラベル』

サイエンス・ブック・トラベル 何が君の幸せか? それは、何を知って喜ぶかによる。知ることは、世界を拡げること。この喜びを分からないまま終わる、そんなのは嫌だ。

 本書は、科学の世界を歩くためのブックレビューだ。第一線の30人が選んだ100冊は、眺めるだけで見晴らしが良くなる。まずは、パラパラしながら興味を惹いた本を選んだ「人」を探そう。その人こそが、世界を広げ、知る喜びの先達になる(本を介して、人を探す)。

 ありがちな、「さわりを解説してお茶をにごす」タイプではなく、「なぜこれを選んだのか」について、その本との関わりも含め赤裸々に語りかけてくる。科学に対し、無味乾燥な数式や研究というイメージを抱いて読んだなら、「知りたい」という熱い思いと、「どうやって伝えよう」というもどかしい思いに揉まれるだろう。

 たとえば、講談社ブルーバックスの編集会議。7名の編集者が月1に集まる企画会議なのだが、そこで「通す/通さない」を決めるのは、担当者の"熱意"なのだという。専門家でない自分たちが、最初の読者として面白いと感じられるか、最後まで読者の目線で本作りができるかが大事なのだという。編集者はさぞかし理系と思いきや、文系・理系半々だというのも興味深い。確かに、科学の窓口を広げるのが役割だから、拘るほうが変なのかも。

 あるいは、青木薫氏が述懐する、ポピュラーサイエンス書の素顔。今でこそ普通にフィクション棚にあるが、昔は専門書コーナーの片隅で全然売れなかった。原因は翻訳のまずさ。やさしい言葉で語りかける原書が、日本語版だと専門書然としたものになってしまい、本来の読み手に届かなかったという。そんな状況で「伝えよう」と奮闘する氏の努力には頭が下がる。同時に、現在翻訳中の『数学の大統一に挑む』(原題は"Love & Math")を知って歓喜する。手にする前から知的興奮が保証されている本は珍しい。

 すべての章のタイトルを、疑問形にしているところがいい。「この世界の究極の姿は何か?」や「卵はどうして"私"になるのか?」、「科学的な思考とは何か?」など、挑戦的な見出しを掲げ、斬りこむための3冊を選んでくる。科学の根っこには、「知りたい」があることを伝える、良いメッセージになっている。サイエンス本好きなら、目次の問いかけをヒントに、「自分ならこれを選ぶかな……」と予想するのも一興。

 たとえば、「未来の医療はどうなるか?」について、映し鏡として過去をもってくるのではとマクニール『疫病の世界史』[レビュー]を予想したら、ドンピシャだった。これと、ソンタグ『隠喩としての病』[レビュー]をお薦めする鈴木晃仁氏は、興味の方向が一致しているありがたい先達なり。一番プッシュされているポーター『人体を戦場にして』は読む(ご本人による紹介は、[akihitosuzuki's diary]にあり)。このように、既読本から人を探し、その人が紹介する本と出合う。本を介して人を知り、人を介して本に会う。まさに、「わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる」を実践する一冊なり。

 ひとりで知れる世界なんて、たかがしれている。アフリカの諺に、「一人だと早く行ける、一緒だと遠くに行ける」がある。本書を探すと、あなたと一緒に行ける人が必ず見つかる。科学の世界を旅するために、世界を知る喜びのために、携えておきたい。

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レイプの遺伝子『暴力の解剖学』

 もちろん、レイプの遺伝子なんてものはない。だが、レイプは「遺伝」するのかという問いには、非難と議論の渦中から、様々な応答がなされている。

人はなぜレイプするのか たとえば、『人はなぜレイプするのか』[レビュー]は進化生物学の観点から解き明かす。結論からいうと、養育の投資量の男女差になる。男は養育の投資量が相対的に少ないため、繁殖のため多数の相手に関心を向ける。一方で女は、妊娠、出産、育児に多大な時間とエネルギーを費やされるため、男選びに慎重になる。このセクシャリティの差が、レイプの究極要因だというのだ。

