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「お父さんとお母さん」でないと「正しい」子どもが育たないのか『オハナホロホロ』

オハナホロホロ はじめホノボノ、なかドロドロ、ジワジワ泣けて、「正しい家族」とは何かを考えさせられる。早めに答えをいっておくと、その「正しさ」は自分で決めることなのだが、そこに気づく紆余曲折を人生と呼ぶのだろう。

 ハワイ語で「オハナ」は家族、「ホロホロ」は散歩という意味だが、表紙とは裏腹に人間関係は複雑濃厚だ。うつくしい女のあられもない感情や、イケメン理想男子をカッコ悪く描くミスマッチが面白い。序盤ではピンとこなかった会話の伏線をすくい取りつつ核心を曝す展開は上手い。

 一口にまとめると、LGBTが家族ごっこをするならばという話になる。いや待て、わたし自身が結婚した当初を思い返すと、あれは大人のままごとであり、夫妻レッテルをまとった家族ごっこに過ぎない。どの辺から「ごっこ」が現実臭を帯びたかというと、子どもができてから。齢だけ食った子どもだったわたしを「大人」にしたのは、我が子のおかげ。

 同様に、LGBTを成熟させるのは、子どもだ。母になりきれない彼女、形見の面影を愛する彼、「好きだった」という過去を現実にする男、同情と友情と愛情と欲情のぐちゃどろを、ほのぼのタッチの下に上手に表現する。それぞれに想いを寄せる人たちを、大人にするのは、"ゆうた"になる。

 これは、"ゆうた"の成長譚であると同時に、彼を囲む"齢だけ取った男女"のビルドゥングスロマンなのだ。家族愛+隣人愛+同性愛をぶち込んだ歪んだ暖かさは、脆くて強い。わたしの家族とは異なるが、暖かさは同じだ。冷蔵庫を開けたら、いつでも新鮮な卵と牛乳があって、雨の午後はフレンチトーストが焼けるのが、暖かい家なのだ。

 「読み終えたら、大切な人と手をつなぎたくなる」という惹句は本当。お薦めしてくれてありがとう、yuripop。

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ホセ・ドノソ『別荘』はスゴ本

別荘 気づいたら朝になってた、久しぶりの完徹小説。

 眠れないまま読み始め、読み耽るうち眠れなくなり、朝を越えて昼も過ぎて読み続ける。物語に憑かれたアタマが使いものにならず、目眩と耳鳴りがすごい(休日で良かった)。キャラの特異性でなく、展開の妙だけでなく、物騙りそのもののダイナミズムに鷲掴まれる。捩れた意識が酔ったように感じられる(シラフなのに)。この経験は珍しい。わずかに似ているとしたら、マルケス『百年の孤独』、セルバンテス『ドン・キホーテ』。

 もちろん、小説というフィクションを読んでいる自覚はあるのだが、収縮自在の時空間と、虚構を越境してくる侵食感に、「そもそも私が読んでいるこれは現実なのだろうか」とまで疑いだす。劇薬小説『夜のみだらな鳥』が極彩色の悪夢なら、『別荘』はアップデートされる悪夢である。

 この一冊かけて、ある別荘の「一日」が語られる。大人たちは日帰りのピクニックに出かけ、子どもたちは取り残される。あたりは人食い原住民の集落と、異様な繁殖力を持つ植物に囲まれ、文明からは隔絶されている。子どもの数は33人。食糧をめぐる争いと、欲望と陰謀にまみれた企みと、別荘が象徴する富を取り戻すための闘いが繰り広げられる。孤立した環境で子どもだけのサバイバルというと、ゴールディング『蝿の王』が出てくるが、大人への純粋な憎しみの様はむしろ、スティーヴン・キング『トウモロコシ畑の子供たち』を髣髴とさせる。

 不思議なことに、「一日」のはずの時間が、ところどころ歪んでいる。妊娠出産するまでのありえない時間が「一日」の間に経過していたり、争いがあり、破壊があり、再生がなされるまでが「数時間」だったり、そもそも時間が経過する概念が消し飛ばされたり。ありがちな小説時間「全体」の早送り・巻き戻しだけでなく、ある場所・ある期間だけが妙に伸びたりつづめられたりしている。

 最初は、別荘の内外で伸縮しているのかと思いきや、どうやら作者の騙りにより自在に曲げられているようだ。ホセ・ドノソは、語りたいものを騙り尽くすまでは、現実的な時間経過なんてどうでもいいと考えているらしい。一貫した「つじつま」よりも登場人物の記憶よりも、騙りそのものに任せなければならないという意志を感じる。

 しかも、時間だけでない。5歳の子どもが死について哲学者のように語らせたり、瓜二つの双子といいながら、片方は美しく、もう片方は醜いと矛盾したことを言い出す。小説にリアリティを求めたり、ファンタジーの中でのもっともらしさを欲しがるなら、『別荘』は極めて不親切な傑作である。作者は、リアリスティックな世界を小説の中で実現するのではなく、これを読んだ人に作用させる「リアル」の方に興味があるようだ。

 そう、ドノソは現実に背を向ける。物語の中にちょくちょく登場しては、「これはフィクションだ」と宣言する。読み手と小説の間に距離感を保ち、これが作り話に過ぎないことを念押しする。フィクションを現実らしく装わせるための仕掛けは偽善であり、唾棄すべきとまで言い切る。この「本当らしくなさ」は物語の隅々にまで行き渡っている。批評家によると、本作は1973年チリのクーデターの暗喩らしい。あくまで嘘だとしらを切る態度は、本作に滲み出る政治性を物語化しているように見える。

 その結果、登場人物の振る舞いが、どんどん神話的になってくる。息子を生贄にする件なんて聖書からキャラクターをフィルタリングして、物語性だけを忠実にコピーしたように見える。ポリフォーニックな書きっぷりなのに、「(物語に)言わされている」ように思えてくる。個人よりも、物語が生き生きと脈打ち始める。

この物語を読む際に起こる融合───私が言いたいのは、読者の想像力と作者の想像力を一つにする瞬間のことだ───は、本物の、現実を装うところからではなく、現実の「装い」が常に「装いとして」受け入れられるところから生じるはずである
 現実の装いとしてのフィクション受け入れると、虚構との距離感が分からなくなる。今まで小説のリアリティは、「小説世界がどれだけ現実らしいか」こそがスケーラーだった。しかし、小説が現実らしさをかなぐり捨て、「フィクションを読む現実」を突付けてくることで、今度は物語が現実を侵食しはじめる。

 これは、『ドン・キホーテ』と一緒。セルバンテスは、憂い顔の騎士の偽者を登場させ、『ドン・キホーテ』の海賊版を作中作として出現させることで、メタ化した物語が物語を喰いはじめるよう仕向ける。小説は小説として受け止められるけれど、「私が読んでいるのは現実なのだろうか?」という自問がついてまわる。もちろん私が読んでいるのはフィクションの一つなのだが、そういう意味ではなく、フィクションを読んでるという現実味が揺らぐのだ。吐き気が、船酔いのような「ドノソ酔い」を堪能する。

 現実の劣化コピーとしての騙りではなく、小説を読む現実のリアリティが騙られる、不気味で不条理なグロテスク・リアリズム。アップデートされる悪夢をご堪能あれ。

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