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おめでたいアメリカ人『暴力の人類史』

 暴力で斬った人類史。頷いたり盾突いたり、夢中と不信にどっぷり浸かる読書となった。

暴力の人類史上暴力の人類史下

 ここでは、本書の「嘘」を暴く形でレビューするので、検証しながら読んでほしい。上下巻で1400頁というボリュームとスケールのでかさで、無批判に鵜呑みにしちゃう方が大勢いらっしゃる。これから手にする方は、そんな一員にならぬよう、レビューの後半に道標を残しておく。

 著者は、スティーブン・ピンカー。前著『人間の本性を考える』において、あらゆる暴力は環境要因によるという通念に反し、人間には生得的な設計特性として、暴力的なものが予め備わっていると論ずる。『暴力の人類史』では、そこからさらに発展させ、人類の歴史のまぎれもない傾向として、その暴力性が減少していると主張する。

 もちろん、昨今の犯罪報道や戦争報道を見る限り、「暴力の減少」とは程遠い印象を受けることは、著者も承知している。20世紀は戦争の世紀であり、今なお内戦や弾圧が起きている。ネットのアンケート結果も然り。「前史時代と初期の国家社会」や「1950年代の戦争と2000年代の戦争」を比較して、どちらが暴力死の数が多いかと問いかけたら、後者が多いという答えが圧倒的だった。

 しかし、事実ではないという。報道バイアスから離れ、統計数字を正確に見ていくと、暴力は、規模においても頻度においても明らかに縮小しているという。戦争により死亡する人の割合を、先史時代から現代まで並べたグラフ(上巻p.111図2-2)が圧巻だ。人類史レベルで俯瞰すると、明らかに戦争により死亡する人の割合は低くなっている。

 ピンカーは、暴力の減少を「驚くべき」と紹介するが、彼一流の韜晦なり。一緒になって本気で驚いているのなら、歴史の授業を取ってなかったか、ずっとサボっていたに違いない。ホッブズを紐解かなくても、人類の歴史は戦争の歴史だ。昔は良かった、今ほど酷くなかったなどと言い張るのなら、おめでたい。

 昔の人類は平和だったというノスタルジックな幻想を、大量のデータと文献でもって粉砕する。残虐な刑罰や奴隷制の事例をこれでもかと引っ張りだし、サディスティックな拷問やブラッド・スポーツが見世物として行われ、一般市民も楽しんで観てたことが示される。異教徒や別民族が、「人」扱いされていなかった時代の例は、さながら残酷見本市のようだ。「わたしたちは、かつてない平和な時代に生きている」という主張に頷く一方で、ある疑問がもたげてくる。なぜ? どうやって?

 本性として暴力を備えているはずの人間の社会で、なぜ暴力が減っているのか? ここからの分析がスリリングだ。心理学、脳科学、歴史学、人類学を駆使して、人間の暴力を抑制する要因に斬り込み、まとめ上げてゆく手腕は、さすがピンカーなり。国家と司法制度、通商、女性化、理性、コスモポリタニズムといった観点から、暴力を抑止するシステムとしての理性と経済を浮かび上がらせてくる。

殺人ザルはいかにして経済に目覚めたか これは、経済学から人類を定義したスゴ本『殺人ザルはいかにして経済に目覚めたか?』[レビュー]から導き出されている結論に重ね合う。『殺人ザル』は、現代の社会システムをリバースエンジニアリングした分析なのだから、似通ったソースにたどり着いているのだろう。人類を人類たらしめる制度の動作原理は、同じ根っこ「信頼と協調」で説明できるのかもしれない。

 広大なスケールで人類史を通観しながら、暴力性を生み出す「悪魔」とそれを回避する「天使」になぞらえ、人間の本性に肉薄する『暴力の人類史』、これが面白くないわけがない。しかし、この手の分析には決定的に重要なあるものが欠けている。そのおかげで、本書は大胆な仮説「暴力は減少している」を打ち出すことができたのだし、同時にその仮説の曖昧な基盤が剥き出しになってしまっている。

 それは、暴力の定義だ。暴力とは、一般に他者の身体や財産などに対する物理的な破壊力をいう。昨今では、心理的虐待やモラルハラスメントなどの精神的暴力も暴力と認知されるようになりつつある[Wikipedia:暴力]。そして、暴力を測るなら、暴行の頻度やそれによる死傷者の数、誰に(何に)対する暴力なのか、暴力死の数が重要なのか、それとも人口比の割合が問題なのか、「その行為」を暴力的だとみなされていたか・いなかったか(あるいは曖昧なままで分析するか)をクリアにしなければならない。本書は、この定義を華麗にスルーしている。

 たとえば、「異教徒は人でないから、殺人になりません」という主張を容れるのか外すのか。当時の「暴力」の定義に当てはまらないから外すのもありだ。あるいは、今の目から見て暴力行為に入るから、カウントするのもありだ(ただし、統計情報として不確かな数字になる)。断っておくが、「異教徒虐殺は暴力ではない」という主張が倫理的に認められるといいたいわけではない。人類史レベル、グローバルで何らかの客観的な指標値を導き出すのであれば、何を持って暴力とみなして数えるのか、定義づけろといいたいのだ。

 しかし、ピンカーは、この定義を行わず、章の先々で自在に「暴力」を定義する。ある章では人に対する暴行が暴力だったものが、別の箇所では動物虐待も含まれることになる。殺人は明らかに暴力だが、DVが暴力扱いされたのは最近のことで、「しつけ」だったり「指導」と言い換えられていたのだから、そもそも記録すらされていない(「虐待」も然り)。従って、「DVは暴力である」という定義で歴史を振り返っても、定量的な分析は何もできないことになる。

