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おめでたいアメリカ人『暴力の人類史』

 暴力で斬った人類史。頷いたり盾突いたり、夢中と不信にどっぷり浸かる読書となった。

暴力の人類史上暴力の人類史下

 ここでは、本書の「嘘」を暴く形でレビューするので、検証しながら読んでほしい。上下巻で1400頁というボリュームとスケールのでかさで、無批判に鵜呑みにしちゃう方が大勢いらっしゃる。これから手にする方は、そんな一員にならぬよう、レビューの後半に道標を残しておく。

 著者は、スティーブン・ピンカー。前著『人間の本性を考える』において、あらゆる暴力は環境要因によるという通念に反し、人間には生得的な設計特性として、暴力的なものが予め備わっていると論ずる。『暴力の人類史』では、そこからさらに発展させ、人類の歴史のまぎれもない傾向として、その暴力性が減少していると主張する。

 もちろん、昨今の犯罪報道や戦争報道を見る限り、「暴力の減少」とは程遠い印象を受けることは、著者も承知している。20世紀は戦争の世紀であり、今なお内戦や弾圧が起きている。ネットのアンケート結果も然り。「前史時代と初期の国家社会」や「1950年代の戦争と2000年代の戦争」を比較して、どちらが暴力死の数が多いかと問いかけたら、後者が多いという答えが圧倒的だった。

 しかし、事実ではないという。報道バイアスから離れ、統計数字を正確に見ていくと、暴力は、規模においても頻度においても明らかに縮小しているという。戦争により死亡する人の割合を、先史時代から現代まで並べたグラフ(上巻p.111図2-2)が圧巻だ。人類史レベルで俯瞰すると、明らかに戦争により死亡する人の割合は低くなっている。

 ピンカーは、暴力の減少を「驚くべき」と紹介するが、彼一流の韜晦なり。一緒になって本気で驚いているのなら、歴史の授業を取ってなかったか、ずっとサボっていたに違いない。ホッブズを紐解かなくても、人類の歴史は戦争の歴史だ。昔は良かった、今ほど酷くなかったなどと言い張るのなら、おめでたい。

 昔の人類は平和だったというノスタルジックな幻想を、大量のデータと文献でもって粉砕する。残虐な刑罰や奴隷制の事例をこれでもかと引っ張りだし、サディスティックな拷問やブラッド・スポーツが見世物として行われ、一般市民も楽しんで観てたことが示される。異教徒や別民族が、「人」扱いされていなかった時代の例は、さながら残酷見本市のようだ。「わたしたちは、かつてない平和な時代に生きている」という主張に頷く一方で、ある疑問がもたげてくる。なぜ? どうやって?

 本性として暴力を備えているはずの人間の社会で、なぜ暴力が減っているのか? ここからの分析がスリリングだ。心理学、脳科学、歴史学、人類学を駆使して、人間の暴力を抑制する要因に斬り込み、まとめ上げてゆく手腕は、さすがピンカーなり。国家と司法制度、通商、女性化、理性、コスモポリタニズムといった観点から、暴力を抑止するシステムとしての理性と経済を浮かび上がらせてくる。

殺人ザルはいかにして経済に目覚めたか これは、経済学から人類を定義したスゴ本『殺人ザルはいかにして経済に目覚めたか?』[レビュー]から導き出されている結論に重ね合う。『殺人ザル』は、現代の社会システムをリバースエンジニアリングした分析なのだから、似通ったソースにたどり着いているのだろう。人類を人類たらしめる制度の動作原理は、同じ根っこ「信頼と協調」で説明できるのかもしれない。

 広大なスケールで人類史を通観しながら、暴力性を生み出す「悪魔」とそれを回避する「天使」になぞらえ、人間の本性に肉薄する『暴力の人類史』、これが面白くないわけがない。しかし、この手の分析には決定的に重要なあるものが欠けている。そのおかげで、本書は大胆な仮説「暴力は減少している」を打ち出すことができたのだし、同時にその仮説の曖昧な基盤が剥き出しになってしまっている。

