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日本SF傑作選『さよならの儀式』

さよならの儀式 SF成分が足りてないので[読書会@さよならの儀式]の課題図書を読んで、大満足&大満喫。サイエンス・ファンタジーから、すこし不思議まで、2013年は豊作大漁の当たり年だったんだね。出せば売れる定番作家から、出たばかりの(ただし傑作ぞろいの)新人まで、がっつりSFが読める。

 いわゆる大御所のソツのない仕事ぶりは、よく言えば安定感、悪く言うと陳腐寸前で、懐かしいSFネタを現代風味にアレンジする。やたら親切に世界設定を語りだす地の文だけでお腹一杯になる。『皆勤の徒』や『シドニアの騎士』で、「最近のSFは説明しない」がデフォだと鍛えられている人には、逆に新鮮かも。いかにもSFらしい設定よりも、そのネタの「説明の仕方」のギャップが面白いのだ。

 つまりこうだ。執筆者の年齢が上になればなるほど、「ロボット」や「タイム・パラドクス」といった、分かりやすいラベルが目に付く。その結果、一冊のアンソロジーの中に、はっきりと世代ギャップを見ることができる。たとえば「ロボット」という言葉一つ出てきた時点で、「ロボットの物語として読んでください」というメッセージが伝わってくる。

 この現実も含め、どの世界線であれ、あるロボットを指すとき、「ロボット」というぼやけた総称ではない、特有の名を持つはずだ。それはブランド名だったり型番だったり、OSや隠語としての呼び名が付けられるだろう。たとえば、衛人(人型兵器)やキモノ(機甲兵装)、あるいはレイバー(多足歩行型作業機械)のように。

 これらを「ロボット」で片付けられると、初音ミクやGoogleMapを「プログラム」や「ソフトウェア」と呼ぶような違和感が湧く。間違いではないが、ぼやけているのだ。「ロボット」の一言で説明されると、昔懐かしのSFか、SFに馴染みのない読者を想定している下心が透けてくる。「これから"ロボット"をダシに語りますよ」というマクラが見えてくる。

 一方で、新人に近いほど、「いま」「ここ」からの延長ラインを見て取ることができる。どれだけ固有名詞を換えようとも、現代のSFネタになりそうな匿名性問題などは、それ自体がテーマにされている。

 たとえば、藤井太洋『コラボレーション』では、匿名主義者(アノニマス)が配るプライバシーソフト「アノニマス・ケープ」の機能が語られる。身につけた人の姿は周囲の拡張現実ビューで、灰色のアバターとして見えるようにしてくれる。あるいは、宮内悠介『ムイシュキンの脳髄』では、監視カメラを回避するプライバシー・アプリケーションが紹介される。これは地図上に監視カメラの位置や方向をプロットし、監視をすり抜ける通行ルートを自動生成するアプリなんだって。いかにもありそうな未来ではないか。

 ネットがあたりまえの世の中では、生まれたときからログインしているのがデフォルトになる。だから、ネットから外れたり、一時的に匿名の存在になるために料金を払うことになるだろう(おそらく従量制で、今と真逆なのが皮肉だ)。酉島伝法『電話中につき、ベス』のとどめの一句「人は自分に対しても匿名でいることができるものなのか」は、アイデンティティレベルで揺さぶってくる。

 どれも楽しめたのだが、いちばん刺さったのは小田雅久仁『食書』。読書ならぬ食書は、文字通り「本を食べる」話だ。『文学少女』の遠子先輩を思い出すが、方向は真逆で、本を喰う男が、物語の世界へ堕ちてゆく、奇想寄りのSFだ。若い頃は何を読んでも面白がれたのに、年をとるほど辛くなり頑なになり、何を読んでも楽しめなくなる気持ちが代弁されている。著者コメントの「麻薬にも似て、読めば読むほど効かなくなってくるようです」が図星すぎる。主人公の、この独白が痛い。彼の運命というよりも、全ての本読みの運命なのかも。

生まれてこの方、私は本を読みすぎた。あまりに多くの文章が腹に溜まり、喉元にまで迫りあがってきている。おかげで何を読んでも既視感を覚える。新たに得たはずの知識に百年前からうんざりし、初めて読むはずの物語に千年前から飽きているのだ。