 さらにピンカーは、究極の暴力である戦争による死を考える際、導きたい結論に応じて、兵士と民間人を分けて数えたり、一緒にしたりする。そして、戦争で血塗られた20世紀も、人口「比」からするとたいしたことはない、狩猟採集時代の方が暴力死で命を落とす「割合」が大きいと主張する(上巻p.111図2-2「非国家社会と国家社会の戦争により死亡する人の割合」)。一方で、下巻p.533図6-3では、国家を基盤とする武装衝突の「数」でもって暴力を測ろうとする。仮に、武装衝突の「数」から導き出される死者数を、それが起きている地域の人口で割ったならば、結構な数値になるだろう。

 とても不思議なのだが、古代~中世にかけては「暴力死」として扱われていた死者数が、近代や現代になると戦闘による死者数に限定されてしまう。しかも、この「戦闘による死者数」は、単純に「戦死した兵士の数」になる。著者に言わせると、サンプル的な推定数は疑わしく、神さまでもない限り民間人の間接的死者数を導くことは不可能だという。であるならば、古代~中世にかけての「暴力死」も同じ推計をすべきだ。

 たとえば、本書が参照した統計情報[Correlates of War]によると、第二次大戦で174万人の日本兵が死んでいるが、この中には日本本土の空襲で死傷した100万人と被災した970万人[Wikipedia:日本本土空襲]は含まれていないし(非戦闘員だから)、同様に、みせしめ&飢餓を引き起こすために、大勢の市民の手足を切り落としたシエラレオネの反政府勢力の行為は「暴力」とカウントされない(殺していないから)。もちろん、本文中で言及はされているのだが、予め除外されて低い統計値として導かれたグラフでもって、「ほら、暴力は減っているでしょ」と言われても、納得できない。

 ピンカーのトリックは、暴力の範囲や定義を、便宜に応じて伸び縮みさせているところにある。あるときは暴力の「割合」が問題になったり、別のときは暴力の「数」で比較される。比でも数でもないときは、その残虐性や非人道性に焦点が当てられる。そして、最初に出ている結論「暴力は減少している」に沿うようにカスタマイズされ、取捨選択されている。

 では、結局のところ、暴力は減っているのか? 「欧米からは減っている」が正解だろう。いわゆる先進国からは、と言ってもいい。減った暴力は、ピンカーの主張どおり抑制されている部分もあるが、全て消え去っているわけではなく、形を変えて離れたところに移動している。人類史のレベルで見るなら、戦争の道具を振り返ればいい。

 暴力を行使する主体と、その対象物との距離が離れていくのが、戦争の歴史になる。目の前の対象から、より離れた的に向かう、戦争の道具が典型的だ。最初は拳で、次は石、剣、弓、発射装置、銃、砲、ミサイルと、「的(敵、どちらも"テキ")」への距離を広げ、より安全な場所から確実にダメージを与える方向へ進んできた。

 その究極の形態は、「合衆国本土のジョイスティックで操作するドローンが、地球の反対側の目標を、殺害もしくは破壊する」だろう。ピンカーは、前線要員をドローンに置き換えること自体、人類の脱暴力化のあらわれだという。人ではなくロボットが闘うことは、人命を尊重していることなのだからと無邪気に言い張る。違う。暴力は目の前から移動させられているにすぎない。物理的に移動させられただけでなく、別の名前で呼ばれるようになったり、定義が変えられることで、見えなくなっているのが現状だ。

 ピンカーは、このような意見について、先回りして答える。この反論は、ほとんど意味をなさないという。エネルギー保存則のような「暴力」保存の法則なんてないし、途上国はこれまでも何千年にわたり、部族戦争や内戦、帝国主義戦争、植民地戦争を行ってきたからだと述べる。一部の貧困国で戦争が続いたとしても、富裕国と貧民国の両方で戦争が起る世界に比べればましであるという。

 なるほど、自分ん家が燃えていないから「まし」だというのは身も蓋もないが、自分ん家が燃えてないのは、火種がアウトソースされているから。昔は直接的な植民地支配で簒奪してきた資源が、現地組織を介し、トラブルも込みで搾取する構造になっているから。パレスチナ問題や血まみれダイヤモンド(Blood Diamond)なんて、その典型かつ象徴だし、最近ならメキシコ麻薬戦争も然り。「その場所だけ」に限定された問題と矮小化することで、自分ん家からは無かったことにする。

 また、途上国ではとうてい製造できない武器や兵器を渡し、現地の資源を手にするシステムが成り立っている。兵器の生産拠点→消費拠点をグラフにするならば、暴力の輸出は瞭然だろう。効率的に暴力を行使できる道具を、先進国が輸出してきたおかげで、より残虐で大規模な暴行が大盤振る舞いされてきた。

 対人だけでなく、インフラを破壊して社会活動を阻害するのも「暴力」だ。兵士を殺傷するよりも、その背後にある武器やインフラ、兵士を育てる家庭となる社会基盤を破壊する。その国そのものを、物理的に住めない場所にすると同時に、そこに住む人々を根絶やしにする。核兵器の一次目的は、そこにある。武器の歴史が「遠くの的を破壊する」歴史であるならば、その的は人から場所へ移るのは合理的な必然だ。従って、その暴力の度合いを測るなら、失われた人命に加え、発射された弾丸の数、難民の数、破壊・汚染されたインフラも考慮に入れる必要が出てくる。

 この辺の検証をスルーして、単純に兵士の死者数が減っているから暴力は減少している、政治的に暴力が許されない風潮になっているから暴力は減少している、というのは、どれだけ積み上げたとしても、「見たいものだけしか見ていない」誹りを免れない。アメリカ合衆国の、自己中心性、理想主義、無邪気さと危険性を描いたグレアム・グリーンの『おとなしいアメリカ人』に倣って、「おめでたいアメリカ人」と名づけたい。

