« 2014年11月2日 - 2014年11月8日 | トップページ | 2014年11月16日 - 2014年11月22日 »

すべての小説好きにお薦め『荒涼館』

 絶品。終わらないでと願いながら、惜しむように読む。

荒涼館1荒涼館2
荒涼館3荒涼館4

 小説を読むことは 沢山の人生を生きることだ。そこに描かれた人々と、それを読む自分を掛け合わせ、好悪の反応から"私"が何者であるかを知る。デフォルメされた人物や、神視点の作者を通じ、人生劇場の一員として、自分をそこに放つ。『荒涼館』には、小説のあらゆる面白い要素、醜い感情、愛すべき人情、哀切そのものが、人生の形で詰まっている。小説はフィクションだが、湧きあがる喜怒哀楽の涙は、ぜんぶ本物だ。

 同時に小説は、読むこと通じてのみ肉薄できる芸術である。絵のように一望したり、音楽や料理のように「入ってくる」ものではない。こちらから読むという行為を通じ、その世界にもぐりこむことで「世界になる」経験だ。そして『荒涼館』は、読むことでしか堪能できない傑作である。重厚・巧妙に張り巡らされた伏線が引き絞られ、からめとられるとき、これまで通り過ぎてきた舞台や人物や事件やテーマでさえ(!)、実はそのシーンのために周到に準備されていたことに気づかされる。

 それは、昨今のカチッとした一瀉千里の伏線ではない。徐々に、浮上するように姿をあらわす秘密は、暴かれるというよりもむしろ、気づいたら目の前に対峙している。「おお!あれはこういう意味だったんだ」と何度も読み直し、振り返り、噛み締めることになる。そんな戦慄が沢山、待っている。

 しかもこの伏線、人によって反応が違うから面白い。この小説を、映画や音楽のように出されたものを順番に消費するというやり方で取り組むと、ほとんど何も気づかずにくぐりぬけてしまうだろう(あるいは、途中で力尽きるかもしれない)。それは、仕掛け満載のオバケ屋敷を、全速力で駆け抜けるようなものだ。ぜひ、気になるところは戻って読み直して欲しい、その度に新たな驚きが、密やかに背中を駆け抜けてゆくだろう。母と子の贖罪と再生、高慢と偏見と現実逃避、自分自身を喰らう英国の疾患、whydoneitとwhodoneit、この小説を貫くテーマは、いたるところに張り巡らされている。どのテーマに反応するかも、人によって異なるから面白い。

 では、どのように気づき・手繰ってゆけばよいか?ディケンズはその点、抜かりない。すべての伏線の端っこは、登場人物が握っている。物理的・精神的に人が"動く"とき、伏線は自動的に張られる。誰かを陥れる罠だったり、過去の秘密を嗅ぎつける鼻だったり、そもそも作者が隠した穴だったりする。キャラクターは戯画的に(分かりやすく)描かれているので、そうした性格付けにふさわしくないとあなたが思ったとき、物語が大きく回転する。

 しかし、出てくる人物のなんと多いことか!主な登場人物だけで60人を超える。そこはいったん、付き合ってほしい。善良、狡猾、高慢ちき、欲深、冷酷、陽気……どの人物も、必ず何らかの性格付けがなされている(メモを取ることをお薦めする。ネットはネタバレだらけだ)。ディケンズは、リアリスティックな態度を保ちながら、読み手に注意を促したい性格を、意図的に拡大したり歪めてみせる。その均衡の破綻が、エキセントリックな笑いを呼び、読み手に強烈な印象を残す(失敗した読者は、この人物造型のカリカチュアライズについていけず、「早く話が進まないかな」などと考えながら先を急ごうとする。違うんだ、その性格描写を読むことは、もう"話の中"にいる。その性格そのもの、キャラ自体が伏線となっているのだ)。

 そして、すべての伏線のもう一つの端っこは、この物語の語り手であるエスタが握っている。だから、すべての登場人物は、彼女との関係性をもって把握すれば、おのずと分かる仕掛けになっている。一見、彼女を関係なさそうな人物が登場しても、その隣人や家族といったつながりから、思いもよらぬ仕方でからんでくる。純朴で、素直で、それでいて知るべきでないことまで(なぜか)語りかけるこの美少女は、楕円をなす物語の焦点なのだ。