 これは、開高健が教えてくれた警句「なべての書は読まれたり、肉はかなし」を思い出す。すでに本は、たくさん書かれ、読まれてきている。残りの人生で、読みたい本どころか、手元にあるもの全て読むことはできない。新しい本は古い本を読むのを邪魔するために出ているようなもの。山本夏彦『文語文』によると、二千年も前に人間の知恵は出尽くしていて、デカルトも孔子もあらたに付け加えるのものがなかったんだという。それでも、古いネタを新しい皮袋に入れたり、珍奇な調味料を足すことで、「新しい作品」として欲したがる。まるで餓鬼やね。そんなわたしの浅ましさは、本を喰らうこの男にダブって見える。

リテラリーゴシック・イン・ジャパン 合わせてお薦めなのがこれ。藤野可織『今日の心霊』が重なっていることから、『リテラリーゴシック・イン・ジャパン』が合うかも。SF読みはSF寄りになりがちなので、文学的ゴシックという鉱脈も、お試しあれ→[神経に、直接障るアンソロジー『リテラリーゴシック・イン・ジャパン』]

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人の命は金になる『凶悪 ある死刑囚の告発』

 人を殺し、その命を金に換えるビジネスモデルが詰まっている。

凶悪 借金にまみれた人生の破綻者、家族からも見放されたリストラ対象者、土地つきボケ老人、生命保険に入っている死にぞこないを見つけてきては酒に溺れさせ、面倒をみてやり、小金を貸してやる。最終的には、土地や預金通帳などを手にいれ、土地は転売してサヤをとる。不動産がなければ保険金だ―――良心ないし魂を売り渡せば、数百万が億になる老人ビジネス。

 死刑囚が、獄中から、告発する。被害者は複数で、首謀者は娑婆にいる―――という話なのだが、設定だけ聞くと、よくできたフィクションだ。絞殺死体を焼却炉で燃やす件や、純度の高いウォッカを無理やり飲ませて殺す場面など、非常にフィクションであって欲しいのだが、恐ろしいことに、[上申書殺人事件]のルポルタージュだ。

 告発者は元ヤクザで殺人犯の後藤。裏切りか報復か、抑えた筆致でも骨髄まで染みる恨み言に、読んでるこっちまで"黒く"なれる。

一緒に大罪を犯した他の連中が、のうのうと社会生活を送っていることにもガマンならない。"先生"はもちろんですが、共犯の連中が、涼しい顔をして社会にいることに納得がいきません

 死刑を先延ばしにするための時間稼ぎか?悪質な嫌がらせか?記者の逡巡が手に取るように書いてある。現場を徹底的に歩き、関係者から裏取りを行い、可能性を一つ一つ潰していき、確信する。この告発は、本物だと。そして警察を動かし、"核心"に踏み込んでいく。

 人の命を金に換える"先生"と呼ばれる整理屋と、実作業を請け負う後藤。本書は、後藤の告発を具体化し、証言を集めて"先生"の行状をあぶりだす方式で描かれている。もちろん糾弾すべきは、この"先生"なのだが、明るみに出たからこうなったわけで、上手くやり続けているのであれば、こんな形で見ることはない。塀の中に落ちた後藤を、"先生"が見捨てたことが告発の原因であって、うまくすれば二人とも口を拭ったままだったかもしれない。世の中には、もっと上手くやれる人がおり、その犯罪は、ほとんど見ることはない。これは稀少な例なのだ。

 この二人の凶悪性に焦点を集めているが、"先生"に依頼をする方に、おぞましさと弱さを見た。たとえ家族を養っていても、事業に失敗し、借金を重ね、体を壊したら、その家族に廃棄物として扱われる。そして、家族に見捨てられるだけでなく、生命保険の生贄として、「合法的な殺し」を依頼されてしまうのは、あまりにも酷い。しかも理由がふるっている。このままだと借金で一家離散になる。生命保険の掛け金も払えなくなるから、早く死んで欲しい、というのだ。「働けなくなったら、迷惑をかけるようになったら、死ね」という、無音のメッセージに、ガツンと殴られた。この「家族」、自分の論理で人を死に追いやったり、あるいは反省して泣いたりと、ある意味「正直」で「善良」である。

 事実は小説を殺す。どんな三流小説よりも、やり口があからさまで、稚拙で、古臭い。にもかかわらず、立件し有罪にもっていくのに莫大な労力が費やされている。つまり、これぐらいの精度なら、逃げ切れるかもしれないというわけだ。もちろん、ほかの"先生"はまだ娑婆にいるし、「働けなくなったら、死ね」という家族はもっと沢山いる。そんな空恐ろしさを身近に感じることができる。

 スゴ本オフ「闇」で知った一冊。善人こそ、深く濃く救いがない。


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