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『科学革命の構造』はスゴ本

科学革命の構造 科学の大発見をしたときの最初の言葉は、「エウレカ!(見つけたぞ)」ではなく、「こりゃおかしい」だ。なぜなら、「正しい」フレームワークがあってこそ、そこから逸脱していることが分かるから。この「正しい」とされるフレームワークが、パラダイムだ。

 これは、「科学とは何か」について本質的なところで答えた名著。科学における「進歩」について新たな見方をもうけ、コペルニクスやニュートン、アインシュタインが人類にもたらした「知」を問い直す。ただし、科学を純朴に信仰する人にとっては劇薬級だろう(あるいは、いちゃもんつけて理解を拒むかもしれぬ)。なぜなら、何か統一理論みたいなものがあって、そこへ連続的に進化していくような「科学」について、疑問を投げかけ、揺さぶってくるから。読書猿さんの強力なリスト「何を読もうか迷った時のために→Googleが選ぶ世界の名著120冊(2013年版)」でトップにあるのも分かる。科学教の信仰者は、盤石だと信じていた地面が実は動いていたというヴェゲナー的コペルニクス的感覚に目眩するだろう。

 パラダイムとは、「教科書」だと考えればいい。人は、まっさらの状態から「科学」を始めるわけではない。教科書を読み、実験道具の原理と使い方を学び、演習を解くことで、理解を深める。そこで示される「知」は、確定されたお仕着せの鋳型のようなものだ。そこに嵌まらない自然現象は、見落とされるか、例外として扱われる。教科書と自然現象との間にある、穴やズレを埋めるために、理論や実験方法の適用の仕方が変えられたり、一部が改変されたりする。

 著者トマス・クーンはこれを通常科学と呼び、パズル解きになぞらえる。パズルには、既成概念としてのルールがあり、解答が存在する。名声や金銭といったインセンティブ以上に、科学者を動かしているのは、このパズル解きの知的興奮なのだ。

 ところが、研究が進むにつれ、例外が見過ごせなくなる。ある天体の動きが他と異なり、まるで惑っているかのように観測される。いかなる実験でもエーテルの風を検出することはできなかった。確立された理論と整合しない事態が増えるに従って、いまの教科書から離れた、新しい説を構築することが試みられる。成立当初は異端視されるものの、教科書と例外の両方を上手く説明できると認められると、異端が「通常」に取って代わる。パラダイム・シフトだ。

 本書ではこれを、反転レンズのメガネを用いたゲシュタルト実験で説明する。反転した世界は、方向感覚を失って危険な状態になるが、馴れてくるとメガネを掛ける前のように見えるという。比喩としても、文字通りにも、知覚の革命的転換を行ったのである。著者が知ってたかどうか分からないが、その喩えは、クーンの誕生年に没したプルーストの方が的確だ。

本当の旅の発見は新しい風景をみることではなく、新しい目をもつことにある

 旅から戻ってきたとき、出発前までの日常が相対化され、まるで異なったものになる。それは、日常生活が変わったのではなく、それを見る自分が変わったのだ。プルーストのいう「新しい目」が、価値観の転換を意味するのなら、わざわざ遠方に出向くことなく、見慣れた生活なかでも旅は可能になる。この、新しい目を手に入れることで、いつもの光景が全く違って「見える」のだ。

 大いに刺激を受けたのは、随所にヴィトゲンシュタインの影響が見えるところ。言語ゲームを通じて、「お前がそう思うんならそうなんだろう、お前ん中ではな」を人類全体に適用したのがヴィトゲンシュタイン。この「そう」に当たる所に直接関与したり、表現するルールや一般化に関係できないとクーンが言い切る件には百回膝を打った。その理論を「そう思う」人が多数だからこそ、パラダイムたりうる。そして、そのルールは、ゲームを通じてでないと修得することができない。言語の限界が世界の限界であるように、パラダイムの限界が科学の限界なのだろう。