 もう一つの焦点は、ディケンズ本人が握っている。神の視点から、喜劇、悲劇、メロドラマ、サスペンス、様々なドラマを重層的に展開させてゆく。なんでも知っているくせに、肝心なトコは伏せながら、エスタの独白と撚り合わせるように紡いでゆく。細部を執拗と列挙し、直喩と隠喩を畳みかけるように重ねてゆき、物語の盛り上がりでは雄弁口調で質疑応答を連ねる。

 カメラを空に向けたときは要注意だ。ロンドンの黒い霧が象徴する泥沼の訴訟戦や、殺人犯を告発するかのごとく指さすローマ人の天井画など、まるでわたし自身に与えられた啓示のごとくイメージを沸きあがらせる(そしてそのイメージは、後々効いてくるのだ)。イメージは言葉によって喚起させられることを痛感する。ナボコフは、『ナボコフの文学談義』において、このイメージの寓意的・象徴的な喚起こそが、文学を文学たらしめていると主張する。神は細部に宿るのだ。

わざわざ立ち止まって見つめるに価しないつまらぬものだと考える人もいようが、文学とはこういうつまらぬものから成り立っているのだ。事実、文学を成り立たせているのは、一般的な観念ではなく、個別的な啓示なのである。

あれこれの流派の思想の啓示ではなく、個々の天才の啓示なのである。文学というものは何かに関するものではない、それはそれ自体であり、それ自体が本質なのだ。個々の傑作なしに、文学は存在しない。

 人物のデフォルメ具合や、描写のカメラワークを取り上げて、小説のリアリティをあれこれ論じる者がいる。そして、作家に歪められた小説世界をリアルでないとドヤ顔でいいう。しかし、わたしたち自身が、どれだけリアルを把握していることか。限られた感覚器官から取捨選択され、恣意的な記憶によって歪められた「リアル」は、物自体・それ自体では決してない。「そんなこたぁ分かってる」というエクスキューズお疲れさま。小説を読むということは、小説というリアルを生きることなのだ。『荒涼館』を読むということは、この世界で生きる経験そのものなのだ。

 あらすじを書くことで、この経験を水増しできぬ。ネタバレ無しで、主な登場人物を載せておくので、『荒涼館』の世界のよすがとしてほしい。もう一度言う、すべての小説好きに、強力にお薦めしたい。もちろん一筋縄ではいかない(かもしれない)。だが、きちんと向き合えば、得るものも大きい。それは、人生と一緒なのだ。

荒涼館
 エスタ 主人公、語り手
 エイダ その親友
 リチャード エイダの従兄
 ジャーンディス 荒涼館の主
 ボイソーン その友人、豪放磊落
 スキムポール 荒涼館の居候、自由人
 トム・ジャーンディス 荒涼館の前当主

デッドロック家
 レスタ・デッドロック 准男爵
 デッドロック夫人 その妻、高慢
 ヴォラムニア 六十歳の"令嬢"
 ミセス・ラウンスウェル 女中頭
 ウォット ミセス・ラウンスウェルの孫
 ローザ 女中、美少女
 オルタンス 女中、フランス女
 マーキュリー 従僕

リンカン法曹学院
 タルキングホーン 弁護士
 ケンジ 弁護士
 ガッピー 弁護士見習い
 トニー・ ジョブリング その友人、ウィーヴルは変名
 ヴォールズ 弁護士

ベル・ヤード横町
 コウヴィンセズ 取立屋
 チャーリー コウヴィンセズの子
 トム コウヴィンセズの子
 エマ コウヴィンセズの子
 グリドリー 怒れる男
 バケット 警部
 バジャー 医者
 アラン・ウッドコート 医者

セイヴィ法学予備院
 フライト 裁判傍聴が生き甲斐の老女
 ミセス・ジェリビー 慈善事業に狂った女
 ジェリビー氏 その夫
 キャディ その娘
 ピーピィ ジェリビー家の末っ子
 ミセス・パーディグル 疲れを知らない慈善家

