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セックスと殺人と生きる意味『野蛮な進化心理学』

野蛮な進化心理学 ぎょっとするタイトルだが、進化生物学と認知科学の最新の知見から、至極まっとうな「人とは何か」が書いてある。

 同テーマを大上段に正面から斬り込んだ[人類を定義する一冊『人類はどこから来てどこへ行くのか』]とは対照的に、卑近で下世話なエピソード満載の「あるある集」として爆笑しながら読む。進化心理学が野蛮だというよりも、一見、野蛮だと思われるふるまいも、実は深いところで合理性を持ち、人類の複雑な活動をうまく説明することができるよ、というメッセージが伝わってくる。

 たとえば、わたしが初めて上京したときの第一感「都会は美人ばかり」を、著者自身の体験と実験でもって解説する。母数が多いから絶対数も多いのはあたりまえなのだが、頭で分かっても「美人率も高い」と感じてしまうのは男の性(さが)。群衆を眺めるとき、どうしても魅力的な女に注目してしまう男の業("ごう"と書いてバイアスと読む)だというのだ。

 あるいは、人々がセックスに対して保守的な考えをもつのは、宗教的な教えに従った結果だと言われているが、因果関係は逆だという。つまり、もともと保守的な考えを持っているからこそ、宗教にどっぷり関わる可能性を示唆する。これは追跡調査が必要だが、「人は、自分が採用している繁殖戦略の有利不利に応じて、宗教への関与の度合いを増幅させている」なんて、それだけでスリリングな一冊になりそうだ。

 性や暴力、偏見における意思決定のルールは、単純で利己的なものがいくつかあり、バイアスによって歪められている主張する(この件は[カーネマン『ファスト&スロー』]を思い出す)。だが、単純だからといって硬直したものではなく、状況に合わせて柔軟に変化する。それはあたかも、「わたし」を運転する一人の人格がいるというよりも、

 チームに貢献する"わたし"
 野心家な"わたし"
 臆病な"わたし"
 よき夫としての"わたし"
 よき親としての"わたし"
 ……

など、さまざまな"わたし"(下位自己:subself)が、人生の脅威を好機に応じて、代わる代わる運転台に上るようなものだという(心のモジュール性と呼ぶ)。そして、単純なルールの動的な相互作用から、複雑な社会活動―――創造性や芸術性、宗教、経済、政治に結びついているというのだ。

 そして、[ピンカー『心の仕組み』]やチョムスキーなどから、「心とは何か」というテーマで追いかけている中で、もっともピッタリくる喩えが得られたのはありがたい。これだ。

心とは空白の石版ではなく、はじめから描かれている輪郭線と、経験によって埋められるのを待つ空白部分を持った「ぬりえ帳」である
 つまり、心は、生まれたときは完全な空白で、社会や文化によって後から自由に書き込まれるものではない。遺伝的・先天的なものにより、ある程度の輪郭が決まっており、社会や文化により色が塗られていくという。「石版」というと、あたかも一枚のものしかないようにイメージするが、「ぬりえ帳」なら何ページもある。複数の"わたし"のモジュール性にも合致している。

 ただし、訳者・山形浩生氏がクギ刺す通り、鵜呑みにするのはやめておこう。キャンパスでの調査でもって一般論に断言するのは危ういし、信念が研究を染めまくる例は、経済学者の誤謬でさんざん悩まされてきたから。

 なんでもかんでも遺伝で語る危険性と、「男女は完全に平等だ」と咆哮するイデオロギーの暴力性に翻弄された方に、知的なミステリとしてお薦めの一冊。

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人生の一冊『生きがいについて』批判

生きがいについて 第2次世界大戦中、生還した戦闘機の研究において、意見の対立が生じた。被弾した箇所を補強すべしと主張する軍部と、そこを補強しても効果ないとする統計学者の対立である。

 もちろんこれは、典型的な選択バイアスの話だ。得られたデータは帰還できた(=被弾しても生還した)戦闘機に基づくものだから、被弾箇所は致命的な部位ではなかった。従って、ケアするべきは被弾しなかった場所から逆推理することになる。これは、「苦情窓口に寄せられた要望」や「鬱からのサバイブ」、そして「逆境を克服した生きがい」も同様である。諦念や絶望により、伝わらなかった事例は、予め除かれている。

 神谷美恵子の『生きがいについて』は、生きるはりあい、生きる意味、人生のやりがいというキーワードとともに、古今東西の哲学者や聖者、賢人の言葉をひもとき、著者自身が勤務するハンセン病療養所の例と照らしながら、「生きがいとは何か」について考察する。

 人は生きがいを、

  1. 何から得て
  2. どのように認識し
  3. 奪われるときに何が起き
  4. 喪失者の世界はどんなものであり
  5. それでも自殺をふみとどまるものが何であり
  6. 新たな生きがいの発見でどんな変化が起きるのか

 これらを順に深堀りする。ヤスパースやフランクルの実存哲学の肌あいを感じるが、平易な語り口で水のようにすうっと読み手に入ってくる。ここで語られる「生きがい」とは、いわば最大公約数的な幸福のようなもの。ある程度生きてきた人であれば、一度は考えた「なぜ生きる」について、同じ省察が得られるだろうし、かつて苦悩や絶望を体験した人であれば、その深度に応じた強い肯定を受けるに違いない。