 昔は良かったなどと三丁目の夕日をするつもりはない。試しに、先に挙げた[Correlates of War]から、世紀単位に戦闘による死者数をカウントしてみた。人口で割るといった"バイアス"をかけずに、総計すると、次の通りとなった。

4,284,194
  19世紀
36,197,536
  20世紀
94,277
  21世紀

 21世紀は始まったばかりで、2007年までのデータしかない。同じペースでいくならば、21世紀の「兵士の」死者数は134万人となる。19世紀に比べると、確かに兵士の死者数は減っている。だが同時に、20世紀の異常さがよく見える。上巻p.364で結論付けられる以下の主張は、賛成できない。

「20世紀は歴史上、最も血なまぐさい世紀」だとはとうてい言えない。まずはこのドグマを排することが、戦争の歴史的変動を理解するための最初の一歩となる

 ピンカーは、人口規模や想起ヒューリスティックバイアス、歴史的近視眼を調整するならという前提で断言するのだが、流れた血の総量は変えられない。確かに昔は酷かった。だが、その酷さ加減を強調することで、今ここを平穏にするためになされている努力と欺瞞から目を背けることのないように、想像力を働かせたい。

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おもわず惹き込まれる一行目から、深々と突き刺さる一句まで「決めの一行」のスゴ本オフ

 好きな本を持ちよって、まったり熱く語り合う、それがスゴ本オフ。他の読書会と比べると、収穫高がケタ違い。本を介して人を知り、人を介して本に会うオフ会なり。もりもり積読山が殖えるだけでなく、既読も再読したくなる。気になる方は、[facebookスゴ本オフ]をチェックしてね。

 いつもは、「歴史」とか「猫と犬」といったテーマを予め決めておき、それに沿ったお薦めをプレゼンするのだが、今回は趣を変え、「決めの一行」でやってみた。すなわち、「この出だしにハマった」とか、「この決めゼリフに撃たれた」など、紹介したい一行(一句、ワンパラグラフ、一言、隻句、いちフレーズ)が最初にあって、それを基点に紹介をするという仕掛け。実況tweetまとめは、[好きな本の心の残った1行を紹介する「キメの1行」のスゴ本オフまとめ]をどうぞ。ここでは、画像+コメント+一覧の形でご紹介。

 せっかくだから張り出してみたら、壮観壮観。

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 既読本なら「それを引いてくるのかー」と、思わず膝ポンする一行に出会うし、未読本だと「それは何ナンだー」と身を乗り出したくなるような一句に鷲づかみにされる。

 たとえばこれ。

羆嵐

「おっかあが、少しになっている」

 この強烈な一行は、吉村昭『羆嵐』より。実際に北海道で起きた人喰い羆(ひぐま)事件を基にした記録文学で、このセリフは羆に連れ去られた主婦(だったもの)が発見されたとき言葉だ。表紙のインパクトとは裏腹に、羆が登場するのは数えるほど。「そこにいない」ことで緊張が倍増し、「そこにいるかも…」で恐怖が爆発する手腕は、ほとんどホラーの領域。これは、映画"ALIEN"や"JAWS"にも通じるものがあって、「"それ"を見た人は死んだ人」になるから。生きている人は、咀嚼音とか残骸から推し量るほかない。薄いくせに、臨場感が容赦ない、読むには覚悟が必要な一冊。

 わたしがコロっと騙されたのが、これ。

ベルサイユのばら

「フランスばんざい」

 アルフォンス・ドーデ『最後の授業』だと思いこんでたわたしが浅薄だったなり。これは、池田理代子『ベルサイユのバラ』のクライマックスシーン、ヒロイン(でありヒーローでもある)オスカルから絞りだされてきた言葉だ。フランス革命は、「私が私であるために自由になりたい」という思想を元にして始まり、やっと手に入れて自由が見えたときだからこそ刺さる。

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 ジャンケン争奪戦となったのが、これ。

俺、リフレ

「人間それぞれにマニュアルがあれば、無駄な苦労はしなくて済むんだろうな」

 ヒキタクニオ『俺、リフレ』は、冷蔵庫が主人公というキテレツな話なのだが、直面しているのはリアルな家庭崩壊。LDKに鎮座する冷蔵庫は、そこで暮らす夫婦や転がり込んできた天才少年の悩みを耳にして、人間のおかしさを思いやる。しかし悲しいかな、何も言えず何もできない、冷蔵庫だから。実験小説の設定、シリアスな日常崩壊劇、泣ける展開が詰まっている。スゴ本オフでは、「放流」と称し、プレゼントしてもいい本を読みたい人に渡すというイベントがある。当然、人気のある本はジャンケン勝負となるのだが、これが一番熱かった。

 これも凄かった。

鬼が来た

「お兄さん、お姉さん、新年明けましておめでとう。あなたは私のおじいさん、私はあなたに息子です」

 姜文監督の映画『鬼が来た!』からのセリフ。第二次大戦末期、日本軍と中国の農民との勘違いだらけのやりとりが引き起こす、ブラックジョーク満載の悲喜劇。負けた日本兵が、中国人を罵ることで殺してもらおうとして、最悪の罵倒を教えろと通訳に詰め寄る。通訳は、自分を守るために、正反対の言葉を教える。それが、このセリフとのこと。ジャンケンに勝ってDVDをゲトしたので、GWに観よう(ただし、かなりキツい描写があるらしいから、独りで観るとしよう)。

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 謎なのに身近な一行が、これ。

料理と科学のおいしい出会い

(S1+S2+S3) / W・・・味噌汁
(O+G)/W・・・生クリーム

 石川伸一『料理と科学のおいしい出会い』からのキメの一行で、すべての料理は数式で表せるという。美味しい料理の秘訣は科学だというスタンスから、理系音痴でも楽しく読めるように書かれている。それだけでなく、ここで紹介される料理の方程式を応用することで、これまでにない全く新しい料理を創造することも可能だという。なんだかIBMが開発した人工知能ワトソンの話みたいで面白い。

