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アイヴァス『黄金時代』はスゴ本

黄金時代 「世界は一冊の書物に至るために作られている」マラルメはそう喝破した。だが、その「本」は絶えず更新され、挿入され、削除されている。なぜなら、「本」について口を開いた瞬間、読者は語り手すなわち作者となるから。

 英訳がamazonのSF/ファンタジー部門で1位らしいが、この傑作は「SF」でも「ファンタジー」でもない……とはいうものの、これがどういう作品か、紹介するのはかなり難しい。

 本書を、虚構の島の奇妙な日常を紹介する旅行記として読んでもいいし、その島にただ一つだけある、始まりも終わりもない増殖する「本」に畳み込まれた物語に呑み込まれても面白い。ボルヘスやナボコフや千夜一夜を想起して、ニヤリとほくそ笑んだりゴクリと唾を飲み込んだりもする。あちこちに隠してある、プラトンやフーコーやレイコフたちの哲学のアナロジーを解くのも、めっぽう楽しい。

 つまり本書は、物語単品でも、物語の重ね書きとしても、物語る行為のパロディとしても愉しめる。表面の物語だけなら「ファンタジー」というラベルも然りだし、じっさいそういう読みで満足できる(この場合、感想文=要約文になる)。

 だが、わざわざ読もうとする人なら、本書を手にするまで背後に積み上げてきた作品群があるだろう。これを読むと、否が応でもそれらを呼び覚ましてくる。その化学反応を試す触媒みたいな一冊なのだ。

 たとえば、「本」にまつわるエピソードは、『砂の本』や『薔薇の名前』、ゲームの「MYST」を思い出す。物理的な挿入・更新・削除が繰り返された「本」は、ボルヘスの迷宮そのものだし、靴下のように「本」を裏返しに剥いて、「本」自体に挿入として貼り付けたいという欲望は、MYSTのラストだ。

 会話や戯曲、映画から物語を招き入れ、変形させていく「開かれた」存在で、脱線に次ぐ脱線、挿入のなかの挿話といった入れ子状に絡み合って進行する。物語やイメージを解き放つと同時に巻き込んでゆく、いわば代謝する「本」なのだ。これを読むことは、闘争だったり掘削になる。跳躍しても遡行するのもありだ。多種多様な「読み」を可能にすると同時に、自らが語り手となって、脱線と挿入を紡ぎだすのもいい。そのとき、読者は作者になり代わる。

 一方で、これはインターネットのハイパーリンクそのものであることに気づき、愕然とするかもしれない。「本」に畳まれた物理的なポケットを探ることで、物語は、いくらでも脱線し、どこまでも精緻になる。

 この「本」を、Wikipediaに喩えたコメントを見かけたが、いい得て妙なり。Wikipedia:「本」というメディアと、ユーザー:島民という読者/作者と、ディクショナリー:ストーリーという構成が、きれいに対比される。Wikipediaを読みふけった人なら、「本」に対する島民の愛情を、わが事のように理解できるだろう。

 また、プラトンの「洞窟の比喩」が、「洞窟の比喩の比喩」としてパロディになっているのに噴いた。ほらあれだ、洞窟で縛られていて、影絵ばかり見させられている人が、「影」を「実体」だと思い込むイデア論の例え話。この影絵を映し出す「火」を「水」に代えてくる。島の奇妙な慣習で、家には「壁」というものが存在せず、代わりに水をカーテンのように滴らせている。

 この水の壁ごしのイメージを、島の人たちは異なるかたちで認識する。向こう側に人がいるのに、男女の睦ごとをしたり、プライバシーをまるで隠そうともしないことに対し、島の女はこう言う「水の壁の向こう側にいる人たちが見ているのは壁の表面に揺れ動くものだけで、その形は私たちにすこし似ているにすぎないの」。イメージとモノ自体は結び付けられておらず、それぞれが独自の生を営むことを願っているという。

 ソシュールの言語学用語でいう、「シニフィアン」と「シニフィエ」の“ゆらぎ”を寓話的にした、島独特の言語慣習も面白い。それぞれ「意味しているもの」「意味されているもの」という意味で、例えば「木(き)」という文字や音声がシニフィアンで、そこから表される木のイメージや概念がシニフィエになる。

 わたしたちにとっては意味を指し示す対の関係なのだが、島では前者は後者の対話を促すものとして受け止められている。対象の名を変えることによって、命名されたモノの特性が増えていくばかりか、モノそのものに影響を及ぼし、変化をもたらすことがあるという。自分の名前すらしばしば変えてしまい、その名によって強制されたものか、最初から内部にあったかは分からないが、シニフィアンどおりの性格や傾向が探り当てられ、目覚めさせられる。

 名詞だけではない。接頭辞、接尾辞、語尾もどんどん変えてゆく、イージーな文法になっている。そんなことが現実に可能かどうかは「ファンタジー」として、興味深いのは、島の文法に馴染むことを「罹患」と称しているところ。そしてこの病は、視覚、聴覚、身ぶりに影響をもたらし、これらを通じて現実が変わってくるという件。まんま、レイコフ『レトリックと人生』じゃねぇか!

 『レトリックと人生』の主旨を一言で示すと、「メタファーを通じて、人は世界を理解する」になる。メタファーは、単なる言葉の綾ではなく、認知や思考が基づいている概念体系の本質を成している、理解の器官だという。さらに、メタファーは、現実に構造を与えているだけでなく、新しい現実を創出するというのだ。認知言語学の理論を島の風習に溶かし込んでいるセンスに脱帽する。ミハル・アイヴァスは哲学の教授だと聞いたが、こういう形で料理してくると、どうしてもウンベルト・エーコを思い出してしまう。

 他にも、モノが文字に見えてくる逆ゲシュタルト崩壊とでも呼ぶしかない現象や、雪片曲線構造を持った物語など、人文哲学ネタまみれの「ファンタジー」は、ごほうびみたいな一冊になっている。もっとメタな眼になって、物語自体が自らを駆動するために語り手を紡ぎ出しているんじゃないかと夢想すると、さらに面白くなる。だが、これも作者(『黄金時代』の作者アイヴァス)の想定どおりだろう。

 くやしいが、おもしろい。再び溺れてみせようか、そんな誘惑に満ちた傑作。これは、[uporeke.com]の読書会の課題図書で手にしたのだが、凄い体験でしたな。uporekeさん、ありがとうございます。

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