 ただし、レイプそのものが適応かどうかについては判断を保留し、フェミニストの立場からの「学習理論」を紹介することで、バランスを取ろうとする。すなわち、レイプとは男性本位の歪んだ文化によってもたらされたという立場だ。挑発的な表紙とタイトルとは異なり、慎重にロジカルに議論を整理している。

人はなぜレイプするのか 一方、『暴力の解剖学』は大幅に踏み込んでくる。できる限り多くの女性を妊娠させて、"カイン"の遺伝子をばら撒かせる仕事を彼女らにまかせるという、進化によって生み出された究極の欺瞞戦略なのだという。ドーキンスの弟子を自称するわりに、『利己的な遺伝子』を読み誤っていて面白い。あれは、生物進化を遺伝子中心の視点で理解するためのメタファーであって、「利己的な遺伝子」というものが存在する、などとは言っていない[参照:分かりやすさという罠『利己的な遺伝子』]

 著者は神経犯罪学(Neurocriminology)の専門家で、脳や神経系などの生物学的な構造や機能の欠陥が、いかに反社会的性格を生み、犯罪者に至らしめるかを研究している。本書によると、暴力とは癌などの病気のようなものになる。癌は、遺伝など先天的な体質と、食生活など後天的な生活環境によって引き起こされる。同様に、暴力は、遺伝による脳の機能的異常と、貧困や幼少期の生育環境の相互作用から導かれるというのだ。この主張を、バイオソーシャル(Biosocial)理論といい、本書の大半は、その科学的な実証と、ケーススタディに費やされる。

 たとえば、犯罪が遺伝する例として、モノアミン酸化酵素Aを生成するMAOA遺伝子に着目する。これは、衝動のコントロール、認知機能に関与する神経伝達物質を代謝する酵素で、異常をきたした場合、低いIQや注意力の欠如を引き起こすという。サイエンスの記事を引き、暴力の履歴をもつ全ての男性が、突然変異したMAOA遺伝子を持っていたという調査結果を紹介する。

 また、前頭前皮質の機能不全が暴力をもたらす研究や、妊婦の喫煙や鉛への被爆が、子の暴力性に影響をおよぼす調査など、興味深い例をいくつも見ることができる。栄養不良、虐待による脳の損傷、遺伝子などの危険因子が、劣悪な社会的環境と結びつくと、その子どもは、やがて犯罪者に至る道を歩みはじめることになる。暴力とは、脳や神経系の機能不全からくる病気だという。

 暴力は病気なのだから、予防できる。これが、著者の結論だ。暴力を公衆衛生の問題、社会的に悪影響を及ぼす疾病としてとらえ、「罪」や「悪」などの概念に歪曲されず、理性的、臨床的に対処することを提言する。

 具体的にはこうだ。18歳以上の男性は全員、脳スキャンとDNAテストを義務づけ、「異常あり」と認められたら、社会から隔離して生活してもらう。ただし、「まだ」犯罪者ではないのだから、刑務所のようにするわけではない。緩やかな隔離生活を送ることで、暴力の芽を予め摘み取っておくのだ。性犯罪に対処するための、化学的な去勢(薬物去勢)も推奨される。抗アンドロゲン薬を投与してテストステロンのレベルを下げ、性的な関心や行動を減衰させる対策は、英米で実際になされているという。

 さらに、親免許制度も紹介される。ダメな親に育てられた子が暴力的になりやすいなら、社会から暴力を減ずるために、最初からそういう人を「親」から排除しておく。重犯罪者を隔離して、子をもつ権利を剥奪することで、その遺伝子を遺伝子プールに残せないようにしている現状と、たいして変わりがないという。かくして、トム・クルーズ主演『マイノリティ・リポート』や、オーウェル『一九八四年』で見たような世界が提言される。トロッコ問題をヒトラーに適用したり、優生学スレスレの主張を展開したり、タブーに大幅に踏み込んだ議論がなされ、警告色のような毒々しいパッケージにふさわしい内容となっている。