 料理を「見える化」したものとしては、玉村豊男『料理の四面体』が思い浮かぶ。四面体の頂点である、「空気」「水」「油」という要素が「火」の介在によって素材をいろいろな方向へ変化させることが、料理の本質だという。併せて読みたい。

 料理といえば、(毎度のことながら)すごいご馳走だった。軽くつまめるものから、スイート、桜をあしらったプロフェッショナルなものまで、堪能いたしましたな。

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 事前に登録された「この一行」を、まとめてご紹介しよう。既読の記憶と照らしてもよし、未読本への縁にしてもいい。

  • 怒りの根っこには必ず、「私が正しい」という思いがある『怒らないこと』
  • 「おれを力いっぱい殴ってくれ」『ファイト・クラブ』
  • 私は兄の人生を受け継いだ。兄の机、事業、小道具類、兄の敵、馬たちと愛人を受け継いだ。私は兄の人生を受け継いで、もう少しで殺されそうになった。『直線』
  • フランスばんざい『ベルサイユのばら』
  • It is not the strongest of the species that survives, nor the most intelligent that survives. It is the one that is most adaptable to change.(もっとも強いものではなく、もっとも賢いものでもなく、もっとも変化に適応的なものが生き残る)『種の起源』
  • 私が死んだ後でも、妻が生きている以上は、あなた限りに打ち明けられた私の秘密として、凡てを腹の中にしまって置いて下さい。『こころ』
  • 逃げちゃダメだ『新世紀エヴァンゲリオン』
  • 私には分からない『異邦人』
  • 「おっかぁが少しになっている」『羆嵐』
  • 「どうなる、とは漢(おとこ)の思案ではない。婦女子のいうことだ。おとことは、どうする、という以外に思案はないぞ」『燃えよ剣』
  • 友よ、来たれ。新しき世界を求むるに時未だ遅からず。船をつき出し、整然と坐してとどろく波をたたけ。『女王陛下のユリシーズ号』
  • 「取り残されているのはアメリカの民間人か?」(p.106)『海の底』
  • 鳥にむかい「この世のあるかぎり、長生きしてね」と思わずうたっている日々であると(p.279)『琉球布紀行』
  • 「ならわたし敵の一味に就職するわ」(p. 143)『ラッキー嬢ちゃんのあたらしい仕事』
  • クーラーは大変失礼な商品である。(p. 79)『消費者をやめて愛用者になろう! 割り箸から車(カー)まで』
  • 「あててみましょうか」レイチェルは言った。「真北へ向かってる?」(p. 90)『デセプション・ポイント』
  • 「いやぁ、まさかこの世に白いチツテトがおるとはなぁ」(p. 4)『本にだって雄と雌があります』
  • 観測されないものは、存在しないも同じ(p. 92)『はみだす力』
  • 女の自立は台所の自立から(p. 50)『聡明な女は料理がうまい』
  • 「この会社にいる人間が考えることなんて、たかがしれている」という見下した感覚が、実は自分自身に向けられていることを自覚している人たちはどの程度いるだろう『自分の仕事をつくる』
  • 「ゆったりと、真にカルチベートされた人間になれ!」『パンドラの匣(「正義と微笑」)』
  • 「私は、世の中のベースには、常に本があると思っています。それは間違いありません。」『本の力』
  • 「お願いだけら私を壊して、帰れないところまで連れていって見捨てて・・・あなたにはそうする義務がある。」『ナラタージュ』
  • 正に刀を腹へ突き立てた瞬間、日輪は瞼の裏側に赫奕 (かくやく)と昇った『豊穣の海 二 奔馬』
  • 埋れ木の、花咲く事もなかりしに、身のなる果は、あわれなりける『謡曲集一 三道 頼政』
  • (S1+S2+S3) / W・・・味噌汁『料理と科学のおいしい出会い』
  • 胸つぶるる思いか、三人とも、まさにその思いを持っている。才能という不思議な不確実なものに苛まれ、叫び声をあげたいんだ。しかし、その声を上げたとしても、世間の空気の中にすっと消えいってしまうだけなんだ。『俺、リフレ』
  • 教えて。ぼくはなんなの?<しゃべる灯心草>。それじゃあ答えにならないよ。いま真実なのはそれだけ。『エンジン・サマー』
  • 冗談の言い合いなど、とても私が熱意をもって遂行できる任務とは思えません。変化の激しいこの時代ですから、伝統的な職務内容にない新しい任務を受け入れていくのは、十分に理由のあることです。(略)うっかり冗談を口にし、つぎの瞬間、その場の雰囲気にまったくそぐわないとわかったときの悲惨さというものは、想像しただけで身の毛がよだちます。『日の名残り』
  • 「墓地から来たんでせうが。」 頭から水をかぶった様な気がした。『とほぼえ』
  • 夢は 真冬の追憶のうちに凍るであらう そしてそれは戸をあけて 寂寥のなかに 星くづにてらされた道を過ぎ去るであらう『のちのおもいに』
  • 日も暮れよ、鐘も鳴れ 月日は流れ、わたしは残る『ミラボー橋』
  • 今、帰っただよ。『指輪物語』
  • わたしが死んだら、そこに埋めてもらえばいい。(I can be buried anywhere when I die.)『すばらしい墜落』
  • 自分が悪いと思ったら頭がおかしくなってしまうんだ、俺はもうこれから先何があっても自分が悪いなんて思わないぞ。『テニスボーイの憂鬱』
  • オレが言いたいのは感情と情緒だけでモノを見ちゃダメだってことです。(中略)カタチは人間の心を支配し洗脳するからね。カタチに心を奪われた人間は腹減った犬と同じで何だって言うこと聞くかんな。世の中のサギとかインチキとかあやしい団体とかみんなそれ。(中略)モノを見抜く心はまずカタチを見抜く心に始まるの。本当だよこれは。『福野礼一郎の宇宙 甲』
  • 人間ならば誰にでも、現実のすべてが見えるわけではない。 多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない『ローマ人の物語〈8〉』
  • 「でもね、ぼくには わかったんだ」『いがぐり星人グリたろう』
  • 「あんた、ひょっとしてベイビーなの?」『有頂天家族二代目の帰朝』
  • 「お兄さんお姉さん、明けましておめでとうございます! あなたは私のおじいさん、わたしはあなたの息子です!」『鬼が来た!』
  • 人の心が見えないように、人と人の絆も目には見えないものなのだ。『オトナ婚です、わたしたち』
  • 恋は、ヒトという種が再生産を欲する本能だ。『ウェルカム・ホーム!』
  • 自分がこんなふうに人に見られたいと思うーわたしはそのとおりに見えている、美しいとも見えている、美しいということがみんなの望むことならば、美しい、あるいは可愛いと言ってもいい、たとえば家族には可愛いと見えている、家族にであって、それ以上ではない、わたしについて、みんながこんなふうであって欲しいと思うなんにでも、わたしはなることができる。そして自分がそうだと思うことができる。『愛人』
  • 「純粋で、私欲のない利他主義は、自然界には安住の地のない、そして世界の全史を通じてかつて存在したためしのないものである。しかし私たちは、それを計画的に育成し、教育する方法を論じることさえできるのだ」『利己的な遺伝子』
  • 佳奈と何度でも話そう。家が建ってからでも遅くはない。優雅だなんて、もう言われたくないんだ。『優雅なのかどうか、わからない』