 それは、暴力の定義だ。暴力とは、一般に他者の身体や財産などに対する物理的な破壊力をいう。昨今では、心理的虐待やモラルハラスメントなどの精神的暴力も暴力と認知されるようになりつつある[Wikipedia:暴力]。そして、暴力を測るなら、暴行の頻度やそれによる死傷者の数、誰に(何に)対する暴力なのか、暴力死の数が重要なのか、それとも人口比の割合が問題なのか、「その行為」を暴力的だとみなされていたか・いなかったか(あるいは曖昧なままで分析するか)をクリアにしなければならない。本書は、この定義を華麗にスルーしている。

 たとえば、「異教徒は人でないから、殺人になりません」という主張を容れるのか外すのか。当時の「暴力」の定義に当てはまらないから外すのもありだ。あるいは、今の目から見て暴力行為に入るから、カウントするのもありだ(ただし、統計情報として不確かな数字になる)。断っておくが、「異教徒虐殺は暴力ではない」という主張が倫理的に認められるといいたいわけではない。人類史レベル、グローバルで何らかの客観的な指標値を導き出すのであれば、何を持って暴力とみなして数えるのか、定義づけろといいたいのだ。

 しかし、ピンカーは、この定義を行わず、章の先々で自在に「暴力」を定義する。ある章では人に対する暴行が暴力だったものが、別の箇所では動物虐待も含まれることになる。殺人は明らかに暴力だが、DVが暴力扱いされたのは最近のことで、「しつけ」だったり「指導」と言い換えられていたのだから、そもそも記録すらされていない(「虐待」も然り)。従って、「DVは暴力である」という定義で歴史を振り返っても、定量的な分析は何もできないことになる。

 さらにピンカーは、究極の暴力である戦争による死を考える際、導きたい結論に応じて、兵士と民間人を分けて数えたり、一緒にしたりする。そして、戦争で血塗られた20世紀も、人口「比」からするとたいしたことはない、狩猟採集時代の方が暴力死で命を落とす「割合」が大きいと主張する(上巻p.111図2-2「非国家社会と国家社会の戦争により死亡する人の割合」)。一方で、下巻p.533図6-3では、国家を基盤とする武装衝突の「数」でもって暴力を測ろうとする。仮に、武装衝突の「数」から導き出される死者数を、それが起きている地域の人口で割ったならば、結構な数値になるだろう。

 とても不思議なのだが、古代~中世にかけては「暴力死」として扱われていた死者数が、近代や現代になると戦闘による死者数に限定されてしまう。しかも、この「戦闘による死者数」は、単純に「戦死した兵士の数」になる。著者に言わせると、サンプル的な推定数は疑わしく、神さまでもない限り民間人の間接的死者数を導くことは不可能だという。であるならば、古代~中世にかけての「暴力死」も同じ推計をすべきだ。

 たとえば、本書が参照した統計情報[Correlates of War]によると、第二次大戦で174万人の日本兵が死んでいるが、この中には日本本土の空襲で死傷した100万人と被災した970万人[Wikipedia:日本本土空襲]は含まれていないし(非戦闘員だから)、同様に、みせしめ&飢餓を引き起こすために、大勢の市民の手足を切り落としたシエラレオネの反政府勢力の行為は「暴力」とカウントされない(殺していないから)。もちろん、本文中で言及はされているのだが、予め除外されて低い統計値として導かれたグラフでもって、「ほら、暴力は減っているでしょ」と言われても、納得できない。

 ピンカーのトリックは、暴力の範囲や定義を、便宜に応じて伸び縮みさせているところにある。あるときは暴力の「割合」が問題になったり、別のときは暴力の「数」で比較される。比でも数でもないときは、その残虐性や非人道性に焦点が当てられる。そして、最初に出ている結論「暴力は減少している」に沿うようにカスタマイズされ、取捨選択されている。

 では、結局のところ、暴力は減っているのか? 「欧米からは減っている」が正解だろう。いわゆる先進国からは、と言ってもいい。減った暴力は、ピンカーの主張どおり抑制されている部分もあるが、全て消え去っているわけではなく、形を変えて離れたところに移動している。人類史のレベルで見るなら、戦争の道具を振り返ればいい。

 暴力を行使する主体と、その対象物との距離が離れていくのが、戦争の歴史になる。目の前の対象から、より離れた的に向かう、戦争の道具が典型的だ。最初は拳で、次は石、剣、弓、発射装置、銃、砲、ミサイルと、「的(敵、どちらも"テキ")」への距離を広げ、より安全な場所から確実にダメージを与える方向へ進んできた。