 しかし、読みながら募る違和感は、定義なしで示される言葉に注意すると、増大する。読まれる方は、自分で考えずに鵜呑んでしまわないよう、気をつけて欲しい。それは、「正常」とは何か? という疑問である。たとえば、カラーの口絵にある、ポジトロン断層法(PET)による脳の鳥瞰画像だ。殺人犯の前頭前野の機能低下を示す証拠として掲げられているが、問題は「正常」のほう。

 これは何をもって「正常」とみなされるのか。比較するために撮影された殺人犯ではない人の、平均をとったものか。それとも、「殺人犯の前頭前野の機能低下を示す」ことが顕著になるよう、対照的な一群が選ばれたのか。前者の、平均をとったものであれば、「正常」の中でのばらつきのうち、殺人犯の脳と近いものもあり、それは対照群の中に埋もれてしまっている。後者であれば、殺人犯の脳を特徴的なものにするために、「正常」が操作されていることになる。

 何が言いたいかというと、著者のいう「正常」は、かなりゆらぎがあるということだ。暴力に訴えやすい人とそうでない人がいることは事実だが、わたしも含め、暴力に無縁である人なんていない。まだ暴力犯罪を起こしてないだけであり(言い方に気をつけるなら、巻き込まれていないだけであり)、そうなる可能性はじゅうぶんにある。そして、その可能性は、%で測ることはできない。本書で語られる数値は、相関関係であり、因果関係ではない。「因果関係が強く示唆される」という表現までに留まっており、疫学的な統計情報にまで至っていない。それを乗り越える方便として、「正常」が恣意的に使われることは、非常に危険だと考える。

 同様に、「暴力」を定義していないのも気になった。人や物への破壊行為なのか、無差別殺人からちょっとした嘘、会社の備品のちょろまかしまで、反社会的行為として幅広く適用されている。自分の使いたい文脈に応じて、「暴力」を伸び縮みさせていることが、非常に危うい。

 極端な言い方をすれば、戦場において敵に対する暴力は英雄的行為としてみなされるが、平和な公園では悪として扱われる。隠れた前提「暴力=悪」という価値観により、盗みや嘘も研究対象として入りこんでしまう。今では「児童虐待」としてみなされる行為は、それほど遠くない昔「しつけ」と称していた時代があったことを思い出すべし(Spare the rod, and spoil the child)。

 究極の破壊衝動として殺人を挙げるのなら、その対象を自分に向ける「自殺」の観点が、すっぽりと抜け落ちている。本書で扱う「暴力」が、どこからどこまで指すのかを定義せずに使うと、文化や時代、社会的背景により、統計情報はがらりと変わる。つまり、恣意的に扱えてしまう危険性に気づかないまま、自説に沿うケースだけを切り貼りできることになるのだ。科学者が「正常」を決められるように、「暴力」も定義できるのであれば、フリーハンドで為政者が規制対象を好きに扱えることになる。「正常」も「暴力」も、時代や文化によってゆらぎが生じるのだ。その危険の反面教師として、注意して読みたい。

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『ぼくらが原子の集まりなら、なぜ痛みや悲しみを感じるのだろう』はスゴ本

 意識は科学で説明可能か? このとんでもなくハードな問題に突入する。ギリギリ捻られる読書体験を請け合う。

ぼくらが 著者は現役の哲学者、意識という現象を自然科学的な枠組みのもとで理解するという問題(意識のハード・プロブレム)に、真っ向から取り組んでいる。「物理主義」や「クオリア」、「哲学的ゾンビ」「意識の表象理論」を駆使して、科学・哲学の両方に跨がる難問に挑戦する。[wikipedia:意識のハード・プロブレム]に興味がある方は、ぜひ手にして欲しい。深く遠いところまで連れて行かれるぞ。

