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人生は顔に出る、隠すか見ないかは自由だが『ドリアン・グレイの肖像』

ドリアン・グレイの肖像 あなたなら、鏡の中に何を見るか、という寓話。

 くたびれたオッサンがそこに映っているが、それはホントのわたしじゃない。鏡を覗き込むとき、大なり小なり、そこに映っているものを予想して“構えて”いるから。

 そこには、tumblrからの、かなり悪趣味な画像に歪めた唇や、暗がりで妻にのしかかるときの情欲に輝く目は、映っていない。暗転した画面や、姿見に映り込んだ“わたし”を見て、ぎょっとすることがある。わたしは、わたしの素の顔を、見ることはできないのだ。

 「性格は顔に出る、生活は体型に出る、落ち着きのなさは足に出る」というが、むしろ、顔や体に出ているのは、わたしの過去だ。どのように生きてきたかを積分したものが、素のわたし。そしてそれは、見たくない過去を隠すように巧妙に隠されている。これを「肖像画」に投影したのが本書になる。

 若く美しく純真な青年が、わるいオッサンにそそのかされ、快楽と背徳に堕ちてゆく。年齢と悪徳を重ねているにもかかわらず、美青年のまま。その代わり、青年をモデルにした肖像画だけが醜く変貌していく……というミステリは、(オチは予想できても)物語として充分おもしろい。

 芸術と現実という二項対立や、リアルと虚構、健常と倒錯といった観点からだと解きやすい。折々に出てくる花や香りに擬えた、デカダンスの受胎と出産の隠喩として読むのも良い(もちろんドリアンがネコ、ヘンリー卿がタチ)。快楽の名の下に、どれだけ悪行に手を染めてきたかは直裁的に書かれず、刻々と変化していく肖像画の堕落ぶりで見せつけてくれる。そのおぞましい描き方の書き方は見事としか言いようのない。

 むしろ、導き役、わるいオッサンであるヘンリー卿のほうが気がかりだ。著者オスカー・ワイルドの代わりに、アメリカと女にまつわるアフォリズムで会話を埋め尽くす。

  • 「そもそも結婚などやめておけ、ドリアン。男は疲れたから結婚する。女は好奇心から結婚する。そして両方ともがっかりするんだ」
  • 「一生に一度しか恋をしない人間こそ浅はかなんだよ。彼らが忠実とか貞節とか呼んでいるものは、習慣による惰性か想像力の欠如だ」
  • 「子どもは誰しもはじめは親を愛する。そして成長と共に親を裁くようになる。やがて親を許すこともあるが」
  • 「女というものはすばらしく現実的だな(中略)男よりはるかに現実的だ。そういう状況では、男は結婚のことなど忘れてしまいがちだが、必ず女が思い出させてくれる」
  • 「残念ながら女というものは残酷さ。ストレートな残酷さをありがたがるものだよ。すばらしく原始的な本能があるんだな。我々が解放してやったのに、女たちはいまだに何も変わらず主人を探している奴隷なのだ。女は支配されるのが好きなんだ」

 中途半端に生真面目で小心者のドリアンよりも、突き抜けて達観したオスカー卿の方が笑える。エデンの蛇のように、ドリアンの好奇心を惹いた後、彼と共に耽美を求めつつ、彼の人生そのものを自分の作品とする。

 おまえの方がよっぽど不道徳だよとつぶやきつつ、オスカー卿の「鏡」はどうなっているだろうと心配になる。鏡を覗くとき、自分を欺いていることくらい承知しているはずなのに、ドリアンの「肖像画」に相当するものを持っているのだろうか?彼の不品行はどこに顕われているのだろうか?考えるほど黒く愉快になる。まるで、わたしが自分の本当の姿を鏡に見つけることができないように、彼も偶然映りこんだ自画像を見てぎょっとするのだろうか、とね。


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日本人は変態である『超絶技巧美術館』

超絶技巧美術館 目が驚く脳が騒ぐ「美」。

 流行りや消費者ウケとは一切関係せず、ひたすら自分の作りたい作品、表現したいものを追い求め、突き詰めて、カタチにしている人がいる。

 そんなとこまで見ないだろ、とか、そこまで細かくしないでも……とツッコミたくなるが、彼彼女らは、作りたい・描きたい・彫りたいからそうしてるだけで、自分が満足するために究極の技を研磨する。巧みさとか才能とかいったテクニカルなものではなく、一種の鬼気というか、ねちっこさを感じる。

 現代の生人形師・アイアン澤田がスゴい。神々しいまでの女体を、魂込みで眺めることができる。いわゆるフィギュアとは一線を画するもので、まず骨格作りから始め、その上に肉を被せ、表面に磨きをかけて、衣装を着せる。眼球も、仏像と同じように内側から嵌め込んでいるし、歯なんて少ししか見えないのに、全部そろえて植えてある。異様な質感に恐ろしくなる。女の美しさを、生身ではないカタチを通じて、あらためて見ることができる。

 本書に紹介されている"NICO2013"は、画像実物問わず、わたしの人生で見てきた中で、もっとも美しい尻だ。ふっくらした尻たぼといい、あわい目に添えられた小粒のほくろといい、完璧な尻がここにある。ぜひ、匠のブログで確認してほしい⇒Iron Sawada「NICO 2013」

 田嶋徹の細密画は、どんなに懲らしても焦点が追いつかない。リアルが欲しければ実物の薔薇を眺めればいい。だけど、絵とは思えないほどの、絵でしかありえぬような、「薔薇」がそこにある。その製作過程もレポートされており、「粒子を置く」ような微細ストロークで描く様を見ることができる。細密画には、対象と手元と目、その三角形の中で全身を使って見るような、えも言われぬ感覚を得る瞬間があるという。この張り詰めた感覚を、「表現された物」から追体験することができる。

 面白い、と感じたのは、何人かが「銘」を入れてないこと。サインを残さないのは、なくても誰それの作品だと分かるくらいオリジナルだからというのもあるが、究極を詰めるあまり、作家としての自分の名前なんてどうでもいいと感じているのでは……と思うほど完璧なのだ。

 舐めるような視線に耐えうるディテールを再現する会田誠が凄い。滝に集ったスク水の群れを描いているのだが、三次元の立体としてありえない構成に、濡れた感じ微妙なシワまで精密に厳密に描き込まれているため、眩暈すら感じさせる。

 John Hathwayの、情報を圧縮した絵画が凄い。Photoshopで非対称レンズや消失点を創造し、キュビズムのように複数の視点を画面に集約する。現実通りに描くと人物自体のひずみができるため、手書きで個々の頭身を調整する。"Electric Lolita 超伝導のマリア"(2011)を眺めていると、街を通して物理的概念が丸ごと説明されているような気がしてくる。

 他にも、一本の木から柿とタイルを掘り出した前原冬樹や、一頭のシカの皮と肉を剥ぎ、残った骨を素材にして、そこに花束を彫りだす橋本雅也など、制約を課せば課すほど、凄い物を作るのが日本人なのだと思い知らされる。わたし自身が不勉強なのか、会田誠と井上雅彦しか知らなかったが、こんなに凄い「美」をつくりだす人がいるなんて……目と脳を驚かす一冊。


【変態日本人を追加】 変態と天才は紙一重というか合同。
 高松和樹「距離感主義」
 深堀隆介「金魚養画場」

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