 その究極の形態は、「合衆国本土のジョイスティックで操作するドローンが、地球の反対側の目標を、殺害もしくは破壊する」だろう。ピンカーは、前線要員をドローンに置き換えること自体、人類の脱暴力化のあらわれだという。人ではなくロボットが闘うことは、人命を尊重していることなのだからと無邪気に言い張る。違う。暴力は目の前から移動させられているにすぎない。物理的に移動させられただけでなく、別の名前で呼ばれるようになったり、定義が変えられることで、見えなくなっているのが現状だ。

 ピンカーは、このような意見について、先回りして答える。この反論は、ほとんど意味をなさないという。エネルギー保存則のような「暴力」保存の法則なんてないし、途上国はこれまでも何千年にわたり、部族戦争や内戦、帝国主義戦争、植民地戦争を行ってきたからだと述べる。一部の貧困国で戦争が続いたとしても、富裕国と貧民国の両方で戦争が起る世界に比べればましであるという。

 なるほど、自分ん家が燃えていないから「まし」だというのは身も蓋もないが、自分ん家が燃えてないのは、火種がアウトソースされているから。昔は直接的な植民地支配で簒奪してきた資源が、現地組織を介し、トラブルも込みで搾取する構造になっているから。パレスチナ問題や血まみれダイヤモンド(Blood Diamond)なんて、その典型かつ象徴だし、最近ならメキシコ麻薬戦争も然り。「その場所だけ」に限定された問題と矮小化することで、自分ん家からは無かったことにする。

 また、途上国ではとうてい製造できない武器や兵器を渡し、現地の資源を手にするシステムが成り立っている。兵器の生産拠点→消費拠点をグラフにするならば、暴力の輸出は瞭然だろう。効率的に暴力を行使できる道具を、先進国が輸出してきたおかげで、より残虐で大規模な暴行が大盤振る舞いされてきた。

 対人だけでなく、インフラを破壊して社会活動を阻害するのも「暴力」だ。兵士を殺傷するよりも、その背後にある武器やインフラ、兵士を育てる家庭となる社会基盤を破壊する。その国そのものを、物理的に住めない場所にすると同時に、そこに住む人々を根絶やしにする。核兵器の一次目的は、そこにある。武器の歴史が「遠くの的を破壊する」歴史であるならば、その的は人から場所へ移るのは合理的な必然だ。従って、その暴力の度合いを測るなら、失われた人命に加え、発射された弾丸の数、難民の数、破壊・汚染されたインフラも考慮に入れる必要が出てくる。

 この辺の検証をスルーして、単純に兵士の死者数が減っているから暴力は減少している、政治的に暴力が許されない風潮になっているから暴力は減少している、というのは、どれだけ積み上げたとしても、「見たいものだけしか見ていない」誹りを免れない。アメリカ合衆国の、自己中心性、理想主義、無邪気さと危険性を描いたグレアム・グリーンの『おとなしいアメリカ人』に倣って、「おめでたいアメリカ人」と名づけたい。

 昔は良かったなどと三丁目の夕日をするつもりはない。試しに、先に挙げた[Correlates of War]から、世紀単位に戦闘による死者数をカウントしてみた。人口で割るといった"バイアス"をかけずに、総計すると、次の通りとなった。

4,284,194
  19世紀
36,197,536
  20世紀
94,277
  21世紀

 21世紀は始まったばかりで、2007年までのデータしかない。同じペースでいくならば、21世紀の「兵士の」死者数は134万人となる。19世紀に比べると、確かに兵士の死者数は減っている。だが同時に、20世紀の異常さがよく見える。上巻p.364で結論付けられる以下の主張は、賛成できない。

「20世紀は歴史上、最も血なまぐさい世紀」だとはとうてい言えない。まずはこのドグマを排することが、戦争の歴史的変動を理解するための最初の一歩となる

 ピンカーは、人口規模や想起ヒューリスティックバイアス、歴史的近視眼を調整するならという前提で断言するのだが、流れた血の総量は変えられない。確かに昔は酷かった。だが、その酷さ加減を強調することで、今ここを平穏にするためになされている努力と欺瞞から目を背けることのないように、想像力を働かせたい。

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コメント

批判が目的になっていてほとんど因縁に近い記事
つまらない

投稿: | 2016.03.23 05:55

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