 ハードがあるなら、イージーもある。流行りの認知科学にありがちな、MRIやCT、電気パルスを用いて、脳状態と意識経験の相関を明らかにする研究だ。例えば赤い色を見たとき、脳のどの部位がどのような状態になっているかを解明する問題で、これが意識のイージー・プロブレムになる。怪しげな脳科学者が、「脳はここまで解明された!」と宣っているやつ。

 だが、意識と脳状態との相関を特定するだけでは、意識の問題は解決したことにならない。ある意識経験と、ある脳活動との間に、相関関係があることを示しただけだから。この相関が成り立つ理由を明らかにするのが、意識のハード・プロブレムになる。赤い色を見ることが特定の脳活動を実現するのか、あるいは逆か、さもなくば両者は同一なのか、たまたま同時に生じているだけなのかを解明する。

 その一方で、意識のハード・プロブレムは擬似問題だと主張する人もいる。問いを立てる際の前提が誤っていたり、検証できないものに依拠しているため、そもそも答えなんてない問題だという。著者は、この指摘も折り込んで、「これは擬似問題である」という立場からも解こうとする。つまり、正面突破が無理なら迂回してみようというわけだ。しかし、意識概念の特殊性が、物理主義と整合的な仕方でうまく説明できないとして、この立場を否定する。

 著者のスタンスは、「玉砕上等!」明快で潔い。古今東西の優秀な科学者や哲学者たちが、様々な説明を試みてきたこの問題が、すんなり解けるとは思っていない。行きつ戻りつ、ああでもない、こうでもないと考え抜くのだが、ダメならダメで、あっさり次へ行く。たとえある立場からの説明に失敗したとしても、その試みは無意味ではないとする。「そっちの道は袋小路だ」と示せたから。

 議論は複雑だが、分かれ道には必ずマイルストーンを置いておき、ロードマップの形で「イマココ」と指し示してくれる。主張がどのように展開されており、その意図どこから来ているのか、解決の手がかりをたどり直すことができる。これはありがたい。さもないと、あっという間に迷子になってしまう。言い換えると、これまで、いかに不毛な蒸し返しをしてきたのか、逆に見て取れる。

 しかし、本書の中盤で、デッドエンドに至る。意識を科学的に理解しようという試みも、それを否定しようという試みも、どちらもうまくいかなくなる。ここからの脱出が凄い。「われわれはそもそも何を経験しているのか」という問いかけから、意識の表象理論へ踏み込む。意識経験を一種の表象(世界がどのようであるかを表わす働き)とみなし、世界を(その生物にとって)どのように役立てるかに分節化された知覚表象システム論を展開する。

 そこで経験される性質は、知覚表象システムに相対的な性質であり、いかなる物理的性質にも還元不可能だという。知覚表象システムそのものは物理的に還元可能だが、経験される性質は、「世界がどのように(その生物にとって)あるか」によって分けられた事物の性質だから、例えば人間にとっての表象システムと、コウモリにとっての表象システムは異なる。だが、「世界がどのように(その生物にとって)あるか」を超え出て、世界そのもののあり方についての探求を進めることで、同一の物理的性質に到達することは可能だという。コウモリやAIが「経験」する性質は、その生物の中で表象可能だという点で客観性を持つし、逆に生物やAIの違いにもかかわらず表象可能であれば、物理的性質が同一であることに、より強い客観性を持つ。まさに、世界は、見えるように見えているのだ。

 正直、この議論の全てに納得しているわけではない。著者が「説得的ではない」「説明が不十分である」と早々に撤回した立場のそれぞれについても、ツッコミたいところがあったし、定義不十分の議論として批判したいものもあった。だが、おそらく哲学のシロウトだから言えるのであって、そっちは獣道なのだろう(わたしが思いつくような議論なら、これまで誰かが考え尽くしているはずだからね)。そういう方は、巻末の注を精読することをお薦めする。この問題に取り組むための論点および文献の宝の山だから。