 ずいぶん昔、わたしの母から「これは生涯の一冊となる」と強く薦められ、わけもわからず読んだものだ。反抗期まっさかりだったので、説教くささに辟易したのが第一印象。「病気になったからこそ、生きがいに気づき、心ゆたかになった」だって?では、心が豊かでない人は、大病に罹ってないからなの?社会からの疎外感や劣等感を克服していない人は、「ほんとうに生きる」に相当しないって?天邪鬼なわたしは、感動が論理を殺している点を批判したものだ。エッセイにロジックを強要するのは幼稚だが、本書を安易に誉めそやす連中こそ警戒すべきと考えた。

 それから何十年と生きて、酸いも苦いも飲み下したあと、それでもいえるのは、生きがいを自覚的に生きているか否か、というところ。「人生に、意味はないけど甲斐はある」区別がついているか、という点だ。

 そもそも「人生は生きるに値するか」や「人生の意味とは」という前提からしてずれている。「値する」や「意味」という言葉に付随するのは、「価値」という概念だ。この問いから発すると、人間の存在意義は、その利用価値に左右されるのかといった功利的な見方になる。すると、いかなる価値基準であれ、有用でないと判断された存在は、「生きるに値しない」となってしまう。身体的なところから始まり、能力や意志の多寡によって、「生きる価値」は決まるのか?否だろう。

 そして、人生に「意味」を求めようとすると、生きがいを有用性というモノサシで測ることになる。このモノサシ、意識するしないにかかわらず、他人や社会の中で経済性や文化的価値という名で比較され、コンプレックスを生み出す負のループに入り込む。本書が一旦はまり込んでいる誤謬は、「生きがい」を「生きる価値」にしていることが原因だ。他人と比較されうる「価値」ではなく、一人称の有りがたみ、「甲斐」はそれだけで当人にとって幸せになれるものなのに、両者を一緒くたにしてしまっているのだ。もちろん著者は、分かってやってる。誰しも陥る功利主義の罠を、あえて踏んでみせているのだろう。その上で、こう結論づけるのだ。

人間の存在意義は、その利用価値や有用性によるものではない。野に咲く花のように、ただ「無償に」存在しているひとも、大きな立場からみたら存在理由があるにちがいない。自分の眼に自分の存在の意味が感じられないひと、他人の眼にもみとめられないようなひとでも、私たちと同じ生をうけた同胞なのである。もし彼らの存在意義が問題になるなら、まず自分の、そして人類全体の存在意義が問われなくてはならない。

 もう一つ、本書が陥っている罠が、選択バイアスだ。生きがいの例として、使命感や責任感、充実感や創造性、「生かされている」実感など、プラスの感情を掲げる一方で、負の感情は二次的なものにすぎないと下す。すなわち、破壊的な熱情、憎悪、怒り、復讐、嫉妬は、生きるはりあいにはなるものの、「生きがい」のテーマからは外される。建設的な生きがいへの欲求が阻まれたために、その反応として出てきた、いわば阻害された欲求への裏返しの形であるというのだ。

 これは、著者が勤務する療養所の調査結果の半分以上を切り捨てたことから生じている。その人たちは、孤独、不安、抑うつ、ニヒリズム、すてばち、絶望、攻撃性を表していた。絶望や不安、不信の中で、死を望む毎日。健康者に対する怒りや憎悪の念が「生かしている」、すなわち生きがいとなっているのだ。本書は、これを「のこされた問題」として扱い、答えのない問いだとしている。そして、答えのないことを自覚しつつ、この虚無を克服するすべを探求し続けなくてはならないと述べる。

 鬱と虚無の中に落ち込み、ほんとうに戻ってこれない所にいるのであれば、そもそも全てのコミュニケーションを―――自分の命も含めて―――シャットアウトしているだろう。だが、何らかの応答をしようとしているのであれば、その反応をこそ、その人の生きるよすがと見なすべきだろう。たとえそれが、憎悪そのものであったとしても。古今東西の復讐譚を振り返らずとも、憎しみや恨みの念は、確かに人を生かす(たとえ人でなくなったとしても)。「生きがい」を、生き延びようとする意志への燃料とするならば、そうした暗黒面にも目を向けなければならない。これを"二次的"として省みず、建設的な「生きがい」だけに焦点をあてるのであれば、帰還した戦闘機の被弾箇所ばかりを補強することになる。

 本書は、「生きがいとは何か」について、真摯に、愚直に、先人たちの跡を辿っている。誰しも一度は考えたことを、誰もそこまで深くできないほど掘り下げ、真っ向から取り組んだ名著だ。いずれ被弾したときのための人生の保険本として、あるいは真っ暗になった世界に灯す小さな明かりとして、伴侶となる一冊だ。ただし、普遍性を求めるあまり、切り捨てられた不在の人たちに目を向けるなら、その中に自分自身の姿を見出し、あらたな生きがいを見つけるよすがとなるかもしれない。

 本書は確かに名著だが、(わたしも含め)誉める連中に気をつけろ。そして、自分の眼で確かめて欲しい。

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