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 そして、紹介された本は次の通り。


  • 『怒らない練習』アルボムッレ・スマナサーラ(サンガ出版)
  • 『ファイト・クラブ』チャック・パラニューク(早川書房)
  • 『直線』ディック・フランシス(ハヤカワ文庫)
  • 『ベルサイユのばら』池田理代子(集英社)
  • 『種の起源』チャールズ・ダーウィン
  • 『こころ』夏目漱石(岩波書店)
  • 『新世紀エヴァンゲリオン』庵野秀明(GAINAX)
  • 『異邦人』カミュ(新潮文庫)
  • 『羆嵐』吉村昭(新潮文庫)
  • 『燃えよ剣』司馬遼太郎(新潮文庫)
  • 『女王陛下のユリシーズ号』アステリア・マクリーン(ハヤカワ文庫)
  • 『海の底』有川浩(角川書店)
  • 『琉球布紀行』澤地久枝(新潮社)
  • 『ラッキー嬢ちゃんのあたらしい仕事』高野文子(マガジンハウス)
  • 『消費者をやめて愛用者になろう! 割り箸から車(カー)まで』秋岡芳夫(復刊ドットコム)
  • 『デセプション・ポイント』ダン・ブラウン(角川書店)
  • 『本にだって雄と雌があります』小田雅久仁(新潮社)
  • 『はみだす力』スプツニ子!(宝島社)
  • 『聡明な女は料理がうまい』桐島洋子(アノニマスタジオ)
  • 『自分の仕事をつくる』西村佳哲(晶文社)
  • 『パンドラの匣』太宰治(新潮社)
  • 『本の力』高井昌史(PHP)
  • 『ナラタージュ』島本理生(角川書店)
  • 『豊穣の海 二 奔馬』三島由紀夫(新潮文庫)
  • 『謡曲集一 三道 完訳日本の古典』小山弘志編より、世阿弥『頼政』(小学館)
  • 『料理と科学のおいしい出会い』石川伸一 (化学同人)
  • 『俺、リフレ』ヒキタクニオ(PHP文芸文庫)
  • 『エンジン・サマー』ジョン・クロウリー(扶桑社)
  • 『日の名残り』カズオ・イシグロ(早川書房)
  • 『とほぼえ』内田百閒(「名短編、さらにあり」ちくま文庫所収)
  • 『のちのおもひに』立原道造(「立原道造詩集」岩波文庫所収)
  • 『ミラボー橋』G・アポリネール(詩集「アルコール」所収)
  • 『指輪物語』J.R.R.トールキン(評論社)
  • 『すばらしい墜落』ハ・ジン(白水社)
  • 『テニスボーイの憂鬱』村上龍(幻冬舎)
  • 『キカイの本質を理解すればクルマの偉大さがわかる! 福野礼一郎の宇宙 甲』福野礼一郎(双葉社)
  • 『ローマ人の物語〈8〉ユリウス・カエサル ルビコン以前(上)』塩野七生(新潮社)
  • 『いがぐり星人グリたろう』大島妙子(あかね書房)
  • 『有頂天家族二代目の帰朝』(幻冬舎)
  • 『鬼が来た!』チアン・ウェン監督(原題:鬼子来了)
  • 『オトナ婚です、わたしたち』大塚玲子(太郎次郎社エディタス)
  • 『ウェルカム・ホーム!』鷺沢萠(新潮文庫)
  • 『愛人』マルグリット・デュラス(河出書房)
  • 『利己的な遺伝子』リチャード・ドーキンス(紀伊國屋書店)
  • 『優雅なのかどうか、わからない』松家 仁之(マガジンハウス)
  • 『お話を運んだ馬』I.B.シンガー(岩波少年文庫)
  • 『おなかがすく話』小林 カツ代(河出文庫)
  • 『ただマイヨ・ジョーヌのためでなく』ランス・アームストロング(講談社文庫)
  • 『シークレット・レース―ツール・ド・フランスの知られざる内幕』タイラー・ハミルトン(小学館文庫)
  • 『BigFatCat and THE GHOST AVENUE』向山貴彦(幻冬舎)
  • 『BigFatCat AND THE SNOW OF THE CENTURY』向山貴彦(幻冬舎)
  • 『指輪物語』トールキン(評論社文庫)
  • 『アイの物語』山本 弘(角川文庫)
  • 『いがぐり星人グリたろう』大島 妙子(あかね書房)
  • 『愛のゆくえ』リチャード・ブローティガン(早川書房)
  • 『悲しき熱帯』レヴィ=ストロース(中公クラシックス)
  • 『りっぱな犬になる方法』きたやま ようこ(理論社)