 意識のハード・プロブレムについては、本書で一定の説明が付いたと考えたい。哲学的な批判であれ、認知科学から立証するのであれ、意識の表象理論を手がかりにすることで、獣道へ逆戻りすることを回避できる。AIに意識をもたせるには? といった最近の課題のヒントもここにある。また、同時に本書を読むことで、分析哲学とは、様々な「答え」を覚えることではなく、そこれ至るイバラの道を実際に行きつ戻りつする行為であることが、よく分かる(著者は一切、手を抜いていないから覚悟して)。

 意識の問題をテーマに、哲学を行為する一冊。

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国民を説得する技術『戦争プロパガンダ 10の法則』

戦争プロパガンダ 10の法則 国民もバカじゃない、避け得るものなら避けたいと考えている。日本に限らず、喜んで戦争する国なんてない。

 では、どうやったら説得できるだろうか? 世論を味方につけ、同盟国の了承を得、効率的に開戦にこぎつけるために、為政者は何をどのように語りかければよいのか?

 第一に重要なことは、平和への意志を強調することだという。決して戦争などを望んでおらず、攻撃のための動員ではなく、防衛のための力が必要なのだと主張する。第1章「われわれは戦争をしたくはない」を読む限り、第二次大戦の際、ローズベルトも、東条も、ヒトラーも、ゲーリングも、異口同音に平和を唱えていることがよく分かる。

 次に重要なことは、みな平和を望んでいるにもかかわらず、なぜ戦争をしなければならないか? という疑問に答えることだ。第2章「しかし敵側が一方的に戦争を望んだ」のタイトルで分かる。敵国が先に仕掛けてきた(挑発してきた)からであり、われわれは「やむをえず」「正当防衛」もしくは国際的な「協力関係」のために立ち上がらざるを得ない。これは戦争を終わらせ平和を手にするためなのだ―――

 ―――とまあ、こんな感じで国民に恐怖を吹き込み、義憤と愛国心を煽るためのマニュアルが本書になる。目次がそのままプロパガンダの原則となっており、本書はその事例集だと思っていい。

  1. われわれは戦争をしたくはない
  2. しかし敵側が一方的に戦争を望んだ
  3. 敵の指導者は悪魔のような人間だ
  4. われわれは領土や覇権のためではなく、偉大な使命のために戦う
  5. われわれも意図せざる犠牲を出すことがある。だが敵はわざと残虐行為におよんでいる
  6. 敵は卑劣な兵器や戦略を用いている
  7. われわれの受けた被害は小さく、敵に与えた被害は甚大
  8. 芸術家や知識人も正義の戦いを支持している
  9. われわれの大義は神聖なものである
  10. この正義に疑問を投げかける者は裏切り者である

 さすがに第二次大戦時代の手管は使い古されており、今やったら一発でバレるはずだ(と信じたい)。ボスニア紛争(1992-95)の民族浄化(ethnic cleansing)PRは、もっと洗練されており、プロが行う情報操作は、「騙す」というより「持っていく」ものだということが分かる。

戦争広告代理店 PR企業が国際世論を誘導するカラクリは、高木徹『戦争広告代理店』で暴かれているが、何のことはない。テレビのコマーシャルでやっていることそのまま。簡潔に、分かりやすく、印象深く、繰り返す。そのための具体的手法がドキュメンタリータッチで描かれている。「大衆は、最も慣れ親しんでいる、分かりやすい情報を真実と呼ぶ」からね。

 悪玉をでっちあげ、正当性のあるイデオロギーを刷り込み、我々は善の側、しかも脅威にさらされている善にいることを納得させる。国家vs国家なら壮大だが、卑近にすると子どものケンカの文句になる。「俺は悪くない」「なのに、あいつがやったんだ」云々。大義名分と自己正当化を騙る物言いは、時代も年齢も変わらないね。