ダンス学院
 プリンス ダンス教師
 ターヴィドロップ その父、行儀作法の鬼

クック小路
 スナグズビー 文具商の主
 スナグズビー夫人 猜疑心の強い妻
 ガスタ その女中
 クルック アル中のくず屋
 ホードン 大尉
 ミセス.パイパー おしゃべり主婦
 ミセス.パーキンズ おしゃべり主婦
 ボグズビー 日輪亭の主
 スウィルズ 道化歌手
 メルヴィルソン 歌手
 チャドバンド 伝道師

トム・オール・アローンズ通り
 ジョー 浮浪児
 ジェニー 煉瓦職人の妻
 リズ その友人

嬉しが丘
 バート・スモールフィールド 弁護士見習い
 ジューディ その双子の妹
 スモールフィールド老 その祖父、金貸し

射撃練習場
 ジョージ 射撃場の経営者
 フィル その従業員

楽器店
 バグネット 音楽商、ジョージの友人
 バグネット夫人 その妻
 ケベック バグネットの子
 マルタ バグネットの子
 ウーリッジ バグネットの子

ウィンザー
 レイチェル エスタの幼少時の躾役
 バーバリ エスタ幼少時の養母

鉄工場
 ラウンスウェル氏 ミセス・ラウンスウェルの息子、工場主

| | コメント (0) | トラックバック (0)

読むなら徹夜を覚悟して『その女アレックス』

 なんども瞠目するはずだから、明日の予定のない夜に。

その女アレックス この感覚を伝える、いちばんピッタリする言葉は、あ…ありのまま 今 起こった事を話すぜ!『おれは奴の前で階段を登っていたと 思ったらいつのまにか降りていた』である。

 物語に作者に登場人物に、投げ飛ばされる先がスゴい。これまで読んできたどのミステリとも異なり、いくつかの傑作を彷彿とさせ、かなりグロい描写と、とんでもない着地点が待っている。完徹保証の◎印。

 誘拐・監禁されるアレックスと、犯人を追う警部の展開が、スピーディに交互するが、章を追う毎に全く違う様相と次元を帯びてくる。いわゆるミステリ王道の、読み進めることで新たな発見がある構成ではなく、見えていたはずのものが、これっぽっちも見えていなかったことに気づかされる。「私は今まで、何を読んできたのか?」と何度も自問するに違いない。これを、さかさ絵・騙し絵で評する人がいたが、言い得て妙やね。

 まず表紙が嘘だ。アレックスは全裸で木箱に閉じ込められているのであって、椅子に縛り付けられているわけではない。しかも檻は空中につり上げられ、飢えた鼠が眈々と狙っている。誘拐犯の目的は、「おまえが死ぬのを見たい」だけで、なぜそんなことをするのか?自分の糞便と血にまみれ、飢餓と発狂のぎりぎりのところで決死の脱出を図ろうとする───から始まるが、"そういう話"ではない。

 なぜなら、冒頭の人物紹介一覧に、誰が犯人か書いてあるから。にもかかわらず読者は、警察と一緒に犯人を探すことになるだろう。それだけでなく、なぜそんなことをするのかも悩み、仮説を立て、裏切られ、ハッと思い当たり、愕然とし、慟哭するだろう。優れたミステリを読んだという経験とは全く異質のドライヴがかかるに違いない。プロットのイントロダクション以上に踏み込めない。そして読み終えたいま、振り返ってみるならば、やはり表紙の女はアレックスなのだ、と思い至るだろう。

 何に似ているとも言えないので、マウス反転で書いておこう。強いて言うならば、これはジェフリー・ディーヴァーだと思っていたらウィリアム・アイリッシュであり、ジャック・ケッチャムだと思っていたらトマス・クックだったくらいの変化を見せる。それくらい、ドンデン返しのレベルを超えており、かつてない読書体験を請け負う。言い換えるなら、これを超える(≒似た)作品を挙げられるか、ちょっと考えて欲しい。皆無だから(万が一あるならば……請う!)。

| | コメント (7) | トラックバック (1)

« 2014年11月2日 - 2014年11月8日 | トップページ | 2014年11月16日 - 2014年11月22日 »