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 次回のテーマも、いつもと違うぞ。漱石『こころ』が基点となる。『こころ』の読書会? と思うかもしれないけれど、そうではない。『こころ』を読んだ人に対し、「その次に読んでほしい」という作品を選ぶのだ。テーマでもモチーフでも時代性でも、同種でも異種でも亜種でも、妄想力と創造力を逞しくさせて『こころ』の次の一冊を選んで欲しい。もちろん、本に限らず、映画や音楽、ゲームもありだし、「そもそも『こころ』なんて根暗な独善者へのラブレターよりも、これ読んで明るく楽しく爆散しようぜ」なんてノリもいい。

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怒りの根っこには必ず、「私が正しい」という思いがある『怒らない練習』

怒らない練習 怒らない人生が欲しい人に。

 マスゴミ、経済学者、暴走老人と、世に怒りの種は尽きまじ。新聞読まないのは心の平穏のためだし、オフィスではひたすら平常心、妻の罵倒は御褒美です。それでも「イラッ」とくる瞬間が怖い。いったん怒りのスイッチが入ったら、どんどんエスカレートして逆上するから。そして、ずっと後になっても何度となく思い出してはネチネチ自分を責めるハメになるから。

 なんとかせねばと読んだのが『怒らないこと』、これは素晴らしい本だった。なぜなら人生変わったから。「一冊で人生が変わる」ような軽い人生なのかと言われそうだが、違う。「怒り」の悩みは常々抱えており、ガン無視したり抑圧したり、王様の耳はロバの耳を繰り返してきた。上手くいったりいかなかったり、アンガー・マネジメントはかくも難しい。だが、そういう苦悩を重ねてきた結果、この一冊をトリガーとして一変させるだけの下準備になっていたのだろう。とにかく、一読、怒らなくなった。

 しかし、である。あれほど楽になれたのに、戻ることがある。疲れていたり、空腹なとき、自分の中の「怒り」の捕手がウォーミングアップを始める。そしてまた、そういう時に限って、怒りのボールが撃ちこまれる。『怒らないこと』での学びがキレイに忘れてしまい、湧き上がる怒りを止められない自分が怖くなる。

 そして気づいたのは、「練習」が必要なこと。読んで分かってハイ終わり、というわけではない。怒らない方法をくりかえし実践する必要があるのだ。『怒らないこと』と『怒らないこと2』を下地に、怒らないための練習をトレーニング仕立てにしたのが本書になる。

 作者は提案する、怒りをよく見てみろという。そして、怒りの本質は、実は「恐怖」なのだと説く。人は何万年もの間、危険に囲まれた生活を送っていた。それは、「獲物を獲るか、獲物になるか」という人生で、命を守るために「危険である」=「怖い」という感情を育ててきた。これが現代になって、安全になったとしても、まだ脳が追いついていないというのだ。

 そのため、自分が思っていたのと違う出来事に出会ったとき、「危険」=「怖い」から、怒りという感情が呼び覚まされることになる。そして、その「思っていたのと違う出来事」から「怒り」を引き出しているのは他ならぬ自分自身で、このカラクリに気づいた瞬間、「怒り」は消える(本書では、怒りを見る、怒りに気づくという言い方をする)。

 このように、怒りの連鎖からそれに気づくやり方や、他人から怒りをもらわない方法が、練習という形でレクチャーされる。怒りの物理的背景(空腹、睡眠不足、寒さ)に目を向けることで、どういうときに自分が怒りに対して無防備になっているかに自覚的になれという指摘は、目鱗だった(そして、まさにその状況で怒っていた記憶があった)。

 怒りの種類やそれを引き起こすトリガーは色々ある。自分が陥りがちな怒りに対症療法的に接するのではなく、予防的に振舞えというアドバイスは、くりかえし練習することで、身につけよう。これは、怒らないための「型」なのだ。

 怒りの根っこには必ず、「私が正しい」という思いがある。私も世界も完全ではないことに自覚的であれ。かつて正しかったものが、いま正しいとは限らない。「思っていたのと違う出来事」すなわち、変化に対して寛容であれ。そして、怒らないための「型」をくりかえせ。予防の一番は「笑い」、幸福だから笑うのではなく、笑って幸福になれ。これこそが、無常の実践なのかもしれない。

 怒ったら負け。怒らない人生のための一冊。

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自炊の味方『小林カツ代のお料理入門』

小林カツ代のお料理入門 料理をおいしくするコツが、やさしく伝わる一冊。

 我が家で最も信頼されているレシピ本は、小林カツ代シリーズになる。料理一年生ではないけれど、味付けの勘所だとか、おいしくなるひと工夫を、ピンポイントで教えてくれるから。3~4人ぐらいだと、彼女のレシピが一番いい。

 ところが本書は、趣が違う。わたし+誰かのための料理ではなく、わたしだけの美味、ひとりごはんを目指してるところ。いつもの家族向けというより、一人暮らしの自炊の味方となっている。ひとりだと、節約+満腹に目が行きがちだが、彼女のポリシーだと、「ひとりのご飯こそ贅沢においしく」になる。結果、料理のラインナップは、かなりユニークだ。