 為政者がこんなことを言い出したら、マスコミがそんなことを煽りだしたら、黄信号。リテラシーの基本書として、思い出せるようにしておきたい。

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人生を面白くする一冊『人生ドラクエ化マニュアル』

人生ドラクエ化マニュアル 人生を難しくしているのは私なのだから、面白くするのも私だ。限界を決めているのは自分だから、破るのも自分だ。そのやり方を指南するのがこれ。

 しがらみ・ローン・世間体に挟まれて、溶けかかった人生にとって、いい電撃になった。さらっと読めるくせに、忘れていた情熱を盛大に煽ってくれる、しかもドラクエを燃料にして。

 よくある「人生で大切なことはゲームで学んだ」的なライフハックのコピペ集かと思いきや、より構造化されたマニュアルとなっている。「人生=ドラクエ」に喩えるだけでなく、その喩えからのズレこそが、人生をより面白くさせていることに気づかせてくれる。現実逃避のためのゲームが、人生をブーストしてくれるのだ。

 たとえば、人生(という名の)ゲームにおける敵は、目標(=夢)を設定した瞬間、自動生成されるという。この「敵」とは、目標の前に立ちはだかる障害となる人になる。面白いのは、ただ「たたかう」ことで倒すだけでなく、やりようによっては「敵」にせずにすむことだって可能だ。

 なぜなら、人生ゲームのデザイナーは自分自身なのだから、「敵」のバランス調整を自分でやればいいという。さらに「にげる」を選んだっていい。目的の設定、パラメータ調整、バランス、そしてプレイヤーを自分でやれるのが、このゲームの醍醐味になる。

 そして重要なのは、たとえ途中で「にげる」ことになっても、さらに負けることになったとしても、人生ゲームでは経験値が増えるところ。この指摘は類書が及ばない、人生を面白くさせる肝になる。つまり、敵に勝っても負けても経験値が増える。やればやっただけ、熟達するし、「にげる」を選んでも、引き際の見極めと「優れた逃げ方」いう経験が積める。負けることを恐れて、闘おうとしないなら、経験値は増えず、レベルは上がらない。挑戦しないことによる格差を解消する唯一の方法は、「チャレンジせよ」になる。ここは、人生がドラクエを超えるポイントやね。

 要所要所にアジテーションを混ぜ込んで、読み手を発火させる導線が仕込まれており、ドラクエにハマった人なら熱くなること請け合い。「定価5500円のテレビゲームに面白さで負ける人生でどうする!?」とか、「敵のいないゲームなんてクソゲーだ」、あるいは「お仕着せのゲーム目的で、他人の人生をプレイしてないか」など、煽り文句にヒリヒリする。

セクシープロジェクトで差をつけろ この読者を誘発させるやり方、トム・ピーターズに似ている。たとえばサラリーマン大逆襲作戦の『セクシープロジェクトで差をつけろ!』なんてそう。つまらない仕事を、ものすごいプロジェクトに変化させることを目的にした、翼をさずけるRedBullみたいな本だ。周りを巻き込み、肩書きや立場を飛び越える「すごい仕事」にするためのノウハウを惜しみなく紹介しており、『ドラクエ化マニュアル』が人生全般なら、これは「サラリーマン」の射程に収まっている。

 このテの、即効性のある本は、よくこういわれる「すぐ効く本は、すぐ効かなくなる」。それでいい、というより、それがいい。これは、読んでる傍から火が点いて、いたたまれなくなって、よし! やるぞと駆け出すための起爆剤なのだから。書を捨てて、世に出るための燃料なのだ。そして、ちょっとダウナーになったり、迷ったときに、もう一度開いて、ブーストしてもらえばいい。

 人生で遊ぶために、そして人生を遊ぶために。

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夏目漱石『こころ』の次に読むべき一冊

 とある女子高生が、国語の授業をきっかけに『こころ』を読んだとする。拒絶から同化まで、彼女の反応は想像にお任せするとして、次にお薦めする一冊は何だろう?

