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正義の反対は悪ではなく、もう一つの正義だ『正義はどう論じられてきたか』

正義はどう論じられてきたか 世の中には、あてにならない言葉がある。

 「行けたら行くわ」
 「怒らないから言ってみなさい」
 「テスト勉強してないわー」
 「大丈夫、何もしないよ絶対に」

 他にも、「全米No.1」や「免疫力」、「効果を実感したと答えました」なんて浮かぶ。これらは、言葉があてにならないというよりも、むしろ、このセリフを言う人を信じてはいけない。「行けたら行くわ」と言う奴は頭数に入れないし、「何もしない」は連れ込むための方便だ。

 これに「正義」が入る。あてにならないのは言葉ではなく、ふりかざす人。前提なしで「正義」を振りまわす人が胡散臭い。主義に応じて伸び縮みし、いかようにもカスタマイズできるこの言葉を、それが使われることで流された血をきれいに忘れ、恥ずかしげも恐ろしげもなく使う人を、わたしは信じない。

 この「正義」について、古代から現代までを振り返り、正義論の思想地図を検証したのが本書になる。プラトン、アリストテレスらの古代哲学、ヒューム、ベンサムの功利主義、カントの義務論、そしてロールズによる「公正としての正義」までを捉えなおす。

 ポイントは、文字通り「正義」がどのように論じられてきたかを掘り下げているところ。なぜなら、正義の歴史をそのまま描こうとすると、勝者の歴史になるから。「正義は勝つ」ではなく、「勝った方が正義」だから。面白いことに、正義が語られる文脈の背後には、必ずといっていいほど暴力が控えている。暴力を正当化するための“何か”の代名詞こそが正義なのだ。

 さらに面白いことに、正義の定義が変遷する。もちろん、唱える立場の数だけ「正義」があることはご承知の通り。だが、それぞれの「正義」を辿ってみると、二つの系譜が現れる。一つは、貢献と報酬のバランスを取るという相互性の規範で、もう一つは、社会的生産物を配分するときに従うべきルールである。著者によると、古代は前者が正義と呼ばれていたのに、近代以降は後者が「正義」を標榜するようになったという。

 たとえば、『イリアス』でのアキレスの不平は、アガメムノンがその貢献に不釣合いなほどの戦利品の取り分を得たということになる。つまり、人間関係の相互性に焦点を定めた正義論が代表例だ。その一方で、アダム・スミスが発見し、ベンサムが定量化した「富はどのように分配されるべきか」という問いがあり、今日までの200年間の西洋の正義思想は、この問いに取り組んできた歴史だという。そして、ロールズ『正義論』において「公正としての正義」という応答がなされている。

 著者の不満は、この「分配」に正義の議論の重心を置き過ぎている点にある。公正としての社会正義という“論じられかた”をしている限り、「分配」に与る対象は、平等で自己決定能力を持つ個人から成る閉じた社会を前提とする。もちろん価値において人間は平等だが、能力においては必ずしも平等ではないのが現実だ。正義が「分配の問題」に偏差しつづける限り、この現実を捉え損ねることになるという。

 その結果、能力差のある人間同士でどうやって差を克服し、相互関係を取り結ぶかという本質的な問題が、ないがしろにされてきたと主張する。そして、その回復のために、人間関係の相互性に焦点を当てた“正義の論じかた”に重心を戻せという。

 たとえば、先進国と途上国の外交が好例となる。主権平等の前提で外交契約を取り交わすが、交渉力や技術力がもともと非対称のため、「平等」であったならば弱者には不利に働くことになる(日米修好通商条約を思い出せ)。グローバルな格差問題と向き合う際には、最初から弱者側に重心を倒しておかない限り、正義にはならないのだ。

 正義の“論じられかた”を裏返すと、「正義」に求められる性質の変遷になる。そのダイナミックな様変わりが面白い。正義の系譜学となる一冊。

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