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宿題を終わらせる『論理哲学論考』

論理哲学論考 ようやく読めた。岩波青で適わなかった宿題が、やっとできた。新訳はとても読みやすく、かつ、驚くだろうが理に適ったことに、横組みなのだ。

 そもそもこれは、どういう本なのか、なぜこれが20世紀最大の哲学書なのか、そして、ずっとたどり着けなかったラストが、なぜ「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」で終わっているのかが、わかった。わたしが難しく考えすぎていたんだ。

 これは、数学なんだ。

 哲学的なことについて書かれてきたことの大部分は、意味がないという。なぜなら、「哲学的なことについて書かれてきたこと」は、言語を使っているから。プラトン以来、西洋哲学の歴史は、言語の論理を理解していないことによるナンセンスな言説の積み重ねなんだと。なぜなら、「言語の論理を日常生活から直接引き出すことは、人間にはできない(No.4.002)」から。

 このあたりの説明は、本書の冒頭にある野家啓一「高校生のための『論考』出前講義」が分かりやすい。同じ言葉なのに、複数の意味が重ねられたり、異なる様式で用いられることが、日常言語の不備と欠陥だと教えてくれる。例えば、「あおい」という言葉一つとっても、「青い(blue)」、「葵(hollyhockもしくは人名)」、「未熟な」、といった意味をまとっている。「青春」や「(信号の)みどり」など、名詞にも形容詞にも用いられる。

 これを克服して、問題をクリアにすることが、哲学の目的になるという。「語りえること」を、語れる内側から明確化するのだ。なにか難解で深遠そうな哲学的命題をひねり出すことではなく、むしろ哲学的命題に潜んでいる言語の論理への誤解を明るみに出し、言語批判を通じて問題そのものをクリアにすること、すなわち「活動」こそが哲学だというのだ。

 そして、日常言語からくる混同を回避するために、厳密に論理的なシンタックスに則った記号言語を構築する必要があるといい、実際にそれを成し遂げたのが本書になる。論理的な人工言語(似て非なる記号が出てくるので要注意)を用いて、哲学のするべきことは、考えることのできるものの境界を決めると同時に、考えることのできないものの境界に線引きをする。

 正直なところ、この論理的シンタックスの本質的な部分は難しかった……というより、理解できなかった。ヴィトゲンシュタインは、一歩一歩積み立てては説明してくれるのだが、わたしのアタマで追いつけない。これは、オイラーの公式に取り組んだときと一緒。「ああ、たぶんそんな意味なんだろうな……」と読み流して、自力で解こうとしなかった(できなかった)。吉田武『オイラーの贈物』を読んで理解できる人なら、イケるのではないかと思う。学問のOSである論理学、この辺りは戸田山和久『論理学をつくる』から攻めるつもり。

 長年の宿題に決着をつけ、こじらせていた中二病にトドメを刺したのはいいが、なにか釈然としない感覚が残る。気のおけないメンツが集まって、「生きるとは?」とか「善とは何か?」など、形而上学的な話題について、ああでもない、こうでもないと語り合っていたら、秀才が現れて、つまりこれこれこうですよ、証明終わり、といわれた感じなのだ。反論したら、「それは定義でそうなっているから」といちいち返される。ロジックは(たぶん)完璧に合っているけれど、何か近寄りがたいものを感じる。

哲学探究 本書は、完璧な結晶でできた建造物のように、外から鑑賞する分にはいいかもしれないが、中をを歩き回って住むには難しいかもしれない。ヴィトゲンシュタインも薄々分かっていたようで、30年後に世に出る本の中で、「私たちはアイスバーンに入ってしまった。摩擦がないので、ある意味で条件は理想的だが、しかしだからこそ歩くことができない」と述べる。そして、「私たちは歩きたい。そのためには摩擦が必要だ。ざらざらした地面に戻ろう!」と宣言する(No.107)。自らの哲学を日常言語の働きの理解に向かって引き戻そうとする。それが、『哲学探究』だ。嬉しいことに、『論考』よりも面白く、近く、ユニークで、そして「わかる」(ヒリヒリするほどに)。

 嬉しいのか残念なのか、中二病は治りそうもない。


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