 ……というテーマが、次回のスゴ本オフ。「スゴ本オフ」とは、本を持ち寄ってお薦めしあうオフ会なのだが、詳しいことはfacebook[スゴ本オフ]をご覧くだされ。もちろん、お薦めする作品は、本に限らない。映画、音楽、コミック、ゲーム何でもござれ。

 現国(なのか最早?)のお伴として、読書感想文の定番として、『こころ』は有名になりすぎた作品だ。いまだに「Kが自殺した本当の理由」とか「実は先生は死んでない」「あんなの、そもそも恋じゃない」といった挑戦的なネタが定期的に上がってくるのはその証左。映画や漫画で扱われたことで、未読でもなんとなく知っているという方も多いのではないだろうか。おかげで、ストーリーを語ってもネタバレ扱いされない、珍しい小説でもある。

 文学的にしゃぶり尽くされた感があるが、それでも似たような批評を再生産する人々に幸あれ。文学として失敗作だと見下すことで、自分の見識を高く売りつける人に幸あれ。「ほんまに『こころ』は名作か」「『こころ』なんて読まなくてもいい」なんて反語的な燃料を投下することで、真の価値を知るのは俺だというルサンチマンに幸あれ。こうした遊びができるのは、文学ネタとしては現役だから。作品そのものよりも、それを読んでいる(知っている)前提で語れるって、より深く広く豊かな土壌があるようなもの。

 ここでは、『こころ』の次に読むものとして、何が面白いかを考えてみた。「面白い」とは、自分が面白がれるところと、再読を促す動機付けがあることがポイントになる。ひとりよがりの都合のいいテクスト論に誘導するのもアリだが、そこから、いかに知らない所、興味深い場所に跳躍できるかが重要になる。そのたたき台になればいいかと。オマージュからインスパイア、リスペクト、サンプリング、なんでもござれ。

「こころ」で読みなおす漱石文学 次に読むべき一冊を選ぶなら、『「こころ」で読みなおす漱石文学』がお薦め。驚くなかれ、この一冊で、ただの文学小説が、まるで極上のミステリのように読めてしまう。愛と偽善、裏切りと葛藤といった教科書的な解釈から離れ、一見すると読み落としてしまいそうな“ほころび”に着目し、そこから点と線をつないでゆく。「作者が間違えた」と思考停止するのは、もったいない。解釈の可能性を信じることで、凄いところまで連れて行かれる。

  1. 先生から青年への手紙の数が合わない(上9章と上22章が矛盾)
  2. 先生は静をKの墓参りに連れて行ったことがあるのか、ないのか(上6章と下51章が矛盾)
  3. 静は何を知っていたのか:「みんなは云えないのよ。みんな云うと叱られるから。叱られないところだけよ」(上19章)

 綱渡りのようなアクロバティックな読みから、自分が読んだはずの小説が、全く違った容貌を得て浮上する様はスリリングだ(「青年は、いま、どこにいるのか?」への答えは思わず叫んだ)。そして、かならず『こころ』を、二度読み・三度読みするだろう。著者・石原千秋が自称するように、これは「小説の可能性を限界まで引き出すテストパイロット」のような読みになる。

夏目漱石「こころ」をどう読むか ひとつの解釈しか許さないなら、それは小説にとっての死を意味する。豊かな解釈は、そのまま喜びの多様性につながる。これをカタログのように楽しめるのが、『夏目漱石「こころ」をどう読むか』になる。「先生」「私」、「K」といった、固有名詞を排したつくりになっているので、「そこに何を読み取るのか」を裏返すと、「そう読んだ人となり」が炙り出しになる。これが面白い。