 たとえば一品目、すき焼き。ひとりすき焼き!? 鍋物って大人数で囲むイメージが崩れさる。しかも、ポイントがシンプルだ。すき焼きで大事なのは、「葱は必ず焼きつける」だそうな。一本以上、斜めに切って、びっしり鍋底に敷きつめて、焼きつけなさいと。

 一切「炒める」なしのカレー、「ヒラヒラカレー」が面白い。切った野菜+水を煮て、ルウを溶かす(この時点で肉は入れない、野菜も炒めない)。フツフツ煮立ってきてから、ようやく「肉の薄切り、豚でも牛でも好きなほうを、一枚ずつ、ヒラ~リ、ヒラ~リ」と入れていく。普通に炒めて煮込むと、肉はダシがらになってしまいおいしくない。だから後入れなんだって。カレーしゃぶしゃぶみたいだね。

 焼き魚はフライパンで(秋刀魚なら二つに切って)すれば、ロースターの掃除しなくていいとか、一人でちょろっと呑むときは、オーブントースターで手羽焼きがちょうどいいとか、おもわず口元がほころぶレシピを紹介してくれる。家族のためだと、どうしても「焼きたてのパリパリ」にありつくのは難しいし、オーブントースターでは量が足りないからね。

 野菜の買い方もひとり向けになっている。下ごしらえがほとんどいらない、貝割れ大根、ピーマン、オクラ、シシトウ、ブロッコリーがお薦めとのこと。確かに買ってきてすぐ使えるし、(一人だと)多すぎてもてあますこともなさそう。卵は1パック4~6個だと、使いきれるか悩む前になくなるというアドバイスは、実践的かも。

 やさしい語り口で教えてくれる勘所は、たいへんありがたい。「ほうれんそうを炒めるなら、塩が先(炒めてから塩すると水が出る)」とか、「料理は、火をつけることと同じくらい、火を止めることが大事」など、おいしくするひと手間がさらりと語られる。

 なかでも、「玉葱うどん」にはわが意を得たり! だった。玉葱を水からコトコト煮るだけ、それに麺つゆを入れるだけなのだが、まさにこれを作ったとき、「めずらしい」と腐されたことを思い出して苦笑い。ありだよね、「玉葱うどん」。

 ひとりだからこそ、贅沢においしく。そのヒントが詰まっている。ただし、完全初心者本ではない。ステップ・バイ・ステップの手取り足取りを求めているならば向いてないのでご注意を。これ、ずっと家族のために作ってきたけれど、子の自立や別離によって、独りに戻った人のための、ごほうびご飯なのかもしれない……なんて考えると、少し寂しい。だけど、だからこそ、できたてアツアツを誰はばかることなくほおばりたい。そんな気にさせる一冊。


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精神去勢された男どもに贈る爆弾『ファイト・クラブ』

ファイト・クラブ 男は黙って読め(命令形)

 生きてる実感が湧かないなら、自分が何なのか見失ったら、そしてあなたが男なら、強力に切実にこれを薦める。長いこと絶版状態だったのだが、ようやく新版が出た。やっと安心して言える、読め、とね。

 わたしは、「良い子」から「良い大人」になるように育てられてきた。受験もスポーツも就職も、周囲の期待に応えることばかりに費やされてきた。両親や教師、ひいては上司の期待に応えるために、「わたし」そのものを費やしてきた。良い子、良い社会人、良い夫、良い父、理想のパラメタとの FIT/GAP を埋めるための努力だけが、「努力」だと思い込んできた。そこには「わたし」なんてない。パラメタ化された外側だけしかない。

 この主人公「ぼく」がそうだ。生きている気がせず、不眠症の頭を抱え、ずっと宙吊り状態の人生に嫌気がさしている。そんなぼくと出会ったタイラーはこう言う、「おれを力いっぱい殴ってくれ」。そしてファイト・クラブで殴り合うことで、命の痛みを確かめる。

 最初から最後まで、名前を持たない「ぼく」は、読み手自身を重ね合わせ、注ぎ込むための器だ。そして、「ぼく」を殴るタイラーは、剥き出しの欲望そのものだ。これは、「わたし」だ、精神的に去勢された「わたしの物語」なのだ。この器に注ぎ込まれたアドレナリンは、読み干すそばから体内で沸々と滾っていることに気づくだろう。

 小説を読んでいると、えげつなかったり嫌悪したり、新しさに息を呑んだりする"もの"を見せつけられる。でも、それは私自身の中にずっと前から居たものを、作者が抉りだして、ホラ、これが君の中に隠れてたやつだよ、と示してくれたにすぎない。

 この小説ではタイラーだ。自信と力とセックスに満ちあふれ、知性と人望に恵まれている、USAの中二病の権化だ。わたしの裡に潜んでいた"もの"を、タイラーに置き換えてたんだ気づいたとき、喜びと恐れと震えが、とまらなくなった。読後、"タイラーなるもの"は、感応式爆弾のように胸に埋め込まれる。

 大事なことだからもう一度、男は黙って読め(命令形)。人生の持ち時間がゼロになる前に、読め。

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正義の反対は悪ではなく、もう一つの正義だ『正義はどう論じられてきたか』

正義はどう論じられてきたか 世の中には、あてにならない言葉がある。

 「行けたら行くわ」
 「怒らないから言ってみなさい」
 「テスト勉強してないわー」
 「大丈夫、何もしないよ絶対に」

 他にも、「全米No.1」や「免疫力」、「効果を実感したと答えました」なんて浮かぶ。これらは、言葉があてにならないというよりも、むしろ、このセリフを言う人を信じてはいけない。「行けたら行くわ」と言う奴は頭数に入れないし、「何もしない」は連れ込むための方便だ。

 これに「正義」が入る。あてにならないのは言葉ではなく、ふりかざす人。前提なしで「正義」を振りまわす人が胡散臭い。主義に応じて伸び縮みし、いかようにもカスタマイズできるこの言葉を、それが使われることで流された血をきれいに忘れ、恥ずかしげも恐ろしげもなく使う人を、わたしは信じない。

