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生命、宇宙、そして万物についての究極の疑問『世界はなぜ「ある」のか?』

世界はなぜ「ある」のか 一般的な解答は知ってたが、本書にはなかった→[Googleに訊け]。他に、わたしなりの答えも持ってた(後述)。しかし、多岐のジャンルに渡り知的興奮を掻き立てる、「ごほうび」のような一冊だった。

 なぜ「何もない」のではなく、「何かがある」のか? この究極の疑問に囚われた哲学者が、各分野の権威と対話を重ね、謎の本質に迫ってゆく。実存哲学、形而上学、量子宇宙論、神仮説、数学的必然性などの分野を渉猟し、ワインバーグやペンローズ、アップダイクといった著名人とのインタビューを通じ、探偵のように「存在の謎」の犯人をあぶりだす(サブタイトルは、"An Existential Detective Story")。

 面白いのは、真犯人へのアプローチそのもの。形而上学であれ、量子力学であれ、最初は一貫した説明がもたらされるが、探偵役に徹する著者の検証により、無限後退にハマるか、循環論法に陥る。形而上学的な説明に対しては、質量・エネルギー保存則を用いて否定し、量子宇宙論的な説明に対しては、実存主義的メタファーを使って反論する。この仮説検証の過程が、たまらなくスリリングなのだ。

 たとえば、インフレーション理論の宇宙の始まりについて、疑問を投げかける。宇宙は、コンサートの始まりのように、時間の中で起こるものではないという。それは、時間の境界ないし「端」なのだ。ビックバンにより時空が始まったのであれば、t=0より「前」の時間は(定義上)ない。つまり、時間的な意味では、「無」が支配していたことはない。「無→何か」ではなく、最初から何かがあったのだ―――哲学者グリュンバウムの主張を検証する。

 現在の「科学的」な回答は、今の素粒子と反粒子の振る舞いから遡っただけであって、突き詰めたら答えにならない。「では、そのビッグバンを生み出した原因は何?」と、さらに問うことができるから。さらに、ひもであれ統一場であれ、究極とされる理論が出たところで、「それが究極である根拠は?」に行き当たる。その答えを「信じる」のなら、科学も神学も同じになってしまう。世界を矛盾がないように説明したのが科学であって、本当にそうなのかは分からない(「あのときの科学」が後世にいくらでも否定されているから)。

 神学からのアプローチにも容赦ない。全知全能の神によって創造されたにしては、この世は不完全だという。素粒子の種類が多すぎるし、ホロコーストが起こるくらい悲惨だ。「ホロコーストを、ユダヤ人に勇敢で高貴な人間になるすばらしい機会を与えたという理由で正当化しようと試みた」筋金入りの有神論者スウィンバーンとの対話にハラハラする。神の存在を問うという、罰当たりになりかねないギリギリの中で、「正直に言えば、心のどこかでは、神がいないはずはないということを確信したい」という告白を引き出す。神仮説が有望だとしても、それで存在の謎が解明されるわけではないというロジックの詰将棋を見ていると、神は論理で捉えるものではないことに、改めて気づかされる。宗教のおかげで、考えずに済ませてきたといえるし、毒矢の喩えともいえる。

 哲学と科学と宗教の究極のストレッチの中で、さらにメタに考える。なぜ、「世界はなぜあるのか?」と考えるのだろうか。この問いの前提には、何もない(=絶対無)の存在が隠れている。「もう奥さんを殴るのをやめたのですか?」というレトリックと同様、問いそのものがパラドクスを孕んでいる(yes/noどう答えても「奥さんを殴る」ことが前提)。何もないというデフォルト状態があり、そこから「何か」によって「ある」状態になったのだから。古代のギリシャやインド、そして日本にも創世神話があったが、世界は無から作られてはいない。ユダヤ=キリスト教というミルクで育ったデカルトやライプニッツが気づいてしまったのは、それまで肩代わりしてきた宗教が、合理主義の波によって侵食されたのではないか―――という、もう一つの謎が浮かび上がる。

 これを自覚しているのかどうかは不明だが、著者は2つの「なぜ」を使い分ける。理由を問うなぜ(why)に対し、方法(how)で答えようとする。あるいは、「どのように世界はあるのか」の科学的な回答に、理由でもって論駁しようとする(それは「なぜ」に答えていないとか)。

 たとえば、絶対無の例として、0(ゼロ)や{ }(空集合)を持ち出す。そしてライプニッツの振動する級数やデデキント無限を用いて、数学的アプローチでは絶対無を定義できないと述べる。だが、このやり方は誤っていると考える。数とは、「何か」の数である。それがリンゴであれ惑星であれ、かならず対象があるのが前提だ。抽象度を上げたとしても、「数」として成り立つために、必ず「他と区別する要素」がある。また、空集合であっても、「要素なし」という定義が存在する。抽象的な1,2,3...であれ、集合による対応付けであれ、他と区別する要素があり、それをいかように操作したとしても、「それが存在する理由」を述べることはできない。

 ペンであれ正義であれ、ある何かが存在する根拠は問うことができるけれど、存在そのものは問うことができない。「"存在する"ということが、なぜ存在するのか」は、同語反復になってしまう。だから、「存在する」という言葉は、対象を必要とする。「何かが無い」ことはゼロでも集合でも言葉でも捉えることはできる。だが、何もない(=絶対無)は定義することはできない。いわゆる「語りえぬもの」なのだから、これは疑似問題であるというのが、わたしの答えだ(もちろん著者は検証しており、ご丁寧に『論理哲学論考』の6.5「その"謎"は存在しない」が引いてある)。

 本書は、現時点での知のストレッチを極限まで推し進める試み。人類の知の天井がどこまで高く、理の井戸がどれくらい深いのか、つかむ事ができる。すなわち、わたしたちがどこまで無知なのかを知ることが、本書を読む裏返しの目的となる。アラン・チューリングは言った「科学は微分方程式である。宗教は境界条件である」。ウィトゲンシュタインは言った「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」。世界の存在について、科学がどこまで微分できるのか、宗教がどこに境界を引いているのか、そして哲学がどこまで語りえるのかを試す、知的エンターテイメントなのだ。

 分かりやすい答えはない(Amazonには横着なレビューアーがいるが)。教科書的な答えなら、[なぜ何もないのではなく、何かがあるのか:wikipedia]がまとまっている。だが、科学哲学宗教を横断する探索を楽しみ、(現時点での)自分の答えを掴み取りたいのであれば、著者と一緒に旅立つべし。


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