 論者はそれぞれ、実存で解いたり、ヘーゲルに絡めたり、パラノイアというキーワードを押しつけたり、トロフィーワイフからジコチュー説まで、さまざまな読み方がある。それはそれぞれ興味深い「読み」なのだが、ひっくり返すと、論者自身の信念だったり妄想になる。フッサール勉強したんだねーとか、漱石にかこつけたミソジニーですねとか、読み手の「読み」から逆分析する、意地悪いこともできる。

 ネットで見かけるBL解釈もまとまっている。「先生」と「私」の出会いは、海水浴場での一目惚れだし、最初は冷淡でも最後は心臓を割って血を浴びせようとする先生はツンデレかつヤンデレだし、そもそもこの“手記”を書いている青年は、出来事の全てを正直に暴露する義理なんてないんだし……などと、いくらでも、いかようにも読めてしまう。

ゲイ短編小説集 たとえば、オスカー・ワイルド『ゲイ短編小説集』の解説を読むと、「最終的にはすべての文学が同性愛文学であること、あるいは同性愛を意識して書かれていることを証明する」とある。『幸福な王子』のキリスト教的兄弟愛を同性愛に読み換えて再読すると、ひょっとして漱石はワイルドを読んでいたのかも……と想起されて、さらに愉しい。優れたハンマーを持つと全ての問題が釘に見えるように、同性愛という補助線を引くことで、それにしか見えなくなってしまう。文学を、同性愛として読み直す試みを経てから、『こころ』において語られなかったことは何だろうと考え始めると、果てしなく楽しめる。

アルジャーノンに花束を いったん解釈から離れて、もっと感覚的なところで響くなら、『こころ』の読後感は、ダニエル・キイス『アルジャーノンに花束を』とそっくりだ。「経過報告」という一種の書簡形式だけでなく、あの、ラスト一行を目にしたときの放り出されたような喪失感がそっくりなのだ。テーマもストーリーも全く違うのに、その一行を伝えた感情に、うっかりシンクロすると、涙が止まらなくなるのも一緒なのだ。『こころ』の先生の遺書に追伸があったなら、それは、きっと「ついでがあったら、どうか、Kに花束を」で終わっていたのではないだろうか。

 もう一つ、これは実験になる。おそらく前例がほとんどないアイディアだと思うが、「信頼できない語り手」を青年に適用してみるのだ。もちろん、この手法は使い古されたやり方だし、『こころ』の「私」や「先生」に対してやった人もいるだろう。だが、『こころ』の上「先生と私」、中「両親と私」を、一種の注釈としてみなし、下「先生と遺書」に現実味を与えるための物騙りとして読み直すのだ。

 つまり、最初に「遺書」が存在し、なんとかしてその「遺書」の正当な持ち主となりたい「私」が、自分の正当性を証明するために、現実と虚実をまぜたストーリーを考えたのだ、という読み方。もちろん全てが嘘ではないものの、手記に書かれなかった先生との関係や、「遺書」から省かれたエピソードを膨らませることはできないだろうか。

青白い炎 かなり無理があるのは承知だが、助走として、ナボコフ『青白い炎』を読んでみよう。これは極めて実験的な異色作で、学術書の体裁をしてはいるものの、れっきとした"小説"である。999行から成る長篇詩に、前書きと膨大な註釈、そして索引で構成された"小説"だ。どの書き手をどのレベルまで信頼できるか? を常に突きつけられる面白い読書になりそうだ。ナボコフに溺れてみせることで、『こころ』を解体できるかどうか、遊んでみよう。

 あなたのお薦めはありますか? これはというのがあれば、ここのコメント欄や、「はてな人力検索」にて回答募集しております→[夏目漱石『こころ』を読んだ人にお薦めする作品を教えて下さい]

 「Yahoo! 知恵袋」でも質問してみた、はてな民の鋭く深い回答に匹敵するような返答がくるかどうか、期待半分不安半分→[夏目漱石『こころ』を読んだ人にお薦めする作品を教えて下さい]

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