 この「正義」について、古代から現代までを振り返り、正義論の思想地図を検証したのが本書になる。プラトン、アリストテレスらの古代哲学、ヒューム、ベンサムの功利主義、カントの義務論、そしてロールズによる「公正としての正義」までを捉えなおす。

 ポイントは、文字通り「正義」がどのように論じられてきたかを掘り下げているところ。なぜなら、正義の歴史をそのまま描こうとすると、勝者の歴史になるから。「正義は勝つ」ではなく、「勝った方が正義」だから。面白いことに、正義が語られる文脈の背後には、必ずといっていいほど暴力が控えている。暴力を正当化するための“何か”の代名詞こそが正義なのだ。

 さらに面白いことに、正義の定義が変遷する。もちろん、唱える立場の数だけ「正義」があることはご承知の通り。だが、それぞれの「正義」を辿ってみると、二つの系譜が現れる。一つは、貢献と報酬のバランスを取るという相互性の規範で、もう一つは、社会的生産物を配分するときに従うべきルールである。著者によると、古代は前者が正義と呼ばれていたのに、近代以降は後者が「正義」を標榜するようになったという。

 たとえば、『イリアス』でのアキレスの不平は、アガメムノンがその貢献に不釣合いなほどの戦利品の取り分を得たということになる。つまり、人間関係の相互性に焦点を定めた正義論が代表例だ。その一方で、アダム・スミスが発見し、ベンサムが定量化した「富はどのように分配されるべきか」という問いがあり、今日までの200年間の西洋の正義思想は、この問いに取り組んできた歴史だという。そして、ロールズ『正義論』において「公正としての正義」という応答がなされている。

 著者の不満は、この「分配」に正義の議論の重心を置き過ぎている点にある。公正としての社会正義という“論じられかた”をしている限り、「分配」に与る対象は、平等で自己決定能力を持つ個人から成る閉じた社会を前提とする。もちろん価値において人間は平等だが、能力においては必ずしも平等ではないのが現実だ。正義が「分配の問題」に偏差しつづける限り、この現実を捉え損ねることになるという。

 その結果、能力差のある人間同士でどうやって差を克服し、相互関係を取り結ぶかという本質的な問題が、ないがしろにされてきたと主張する。そして、その回復のために、人間関係の相互性に焦点を当てた“正義の論じかた”に重心を戻せという。

 たとえば、先進国と途上国の外交が好例となる。主権平等の前提で外交契約を取り交わすが、交渉力や技術力がもともと非対称のため、「平等」であったならば弱者には不利に働くことになる(日米修好通商条約を思い出せ)。グローバルな格差問題と向き合う際には、最初から弱者側に重心を倒しておかない限り、正義にはならないのだ。

 正義の“論じられかた”を裏返すと、「正義」に求められる性質の変遷になる。そのダイナミックな様変わりが面白い。正義の系譜学となる一冊。

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読むほどに酔うほどに『不穏の書、断章』

不穏の書、断章 読むほどに酔うほどに、あの日の夢が重なってくる。

 わたしの一番ダメなところに潜り込んでくるのが、フェルナンド・ペソア。試みに、どこかの頁をあけてみるがいい。どの頁でもいい、簡潔に記された片言にワシ掴みにされる。

文学は、他の芸術と同様、人生がそれだけで十分でないことの告白である
私はひたすらやり直すことで人生を過ごしている
だが、どこからやり直すのか
凡俗の人間は、たとえ人生が辛くても、少なくとも人生を考えないから幸せだ。人生を外から生きること、ただ日々を生きること、犬や猫がしているように、これが普通の人がしていることだ。そして、人生とはこのように生きるべきなのだ。猫や犬と同じように満足して生きたかったならば。考えると壊れてしまう。考えることは、解体することだからだ。

 世界の虚構性に気づき、自分の中の空白を自覚したことはあるだろう。リアルタイムに現実を更新することで、ようやく認識してるフリができる(誰だって中二病になる、治ったと勘違いするかしないかだけ)。

 "わたし"というものが実は何もなく、代わりに無数のなにか(誰かの言葉だったり感覚の記憶の残滓)のざわめきに満ちた、単なる思念のたまり場に過ぎない。しかし、生きてるフリが上手になればなるほど、それが本当になる。いわば、仮面がひっつく、というやつ。オトナになる、というやつ。ペソアはそいつを、剥がす、溶かす、解体する。こんなところに、俺ガイル。

愛する者が愛しているもののことを知っているためしはない
なぜ愛するのかも 愛がなになのかも
ひとはほんとうに誰かを愛することはけっしてない。唯一愛するのはその誰かに関して作り上げる観念だけだ。愛しているのは、自分がでっちあげた観念であり、結局のところ、それは自分自身なのである

 これは、わたしも考えたことがある。性愛は他人の身体を使った自慰行為だから、厳密に愛の実践者を定義するならば、童貞・処女のオナニストになる。だが、かなり昔に中二を越えて、酸いも苦いも飲み下したオッサンだと、この続きを無理矢理考えられる。

 実は、ほんとうの意味で誰かを愛する手段は、ただ一つだけある。それは性愛でも純愛でもない、愛する人を食べることで一体化する方法だ。妻が逝ったなら、密やかに実行してみようと妄想するのだが、おそらくわたしが先だ、残念ながら。食べてみて初めて、彼女なんて非在だったことに気づくだろうに。

 これは、呑む人によって酔い方が変わる酒、白昼夢か、明晰夢(ただし現実のほうが夢オチ)か。bot[フェルナンド・ペソア]が響くなら、種本で酔うべし。くれぐれもイッキするなかれ、悪酔いするぜ。

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